帰宅
久しぶりに実家に帰る。そのつもりがなかったのに、そう決めたきっかけは、偶々友達が皆帰郷してしまったからだった。例年ならば帰らないのだけれど、流石に友人達が一人も残らず帰郷してしまうとなると私もさみしい。それに強引に帰ると言ってしまった手前、いまさら予定を変えられない。
たまには帰ってきなさいとうるさい両親も、なぜか今年だけ帰れと言わないのも気になっていた。兄が就職もせずに家にこもっているからだろうか、それともやっぱり、あの問題があるからだろうか。
思えば私は中学を卒業し、高校寮生活に入ってからというもの、大学に進学し、一人暮らしを始めても一切実家には帰らなかった。
学校生活は楽しいものだったし、特にホームシックにも駆られなかった。別に帰りたくない訳ではないのだけれど、ただ、家を出る前の体験が強烈すぎて、どうしても足を家に向けることができなかった。
その理由は迷惑な隣人が原因だった。私の実家は片田舎の団地の中にあった。あれは中学に入るか入らないかの頃だったと思う。
隣に新築された家に、荒崎さんという一家が越してきた。その荒崎さんがちょっと異常と言えるほど、ご近所に干渉する人達だった。
それも嫌な方向に、例えば少し音楽を流せばうるさいとドアを叩く、敷地を外から覗くと何を見ているんだと大声で叫ぶ、ゴミを出そうと家の前を通ると臭い臭いと顔をしかませる。何が気に入らないのか、とにかく荒崎さん一家は周りの家に食ってかかってばかりいた。
そのくせ人の敷地に勝手に入り込み、庭の野菜を盗んだり、押し掛け気味に夕飯時訪れて無理やり食事に入り込んだりもする。私はそんな厚かましく、迷惑をものともしない荒崎一家が大嫌いだった。
家族全員に共通するへばりついた嫌味な笑いと、人を見下したような視線が、余計いやらしさをかきたてていた。
いつしか耐え切れなくなった私の両親と兄が、荒崎一家と縁切り宣言してから、荒崎一家の迷惑行為が始まり出したらしい。私が家を出てからのことなので詳しくはわからないけれど、夜中轟音を突然鳴らす、車のライトを一晩中照らし続ける、生ゴミを庭に捨てる等の下らない嫌がらせを黙々と続けているそうだ。
家の両親も腹に据えかねて、市役所や行政機関に苦情を入れたりもしたけれど、事実上荒崎家の敷地で行われていることだからと何もしてもらえなかったのだとか。それが最近、一切親からも兄からも話題に出なくなってしまっていた。
考えてみれば数ヶ月おきに私の借りた部屋に訪れていた両親も、稀に遊びにきていた兄も、荒崎家の話を避けるようになってから全く姿を見せない。どうかしたのだろうか、それとも家族全員ノイローゼにでもなってしまったのかと心配になっていた。
だから今年は、友人達も居ないことだしと、久々に帰るよと電話をかけると、両親は今はいいから、しばらくそっちにいなさいと頑なに断ろうとした。これはおかしいと、私は話を聞こうとしない両親から兄に変わってもらい、無理にでも帰ると言い切って会話を終わらせ、実家に向かっていた。
電車とバスを乗り継いでバス停から十分、そろそろ実家の姿が見えてくる頃だ。長らく離れていた故郷の姿を目にすると、どうしても懐かしさがこみ上げてくる。
義務教育時代、通い歩いた通路での思い出、友達と話し合った何気ない会話の一部が、見覚えのある景色に触れる度に思い出された。そうして歩いているうち、徐々に実家が近づいてくる。路地を曲がると荒崎家が見えてきた。すると玄関先に人の姿が見えた。
私は立ち止まって息を吸い込むと、静かにその場を通り過ぎようとする。視線を向けてはいけない、そう思いながらついつい横目で見てしまう。するとそこには紙袋を頭にかぶった男性の姿が見えた。紙袋の表面が膨らみ、そしてすぐにしぼむ。余りに異常な自体を目にして足が止まり、一瞬時間の進み方が緩くなる。
再び目を合わせないように荒崎家の前を通過した。
泥で汚れきったスーツ、くたびれたワイシャツ、手には粘土質の土がこびりついた小さな移植ゴテが握られていた。
自然と足早になってしまう私、すると丁度男の正面に来たところで足がもつれ、転びそうになってしまう。アスファルトの上で硬い靴音が跳ねた。
「うごっ、かかか」そんな言葉にならない呻きを漏らして紙袋が震えた、スコップが地面に音をたてて落ちる。
震える両手の指がわなわなと震えていた。
こちらにその男が進もうとしている、そんな動作が始まる瞬間、私は道を駆け出して実家のドアをすぐさま開き、中へと駆け込んだ。
後ろではガシャン、ギギギと金属が擦りつけられるような音が聞こえたけれど確認しているような余裕はなかった。
ドアの合間に体を滑り込ませてすぐにサムターンロックを閉める。
「ああ、な、なんなの、なんなのあれ」そんな言葉が息切れの合間に溢れ出ると二階から走り降りてくる何者かの足が見え、体を強ばらせていると兄の顔が降りてきて目に入った。
兄は怒りと怯えが入り交じったような奇妙な表情で私の前まで駆け下りてくると、私の顔を見て一瞬驚き、そして安堵したように体から力を抜いた。
「なんだ、お前か」
「なんだじゃないよ。それにしても、あれ、何なの? 外、怖くて出られないよ」
私は少し安堵して息を整えるとそう聞いた。
「あれって、お前も知ってるだろ。荒崎のオヤジだよ」
「嘘、なんであんな格好してるの? あれも嫌がらせのひとつなの?」
「ちげーよ。あのオヤジ、去年くらいからイカレちまったんだ。お前は全然帰ってきてねえから知らねえだろうけどさ。あれはやべえよ」
「でも、なんで?」
「さあね、でもさ。正常なときよか迷惑はかけてねえかもな。もしかして、罪悪感があったのかもしれねえわ」
「ええ、でもそれならもっと早くにおかしくなったんじゃないの?」
「だろうな、心なんて無い、そう思ってた。でも実際狂っちまったんだから、何かしらあったんだろうな」
「あれ、ちょっと待って、大丈夫なの? ついてきてない」
「大丈夫、大丈夫。あいつ腰に縄がついててさ、外まで出て来れないから」
「でも、その割には兄さん、慌ててたじゃない」
「しょうがないだろ、お前が帰ってくるって言うから鍵は開けといたけどさ、あんな勢い良く飛び込んでこられたらおかしいと思うのが普通じゃん」
「あんなの見たら普通でいられないよ、もう、心臓止まると思ったんだから」
「そんな程度で止まってたら父さん達や俺なんて、もう何十回も死んでっから。ああ、余計なことで慌てて喉乾いたわ」
兄はそう言うと階段から離れ、キッチンの冷蔵庫に向かい、牛乳をグラスについで飲み始める。
私は混乱する頭の中を整理しきれないまま、家に入るとリビングのソファーに腰を下ろした。
変わっていなかった。ソファーにテレビの位置、置物の配置まで出ていったその日のままだ。
懐かしくてつい長い時間眺めてしまう。兄はそんな私の後ろについてくると、隣に座った。
「変わってないだろ?」
「うん、かわってないね。あの日のままだ」
「お前がこの家出てから、大変だったんだぜ、一時は家ん中も大変だったんだ。めちゃくちゃでさ、隣に引けを取らないゴミ屋敷みたいでな。でも、隣のオヤジが狂ってからは随分と片付いた。前ほど脅かされることもなくなったからな」
「あれ? そう言えばお母さんは?」
「ん、ああ、出かけてる。買い物に行くって言ってたからな」
「大丈夫なの? お母さん、大分参ってたんでしょ」
「良くはなかったな、それを言ったら俺だって同じだったさ。毎日毎日あいつら親子は馬鹿みたいに俺達の生活の邪魔をするんだ。人の家の玄関に糞をまき散らしたり、監視カメラ付けてみりゃすぐに壊す。家の中に設置すると馬鹿みたいに隠し撮りだ隠し撮りだ騒ぎ立ててな、わざと飼ってる犬を敷地に離して、勝手に入り込んでは人の家のものを拝借する、育てた野菜を踏み潰す、やりたい放題だ」
「そんなに酷かったんだ」
「酷いなんてもんじゃねえよ。ありゃあとても人のやることじゃないね。だから母さん参っちまってさ。隣のオヤジやババアの声、聞いただけでびくびくするようになっちまった。俺もみてられなくてさ、会社辞めて家にこもりっきりだ」
「ごめんなさい、知らなかった。知ってたらもっと早く帰ってたのに」
「いいんだよ。お前は知らなくていいんだ。今回だってお前が帰らないのが一番良かったんだから」
「でも、お母さん、ひどいんでしょ」
「最近はだいぶ良いんだ。前みたいに隣人が突然飛び込んでくることもなくなったしな」
「あれ、ちょっと待って。おばさんやあの大学生の息子さんは」
「大学生、はは、笑わせるよな。俺と同じ引きこもりの癖によ、大体何年大学行ってんだよあいつ。通信教育でもそんな長くならねえっての。それよりお前、大丈夫なのか。あいつのこと口に出しても」
「うん、もう随分経つし、いつまでも怖がってられないでしょ。それにこっちにいるの、少しだけだから」
私は中学時代、隣の息子さんにずっと覗かれていた。望遠鏡やカメラのレンズが怖くて仕方なかった。入浴まで覗かれたことがある。
「あいつ、また覗いてるかもしれねえけど。ババアに関しちゃ大丈夫だ。オヤジの世話でそれどころじゃないだろ。最初はお前らのせいだとかギャアギャア騒いじゃいたけどな。今じゃ静かなもんだよ」
「私の事気づかれたかな?」
「大丈夫だろ、そもそもあれじゃオヤジにも見えてねえだろうし。息子の方は最近じゃずっと部屋に篭りきりみたいだから。ババアの姿も見えないしな。心配なら帰った方がいい、暫く離れてたほうが安心だしな」
「でも、あれ、なんで知ってるの、それにあの紙袋なんなの一体、いつからああして立ってたの」
「ああ、俺さ、家にいる間ずっと確認してっから。双眼鏡なんかでさ、隣の家。オッサン朝から被ってるぜ。移植ゴテで土ほじくって用足ししてからずっとな」
「嘘、ずっとって何?」
「だって何するかわかんないだろ。万が一、家にはいられたらどうすんの? 今までだってやられてばっかだったんだ、それくらいの自衛は構わないだろ」
「でも」
戸惑う私の耳に玄関のドアを開く音が届く。びくりと体を震わせると兄の顔が不意に真剣なものに変わった。じっと玄関の方角を見詰める。
すると、柱の向うに黒い髪が覗いた。ボサボサで纏まりのない髪が徐々に増えていき、前かがみの状態の女性だとわかる。やがて首から後ろが現れ、全体像が映る。灰色ストライプのチュニックに黒色のパンツ。
やせ細ろえた枝のような腕と脚、その先に白さが際立つ手袋、共に靴下が音を立てずに床の上と空中に伸び、するりと進んだ。私は恐ろしくて声を失っていると不意に兄が声を上げた。
「なんだ、母さんじゃないか」
「え」
兄の声に反応した首が面を上げる。血走った目が覗き、私と兄の間を行ったり来たりするうちに、焦点が徐々に定まり、今までの事が嘘だったように気がついたら目から赤が抜けていた。
纏まりのない髪が艶を取り戻し、日本人形のような整った髪に変わっている。そんな馬鹿なと思いつつも、確かに目の前の女性は私の母だった。
「あら、あなた、いつ帰ってきたの。全く、戻ってきちゃダメっていったじゃない」
「そうなんだよ母さん。こいつ、急に頑固になるんだから、そのへん変わってないよな」
「だめよ、変わらないことばかりじゃない、まだ安心できないんだから」
「そうだよな。やっぱお前帰ったほうがいいって。あ、俺そろそろバイトの時間だわ、じゃ、またな。泊まるのはいいけどさ、あんまり長居しない方がいいぜ、ほらあの息子の方もいることだし」
兄は手短に母との会話を終わらせるようにしてすぐに母と入れ替わりで家から飛び出していってしまった。母は台所に向かうと冷蔵庫から何か取り出して調理を始めた。
私は今日、目の当たりにした事に未だ実感が無くて、顔を伏せてしまった。
「全く、あなたと来たら。最近ずっと顔を見せなかったくせに、こんな時に来るんだから」
「ごめん。でも私、ちょっと心配で。最近お母さんもこっちに来てくれなかったし。大丈夫かなって」
「あら、心配してくれたのね。でも大丈夫。あの人もお兄ちゃんも良くしてくれるから、近頃じゃ心も体も取り戻してるのよ。あんな人達に負けてられないの」
「でも、お母さん随分痩せたね」
「そうかしら、でも、太りすぎているより良いでしょ」
背中を見つめていると良くこうして母が食事を作るのを見ていたなと思い出す。良かった、やっぱり変わらない、私の母さんだ。
きっと疲れてるんだ。あんな異常な光景を目にしたせいで、どうかしていたんだ。どうしてだろう、体がどっと疲れを感じているみたいだ。まな板の上でリズミカルに踊る包丁の音が私に家に帰ってきたんだ安心していいんだと思わせてくれる。安堵してついうたた寝しそうになる。
すると唐突に包丁の音が止んだ。私は立ち上がり、母の背中に近づく。まな板の横に置かれた母の手の指が、血で汚れていた。脱ぎ捨てられた手袋には赤黒い血が付着している。
「お母さん、どうしたの?」
「お母さんね。あの人たちを説得するのに疲れちゃったの、諦めちゃったのよ、だって、良くならないんですもの。悪くなるばかり、それどころかお母さん辛くなっちゃって。だから、かけることにしたの」
「かけるって、一体何を?」
「呪い」
「え」
「呪いよ、呪い。知ってるでしょう、だからねあの旦那さん、随分といい顔になったでしょう? おかしいわよね、私だって随分と苦しんだんだから、同じくらい苦しい目にあってもらわないと、おかしいでしょ。でもね」
そこから先の母の言葉が理解できなくて、体に追いついてこない。言われていることは解るのに現実の事なのか、確証が持てなかった。だから頭で理解しようとしていても言葉が入ってこない。
「ちょっとお母さん」
「帰りなさい」
「まだ何もしてないのに帰れないよ。お父さんも見てないし」
「お父さんも頑張ってるの、でも大丈夫。あなたがこの家に帰るのはまだ早いわ、終わってないもの。まだ戻らないのよ。あの頃にはまだ戻らないの。駄目じゃない、また壊れてしまう、壊れてしまうもの」
震え出した母を前に私は後ずさりし、横目で玄関を確認する、と、階段下の物置の扉が見えた。中には血に汚れた包帯が何枚も重ねられて押し込まれている。そう言えば、兄は母は買い物に行ったと言っていたけれど、その手には何も持っていなかった。ただ手ぶらで帰ってきただけだ。
「だめよ、今はまだだめ、帰る時じゃないの。わかってちょうだい」
何かがまな板から滑り落ち、徐々に母の声が小さくなり、抑揚がなくなってゆく。
滑り落ちた写真を数枚確認し、母が全てを語り終える頃には私の震えは消えていた。振り返る前にキッチンから出ていた。玄関に向かい、扉を開けると外はもう日が傾いていた。夕焼けに路面が照らされて赤く燃えている。玄関を振り返ると母が笑いながら顔をのぞかせた。
「気を付けて帰るのよ」
ぼんやりとしている私をよそに、それだけ言うと、薄く開いた扉から手袋をした手が振られ、そのまま家の中へと消えた。
か細い声が風に運ばれて耳を打った。隣家に目を向けると頭の紙袋が消えて、虚ろな目をした中年男性が立っていた。
まばらに残る髪、こけた頬に申し訳程度に伸びる白黒の髭、既にかつての面影はもう残されていなかった。
茶色の液体を口から滴るままにして眼球だけは忙しなく動かしている。私を確認すると、暴れだし、走り出そうとする。けれども腰に結ばれた縄が私にたどり着くのを邪魔していた。
竦む私の前で彼は崩れ落ち、不意に泣き出したと思うと怒鳴り始める。
「ごべんなざい、違うんです。もうやべて、もうじないから。だずけでだずげてくだざい」
私はもう二度と家を振り返らず、隣人の目の前を走った。
ひと月後、荒崎一家が父親の無理心中に巻き込まれて死亡したとのニュースが流れた。ガソリンをかぶり、一家を家ごと燃やしたのだという。腑に落ちないことばかりだけれど、私はどこか安堵していた。母はあの時確かにこう言っていた。あの時の記憶を思い出し、反芻した今ならやっと頭で納得できる。
「呪いなんて効かなかった、だから私達、交代で懲らしめることにしたの。爪を履いだり、包丁で切りつけたり。ああ、あの悲鳴、全くなんでもっと早く気がつかなかったのかしら。あんな人達、居なくなったって誰も気にしないのに」
私は、家族が捕まらなかったことに安堵しているのか、それとも荒崎一家が死んだ事に安堵しているのか。どちらにしても、心の底で隣の息子さんが死ぬほどの苦痛を受けたことを知って、私も喜んでいる。
私は何もしていないけれど、やっぱり家族なんだ。
あの写真、椅子に座らされ、苦痛に歪ませられた顔。家族で共有された秘密、今はもう気兼ねなく帰れそうだ、そして次は家族で愉しい時間を共有できたらと、そう思っている。