第1話
雨音が聴こえる。
木々のざわめきが聴こえる。
身体のあちこちに痛みが走り、意識がだんだんとはっきりしてきた。
「いっ……てぇ……」
うっすらと目を開けると、ぼやけた視界に見慣れない光景が入ってきた。
天井には木目があり、部屋には襖と障子がある。
しかもご丁寧に、俺は布団の中にいるようだ。
「どこだよ、ここ……。」
こんな部屋、俺の家には無い。
「そういえば……。」
唐突に自分が事故にあったことを思い出した。バスがガードレールを乗り越えた衝撃や、身体が宙に浮く感覚が蘇る。背筋をヒヤリとしたものが走り、自然と身がすくむ。
――それにしても、誰がここに連れてきたのだろうか。
服装もいつの間にか着物に変わっており、着てきた服は枕元に丁寧に畳まれていた。
身体はあちこちに擦り傷や切り傷があり、右足首には包帯が巻かれていた。脇腹は打撲したらしく、身を捩ると鈍い痛みに襲われる。
とはいえ、あんなところから落ちて、よくこの程度の傷ですんだものだ。自分の強運に感謝するほかない。
――ここの家主はどこに居るのだろう。礼を言わなければ……。
思いながら痛む身体に無理をさせ、ゆっくりと上半身を起こすと、廊下から足音が聞こえてきた。
足音がする方へと視線を向けると、この部屋の障子に影が映るのをみた。
すすす、と障子が静かに開けられ、その隙間から着物を着た男の姿が見えた。
背の高くすらりとしたその姿は、着物を綺麗に着こなし、その黒の長髪は儚さを思わせる。
綺麗な黒髪に端正な造りの顔は、男の俺から見ても見惚れるものがあった。
視線がかち合い、彼は目を細めて優しく微笑んだ。
月明かりのような輝きを持った髪がさらりと揺れる。
「起こしてしまいましたか。すみません。」
彼はお盆を持ちながら、布団のすぐそばで膝を折った。
お盆には薬草らしきものと包帯が乗っている。きっと今俺の身体の巻かれているものと同じものだろう。
「朔、と申します。森の中で貴方を見つけたときは驚きましたよ。」
言いながら髪を耳にかける仕草はやけに艶っぽく、俺は何故か気恥ずかしく、うつ向いて小さく頷くことしかできなかった。
「傷は痛みますか?」
スラッとした指が俺の胸元に伸びてきた。
「え?」
急な接近に驚き少し身構えると、彼は一瞬きょとんとし、悟ったように薄く笑った。
「包帯を変えるだけですよ。その手ではできないでしょう?」
俺の両手は傷だらけで包帯も巻かれ、ものに触るにはすこし難しそうだった。
「…あ。お、お願いします。」
身構えてしまった自分が恥ずかしく、不自然に視線を游がせてしまった。
着物の袷の部分を丁寧に開かれ、傷だらけの上半身があらわになった。
身体のあちこちに包帯が巻かれている。自分でみても痛々しいほどで、生きていたことを心底不思議に思う。
慣れた手付きで包帯をほどき、薬を塗るその指を眺めながら、すごいなあと関心してしまった。
素早く包帯の交換を終えると、朔は俺の着物を整えた。
「あ、有難うございます。」
ペコリと頭を下げると、どういたしましてと返される。
「あの、ほんと、助けてもらっちゃって。」
有難うございます、とまた頭を下げた。
「暫くは動くのも難しいだろうし、治るまで養生していって下さいね。」
「あ、でも、家に連絡入れなきゃ……。電話借りても良いですか?」
おずおずと尋ねると、朔は困ったような表情になった。
「…すみません。ここ、電話を繋げてないんです。」
申し訳なさそうに視線を落とす朔の顔を、俺は呆然と見つめた。
――外に連絡することも出来ないということか?
流石にそれは困る。連絡も入れずに実家に帰らなければ、家族が慌てないはずがない。
まずいなあ、と途方に暮れていると、朔が紙を取り出した。
「手紙ではダメでしょうか。私が街に出たときに投函してきますから。」
なるほど、手紙か。着くまでにタイムラグが有るとはいえ、何もしないよりはマシだろう。
指が上手く動かない俺に代わって朔が筆をとる。口頭で伝えた文が、目を見張るほどの達筆ですらすらと紙面に興される。
「なんか、これじゃあ、俺からの手紙だって信じてくれなそうだ。」
お世辞にも上手いとは言えない自分の文字を思い浮かべる。雲泥の差だ。
そんなことを考えている間に、朔は宛名まで書き終えていた。
「差出人の名前は…。」
チラリとこちらを見る。
「あ!…名前、言ってませんよね?!…すみません。高橋直也って言います。」
散々世話になっておきながら、自分の名前すら伝えていなかったなんて。
失礼にもほどがあると軽く自己嫌悪に陥った。
「直也君ね。覚えましたよ。」
漢字の説明を聞いて、朔が俺の名前を書く。達筆に書かれた俺の名前を見て、いつもと違う印象を受けた。