それは臓腑を喰い契る
いつからだろう、水の中で息が出来なくなってしまったのは。
嫌になるなぁと羊水に塗れた胎児のように途方に暮れたまま水底で横になる。
ぷくぷく。
水が輪郭を持つ。
何かが水に溶けて入り込んでくる。
それを当然のように受け入れた。
ぱちゃん、水のはじける音。
微睡みの夢の中。
だれかのゆめ。
◆◇◆
「起きましたか?雪菜さん」
ソファーに寝転がった雪菜を覗き込むように諫が声をかける。
何かの夢を見ていたような気がした。
「おかげさまで疲れもとれたみたい」
「良かった。魔法は使えそうですか?」
目を瞑って魔力の確認をする。
普段通りの満たされた感覚がそこにあった。
「うん、いつも通り使えると思う」
手を閉じたり開いたりして雪菜は辺りを見回す。
そこには恐ろしく普段通りに書類の山に囲まれている生徒会室があった。
それを見て、もうちょっと片付けようと雪菜は心に刻む。
時刻は十九時。
諫が設定した時間まで後一時間をきっていた。
雪菜たちはクライストに対抗する手段である『水の契約』を手に入れてからは回復に専念することに決めた。
起死回生の一手がガス欠で使えなくなることを防ぐためだ。
「にしても雪菜さんって魔力の回復が早いんですね」
「そうなの?」
「僕はまだ普段通りまでは回復してなくて。僕の方が遅いだけかも知れませんが」
諫は最初に会った時よりは顔色が良くなったが、やはり怪我のせいかまだ疲労の色が残っている。
雪菜が「無理はしないでね」と見つめると、人にまじまじと見られる経験がない諫が困ったように視線を彷徨わせた。
雪菜が諫ととりとめもないやりとりをしていたら突然扉がノックされた。
雪菜たちが一瞬身構えるが、扉の向こうから瑠絺琉の凛としてはいるが抑揚の少ない声が響いた。
「雪菜先輩、入ってもよろしいですか」
「いいよ」
「軽食を持ってきました」
音を立てず静かに瑠絺琉が生徒会室へ入ってきた。
瑠絺琉の手にはバスケットが握られている。
それを見て雪菜は小さく歓声をあげた。
瑠絺琉がバスケットから紅茶を取り出したからだ。瑠絺琉は紅茶の目利きが得意でいつも美味しい紅茶をご馳走してくれる。
「わざわざありがとうございます」
「『鬼武』の為じゃない。雪菜先輩のついで」
「はいはい。瑠絺琉ちゃん、家同士の争いは生徒会室ではナシっていつも言ってるでしょ」
雪菜は険悪なムードになりかけた二人の間に割って入る。折角の紅茶が不味くなりそうな話題は始まる前に摘むのが吉だ。
「でも」
「でもじゃありません」
食い下がる瑠絺琉の頬をムニムニと引っ張りながら、雪菜はバスケットの中を覗いた。
軽食と言った通り、中にはサンドイッチが入っていた。
「雪菜先輩、どうぞ。鬼武はこれでも食べて口がパサパサになればいい」
「お言葉に甘えて」
「いただきます」
雪菜たちはサンドイッチと紅茶をつまみながら大まかな作戦を立てる。
命懸けの戦闘はしたことはなかったが、幸いなことに前生徒会長がクラス決めとして開催していたバトルロイヤルが役に立った。
諫は終始ここは一体どんな学校なんだという顔をして話を聞いているだけだったのだが。
「よし、これで出来ることはやったかな」
「すみません。私もご一緒できたら良かったのに。榴兄様に絶対に出席しろと言われていて」
「『黒宮』の行く末を決める大事な会議なら仕方ないよ。上手くいくよう頑張るから瑠絺琉ちゃんは応援してて!」
コクリと頷き瑠絺琉が雪菜に一礼すると足早に何処かへと去ってしまう。
どうにも雪菜と諫のふたりぼっちでこの場を切り抜けなければならないようだった。
◆◇◆
世界が切り離されてしまったような静けさが場を支配していた。
暗闇を乱す星明かりの群れ。
虫の羽音のように瞬く人工太陽。
静かに脈動する鬼灯の心臓。
そして“喰い捨てられた”残骸たち。
誰かがそこにいたことは決定的なのに、その誰かが欠けている不自然な空間。
静謐が覆うその場所に雪菜たちはいた。
時計を見ると時刻は八時――諫の指定した時刻をちょうど指している。
ならば此処にクライストも来ているのだろう。
息を殺して辺りを伺う。
雪菜が凍らせたドームの前にぼんやりと幽鬼のように浮かぶ白がひとつ。
クライストが呑気にあくびをしながらそこにいた。
雪菜は拳を握りしめ、覚悟を決める。
――絶対に哲くんを助けてみせる。
諫曰く、勅を破れるのは一回だけで以降は破ることはできないらしい。無傷が保証されるのは今日まで。失敗はできなかった。
「檻氷――その氷は捕縛の為だけに」
青白い粒子が舞い上がり、クライストを捕らえる氷の鳥籠を形成していく。
クライストは雪菜の魔法だとすぐに勘づき、牽制するように叫んだ。
「遊び気分だとしたら生ぬるいのだな!殺す覚悟でこい!!」
雪菜が出した氷を“喰い千切り”、クライストは雪菜の方を見据えて“喰む”動作をした。
その動作に呼応するように、クライストの前方が“喰らい尽くされて”いく。
「湖手――殺すなんて物騒なことお断りよ!」
雪菜は自分の腰から蜘蛛の足の如く水の触手を生やし、自身を弾丸のように射出してクライストの攻撃を回避する。
「“喰らえ”」
「氷華――咲き乱れろ、絢爛なりし氷雪の華!」
クライストの目線を遮るように氷で出来た華が空中で舞う。
「(きっと、クライストの魔法のトリガーは見ること!それなら!)」
予想通り、クライストの魔法のトリガーとなるものは視界――つまり目で捉えなければ魔法の照準はズレが生じるようで、雪菜よりも左にずれたところが“喰われた”。
雪菜は水の触手を使って着地し、言葉を紡ぐ。
「水鏡――泡沫の如く虚よ揺れろ」
水の屈折を使い雪菜は自分の虚像を作り出した。
クライストに近づかなければ『水の契約』は使えない。距離を詰めるように雪菜は全力疾走する。
「意表を突いたつもりかもしれないけどな」
クライストが目を瞑り、耳を澄ます。
「自分の魔法の弱点は俺だって把握してるのだ」
雪菜の足音がした方へと魔法を放つ。
虚像がブレる。
手応えを感じたクライストは二度三度追撃して、地面を“噛み千切る”。
水の虚像が完全に崩れた。
「所詮素人じゃこんなものなのだな」
クライストは口の端を釣り上げ、ニヤリとしたり顔になったがはたと気付く。
この胸を支配する大袈裟な達成感――異常だ。
本来、こんなことでは達成感なんか得られないはず。
「ええ、本来の私だったらそこでおしまい」
何処からともなく雪菜の声が響く。
「気づいた?色々鈍くなってるってこと」
クライストに見えていた風景が歪む。
まるで永遠に辿り着けない蜃気楼。
ゆったりとした景色の瓦解を背に雪菜が姿を現す。
それを見て慌ててクライストが魔法を使おうとするが酷い頭痛がして、身を捩ってしまう。
「ぐ……っ」
「ごめん、すぐ終わるから」
雪菜がそっと蹲ったクライストの眩いほど白い髪を撫ぜてから、髪の毛を一本抜いた。
クライストの元を離れたそれを雪菜が飲み込む。
『水の契約』には契約する相手の体の一部を自分に取り込むことが必要不可欠だと書いてあったからだ。
「それは色彩の消費の無い我が属性」
世界と隔絶するように二人を水の繭が覆っていく。
繭は巨大な心臓のように不規則に脈動しながら青い光を放っていた。
「惑星を覆う生命の膜。されど水影を落とす死の深淵」
クライストが痛みのあまり目尻に浮かべた涙を雪菜は拭う。
大丈夫だよ、と安心させる様に微笑みかける。
「五百重波を越え、契りを此処に」
その眼差しは慈愛に満ちて。
「水界契――世界を満たせ」
『水の契約書』に書かれていた必須事項は契約相手との体液の交換。
気は乗らないけれど、と思いつつも覚悟を決める。
そして、雪菜は祝福のようにクライストへ口付けをおとした。
◆◇◆
深層へと潜り込んでいく。
沸き立つ暴力と血塗れの手。
渇望。
渇望。
渇望。
不快な裏切り、力が支配するカースト。
優越感なんて浸る暇もない暴力の嵐。
秩序のない混沌。
誰も他者を顧みない。
自分だけ見ればいい。
自分しか見る余裕がない。
助け(かみさま)なんてない世界。
弱肉強食。
そこで『喰らう』魔法をもって生まれた“ワタシ”。
でもここでは女は搾取されるだけ。
ならば生まれ変わろう。
男という地位を手に入れよう。
誰もが強者とわかる狂者へ。
“俺”は世界だって喰いつくしてみせよう。
そしたら満たされるはずだ。
生まれ捨てられた時からずっと空いている胃袋が。
まずは身近な支配者を喰らった。
煩い奴隷商人の喉を喰いちぎり、鮮血で喉を潤す。
味なんてわからなかった。
ただ飢えを凌いだだけだった。
次にそこにいただけの消費者を喰らった。
貴族階級、わからないけれどただ消費するためだけに生まれて来たような奴らを喰らうことで消費した。
味なんてわからなかった。
ただ渇きを凌いだだけだった。
次。次。次。次。次。次。
満たされない。
この飢えはまだ満たされない。
喰えば喰うだけ空腹感が大きくなっていく。
満たしたいのに注いだ分だけ広がる感覚。
足りない。
まだ足りない。
次を求めて手を伸ばす。
それは確かにあるのに喰えば空気のように軽くなってしまう。
悲鳴をあげるように喰らい続ける。
知らない。わからない。
でもいいや。この渇きが満たされるなら。
知識なんてあるだけ邪魔だ。
シワのある脳みそは美味しくない。
なんでもいい、満たされたい。
満たして、満たして、溢れるくらいに。
◆◇◆
――契約は成立した。
雪菜はクライストとのパスが繋がったことを確信した。
上手くいったという安堵が胸を支配するが、此処で立ち止まってはいられない。
「まず、私たちを傷つけるのは無し。裏切りもだめ。そして、哲くんも解放してあげて」
雪菜は取り敢えずクライストに向かって“命令”をする。
『水の契約』の絶対順守命令は対象を半永久的に命令で縛り続けるものだ。
「……“アイツ”の契約を上回るなんて」
信じられないと付け足してクライストは雪菜を見つめた。
そして思案した後、憑き物が落ちたような顔で雪菜に宣言する。
「お前は俺を満足させた。だから認めてやる」
今度は雪菜が面を食らった。
いやそんなあっさり決めていいのか、とか色々な考えが浮かんでは消えたが言葉を飲み込む。
「ついてこい、ご主人」
茶化すような笑いを浮かべクライストが立ち上がった。それを見て、雪菜はクライストの言動に警戒しながら黙って後ろをついていく。
案内されたのは意外にも« セフィロトの箱庭 »のドームの中だった。
そこでは、絶魔結界に閉じ込められた哲が口をパクパクさせながら結界に体当たりをしていた。
どうやら音も聞こえない仕組みらしい。
「大丈夫、絶魔結界はこれしかないぞ」
「信用できない」
「あったら初手でお前なんか閉じ込めて肉弾戦で倒してるのだ」
雪菜はまた黙り込んだ。
クライストの身体能力を知っている身としてはあり得ない話ではないと思ったからだ。
三階ぐらいの高さであれば一息に登り切ってしまうくらいの力があれば雪菜などひとたまりもないだろう。
「“閉じよ”」
「テメェ出せ、って、うわ……っ!?」
全力タックルを見事に空振りした哲は地面へとなだれ込む。なんとなくコミカルな絵面に雪菜は少し吹き出してしまった。
「……どういう風の吹き回しだ?」
「寝取られたのだ」
「違います。契約したの」
哲がキョトンと瞬きを数回した。
どうやらよくわかっていないらしい。
「それって安全ってことか?一件落着?」
「わからない、クライストが何か企んでるかもしれないし」
「自分で言うのはなんだが企むような脳ミソはないぞ。賢いヤツの脳を喰っても駄目だった」
さらっとバイオレンスなことを述べるクライストから距離をとりながら雪菜ははた、と気づく。
「クライスト、貴女魔力が無くなる寸前じゃない」
「元々魔力は少ないからな。実はさっきの戦闘で使い過ぎた」
窮地を言動に微塵も感じさせないクライストに内心で恐れ戦く。
そういえばこの人は“プロ”なのだ。
「さあ行け。手を出さない保証は無いからな」
「……言われなくても。行こうぜ、雪菜さん」
早く行こうと哲が雪菜の手を握って引っ張った。
しかし、雪菜は考え込んだ姿勢から動かない。
「雪菜さん?」
「……だめ。放っておけない」
二人が「は?」と驚きの声をあげる。
「コイツ俺達のこと殺そうとしてきたんですよ?そんな犬でも拾うような気軽さで……」
「俺はお前を殺そうとしたんだぞ。正気か?」
クライストと哲が疑わしそうに雪菜をじっと見つめたが、当の本人は気にせず「家においで。休んでいきなよ」と言葉を続けた。
「なにか不満?いいじゃん、クライストが暴れても実害受けるの家だけだし」
「家族とかは」
「大丈夫、三人とも他所に泊まり込みで勉強してるから」
「そういう問題?」
哲が思わずと言ったように言葉を漏らす。
雪菜はどんどん不貞腐れたような顔になって「クライストはどう思う?」と、クライストに助けを求めた。
「出来るなら休みたいが……いいのか?」
「なら決まりだね」
文句ないでしょう、と哲に向かって雪菜は胸を張る。
哲はそんな雪菜を見て引きつった笑みを見せた。
「ついでに監視という名目もあります」
「僕も監視ということならいいと思いますよ」
いつの間にか来た諫が会話に割って入る。
突然の諫の登場に哲は驚いたように後ずさるが、雪菜とクライストは気がついていたようで驚かずにそのまま話を続けた。
「諫くんはこの契約のこと知ってるよね」
「絶対服従ですよね。服従しないことは許されない呪いのようなもの」
「うん。そういうことなのだ」
説明を初めて聞いたであろうクライストは術をかけられた側であるのにどこか誇らしげに笑う。
哲は表情を強張らせ、「マジで?雪菜さんもそういうの使えるの?」と汗を垂らした。
◇◆◇
哲と諫と解散して、クライストと共に家へと戻った雪菜は玄関先でへたり込んだ。
「呑気なものだな」
「もう殺意なんてないんでしょう?」
雪菜は微笑みをたたえ、唇に手を当てた。
『水の契約』は相手の状態すらわかってしまう代物なのだ。雪菜だって所構わず隙を見せているわけではない。
「ご名答。もうお前を傷つけようという気はないのだ」
「うん」
「だから教えてやる。今回の依頼主について」
クライストはへたり込んだ雪菜の横に座り、雪菜の頭を撫でた。
雪菜はそれに一瞬体を強張らせたが、また脱力する。
本当に敵意は感じなかった。むしろ、好意すら感じる。何故かは知らないけど。
「『黒宮 留』それがアイツの名前だ」
「――な、」
「お前も知っているだろう?『黒宮』の弟と妹が此処に通っているとアイツが言っていた」
「知っているどころじゃない。貴方と対峙する前に黒宮の子とはあってたわよ」
焦燥感がせり上がってくる。背筋が痺れるような感覚。
まさか、なんで、という感情が雪菜の内で渦巻いた。
『鬼武』の問題を『黒宮』が関与し、操作したのかもしれない。けれど、何のために?
「それとお前のアレはアルカディアのものだろ?『アルカディア家直属の者がもうすぐゼトワール・リセに現れる』ともアイツは言っていたぞ」
なんでもない風にクライストはとんでもないことを言った。
雪菜は処理落ちしそうな思考回路をフル稼働させて、『黒宮 留』への不信感を募らせていく。
――まるで全部見透かしているかのような。
「……どうすりゃいいってのよ」
雪菜は声を震わせて、呟いた。