ひととなり
「おお、よく来た、よく来たな。わざわざ悪いな、こんな辺鄙な一軒家まで、ちょいとマチから離れてはいるが、ここは長閑でいい場所なんだ。ほら、窓から山も見えるだろう。俺も登山から離れて永いが、時折心が山に向くことがあるのよ。わかるだろう、お前なら。ほら、そんなところに突っ立ってないで上がった、上がった、こっちだ、酒でも飲もうじゃないか」
夏の朝日が眩しい、時間は午前九時。天候は曇で良いとは言えないが気温は丁度よい。
俺と友人の浅雛は頂上に向けて歩を進めていた。
六時から二時間、登山道を行く。朝は快晴だったが、やはり天気予報に間違いはなく、徐々に日射が薄くなり始めていた。別の日に予定を変えるか、そう浅雛に提案されたが、俺はどうしても登らなければならなかった。
数年前の今日この日、登山部全員で登頂を果たしたこの山に。
毎日会社のために駆けずり回る生活に疲れていた。
借金を返すために借金を繰り返す、膨れ上がった負債は莫大だ、これから先、何十年か、時間をかければあるいは、決して返しきれない額じゃない、何か一つ商品を当てれば完済できる、そう願い続けて来たが切りがない、だから俺は諦めなければならない。
しかし、どうにもこうにもまだ何とかなる、まだ終わりきっていないという、諦めの悪さが心に居着いていつまで経っても去ってくれない。
この山を登りきれば、決断できる気がしていた。全てに見切りをつけ、心も体も軽くなりたかった。
「久しぶりだなあ、あれから何年経った? 覚えているかな、俺とお前、一緒に山を登っただろう、懐かしいなあ。それで、今日はなんの用事なんだ。ほう、足の具合が悪いのか。あれから全く山に登らなくなっちまったから、そんなことだろうとは思ったが、やっぱりあれから足を悪くしてたのかい。え、違うって? 歩けないわけじゃないし、痛いだとか動かない事はない、ふんふん、それで、なんで調子が悪いんだよ」
「はあ、この時期になると足が赤くなる、原因不明の痣ができる、なるほどなあ。それは気持ちが悪いだろう。今も痣、残ってるのかい、見せてもらっていいか。はあ、こりゃあ、良くないな。何だろうなあこりゃあ、医者に行っても疑われるだけだって、そりゃそうだろうなあ、自然にこんな痣なんざつかないだろう」
見ろよ、その浅雛の言葉に釣られて立ち並ぶ新緑の森を見ると、木々を揺らしながら猿が移動していた。大分登ったので森林限界が近いのか、木の高さは徐々に低くなり始めている。
だからだろうか、猿達の姿がよく見えた。夏の時期にここまで間近で猿の姿を見られるのは珍しい。
そうだ、覚えているか、そう言って浅雛は言った。ほら、数年前のあの日、俺達馬鹿話しながらこの山を登っただろう。そん時にも猿、見たよな。俺は思い出す、確かにあの日猿を見た。ここよりも標高の高い、森林限界を超えた先、地面を這う様に枝を伸ばす這松やツガの影に猿がいた。そうだ、握り飯を口にしながら歩く部員の姿が物珍しいのか、三、四匹の猿がこちらをじっと見つめていたのだ。
浅雛は、そうだ、あの時握り飯を食べていたのは浅雛だ。俺さ、あの時に何だか無性に腹が立ってな。あいつはそう言って握り飯を少し小分けにするとそいつを放り投げた。その米の塊に興味をもった猿達に浅雛は何を思ったのか石を投げつけた。それが一匹の猿に当たったのだ。
思い切り頭に石を当てられた猿はその場に伏した。他の猿は悲鳴を上げて山の下へと慌てて走り去る。それを追い打つ様に浅雛は更に石を投げた。
俺達は止める隙もなく、ただそれを呆然と見ていた。石を投げる行為は他の登山者に当たる危険もあるので、絶対にやってはならない。
それをなぜ破ったのか、何故唐突に猿に虐待を加えたのか、意味が分からなかった。
あれ、皆引いてたよな。俺、まさか当たると思ってなくてさあ。でも話の余興にはなっただろ。あの日から俺、何だか忘れられないんだよなあ、あの猿の顔がさ。そう言いながら浅雛は泣き笑いのような顔をしてその手を足元に伸ばし、石を握り締めた。
俺、昔っから猿が嫌いなんだ。俺の実家って農家でな、果物や栗なんかを育ててたんだが、秋になると猿が山から降りてきて作物を荒らすんだよ。奴ら人なんて怖がらなくてな。
小馬鹿にして食べかけの作物を残して山に買えるんだ。全部食い切らずに中途半端に食い荒らす、あの時は空気が凍りついてたから言わなかったけどな。
御陰で俺、あれから部でもなんだか腫れ物扱いだったよな。そう話しながら浅雛は石を全力で投げた。木の上の猿がきゃっきゃと鳴きながら森の奥へと消えてゆく。
それを見てちくしょうが、と浅雛が一言もらした。
あの日、全員でこの山を登頂してから、部員全員で山を登りきったことは無かった。あれから何故か不慮の事故が続いたからだ。
滑落、打撲による骨折、疲労骨折、高山病、それぞれ体力に自信のある連中ばかりがバタバタと倒れた。俺も例外ではなく、食生活が悪かったのか脚気になり入院もした。
けれども誰もが別にこの日が悪いとは思っていなかった。偶々運が悪かっただけだと。しかし、こうして再び浅雛と共に山に登っていると否応にもあの日の行いが思い出される。
そうした気味の悪いジンクスを断ち切るためにも俺はこいつと山を登りきらないといけない。あの日だってあれから何もなかったじゃないか。
頂上から見下ろす街の姿は絶景で、帰りは何事も無く気持ちよく帰れたはずだ。そう思っていると、俺さ、あれから山に行ってないんだ。お前達も気にしてたんだろ、俺が誘っても誰も登りたがらない、お前が初めてだったよ、こうやって登ってくれた奴は。だから今日は絶対やりきらないとな、と浅雛が言った。
「それはそうと、久々にあったんだ、あれから何をしていたのか、お互い話し合おうじゃないか。俺はそうさな、あれから色々あったよ。まあ、ないはずがないんだが、もうお前も俺も若くないだろう、職も転々としたし、人付き合いも飽きるほどした。今じゃそれなりの商売人だ、もうあの街からは離れられない」
「都会ってのは良いことも悪いことも、苦も楽も全て内包しているんだな。山じゃ一人が居心地がいいとは思えど、怖いなんて思わなかったな。ああ、あの時はお前、異常だったからな。怖くなかったわけじゃないが、冷静にはいられた。だが、人が多いことに慣れちまうと怖いもんだね。あれだけ人が大勢いたって、不意に一人だけになる瞬間てのが必ずあるんだな、何だろうねえあの怖さは」
「でお前はどうなんだ、あれから会社は上手くいっているのか、あの山に登った日、言ってたよな、会社が上手くいっていない、だから登りたくなったんだって。ああ、朧気にしか思い出せないって、何が、あの日のことをか、ふうん、だからだな」
「まあいいや、で、今のお前はどうなんだ、ほお、姉さん女房をねえ、成程そりゃおめでたい。これであの日のジンクスは成立しなくなったって訳だな。幸せか、そうか、まあ使うより使われる方がお前の相に合っているんだろう。で、今は平穏に暮らしてるのか、そりゃあ言うことないだろう。なんで突然俺に連絡をよこしたんだ。ああ、足の痣を見ると俺の顔を思い出すって? その理由をお前なら教えてくれると思ったからってか」
「お前、本当に知りたいのか、思い出したいのか。だってそうだろう、忘れてるってことはつまり、思い出したくない出来事があったって事だろう。忘れたままの方がいいんじゃないのか。人間は忘れられるから生きていけるんだろう。どうしても思い出したい、そうか、じゃあ仕方無いな」
それから数十分足を進めてからだろうか、天候が傾き始めたからか他の登山者ともすれ違わない道を行き、少し休むかと脇の岩に腰を下ろしていると、随分と下の登山道を豆粒ほどの人影がこちらに向かって歩いてきているのが見えた。こんな天気でも登る変わり者が俺たちの他にも居るもんなんだな、そう言って指さすと、豆粒の大きさが一気に大きくなり始めていた。そいつは物凄い速さでこちらに向かって来ている。
何だあれ? そう呟いた浅雛の声が震えていた。俺達は立ち上がり走る。足場が悪い、ペース配分が速すぎる、そんな事を気にしてはいられなかった、後ろを気にしながら走る。もう逃げ切れない、何より上に向かっている俺達に逃げ場なんてない。
上に逃げることは諦めて俺達は背の低い植物が茂る斜面に飛び込むと、蛇のうねりのような登山道を抜けて岩陰に隠れた。震えながら地面にひれ伏して登山道を覗いていると、視線の先には真っ黒な体毛をなびかせた顔が赤い何かがこちらに迫っていた。曇り空の薄明かりに照らされてそいつの目が灰色の鈍い光を放っていた。
なんだよあれは、なんなんだ。小声で喘ぐ浅雛の隣で俺は頭を岩陰に隠すと息をひそめる。あれがやってくる。今は気がつかれては駄目だ、あんなものに見つかってしまったら、間違いなくろくなことにならない。ぼうぼうと鳴き声なのか、それとも息が抜ける音なのか解らない不気味な音が遠くから迫り、そして不意に止まる。そしてその音が上に向けて遠ざかっていった。三十分はそうしていただろうか、浅雛がそっと岩陰から登山道を見つめる。
「わかっているんだろう? お前のその足の痣、どう見ても人の手の形をしてるじゃないか。その足を掴んだのは誰か、覚えてないのか。覚えてるはずだろう? それを見ると俺の顔を思い出す、か。当たり前じゃないかそれは俺の手形だからだよ。あの日、足を岩に引き潰された俺はお前の足をつかんで懇願したんだよ。連れて帰ってくれって」
どうやら、助かったみたいだ。そう言って岩にもたれ掛かる。俺は安心できなくて浅雛に続いて道を覗いた。確かに何もいない。ようやく安堵して腰を落とすと、どうする、まだ登るか、と浅雛が聞いてきた。正直、こんなことがあってまで続けるべきか悩んだ。まだ時間は十二時、雨の気配が感じられ、薄い霧が足元から這い上がり始めている。
それは本当に急だった。雷鳴のような轟音が頭の上から響きわたった。硬直する体、頭を音に向ける、岩を乗り越えて向こうから巨大な石の塊が崩れ落ちてくる。俺ははっとして頭を抱え、その場に屈み込んだ。頭のすぐ脇をサッカーボール大の石が通り過ぎてゆく。ああ、俺はここで死ぬのかもしれない、そう瞬間的に悟るが、俺に終わりは来なかった。しかし、浅雛は違った。呻きに気がついて岩の根元を見ると浅雛の足の上には巨大な岩が乗っていた。丁度隠れていた岩と転がり落ちた岩が重なり、間に浅雛が挟まれた形だった。岩の下からは血が流れ出していて、鉄の臭いが鼻に届いた。
俺を置いていかないでくれ、お願いだ。俺はそう言う浅雛に駆け寄ってその手を掴み、誰が置いていくかと慰めた。山の稜線に向けて下から這い上がる霧、上には得体の知れない化け物がいる。俺は、口では助けると言いながら早くこの山から逃げたくて仕方がなかった。山の上から何かの咆哮が響き渡る。俺は、俺は浅雛に背を向けた。浅雛が俺の足を両手でつかむ。止めてくれ、置いていかないでくれ、お願いだ。嫌だ、こんな場所に残さないでくれ。
「そうだな、お前は俺を置いて帰ったんだ。は、それだとおかしいか。だろうなあ。今の俺は足がある、幽霊でもない。でもお前は俺が死んだという。なぜだと思う? そう言えばお前、話は変わるが雪女の怪談知ってるか。有名だろう、狩人が雪女に出会い、助けられた時、雪女はこのことを誰かに話したらお前を殺しに行くよ、という怪談だが」
俺は恐ろしくなって浅雛の手を足蹴にし、振りほどく、と、同時に岩陰からそいつが現れた。黒い体毛が軽やかに踊り海の中の海草を思わせる。巨大な牙に真っ赤に燃えるような真紅の顔。ぼうぼうと息を漏らす大口。
「俺は言っただろ、お前が話さなければ幸せでいられると。いやあ、実際随分長くもったものだと思う。そうしたらどうだ、お前はすっかり忘れてしまっていたんだな。俺の事も、俺が食ったあいつのことも。あはは、そんな顔するなよ、思わず食っちまいたくなるじゃないか」
それが不意に飛ぶと浅雛の横に降り立ち、そのまま体に齧りついた。ああ、あの絶叫。浅雛が食われてゆくにつれその化け物の姿が人に変わってゆく。まるで長い、とてつもなく長い悪夢を見ているようだった。そうだ、そうだったのだ。
「ほら、思い出したか、お前にすがるあいつを、お前の目の前で食ったあの時のことを。ありゃあ傑作だったな。俺も、もう飽きたんだ、こいつを演じるのに。何も知らない猿だった頃が懐かしい、俺も食われたんだよ、猿だった頃にな。帰りたいんだ、山に。そろそろ終わりにしようじゃないか。ここにこなくてもお前、いつかは思い出していただろう、それともまた忘れられるか? お前だってここで終わったほうが幸せだろう。さあ、一緒に楽になろうぜ。大丈夫、お前にゃ恨みはないから、頭から齧ってやるよ」
裂ける口、破れた皮膚から黒い体毛がぞろりとのぞく。何もかも非現実的な中、蝉の声だけが唯一、現実だと教えてくれている。足が痛みを覚え、腰が落ちた。顔の前にどうしようもなく巨大な、赤い口が迫っていた。