29話 結婚前夜
独身最後の夜。
がらんとしている市バスに乗り込んだ。
アオイくんは完全にオフモード。
黒縁の眼鏡をかけている。
基本的に彼は、公共交通機関内で喋らない。
後方の2人がけの座席。
私の隣で、腕を組みながら目を瞑っていた。
ちょっと意外だ。
さらさらの黒髪。
睫毛が長い。
ふと、彼を観察してしまっている自分に気づく。
慌てて、私は目をそらした。
非常に都合の悪いレベルで、彼は察しが良い。
たぶん、私の視線は感じ取られてしまう。
目を向けた先。
窓の外は真っ暗だった。
バス内の電灯が、窓ガラスに反射して光っている。
オレンジ色の手すりが、やけに目立つ。
そのまま、粛々と10分くらいバスに揺られた。
駅前へ近づくに連れて、だんだん外の景色が見えるようになってくる。
居酒屋の赤い提灯。
オフィスビルの2階から漏れている明かり。
名古屋の街並みが流れていく。
不思議な気分だった。
今、私がバスに乗っていること。
今、同じ時刻に多種多様な生活を送っている人々がいること。
自分が選択して乗っている、という想い。
乗りかかったバスだ、という想い。
ひとりの時間があると、つい考えてしまう。
たら、れば。
あっという間にバスは、地下鉄の駅へ到着した。
終電は深夜まで走っているが、人通りは疎らだ。
駅裏の、曲がりくねった緩やかな上り坂。
細くて暗い路地を連れ立って歩く。
秋風の匂いがした。
10月31日の真夜中が来るのを、役場の前で少し待つ。
スマートホンの時計が0時00分を示したところで、アオイくんが言った。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
淡々と、私は夜間インターホンを押す。
ポロシャツを着たひょろ長いおじさんが、すぐに来た。
内側の鍵を開けてくれる。
「婚姻届ですね」と一言。
深夜に20代の男女が訪ねてきたら、婚姻届だと相場が決まっているのだろうか?
「おめでとうございます」と言葉が続く。
夜の学校を彷彿とさせる暗い廊下を通って、宿直室へ案内された。
手狭な給湯室に、布団の敷かれた和室がくっついている場所。
ちょうど、和室から恰幅のいいおじさんが出てくるところに遭遇した。
給湯室に置かれたパイプ椅子にアオイくんと並んで座る。
おじさんが2人がかりで、丁寧に婚姻届をチェックしてくれる。
一晩中。
来るかもしれない、来ないかもしれない人を待つ。
大変なお仕事だな、と思った。
婚姻届に不備はなかったようだ。
ひょろ長いおじさんが顔を上げる。
そして、アオイくんを見て驚いたような顔をした。
「美男……美女ですね」
その間はアレだ、と考えるより前に。
「お気遣い、ありがとうございます」と思わず私の口から言葉が飛び出てしまった。
でも、同じ体験をしたからわかる。
夜闇に紛れた超絶なイケメンが、明るい蛍光灯の下に初めて姿を現したときのインパクトは半端ない。
「10月31日木曜日、0時12分ですね。おめでとうございます」
見知らぬおじさん2人が、拍手を送ってくれた。




