プロローグ 事の始まり
「妊娠したかも」
何気ない風を装って、口にした言葉。
でも、どこか異質な響きに聞こえる。
実際のところは全く装えていなかったのだ。
日曜日の朝の長閑な空気。
柔らかな日差しのなかの食卓。
淹れたてのコーヒーの香り。
温かさに包まれる雰囲気に似つかわしくない。
場が凍りつくような感覚を、私は肌で感じてしまったのだから。
「別れよう」
目を合わせられることもなく、浴びせられた言葉。
額にかかる前髪が、彼の表情を隠していた。
そして、あろうことか。
無機質な音で、言葉は続く。
「そもそも、本当に俺の子なのか?」
一瞬、私は何を言われたのかが理解できなかった。
もしかしたら、まだ自分は目覚めていなくて、悪い夢を見ているのではないだろうか。
え、そうじゃなかったら。
——コノヒト、ナニイッテンノ。
たぶん私は衝撃を受けたような顔をしていたのだと思う。
伏し目がちな黒い瞳と目が合った瞬間。まるで伝染したかのように彼の表情も変わっていく。
頭のなかにいる客観的で冷静な、もうひとりの私が「あぁ。今、こんな顔を私もしているのか」と思った。
でも、それからの私たちの反応は少し違うものになった。
私のなかに沸き上がったのは怒り。
彼のなかに沸き上がったのは恐怖だろうか。
え、別に私の顔が般若のような形相だったからというわけじゃないよね……?
緊張の糸が張り詰める。
息がしづらい。
テーブルの上では彼の両手が小刻みに震えていた。
何かを断ち切るようにして、彼は怒鳴る。
「俺は知らない。お前が悪い。勝手に孕んだお前が——」
あまりにも煩くて。
半ば無意識のうちに私は、お気に入りのペアマグカップをテーブルに叩きつけていた。
甘い夢から現実に引き戻される。
心地よい眠りから一気に目覚めるときのような大きい音がした。
「あなたって」
喉が詰まる。
生成りのランチョンマットには、いくつもの細かなコーヒーの雫が飛び散っていた。
じわりじわりと広がる茶色の染み。
元の綺麗な状態には戻れそうにもない。
「あなたって、威圧的にしか話せない人なんだね」
しん、と部屋が静まり返る。
もう私は彼の方を見なかった。
他にも言うべきことはあったのかもしれない。
でも、今は思い当たらなかった。
程なくして、荒々しく玄関の扉を閉める音が聞こえた。それは、私の想いに対する彼からの答えだ。
辺りを震わせる鈍い響きの後には、本当の寂寥感が訪れた。