5 ヘイムダルのレッスン
虹の番人ヘイムダルは、アスガルドの神々の承認を取り付けると、早速トールを女装させるべく準備を始めました。
彼の後をトールとロキも尾いていきます。目指すは女神フレイヤの家です。
「あら? フレイヤいないわねェ?」ヘイムダルは首を傾げました。
「知らなかったの? 家出した夫オーズを探しに旅立っちまったよ」
フレイヤは旅に必要な最低限の持ち物だけを持って出かけたようで、化粧道具、花嫁衣裳、そして美しい首飾りはそのまま、家に置いてありました。
「あらあら、懐かしいわねェこの首飾り! ロキちゃんと大喧嘩する羽目になった思い出の品!」
「……ん、ああ……そういやそんな事もあったっけな」
生返事をしつつもロキは、家探ししてフレイヤになりすますための道具を一式揃えました。
「フレイヤには悪いが、トールを女装させるためだ。
帰ってきた時に詫びるとして、色々と借りさせてもらおう」
それを見てヘイムダルは、苦虫を噛み潰したような顔をしているトールの着付けと化粧を整えます。
ショックが大きいのか、トールは絶望の表情をしたまま、されるがままです。
「……うーむ……なんかこう、イマイチだな……」ロキは唸りました。
「予想はしてたけどねェ……トールちゃん、筋肉モリモリマッチョマンの変態すぎるわね」ヘイムダルもダメ出しします。
「変態だけ余計だヘイムダル!? そもそもお前らが女装させたんだろォ!?」
「ダメよトールちゃん。なるべく声を出さないで。
いくら巨人族どもがニブチンでも、声を上げた途端に男だってバレちゃうわ」
それからというもの、トールは生涯受けた事のない、恥ずかしい時間を過ごす羽目になりました。
何しろヘイムダルの女装に関する指導は、とっても厳しかったからです。
「トールちゃん、アナタはタダの女神じゃないの!
アスガルド一美しい女神・フレイヤなのよ! いい?
まずはイメージから! フレイヤになりきって動きなさい!」
「ハイハイハイ、そんな歩き方じゃダメ! ガニ股で歩く花嫁なんている訳ないでしょ!?」
「ヴェールが乱れちゃってる! おヒゲ剃りたくないんだったら、はみ出さないよう気をつけて!」
花嫁としての立ち居振る舞いのレッスンもキツかったのですが、それ以上にトールを弱らせたのは、食事制限でした。
「やっぱりトールちゃん、ガタイが良すぎるわねェ……
いいこと? スリュムの所に使いをやって、一週間の猶予を貰ってきたから!
その間に完璧に女装をマスターしなさい! んで、食事もダイエットメニューで!」
「そ、そんな殺生な……!?」
「花嫁衣装の上からでも逞しい上腕二頭筋が見えたら、さすがに巨人たちも怪しむわ!
ちょっと荒療治だけど、一週間の食事制限で、少しでもフレイヤのスレンダーボディに近づいて貰うわよォ!?」
「ひいいいい……!? い、嫌だァァァァ!? 花嫁になる前に餓死しちまうよッ!?
た、頼むロキ……! 助けてくれッ……! このままじゃヘイムダルに殺される……!?」
「アーアーキコエナーイ! 頑張れトール。トール頑張れ。
これもミョルニルを取り戻すため! たった一週間の辛抱だ!
できるできる気持ちの問題だって! どうしてそこで諦めるんだそこで!」
何かと不平不満タラタラで、隙あらば逃げ出そうとするトールを、なだめすかしながら女装レッスンに付き合うロキなのでした。
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一週間後。
純白の花嫁衣装と薄い紫のヴェール、そしてフレイヤの首飾りを身に着け、傍目にはしおらしい女性に見えなくもない、トールが立っていました。
「よしッ! たったの一週間でよくぞここまで仕上がったわァ! 頑張ったわねトールちゃん!
これなら何とか、巨人族の目も誤魔化せるでしょう! いやァ~いい仕事したわ~アタシ!」
満足げにやり遂げた男の顔を見せるヘイムダルとは対照的に。
花嫁姿のトールは、一週間もの長きに渡って、厳しい花嫁修業と、激しい空腹と、寝不足に苛まれ……半ば死人のような目をしてブツブツ呟いています。
「うう……ツライ……戦で負った古傷が……頭痛ェ……」
「トール……大丈夫か? よく頑張ったな……」
最初は笑っていたロキでしたが、幽鬼めいた様子のトールを見て流石に罪悪感が芽生えました。
「心配するな。スリュムの所までボクもついてってやるから。
ミョルニルを取り戻すまでの辛抱だ。くれぐれもおかしな真似をするんじゃないぞ……」
かくして、フレイヤに代わって偽の花嫁となったトールは、お付きの侍女に扮装したロキと共に――ヨーツンヘイムにあるスリュムの家に旅立ったのです。