プロローグ 告白Ⅱ 森の中で
2025/01/21(改)
改行や字下げ、細かな表現を直しました。
晴れて恋人同士となった私たちだけれど、村を出ていくには、何を先においても、先立つものが必要だ。
だけれどその点は実は心配無用。幸いにも、私たち二人とも、お金はそれなりに貯えがあったのです。
ここは小さい村だし、お小遣いを貰っても使う場所がほとんど無いのだ。
月一くらいで来る行商人などで使う機会もあるけれど、二人とも、特に欲しいものもなく、親から渡されるお小遣いを死蔵していたのだ。
後から知った話なのだけど、私の村は、大変質の良い絹を生産していたそうで、大分高いお金で買い取られていて、私たちに渡ってくるお小遣いも、一般的な平民の子供がもらえる額ではなかったようだ。
私たちは話し合って、夜中に抜け出し、一番近くて大きい町へ、前もって手配していた馬車に乗り込んで向かうことにした。
なぜ大きい町か? 別に都会に憧れがあるとか、そういう俗な理由ではない。
…………。
ごめんなさい。憧れはあります。嘘をつきました。
でも、ちゃんとした理由もあるんです。
まず、生きるためにはお金が要る。
お金を得るには働かなくてはならない。
これが常識。
ならば、その職を得るのなら、職の種類も量も、大きい町の方が多いに違いないだろうと思ったから。
ほら、ちゃんとした理由でしょ?
数日後――
一月に一度来る行商人のお姉さんに声をかけた。
「こんにちは」
「やあ、こんにちは。珍しいわね、二人が買い物なんて。何か目を惹いたのなら、お姉さんうれしいな」
「あの、お姉さんに聞きたいことがあって……」
「ん? 何かな?」
「ここから一番近くて、大きい町まで馬車で送ってもらうとして、いくらかかりますか?」
「私は行商人で、人は運ばないからねぇ。近場で一番大きい町っていうと、カンブリア辺りかな。となると、相場だと銀貨五枚ってところかな?」
「銀貨五枚」
「ディーちゃん、意外と安いよ。」
「うん、手持ちでも十分いけるね。問題は……」
「ここに馬車が来ないことだね……」
「え!? ここって馬車が来ないの!?」
行商人のお姉さんがわざとらしいくらいのオーバーなリアクションで驚いた。
「じゃあ、村の外へのお出かけとかどうしてるの?」
「そんなのは無いです。村の外に出るのは木こりさんとか狩人さんとか、それも少し先の山くらいまでで、他の人は、蚕や野菜の世話を村の中でしています。買い物はお姉さんたち、行商人頼りです」
「まさかそこまで閉鎖的だったとは……。二人とも、そういうこと聞いてくるってことは、村の外に出たいの?」
「「はい!」」
同時に声が出た。少しうれしい。シャルちゃんと同じ気持ちでいることが。
「私たち、お出かけがしたいんじゃなくて、この村を出て行きたいんです!」
「それで馬車で、大きな町ってわけね。なるほど」
お姉さんは腕を組んで少し考えると「よし!」と、胸を叩いた。
「私が特別に二人を運んであげようじゃあないか!」
「「本当ですか!?」」
「おぅ、すごい息合ってるねぇ。本当よ。いつ迎えに行けばいい?」
「できれば、今夜にも。村を出たすぐのところに馬車を待たせておいて欲しいです」
「今夜は、この後、一つ別の村を回るから無理ね。明後日くらいにここの近くを通るから、明後日の夜じゃ駄目かしら?」
「それで構いません。お願いします」
「分かったわ」
「あの――」
シャルちゃんがお姉さんに話しかけた。
「この、お揃いのペンダントをください」
「ひょっとして、気を使ってる?」
「少しだけ。商人さんから買い物もしないで乗せてもらうのは悪い気がするので。あと――」
「あと?」
「これを、お揃いでディーちゃんと着けたくなって……」
そう言うと、顔を赤くして俯くシャルちゃん。可愛すぎか。
「じゃあ私も半分出すね。いくらですか?」
「金貨十枚だけど、大丈夫?」
「け、結構するね……。でも――」
「「大丈夫です。お小遣いは二人とも貯めてあるので!」」
二人で半分ずつお金を出し合って買ったペンダントを、お互いに着けあって、予定の日を待った。
出発当日の夜。二人で書き置きを残して、村の外に出た。
馬車は依頼通り待っていて、すぐに乗り込んだ。
「二人とも、一昨日ぶりね。さ、乗って。狭くて申し訳ないんだけど」
馬車の中は、お姉さんが各地を回りながら売る商品で一杯だった。
「少し荷物を端に寄せてもいいですか?」
シャルちゃんが言った。こういうことを、物静かそうな見かけによらず、はっきり言える子なのだ。
「うん、いいよ。適当に積みこんでるだけだから。整理整頓してくれるならむしろ助かるまである。なんてね」
許可が出たということで、二人で荷物を四隅に寄せる。馬車の重量バランスが崩れないように気を使いながら。
生憎と、荷物の分類分けまでは暗すぎてできそうにもない。
「こう暗いと、整理整頓もないですね。明るくなってからでいいですか?」
私が確認を取ると、意外そうな声でお姉さんは驚いた。
「本当にやってくれるの!? 冗談だったのに」
「無理を言って乗せてもらってますし、そのくらいはしますよ」
「ありがとう! 助かるわー。乗車賃、値引きしとくわね」
「そんな、悪いです」
「いいのいいの。二人には滅多に買われないアクセサリーも買ってもらったし、その上、荷物の整理までしてもらって、カンブリアまでの乗車賃もなんて、貰いすぎなくらいよ。商人はね、信用第一。借りはとっとと返すものなの! おとなしく値下げを受け入れなさい」
「そこまで言うなら、わかりました。ありがとうございます」
「よし、じゃあ――」
「ディティス!」「シャルティ!」
突然、私たちの両親の声が聞こえてきた。バレるのが早すぎる……。
お姉さんの方を向くと、月明かりで照らされた顔が見え、口パクでゴメンねと言っているのが分かった。やられた、何が信用第一だ……。
二人で馬車から降りる。でも、戻る気など二人とも毛頭無い。
強く手を繋いで、両親たちを見る。
「商人さんからお前たちのことを聞いたときは冗談かと思ったが、まさか……」
私のお父さんが最初に口を開いた。
「さぁ、戻りましょう? お出かけにそんなに行きたいのなら、今度連れて行ってあげるから、ね?」
次いで、シャルちゃんのお母さん。
私は言い返す。
「私たちは、ちょっとそこまでの旅行がしたいんじゃなくて、この村を出て行きたいの。だから止めないで。お父さん、お母さん」
「シャルティ、本気なのか?」
シャルちゃんのお父さんの声音は、今まで聞いたことがないほど怒っているように感じられた。二人の握った手が、じっとりと濡れていくのが分かる。
「お父さん、ごめんなさい。私たちはこの村を出て行きます」
少し震えたシャルちゃんの声。さらに強く私の手を握ってくる。
「子供二人で何ができる」
「私はもう大人になりました」
私が答えると、シャルちゃんのお父さんが地面を踏み鳴らして大口を開けた。
「シャルティはまだ違うだろう!」
こんな大きな声でシャルちゃんのお父さんに怒鳴られたのは初めてだった。
シャルちゃんはまだ十四歳。あと二ヶ月くらいで成人を迎えるが、確かにまだ子供ではある。
「シャルちゃんは、私が守ります」
「簡単そうに言うんじゃない。シャルティは他の子とは違う。一番仲がいいディティスちゃん、君が一番よく分かっているだろう? この村の中ならシャルティの事情も、村人は全員分かってる。わざわざ大きい町に行くなんて危ない橋を渡る必要無いだろ?」
シャルちゃんのお父さんの意見は至極もっともだとは思う。
――でも違う。
そんなことは百も承知だ。
私たちは、この村の中で安全に生きていくより大事だと思ったことがあるから出て行くんだ。
「お父さんたち、私たちが書き置きした手紙は読んでくれた?」
私のお父さんが答える。
「いや、お前たちが家を出て行ってすぐに後を付けたから、読んでいない。元より、連れ戻すのだから、読む必要がない」
お父さんはいつもこうだ。自分の出した結論が正しくて、他人の意見や気持ちは歯牙にもかけない。
読む気がないのなら、直接聞かせてやろうと私は思い立った。
「どうせそんなことだろうと思ったよ。お父さん、そういうとこ直さないと、お母さんにも出て行かれるよ。私みたいに。お母さんも結構ため込んでるって、私、知ってるからね」
お母さんの方を、お父さんと一緒に見ると、お母さんは私たちと目が合わないように視線を逸らした。
「ね? お父さん」
「お前の言いたいことは、何となくだが、分かった。だが、それはそれだ。おとなしく帰ってこい。家族会議はその後でいいだろ? シャルティちゃんにも、シャルティちゃんのご両親にも、商人さんにも迷惑をかけて、謝りなさい」
「迷惑をかけていることは自覚してるから、いくらでも謝るよ。ごめんなさい」
各々に向かって、それぞれ、深々と頭を下げる。
心からの謝罪。
これは嘘偽り無く、本当に迷惑をかけていると思っているから当然のことだ。
「でも帰らない。これは二人で決めたことだから、お父さんたちにも、おじさんたちにも止めさせはしない」
「どうしてそこまで……。お前はもう少し物分かりのいい子だったじゃないか……」
お父さんが困惑する。珍しい声が聞けて少し胸がすくのを感じた。
確かに、私は物分かりが良すぎるくらいの子ではあった。でもそれは、これまで、私自身にこれといって願いが無かったからだ。
でも。今回ばかりは違う。
私には明確な願いができた。
『シャルちゃんとずっと一緒にいる』
友達としてではなく、正真正銘の家族としてだ。
だからここではっきりと言う。二人で。
繋いだ手を強く握ると、シャルちゃんも察してくれたのか、握り返してくる。顔を見ると、瞳を私の方に向けてニコリと笑った。
そして、私たちは、告白した。
――お互いが好き合っていること。
――その想いが、友達へ向けるそれとは違うということ。
――お互いがお互いと一緒にいたい、誰かが間に入り込む余地はないということ。
――同性愛を認めるとは思えない村長が、結婚相手を指定するというこの村の特殊な風習には肌が合わないということ。
故に私たちは出て行くのだと。
一通り私たちが告白し終えると、私のお父さんは腕を組んで長考を始める構えになった。
商人のお姉さんは、顔を下半分、両手で覆ってあらまーと、言っている。あらまーて……実は見た目より年齢が上なのだろうか?
「ふざけるな!!」
シャルちゃんのお父さんが突然怒号を上げた。先ほどよりももっと大きい声だった。シャルちゃんも、さすがにこれには動揺している。
その後も何度かぶつぶつと、ふざけるなと繰り返し唱えているシャルちゃんのお父さんは不気味だった。
目は血走り、顔は真っ赤で、親指の爪を噛んで口の端から泡が吹いている。
そんな姿の彼を、ここにいる全員が驚いて見つめた。腕を組んで考え事を始めたばかりだったお父さんも、親友の豹変ぶりに目を丸くしている。
「お、おい。さすがに驚きはしたが、そこまで怒るようなことか? 同性とはいえ、好きな人ができるというのは、子供の成長を感じられるだろ? お前も、シャルティちゃんが成長していく日々を嬉しそうに見ていたじゃないか。この村では確かに、村長が男女で結婚させるが、この国では別に同性での結婚を認めていないわけじゃない。彼女たちなりの考えが聞けて、俺はよかったと思っている。お前は違うのか?」
今度は、私が目を丸くした。こんな低姿勢で、自分の思っていることを素直に話しているお父さんを見たのは初めてだからだ。
私たちの話が聞けて良かったと言っていたのがとても意外だったし、嬉しいという感情があったことも意外だった。
「あっちが素なのよ、お父さんは」
いつの間にか近くに来ていたお母さんが耳打ちしてきて驚いた。
「あれが?」
耳を疑った私が聞き返すと、お母さんは懐かしそうに話す。
「昔は、優しくて、気弱で、でも芯はしっかりしてる人だったのよ。それが、子供ができたら、理想の父親像とか言って、今みたいな態度するようになってね。これまで通りじゃ子供に舐められるとでも思ったのかしらね。気が弱いなりに強がってみたくなっちゃったんでしょうけど……。そんなお父さん、見るに耐えなくってね、あなたがさっき言ったように、私、あなたがお嫁に行ったら、それを機会に少しお父さんと距離を置こうかなって考え始めてたんだけど……まだ残ってた。本当は何も変わってなかったんだなって、今ちょっと安心したわ」
肩の荷が降りたような溜息を深々と吐いて、お母さんは優しく笑った。
そして、すぐに険しい表情になって、シャルちゃんのお父さんを見た。
「彼も、変わってなかったみたい……」
お母さんの言葉に、言いしれぬ不安を感じてシャルちゃんのお父さんを見る。
――その瞬間だった。
シャルちゃんのお父さんは、私のお父さんに掴み掛かった。
「ブラッドの分際で誰にモノを言ってやがる! 俺のお情けで女を貰った軟弱者が! 今度はお前の娘を使って俺の女を盗ろうってのか!? あぁん?」
「メアリは俺を選んだだけだ。お前の情けなんて関係ないだろう!俺の女ってのはどういうことだ? クレッグ、何を言っているんだ? 娘同士が仲良くやってるのはいいことだろう? あと、胸ぐら掴むのを止めて……ください……」
「友達同士仲良しこよしは許してやるよ。でもそれ以上は駄目だ! ――シャルティは、俺の女になる予定だったんだからな!」
シャルちゃんのお父さん――クレッグは、そう言いながらお父さんを殴り倒した。
クレッグの告白は続く。
「せっかく、嫌いだったブラッドとも、俺を振りやがったメアリとも仲良くして、子供もろくに産めやしないシーラにも良い顔をして、最良の父親を演じていたのに、好きな人と一緒になるために村を出ていくだと? ふざけるな! 俺の女にするために育ててきたのに、最高の女に仕上がってきたのに、村長にも根回ししてあと二ヶ月ってところで、このクソガキ! 俺の女を掻っ攫おうとは、よくもやってくれたな! ブラッドの娘というのがまた気にくわない!」
私は咄嗟に、体でシャルちゃんを隠すように前に出た。
「良い父親だったろぉ? シャルティ。お前が成人したら、事故に見せかけて不能アマを殺してよお、仲のいい親子二人きりになってから、じーっくりと俺色に染めて、俺の女にする計画だったんだぁ――」
私のことが見えていないかのように、先ほどとは打って変わって、今度は下卑た笑みを浮かべた顔で、どこか誇らしそうに計画とやらを話している。
私には、もうこの人が、昼間まで家族と笑いあっていた人と同一人物だとは思えなかった。いや、思いたくなかった。
シャルちゃんが、私の背中にしがみついて震えている。
背中からシャルちゃんの恐怖が伝わってくる。
今までの笑顔も、何もかもが全部嘘だったんだもんね。私も、恐いよ。
普通に話し、笑いあって、頭を撫でられたことだってある。それが、実は心の内にこんな闇を常に渦巻かせていたのかと思うと、背筋が凍るような思いだ。
「私がディティスを産む前年なのよ、クレッグが結婚したの」
「え!?」
お母さんが話す。
「素行が悪いから、絶対に結婚させてもらえないと思ってたのに、どこかの街の商家の末娘さんが嫁いでくるって噂を聞いて耳を疑ったわ」
「あー、あの時からだ、メアリ。苦労したぜ。いつまでも結婚相手を指定されねーからよ、さすがに俺は焦った訳よ。人生で一番モノを考えたね。犯すのは簡単だが、狭い村だ、ヤったらバレて確実に報復される。俺も死にたかねぇ。かと言って、村を出てもやっていけるほど俺は頭がよろしくねーし、この村で何とかかんとか生きて子供残さなきゃならねー。跡取り息子だからよ。んでよ、今まで通りのやり方じゃ、死んでも村長は結婚相手なんて指定しねーと思った俺だ。だからよ……。全部反省して心を入れ替えることにした」
「は?」「え?」
その一言に私たちは困惑した。
「そういう演技で村長を騙したと?」
お母さんが質問する。
「いやいや、マジのマジ。本気で俺は今までの行いを反省して村長に心からの謝罪と、情状酌量を嘆願したのよ。でだ、まぁ結婚自体にはこぎ着けたわけだが、さすがにまだ警戒してたんだろうよ。たまたま居合わせてたどっかの嬢ちゃんを俺の結婚相手に指定した。ま、そのときの俺は本気で心を入れ替えていたもんで、めっちゃ好青年って感じの対応をしてたからよ、向こうも別に悪くないってすんなり結婚したんだが、まぁ、この女は外れだった。抱くだけなら申し分ない顔に体だったが、子供が全くできねー。そんな中だ。あの軟弱ブラッドのところに子供が産まれた。俺はもっと焦った。あいつにできて俺にできねーなんてとよ。だが出会っちまったんだ。運命だと思ったね。何がだって? 決まってんだろ。シャルティ、お・ま・え・だ」
また汚らしい笑顔に戻って、シャルちゃんの名前を呼ぶこの男を、私は激しく嫌悪した。
背中により強く力を感じる。
私は腕を背中に回して、その力の中心にそっと手を置いた。大丈夫、私がいると、強く思いながら。
少し力が和らいだ。
男は続ける。
「ガキが女だと分かったとき、一瞬で思いついた! 天才だと思ったね! 捨て子だから血は繋がってねーし、育て方によっちゃ、こいつは最高の母体になる。そうとなりゃ、最高の父親を演じ抜いて好感度を上げまくってやらなくちゃなと決意したわけだ。そこの女に関しちゃそこで俺の興味はもうなくなった。このガキを育て終わるまでの繋ぎくらいの存在になった。この十五年よくやってくれたな、そこは褒めてやるぜ。だがわりぃな、お前を愛してたのは最初の一年だけだったんだわ」
そこで、話を黙って聞いていたシャルちゃんのお母さんがついに泣き崩れた。
「わ、私、あなたのことも、シャルティのことも、ずっと、ずっと愛していたのに……あ、あなたも、愛してくれてるってずっと……ずっと! あああ、ああ、ああああああああ!!!」
少女のように泣きじゃくるシャルちゃんのお母さんの声を遮るように、獣以下の下品な笑いが森に木霊する。
心底愉快そうに笑うその声が、私には、いや、この場にいる誰もが不快に感じているだろう。
ひとしきり笑い終えると、ソレはまた口を開いた。
「はー、スッキリした。何もかも開けっぴろげにするってのは気持ちイイもんだぜ。さぁて、ここまで話を聞かせたんだ。このまま帰れるとか、村を何事もなく出られるとか思ってねーだろうな?」
その言葉と、これまでの口振りから、コレが何をしようとしているのか、大凡の見当が付いた。
この狂人が次の瞬間には、私たちの首に牙を立てるように殺しに来るのではないかという恐れから、息を飲んで、みんなその場を動けなくなった。
「とりあえず、ブラッドには死んでもらう。幸いまだ伸びてるし、苦痛はねーだろう。親友の慈悲ってやつだ、ははっ! あと、そこでワンワン泣いてる不能。元から殺すつもりだったしな。少し早まっただけだ。残った女四人は、シャル以外、山にある俺の作業場行きだ。手足切り飛ばして愛玩動物として可愛がってやるよ。シャルには、俺に逆らうとどうなるか、お勉強させなきゃなぁ~。目の前で大大大好きな女が刻まれて犯されるところを見せてやるよ。アハハハハハハハハハハハハ!!」
コレが何か音を発するたびに、私の心が、憤るどころか、少しずつ鎮まっていくのを感じていた。その内容が下衆であればあるほど、私は冷静になっていった。
そういえば、村一番の力持ちだった木こりのおじさんに腕相撲で瞬殺完全勝利した話は、その場にいた男の子たちとシャルちゃん、そして、当のおじさんしか知らないんだっけ。
女の子に負けたなんて面目丸潰れだから誰にも言うなよと、口止め料に金貨を貰ったことを覚えている。
あ、猟師のおじさんに付いていった先で遭遇した猪を、驚いた拍子に素手で殴り殺した話も、女の子としての今後に関わるからこの事は墓場まで持って行くっておじさん言ってたな。この事はシャルちゃんも知らない。
そんなことを、思い出していた。
私の力のことを知っている人、意外と多くないな。
――コレも、知らないんだ。
――そういえば、本気で人を殴ったことは、まだ一度も無かったな。
――じっと手をみる。
――顔を上げる。
視界はクリア。夜じゃないみたい。
月明かりが、ケモノを照らしている。
まだ笑っているソイツの話の内容は、理解する必要がない。
距離は五メートルくらい。私が跳べば一瞬。
ゴメンね、シャルちゃん。少しだけ離れるね。
後ろのシャルちゃんに向き直って手を取り、優しく自分から引き離す。顔を見ると涙でグショグショだった。
そこで私はやっと、アレに対しての怒りの感情を思い出した。
煮え滾るこの心の内を全て拳に込めて振り向いた瞬間――
――うるさかった声が消えた。
そこには、血走った目を見開いて、笑顔のまま天を仰ぎ、首から鮮血を噴き出しているクレッグだったモノがあった。
頭を失って、血の噴水となっているクレッグの体の傷は、切断されたというより、力任せに引きちぎられたように見えた。
すぐそばで血のシャワーを浴びて、クレッグの首を持っている人がいた。それは――
――シャルちゃんのお母さんだった。
いつも手入れされて綺麗だった爪は、鋭く伸びて、血液で赤黒く汚れている。
額からは二本の角がまっすぐに伸びていて、口には牙も覗ける。
元より整っていた顔立ちだったし、体の形が多少変わっても、この人のことを見誤ることはない。
私は、その光景に呆気に取られて、自分に溜まっていた怒りのエネルギーを霧散させてしまい、怒りを発散させたいのに、力も対象も無く、シャルちゃんの手を思わず掴んで、その場にへたり込んでしまった。
シャルちゃんのお母さんは、涙を流しながら、ごめんなさいと何度もつぶやき、先ほどまで自分のことを不能と罵っていた男の首を、大事そうに胸に抱いた。
「おかあ、さん?」
シャルちゃんが呼ぶと、ゆっくりと振り向き、いつもの優しい笑顔になって、でもどこか悲しげに「ゴメンね」と言った。
シャルちゃんがフラフラと近づこうとしたそのとき、シャルちゃんのお母さんは、人並み外れた速度で森の暗闇へと消えていった。
――夫の首を抱えたまま。
そして、森に静寂が訪れた。
その場にいる全員が、今何が起こったのかよく把握できていなかった。
ただ、クレッグが死んで、シーラさんが消えたという事実だけが残っている。
「シーラ、さん? え、え?」
「何なの今の……が……て、聞いてない」
お母さんと行商のお姉さんが狼狽している。
お父さんはまだ伸びているし、その傍には、首を失ってもなお、そこに立っているクレッグの体が残っている。
私は、今の出来事で腰が抜けてしまっていた。
この状況。仮に私の腰が抜けてなくても、これをそのまま放って、混乱するお母さんに全てを押しつけて村を去ることはできないと、私は思った。
そんなことする人がいたとしたら、とんだ親不孝者で、薄情も過ぎる。
私はひとまず、お姉さんに少し時間がもらえないか交渉することにした。
生まれたての子鹿のように、足を震わせながら何とか立ち上がって、お姉さんに話しかける。
放心していたお姉さんに数度声をかけて、やっと気づいてもらえた。
「あの、お姉さん。お金は払うので、もう一週間くらい、村に残れませんか? 後片づけとか、あと一応葬儀とか、あるかもだし……」
無茶なお願いだということは分かっているけれどキッチリけじめを着けなくては、村を出るに出られないと伝えた。
「う、うん、そうだね。やることやって来ないとね。私も、今回の商いは、あとは帰るだけだったし、待っててあげるよ。元々は、そういう話し合いをさせたくて、ご両親たちに話したんだし。あ、ご提案通り、宿泊費分はちゃんと貰うからね」
「ありがとうございます」
お姉さんに待ってもらえることになって一案件片付いたのはまず安心。
下半身に再び渇を入れて踏ん張ると、ハッとしたお母さんが指示を出した。
「ディティス、夜遅いけど、村長さん呼んできなさい。急患って言えば飛び起きてくるから。クレッグの死亡診断もだけど、お父さんも起きないし、少し心配。あとはシャルティちゃんの結婚相手の件についても聞いとかないとでしょ?」
「分かった。……シャルちゃんは? 一緒に行く?」
コクリと小さく頷いたのが見えたので、手を取って二人で歩き出した。
小さな村の中心部に不釣り合いな豪邸を構える村長一家の家。
豪邸といっても、その大きな屋敷と敷地のほとんどは、病院の機能として使っているので、実際に住宅として使っている家はとてもこじんまりとしている。私から見ればその家も十分大きい部類なのだけど。
家に着き、少し乱暴に扉をノックする。お母さんに言われたとおり、急患という言葉を発すると、家の中が急にドタドタと騒がしくなり、扉が開いた。
「おや、ディティスちゃんにシャルティちゃん。急患ってのは君たちかい? お腹でも痛い?」
村長に、お父さんたちのことを伝えると、分かったと返事をして、扉が閉まった。
再び扉が開くと、道具を抱えた、村長夫婦と息子夫婦が急ぎ足で出てきた。
現場まで案内すると、素早く処置に入った。
「死体はいい。診なくてもわかる。まずはブラッドだ」
村長の支持に良い返事をする奥さんと息子夫婦が村長の助手に入り、お父さんの診断を始めた。
「顎に打撲痕、いいの貰ってるな。脳震盪だろう。返り血はできるだけ拭き取って着替えさせろ。ブラッドは気が小さいからな。血塗れの自分を見て、また失神しかねん。メアリ、ブラッドの着替えを取ってきなさい」
「はい」
お母さんは素直に指示に従って、着替えを取りに家へ走り出した。
お姉さんは、村長についでだと言われ、村に足りてない薬や器具などをその場で売らされていた。
荷車にランタンを吊して……って、明かりあったんじゃん!
私たちは、木の根本に腰掛けた。手持ち無沙汰と、心細さを埋めるように、手を繋いで、身を寄せ合い、じっと、作業が終わるのを待った。
拾い子のシャルティは洗濯板上半身だけど、安産型。