8 ノア視点
「えらくご機嫌だな」
朝食の席に着くと同時に、父が僕に言った。
父は資料に目を通しながら、チラリとこちらを見る。
最近、濃くなった目尻の皺をさらに深くしてまた資料に目を戻す。
──ご機嫌
その言葉に口元がムズムズして僕は手で覆う。
父の方が気分が良さそうな笑みを浮かべているのに。
僕は不思議に思いながら、父を眺める。
父は資料から目を離さない。
食事の席にまで仕事を持って来なくても、と僕は思いながら、ナプキンを首元につける。
「…ノア、もう子供じゃないんだ。それはやめなさい」
父は資料を置くと言った。
父はナプキンを膝にかける。
「また着替えるのが面倒だから」
もし、服に散った時の事を考慮すれば、数分しか着用してないものを着替え直すなんて馬鹿らしい事はしたくない。
それよりも貴重な朝はのんびりとゴロゴロしたい。
飛び散るようなマナーはしたことがないけど、家族しかいないし念には念をと思っていつもしている。
「全く、お前はいつまで経っても、いや、成長すればするほど頑固になって、困ったものだな」
父は目頭を押さえて眉を顰めた。
最初は泣いているのかと思ったけど、すぐに頭を悩ませているんだと気づく。
顔を上げた父はため息をついて食事を始めた。
そこまで悲しむ事だろうかと不思議に思いながら、僕も「いただきます」と言って食べものを口に運ぶ。
暫くすると、父が口を開いた。
「時間を無駄にしたくないのなら、ボタンの掛け違いなんてするんじゃない」
父に言われて、僕は自分の服を見る。
ジャケットのボタンが一つずれていた。
「あ」
「寝癖もそのままだ」
父に言われて頭の上を触る。
ふわふわと浮かんでいるものがあった。
「お前は身だしなみは気にしない方だが、今日は酷すぎる。誰も注意しなかったのか?」
父が長年使えている執事に声をかける。
「申し訳ございません。坊っちゃんがあまりにも楽しげだったので、誰も声をかける気になれなかったのですよ」
「楽しげ?」
執事も同じような事を言う。
「昨日、何かあったのか?随分浮かれているようだが」
「…」
父と執事がこちらに注目している。
昨日と言われて思いつくのは一つ。
ミンディ嬢との事だ。
『ありがとう』
彼女は泣いていたのに、いつの間にか僕を抱き寄せて言った。
か細い彼女の腕の温もりが背中全体を覆うようで、もっと彼女の柔らかい肌に触れたくなって、僕は顔を彼女の首元に擦り寄せた。
それでも彼女は何も言わず黙っていてくれて──
「あった」
僕が大きく頷いて答えると、父は机についていた肘を滑らす。
執事も苦笑いを浮かべていた。
「だから、何があったんだ?」
「…」
父は答えを期待しているが、それはなんだか言いたくない。
考えれば考えるほど、昨日の事は僕の中を満たしてくれる。
ふあふあとしたあの心地よさは、話せば減ってしまいそうだった。
僕は無言で食事を再開させる。
父は答える気のない僕にため息を吐くと、更に話し始める。
「全く…、前はミンディ嬢の事も事細かに報告してきたくせに、最近は話してくれなくなった。しかも、勝手にミンディ嬢と会うななんて言って。いつから、そんなセコイ息子になったんだ?お前の母はもっと器のでっかい人だった」
「先代の公爵夫人も、器の大きな方でした」
「あぁ、母もそうだな」
父と執事は語らい始めた。
父はいつもの様にどこか調子気だ。
──ミンディ嬢…
ミンディ嬢の名が出て、また僕は昨日の事を思い出す。
「坊っちゃん、ソースが」
「あ」
「心ここに在らずだな」
「…」
ケタケタと父は愉快そうに笑う。
確かに父の言う通りだ。
今日の僕は注意力が足りないのかもしれない。
だが、不思議とそれが悪いとも思えない。
「昨日の今日で態度がころっと違う。怪しいにも程があるぞ?」
父はそう言うと、グラスの中のワインを飲み干し、執事にお代わりを促す。
グラスにワインを注いでもらいながら、父の口は止まらない。
「昨日の朝は、スコットレットの薬草と流行りの葉巻の件で気分を落ち込ませてなかったか?」
父の言う通りだ。
確かに、ここ数日は憂鬱だった。
どの結果も僕の僅かな期待を裏切って、最悪のものだった。
ある程度、予測はしていたし、どこか確信めいたものがあった為に僕が自ら進言したのは確かだ。
だが、もった疑問と願望が必ずしも同じとは限らない。
僕はその疑問が間違いであることを、もしくは、問題にする必要がないようにとどこかで願っていた。
「憲兵が動く事になったって聞いた」
ミンディ嬢のおかげでその気持ちは少し軽くなった。
躊躇わずにその話題を口にできる。
「あぁ、まだ元老院で正式に議題に上げていない。何か先回りされるとややこしくなるからな。先に憲兵を動かして、ちょっとした異変を確認する程度に思わせておいた方がいい」
「スコットレット伯爵家が裏で手を引いてるかもしれないって」
「その報告も聞いたな」
父は髭は一本もない顎に手を置いて呟いた。
父曰く、髭とは相手を脅す一つの武器なのらしい。
そして、父は既に相手には驚異の存在だから、そんな小道具も必要ないらしい。
「まさか、憲兵団に話を通したのはお前か?」
父が疑わしげな目をこちらに向ける。
僕ではない。アーノルドが副騎士団長の権限で通してくれた話だ。
確実性は半分半分だから、なんとも言えないものでもあるから。
「いや、アーノルド。僕は付き添い」
「彼か、どうりで話が早く進むと思った」
「気づいたのはミンディ嬢だけど」
「何?」
父は片方の眉を上げた。
「シー・ガレ商会、スコットレット伯爵、ミンタ男爵の繋がりはミンディ嬢が気づいたんだ」
そう言った後、僕はことの経緯を簡単に説明する。
スコットレット伯爵とミンタ男爵の繋がりは、なんとも分かりやすい上下関係だった。
なのに、誰も今まで気づかなかった。
「なるほどな。まだ、憶測の範囲を出ないが、面白い事が出てきそうだ。まだ、スコットレットにまで調査を進めるのは早いだろうな。まずはミンタと依存者の確認からだ。それにしても、ミンディ嬢は、憲兵団に欲しい人材だな」
父は顎をさすりながら、楽しそうに言った。
僕は父がよからぬ事を考えそうで先にミンディ嬢の意思を伝える。
「彼女は女官の仕事に誇りを持っている」
「お前はやけに彼女を気にかけるな?」
父はニヤリと笑って僕を見つめる。
「もしや、厄介な件で落ち込んでいたお前を慰めたのはミンディ嬢か?」
「…」
「お前は多少の嘘は吐けるようになった方がいいぞ。真実を言うことだけが常に賢いとは限らない」
父はやれやれと肩をすくめた。
「賢い判断が常に善とは限らない」
「善行が必ずしも幸福な未来を約束してくれるわけでもないぞ?」
「…」
僕が黙り込むと、執事が口を開く。
「坊っちゃんは、先代の公爵夫人に小さい頃から教え込まれていますからね。嘘が吐けないのも坊っちゃんの良さですよ。嘘を怖いと思う人がいても、私はいいと思いますが?」
「お前は、ノアに甘い」
父は顔を渋くさせると、口直しか注がれたワインをまたしても飲み干す。
「ミンディ嬢のような女性がお前の妻になればいいのだがな。うちの者は誰もかしこもノアに甘くて、将来が不安になる」
いきなりの言葉に僕は驚いて、持っていたフォークを落としてしまった。
すぐに執事が対処してくれるが、僕は父の発言が気になって仕方ない。
「ミンディ嬢が僕の妻になる事を望んでるの?」
「あ?そうだな。彼女はお前の間抜けな部分もよく見ている。それに彼女は石橋を叩いて叩いて結局、壊すお前と違って行動力があるからな」
「…」
「ノア?どうした?」
父が黙り込んだ僕を覗き込んでいた。
けど、僕の頭の中は違う事で一杯だった。
*****
「おい、ノア」
その日、王宮に行くとアーノルドが報告をしにやって来た。
「知ってる。ミンタ男爵と使用者の体調確認しかまだできないって聞いた」
「もう、公爵から話は聞いているのか。一先ず、帝都内の葉巻は全て回収したぞ」
「…そう」
少し楽になったはずなのに、また容赦のない現実が目の前に来る。
なぜ、もっと世界は落ち着いてくれないのだろうか。
忙しない社会の動き自体が僕の理解を超えている。
「今回はやけに素直に話を聞くな?」
アーノルドが顔を顰めてこちらを見る。
なんの話か分からないでいると、彼は言葉を続けた。
「いつものお前なら、自分の手から離れたものなら我関せずだったろ?なのに、今回はやけにその後の事も気にしている。気の重たくなる物は嫌じゃなかったのか?」
彼の言う通りだ。
こういう事は僕には向いていない。
誰かの人生に関わることは気が重たくなるし、自分の責任にいつも自信がない。
だからあやふやではダメだと思うし、ダメだからこそ僕では不十分な気がする。
そして、一番楽な方法として人に任せる。
事実が事実でしかない実験結果は僕にもできるが、それ以上の事は適任者に任せるべきだと思っていた。
だが──
「嫌だ。けど、そういかない事もある」
「なんだ?」
「…」
考えれば考えるほど不安になる物事は多くある。
ただ、いつでもそれを見ないふりはできない。
もし、それにミンディ嬢が怯えていたのなら。
僕はきっと目を背けてはいけない。
僕だけだったはずの守りたい世界はいつの間にか広がっていた。
守りたいと思えるその世界を守るには、今までと同じではいられない。
もっと、僕は向き合って行くべきなんじゃないか。
それはその問題を解決するとかしないとかそんな問題とは別で、もっと目を向けないとならない。
そんな気がした。
とは言っても、僕の手元から離れたこの案件は聞くだけだ。
もし想定していた通りの結果が出れば、ミンディ嬢はどんな表情をするのだろう。
僕は今一番不安に思うのはそれだった。
「お前の考えはやっぱり読めないな」
アーノルドが淡々と言った。
少し残念がっているようにも感じる。
「読む必要はない。言いたい事は言うから」
「嘘をつけ。お前はすぐに黙り込む」
「言いたくないだけだ」
アーノルドは不服そうだが、僕は彼とのこの距離感で満足している。
「それで?一先ずの調査は憲兵団に任せるとこになって、お前は聖女の呼び出しをどう乗り切るつもりだ?」
アーノルドの言葉で、僕は彼をもてなそうとしてカップを持った手を止めた。
そして、自分の分だけのお茶を用意する。
「おい、私は客だぞ?」
「いきなり押しかけて人間をもてなす義理はない」
「お前が気になっているから、教えてやったろ?」
アーノルドはふんぞり返ってみせるが、聖女の話を持ち出す時点で、彼が快く僕にもてなされる権利を放棄したって事だ。
──けど、確かにアーノルドの言う通りだ
僕は、カップを口につけながら考える。
確かに、何故か未だにやってくる聖女の呼び出しを断る理由を失ってしまった。
「何をそこまで嫌がる必要がある?帝国の令嬢でもあんな麗しい容姿をした者は中々いない。ただ、話をしてお茶をするだけにそこまで拒絶する理由がどこにある?」
アーノルドが心底不思議そうに首を傾げる。
教国との話し合いで、一時的に聖女を保護下におく権利を得た帝国は、今でも聖女を利用しようと様々な画策をしている。
それには聖女の気分とりも必要で、教国側からの要請が無くなったものの、未だに呼び出しがある。
「その話が憂鬱なのなら、拒否するには十分な言い分だ」
「麗しい容姿の女人が、愛想良く笑ってくるのなら憂鬱になる要因など一つもないだろ?それだけで男としての自尊心が満たされる」
「君は僕の考えが分からないと言ったが、僕は君の言っていることが理解できない」
アーノルドの自尊心とはそんなもので満たされるのか。
それにそこに男かどうかが関連してくるのか余計に不可解だ。
「おいおい、男なら見栄えのする女人を隣に置いておきたいものだろ?」
「何故?」
「何故って、それが男の矜持ってもんじゃないか」
「なら、女性も見栄えのいい男性を連れて歩けばいいのか?」
僕が聞けば、アーノルドは腕を組んで悩み始めた。
「いや、そうだが、そうじゃなくてな…。お前の言う通りなんだな。それに間違いかもしれないが、私が言いたいのはそうじゃなくてな…、ただ周りから羨ましそうに見られたいだけで……、まぁ、女性も同じように思っているかもしれないが、私は男同士の間でのな……」
アーノルドは自問自答を始める。
最初から彼の言い分が見えていない僕には何も理解してあげられることはない。
だけど、もう一度だけアーノルドの言葉を考えてみる。
僕には理解できないが、とにかくいい見た目の顔がいるのだろう。
「そんなに見栄えのいいものを望むなら、理想的な異性の顔をした彫刻でも持ち歩けばいい。無条件に微笑んでくれるし、いつでもどこでも共にいられる」
人だったら相手の都合や思考を考えないといけない。
そんな必要はない彫刻の方がいい条件のように思える。
「嘘だろ?本気で言っているのか?」
だが、アーノルドには僕の提案が受け入れられないようで、細い目を見開いてこちらを見てくる。
「あぁ」
「俺が、彫刻を目の前に置いて、笑いながら茶を啜っていたら、羨ましがれると思うのか?」
「思わないのか?」
「…本気か?」
そういう話ではなかったのだろうか、首を傾げると、アーノルドは絶句した。
話を合わせたつもりだったが、解釈が違うようだ。
アーノルドは少しの間フリーズしていたが、すぐに顔を横に降って何かを振り落とすような仕草をした。
「いや、それはいい。お前が外見に拘らないのは分かったが、話が憂鬱とは?」
「そのままの意味だ。彼女の話し相手が必ずしも僕でないといけない訳でもない。つまり、僕が彼女の呼び出しに応じる理由が、皇帝に義理立てをする以外にない」
「もう十分に、皇帝の顔は立てたってことか?」
「そうだ」
僕が頷けば、アーノルドは呆れた顔をする。
その通りだから、それ以外に言いようがない。
*
聖女はいつも元気よく「ノア様、今日はですね──」と、様々な報告をしてくる。
「それで私がおかしいって言ったら、『それが伝統ですから』って言ったんです。だからそうやって硬い考えは捨てた方がいいですって言ったら、すごく怒られて」
ある日、聖女はそう言った。
「どう考えてもおかしいのに。全然分かってくれないんです」
彼女は特に僕が相槌をしなくても、勝手に話を進める。
僕は彼女の話を聞いているだけだ。
それがいつもの会話。いや、演説だ。
彼女の考えをただ聞かされるだけ。
彼女の考えは両手を上げて賛同できるものでもない。
ただ、理解し難い彼女の思考を提示されるばかりで、僕は息苦しくなる。
「今日もすごく大変で、忙しかったです。毎日こんなに多くのことを勉強しなくちゃいけないんだなんて…、いえ、愚痴なんて言ってられませんよね。皆さんも良くしてくださっているのに……。私、もっと頑張れるように努力します。私さえ頑張ればきっと、皆さん喜んで下さいますよね」
彼女の苦労がどれほどのものなのだろうか。
アーノルドのように命を差し出すような事も、父のように国の為にと頭を悩ませ続ける事もない。
もっと言えば、他の宮廷にいる人々の様に暮らしの為にと働く必要だってない。
幼いティア皇女の方が、授業だけでなく挨拶回りや貴族との交流などやることが多いはずだ。
確かに、いきなり違う世界に来て苦労が絶えないのは分かる。
分かるのだが、彼女の物言いが少し引っかっかる。
まるで、彼女が1人頑張っているかのような──
「それでですね」
聖女は更に話を続ける。
僕がどんな考えをしているか彼女は全く気にしない。
──ミンディ嬢なら、もっと…
勝手に人と比べてしまうことに罪悪感を抱きながら、僕は首元のタイを緩めた。
*
「君だったら、剣を抜いて暴れているかもしれない」
僕は入れたお茶を飲み干して、言った。
ひどく渋く感じる。
「そんなにひどい会話なのか?」
「あれを会話と定義していいのなら」
「どんな会話なんだ?」
アーノルドは逆に聖女に興味を持ち始めた。
こんなに興味があるなら、彼が代わりになってくれればいいのに。
「今度の断る理由は狩猟大会の準備ってことにする」
僕はお代わりを入れながら言った。
すると、アーノルドが今日一番の驚いた顔をする。
「ノア、出るのかっ?体を動かすのを嫌っていたのではないのか?」
そこまで驚くことだろうか。
なんとなく負けた様な気分になり、渋々言葉を出す。
「出ないけど…」
ただのいい訳に使うだけだ。
嘘は嫌いだが、実際手伝いを宰相から頼まれたからあながち嘘でもない。
生まれて初めて嘘を付きたいと思った。
僕がそう言うと、アーノルドはホッとした顔をする。
「だろうな。お前はそういう奴だ。お前が出るぐらいなら、うちのコーラを出した方が結果を残してみせるぞ。そうだ。それはいい考えだな。コーラの素晴らしさを皆に知らせるいい機会だ」
アーノルドはいつの間にか妹の事で頭が一杯になっている。
僕は馬鹿にされた事に複雑な気分を抱くも、事実だから反論する事も出来ない。
結局、僕が悪いのだと受け入れるしかなかった。




