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夏の終わりに  作者: 黒漆
3/13

夏のあわい

 ――遊ぼうよ、僕んち、どうせ親の帰り遅いから結構暇なんだ。だからさ、なんにも心配しなくて良いんだよ。


 ――そっか、私んちも同じ、お仕事大変なのかなあ


 ――おんなじかあ、仲間だね。じゃあさ、しばらく一緒に遊ぼうぜ




 「なんで捨てたの? 最後の一枚だったのに、なんでそんなことするの」


 私の頬に平手が飛んでくる、ゆっくり、ゆっくりと。私は当たると解っていながら避けなかった。衝撃がつたい、頬が熱くなる。自然と涙がこぼれ落ちた。


 「隠し事なんて許しません。あなたは私の言うことを聞いていればいいの。なんでわかってくれないの、あなたのためなのよ、まったく」


 母の言葉を最後まで聞かないうちに私は部屋まで走る、もう嫌だ、こんな生活。どうしてこうなってしまったんだろう、なんで私はこんなに我慢しなければいけないんだろう。少しだけれど親に内緒でアルバイトをして貯めたお金が部屋にあった。あれを持ってもうここを出よう、絶対にもうこの家に帰らない。




 ――茶色に汚れた床や机、ゴミ袋が散らかった部屋。嫌な臭いのする食べ物がそんなゴミ袋の中に混じっている。僕はそのゴミの中をあさって賞味期限の切れていないお菓子を拾い上げた。もう、長い間お母さんの姿を見ていない。


 こんなことは珍しくなかった。短くて二、三日。長くて一週間、お母さんは帰ってこない。帰ってきても夜の遅い時間に一瞬だけ、僕が気がついて追いかけてもドアを閉められて追いかけられなくて、すぐにどこかへ行ってしまう。


 お母さんは意地悪だ。ドアの後ろにパンやお菓子の入った重い袋を置いて、僕が気がついた時にはいつも間に合わない。声が聞きたかった、お母さんと話したかった。僕にはお話できる相手が誰もいない。だから僕はいつも一人だった。

そんな僕にも友達ができた。家の近くの公園に遊びに行った時、男の子と女の子の兄弟に会った。僕達はおんなじだった。僕にお父さんはいないけど、その子達のお父さんやお母さんも二人の相手をしてくれていなかったから。


 僕達は毎日公園で遊んだり、僕の家で遊んだりしていた。一人で遊ぶより三人で遊んだほうがずっとずっと楽しかった。けど、ある日僕達が家で遊んでいる時に、昼間なのにお母さんが帰ってきた。


 お母さんは靴を見つけて、友達の二人を追い出して僕に怒った。


 「あんたに友達なんて必要ないでしょ、部屋から出ないで。ここで大人しくしてなきゃだめ。じゃないとあんたの父親みたいになるよ」


 大きな声でそう言って僕をぶった。でも、僕は泣かなかったんだ、僕は嬉しかった。お母さんの顔を見られた、お母さんと話せた、それにお母さんに触れられたから。だから僕はお母さんにしがみついた。もう呼んだりしないから、お母さん、僕のそばにいてよ、もう悪い子になんてならないから。僕を見捨てないでって。


 「離れて」そう言われて僕が離れると、お母さんは僕の頭をなでて、大丈夫、ごめんね。じゃあいい子にしてて。待ってるのよって言ってまた出かけていった。


 それきり僕はもう二週間もお母さんとあっていない。あれから毎日家から出なかったのに。あの子達に呼ばれても返事もしないで約束を守っていたのに。あの子達が来なくなるまで我慢したのに。だから僕はお母さんを探しに町に行こうと思ったんだ。だって、このままじゃ寂しいよ。





 じりじりと地面を焼いていた太陽が、山の稜線に足を伸ばし始めていた。私は母と大喧嘩してなけなしのお金の入った財布を掴むと、ジーパンにTシャツと言う家着そのままで家を飛び出し、あてもなく道を歩いていた。走って飛び出したからか、滲んだ汗が髪に絡んで額に張り付き、苛立ちが募る。


 いつだってそうだった、私の意見なんて一つも聞こうとはしなかった。出てくる言葉はこれはあなたのためなのよ、私の言うことを聞いていれば間違いないの、なんであなたはそうなの、どうしてできないの。

ずっとずっと私はお母さんの言うことを聞いてきた。どんな理不尽な言い分でさえ仕方ないと思って、それで喜んでくれるのなら、平穏に過ごせるのならと我慢してきたのに。


 隠していた家族の写真、最後の一枚を勝手に捨てられてしまって、私はどうしても素直になれなかった。両親二人と弟、それに私。幸せだった頃の思い出を映した最後の一枚。父と弟との最期の繋がりが途絶えてしまったみたいで悲しくて今はただ、何も考えたくない。この熱が冷めるまでどこへともなく旅にでたかった。


 陽の光が斜めに傾き、家並みの影が伸びる、もうすぐ夜だ。なぜかこの時間の街を歩いていると幼い頃を思い出す。一日の終わりが近づいて、どこからか夕飯の食べ物の香りが漂ってくる。弟を後ろに連れて歩きながらまた明日、そんな挨拶をして友達と別れた幼い頃の記憶。


 ぼんやりとその頃の記憶を頭に浮かべて歩いていたら、街並みはいつの間にか見たことのない景色に変わっていた。


 木の塀が並び、その上に瓦屋根が波打っていて、小さな煙突がどの家からも伸びていた。見れば煙突からは薄い煙が漂い始めている。あれ、こんな場所この街にあったかな、そう思っていると向こうから自転車に乗ってやってくるおじさんの姿が見えた。


 ハンチング帽に黒いベストの下に白いシャツ、茶色のズボンを履いている。顔は何だか帽子に隠れていて良く見えない。私がそのおじさんが隣に来るのを待って話しかけようとすると、光の加減か、なんだかその姿が滲んで見えた。


 「すいません」そう声をかけると、おじさんは「うあい」と変な返事をして自転車を止まると私にふいと顔を向けた。


 「あい、なんだねお嬢さん」


 そう答えたおじさんの顔は、目鼻口があるべき場所に無かった。顎と額に目が一つづつ、鼻は頬についていて口は顔の真ん中を裂くようにして居座っていた。更に何かが足りない、そう感じて、考えてみるとおじさんには影がなかった事に気がつき、体が震えた。


 ひっ、と私が声を上げると、おじさんは帽子をとって笑い出し、


 「ははあ、あんた新入りだねい。ここはあわいだよ、夏のあわい。紛れ込む新入りを見るのはひっさしぶりだねい」


 そう言って私に何かを見せようとその手を差し出す。


 その手には何か光の球体のようなものが乗せられていてそれをおじさんは指で掴むと私に近づけて見せる。


 「これ、なんに見えるね? わかんないかねい。まあいいや、俺もわかんなくなっちまったんだよねい、困った困った。ま、あれだねい、お嬢さんは市に行くといい。この道をまっすぐ行けばたどり着けるから、まあ、どっちにしろそこに足が向く。お嬢さんは思い出せるといいねい」


 そう言って硬直する私の肩を二回ほど叩き、再び自転車に乗って行ってしまった。


 塀の奥に消えていく自転車をぽかんと眺めていると地面に伸びた私の影が、その手を伸ばして手を振った。


 あれ、そう思った頃には足から影が離れたと思うと両脇の塀の影に飛び乗って、踵を返して走り出す。私は慌てて振り返ると稜線に足をかけた夕日がまだ、そこに居座っていた。


 どうして、そう考える暇も無く、私は影を追い始める。もし見失ってしまったら、なんだかまずい気がしたから。




 ――僕は部屋から出て町の中を走り回った。多分太陽のある方へ行けばお母さんに会えるんじゃないかって思って。ずっとそっちに向かって歩いた。のどが渇いても、泣きたくなっても僕は大人になんて頼らなくったって大丈夫。


 途中、大きなひまわりを見つけた。それってとっても大きくて太陽みたいだった。だから僕はそれに近づいてみると、道の向こう側にもずっとひまわりが咲いていた。灰色のブロック塀の上にひまわりの顔がいくつも、たくさん並んで太陽を見てた。僕はなんだか嬉しくなってひまわりの横をずっとずっと歩いた。


 きっとその内お母さんに会える。そんな気持ちもいつのまにか忘れて。


 そうしているとおじさんにあったんだ。面白顔のおじさんは僕に風船をくれた。この道の奥にもっと楽しい場所があるよ、そう教えてくれたんだ。


 僕はおじさんにありがとうを言って別れると、僕の影が勝手に動いた。影がふにゃふにゃになるとすぐにお母さんの形に変わった。僕は驚いて風船を手から放しちゃったんだ。お母さんの影が走り出して、同時に風船も風に流されていく。


 僕は両方追いかけたくて、でもどうしようもなくて、風船を選んだ。だって、お母さん僕のこと嫌いなんだ。本当はそう思いたくないけど、ずっと楽しい場所があるならお母さんなんていらない。だから僕は風船を追いかけた。


 風船は色んな色に変わりながら僕を案内してくれた。




 奥へ奥へ、影を追って走るうち、だんだんと両脇の塀が高くなってきていた。いや、違う、私の背が縮んでいるんだ。どんどんと周りの景色が大きく感じられていき、自分の手足が短くなってきている。長く伸びた髪も、大きく成長した身長も、広くなった手のひらも全てがあの頃、少女時代の私に戻っていた。もう塀の上に見えた家並みも、空に棚引く煙の姿しか見えない。


 そんな私に構もせずに元の体の影は行く。塀が途切れる、その縁の向うに広場が見えてきた。赤や青や黄色や緑、極彩に彩られた提灯が紐に吊るされ、広場の空を彩っている。その下には数々の屋台が立ち並び、ごった返す人の群れが夕日の下で蠢いていた。それ自体何の変哲もないはずが、違和感だらけだった。人が普通では無かったからだ。


 人々の頭の位置には水風船、飴玉、焼きいか、焼きそばなどが居座っていて本来あるはずの顔がない。


 私はそれに目が奪われてしまい、見とれているうちに影に逃げられてしまった。


 「うん、新入りかな」


 背中側から声がする。私はびくりとして振り返ると目の前にねじりあめ頭の男の子が立っていた。長細い飴の中にはどう考えても人の頭は入らない。それなのに体は普通の人間の体だ。


 よく見ると捻られた二色の飴の間に小さな口がついていた。同じように薄く開く目が白と赤の間に開いている。不思議とその目に何か見覚えがある気がする。なんだか余りに現実感が無くて笑ってしまった。


 「へえ、君。僕を見ても逃げないんだ。殆どの奴って僕らの姿を初めて見ると逃げ回るんだけどなあ。その上笑うなんていい度胸してるぜ。でも、近頃、まともな顔にあってなかった、久々に普通の顔ってやつに会ったよ。ここじゃあ珍しいから、君、気をつけたほうがいいぜ」


 怖くないなんてことは無かった。だって今も足は震えている。私は悲鳴を押し殺して無我夢中に聞いてみた。


 「一体何なの? ここってどうなっているの?」


 私の質問に彼は少し笑うと答えてくれた。


 「君さ、どこかに行きたいって思っただろ。ここじゃあないどこかに、誰にも見つからない場所に行ってしまいたいってさ」


 「え、確かに思ったけど」


 「そういうこと、思う奴って君だけだと思う?」


 それってもしかして、この男の子も元は普通の人間だったって事だろうか。私はなんだか不安になった。


 「それって、じゃああなたたちもそう思ったことあるって、そういうことなの?」


 「そうだよ、僕らはさ、元いた世界から逃げてきたのさ。この終わらない夏の世界にね」


 やっぱり、なんでこんな姿になってしまったんだろう。


 「どうして、どうしてそんな顔になっちゃったの?」


 「どうしてだろうなあ。僕もわからない、でもね。ここに長くいると顔を忘れてしまうのさ。自分の顔がどうだったかなんて些細な問題になる、だからかなあ、おっと」


 男の子は不意に私の手を握るとぐいぐいと引っ張り始めた。私は驚いて体を強ばらせる。すると男の子は私の耳にその顔を近づけて小さな声で言った。


 「後ろ、ちょっと見てみなよ」


 私が少し後ろを覗くと私の後ろに人だかりができていた。金魚頭、大判焼き、焼きもろこしに歪な目鼻がめり込んで、それが私の顔をのぞき込もうと手を伸ばす。


 体が瞬間的にほぐれて男の子に引っ張られるままに広場から駆け出す。いつの間にか両脇の道があの塀ではなく、青く茂る高い生垣に変わっていた。




 ――風船を追いかけていたら広場に流れ着いた。美味しそうな食べ物の匂いが僕の鼻をくすぐった。僕はすぐに駆け出してお店の並ぶ道に入り込んだ。大人の体の隙間をぬけて店の前まで行くと、焼きそばや丸い大きな飴が並んだ店を眺めた。


 みんな頭が面白い形をしてたけど、僕はなんだか楽しくてしょうがなかった。店番のたい焼き頭のおじさんを前にして、白と赤の綺麗な飴を眺めていたら、ひょいと僕に渡してくれた。


 僕がそれを舐めると、とっても幸せな気持ちになれたんだ。なんだか嫌なこと、寂しかったことが全部忘れられたみたいな、そんな気持ちに。それで道を行き来して沢山食べ回った。みんな優しくて僕にただで食べ物をくれるんだ。


 でも、それが悪かったのか急に焼きそばみたいな頭のおじさんに後ろから捕まえられて檻の中に入れられちゃったんだ。


 それから、布みたいな家の中で檻に入れられた僕を沢山の人が見に来た。赤や黒の金魚頭、オレンジや青の火花をちらした花火頭の子供達、沢山のビー玉や大きな風鈴頭の大人。みんな僕を見て珍しがってた。


 「バカみたいな顔、私たちもこんなかおしてたのかしら」


 「珍しいなあ、懐かしいなあ」


 そんな事をみんな言っていた。不思議とお腹が減らなくて、どのくらいそうしてたのかわからないんだけど、時々僕、あの部屋に帰りたくなるんだ。


 そうすると誰もこなくなって、布の隙間から影がやってくる。僕は影を見てお母さんの顔を思い出した。叩かれた時のお母さんの顔、少し泣きそうな怒っていた時の顔。


 影が檻に近づいて、僕に触れようとすると、焼きそば頭のおじさんがどこからか現れて、だめだよ、って言うんだ。忘れちゃえばずっと楽しいままでいられる、そうすれば檻から出してあげるよって。


 檻の扉を開けてそういったんだ。迷っていると影がゆらゆらして少しして消えちゃう。そうするとおじさんに檻を閉じられてしまう。そんな事を何度も何度も繰り返してると、少しずつ影が薄くなっていっちゃった。


 その内僕はどうしてもお母さんの顔が思い出せなくなって迷わなくなった、だから僕は檻から檻から飛び出した。そしたら影は何にも残さないで消えちゃったんだ。


 体がとっても軽くなって頭も何だかすっきりした。触ってみると僕の頭、長細い形に変わってた。焼きそば頭のおじさんもいつの間にか僕と同じ体の大きさに変わってて、これで僕達ずっと友達でいられるって握手してくれた。ずっとずっとそれから海で泳いだり、花火をしたり、店で食べ物を食べたり、売ったりして遊んでた。


 空の夕日はずっと沈まなくて、とっても綺麗で辛いことなんて何もなかった。この場所のことを教えてもらって一緒に遊んで、それからどれだけ過ぎたのか、僕もわからなくなってた。新しい仲間も何人も増えた。


 この夏の市の外を歩き回る大人は仲間じゃないとも教えてもらった。光の玉を持った大人が増えると秋がやってくるって友達達は言っていた。


 ある日、見たことのある女の子が広場の前で立ち止まってるのを見たんだ。名前を思い出せないけど、どこかであった気がしてた。




 生垣の上には空しか見えない、青とオレンジが綺麗に混じり合う空の中を、風にあおられた鯉のぼりのような魚型の布が、ひらひらと何枚も泳いでいた。


 めまぐるしく変わる景色に眩暈を覚えながら私は男の子の手を必死に離さないように握り締め、ひたすら走り続けていた。少し苦しいながらも、不思議と息が上がらなくていつまでも走れていられた。


 しばらくすると前を行く男の子の頭の形が変わり始める。雨の棒が伸び縮みしたかと思うと短い髪が伸び、耳が飛び出した。


 「戻ってる、頭、戻ってるよ」


 私がそう声を出しても彼は走るのをやめない。その内息切れが始まるとやっと立ち止まった。私が恐る恐る後ろを振り向くと、後ろには何もいない。ただいつまでも終わらない夕焼けの空がいまだ続いていた。


 「よし、もういいかな」


 その声に釣られて振り向くと、そこにはデタラメの顔が待っていた。やっぱり普通じゃないんだ。目が顎に、口が額に浮いていた。


 「そんな目で見ないでくれよ、慣れてないんだよな、この顔見られるの。なんていうか、そわそわするんだ。思い出しちゃあいけないこと、思い出しそうでさ」


 そう言って男の子は右頬についた鼻をすすった。私はありがとう、と一言その男の子に言った。彼は照れくさそうに笑うと、こっちに来て、と私の手を引いて歩いた。




 ――僕はその女の子がなんだか可哀想って思えた。ずっとそんなこと思ったことなかった。忘れていた気持ちだった。他のみんなに見つかったら駄目だって、なんだかそう思ったんだ。だから女の子を連れてとっておきの場所に連れていこうと思ったんだ。


 ここは一度行った場所なら、行きたいと思っただけで遊びに行ける。だから僕達は海につくと二人で遊んだ。女の子の整った顔を見ていると、何だか少しあったかくて、胸の奥がかゆくなるような、そんな感じが体の中でじわじわ溢れた。僕は思い出しちゃいけない事を思い出しそうといったけれど、それはこの女の子に見つめられていたからだ。


 蝶を追いかけて、木の裏に隠れたり、砂山を二人で作って崩したりしていると、ずっとずっとこのままでいたいと思えた。けど、女の子はそうじゃなかったみたいだ。




 やがて、垣根の向うに海が見える。急に視界が開けて砂浜が広がった。夕日から逃げていたはずが、海の水平線の向うに卵の黄身のような太陽が構えていた。白や紫、黄色や赤、二枚の羽を羽ばたかせた色々な蝶が私達に気がついて地面から飛び立った。


 いつの間にか男の子の頭がスイカになっている。けれどもそんなこと、気にならなくなっていた。


 松林が浜の両脇に構えていて、そこから蝉の鳴き声が響いている。私達はそこで隠れんぼや鬼ごっこなどをして、何もかも忘れて遊んでいた。


 どれくらいそうしていたのか、わからないけれど、松を眺めて男の子と話をしていると急に焦燥感がわいてくる。そうだ、影、私の影は。それに、そろそろ帰らなきゃ。どこに? 忘れかけている。でも、帰らなきゃ。私は呟いていた。


 「帰らなきゃ」


 「帰るの? ここでずっと遊んでればいいじゃん」


 私はごめんねといって目をそらし、この子ならなんとかしてくれるかもしれない、そう思って影の行方を聞いてみた。


 「あのね、私、影を探してるの。ここにきたら影が逃げ出しちゃって」


 「え、影、影かあ。あれ、ちょっと待って、そうだ、うん、知ってるよ。僕の時もそうだった、そうだったんだ。でもそれ、追いかけていってあの広場で奴らに捕まっちゃったんだよな。それで見世物小屋に連れて行かれて」


 男の子がそこまで答えると、遠い空から鐘の音が鳴り響いてきた。私が音に釣られてそちらを見ると、焼きそば頭がそこにいた。大きな体、それは筋肉質な大人の体を持っていた。焼きそばがウネウネと動き、その下に赤で口が開いた。


 「ああ、これは良くないなあ。良くないよ」


 そう言いながら焼きそば頭が男の子の顔を殴る。吹き飛んだまま男の子は動かなくなってしまう。


 私は声にならない悲鳴を上げながら動けずにいた。そしてそれは両手で私の体を掴み、抱え上げた。私がどれだけ暴れてもそれは手を離そうとしない。あの男の子を助けたいのに小さな体じゃどうにもならなかった。


 男の子の体が遠ざかっていく。私はこれからどうなるんだろう。そう言えば、男の子は確か、見世物小屋とか言っていなかったか、色々なことが頭の中で巡っていたけれど、私にはこの硬い指をどうにかすることはできなかった。


 何かが頭の中に引っかかっていた。私はなんでこんな所に迷い込んだんだろう、どうして、一体何から逃げていたのだろう。必死で周りの景色に視界を巡らせると、垣根の影から何かが飛び出した、影だ。私の影、見覚えのある姿が今度は私を追いかけていた。


 「駄目駄目、だめだ、忘れなきゃ駄目。折角きたんだから、遊んでいよう。楽しいことばかりだよ、ここは。楽しいことばかり」


 焼きそば頭の体が震えていた。なぜだろう、あの影が怖いのだろうか。するとどういうことなのか、あれ程大きかった焼きそば頭の体が小さくなってきている。私はここぞとばかりに暴れると指が外れた。


 「駄目なんだよ。怖いのに、それに触れたら怖いのに」


 焼きそば頭がいつの間にか男の子に変わっていた。相変わらず目鼻がめちゃくちゃだけれど、体は普通の男の子。私の影が男の子に近づくと、ひっ、と声を上げて駆け出して逃げていった。


 影は私の成長した姿から別のものに変わっていた。それはどこか懐かしくて、恐ろしくて、それでいて胸が苦しくなるような、そんなものの姿をしている。喉の奥からその答えがでそうで、それでいて出てこない。でも私は目を逸らさなかった。何故か、目をそらしたら見失ってしまう気がしたから。


 するとどうだろう、さっきまで遊んでいた男の子が私に向かって走り寄ってきた。そして影を見て、驚いて膝を落とした。


 「これ、駄目だよ。なんでこんなとこに、終わっちゃうよ。こっちでさ、遊ぼうよ。まだ沢山、楽しい場所があるんだ。こんなとこよりもずっと楽しいところ」


 男の子はバラバラの、泣きそうな目でそう私に言う。


 目の前の影が薄くなり始めていた。私は迷っていた、何故だか影を見捨てられない、ここで別れたらもう、ずっと影に会えない、そんな気がしていたから。だから私は足を踏み出して影に触れた。


 「何だよ、もうちょっとで忘れられたのに、なんで辛いこと思い出そうとするのさ。ずっとずっと楽しいままでいられるのに」



 男の子の姿が黒い炭の姿に変わっていた。目鼻口ばかりが鮮明な人型の真っ黒な炭。景色が水の流れのように押し流されて太陽のもとへと流されていく。垣根も、その上の家並みも全て。



 私は思い出していた。母の事、事故で亡くした弟や父のこと。そして幼い頃に行方不明になった初恋の相手、その男の子の事を。


 私は彼の名前を口にした。


 すると目の前の炭人形の顔が、形を戻した。バラバラだった目や鼻が元の場所に戻る。その顔はとても驚いている風で、その表情のまま固まっていた。手にはあのおじさんが持っていた光の球体がいつの間にか握られている。


 瞬間、男の子もろとも景色が押し流されて、目の前から消え、気がつけば私は公園の空き地に立っていた。何の変哲もない空き地。空はオレンジ色に染まっている。少し肌寒い風が私の体を優しく撫でた。



 私がそのまま家に帰ると、目を真っ赤にしたお母さんに泣きつかれた。どうやら私が姿を消してひと月が経っていたらしい。私には全くそんなつもりはなかったけれど、お母さんも少しは懲りたらしい。拘束が少しは緩まればいいのだけれど、暫くはそれも望めそうになかった。


 家族を思い出すと辛くなるから捨てた、そう言いながら自分自身も数枚、写真を隠し持っていたそうだ。私の写真は捨てたのではなく隠しただけだったみたいだ。



 あの日から私は毎日新聞を覗いている。どこかに私の初恋の男の子、その子の名前が載るんじゃないかと思っているからだ。夏の日に出会って公園でよく遊び、ある日から唐突に姿を消したあの男の子の名前が。


 私は確かに聞いたからだ、彼が最後に私の名前を呟く瞬間を。



 ―― 一緒にここにいることは断られたけど、僕は女の子を助けてあげたいって思った。だから友達の焼きそば頭のおじさんからも守ろうとしたんだ。その内影がやってきた。影が触れたら女の子が取られてしまう、そんな気がして僕は思ってもないことを言っていた。


 けど、女の子は影を選んで、そうして、名前を言った。僕の名前だ、なんで忘れていたんだろう、僕の名前、彼女の名前、それに彼女の弟、お母さん、町の名前、住んでいた場所。女の子の名前を思い出して、それを言うと僕の胸から光の玉がこぼれ落ちた。


 それはなんだか暖かくて、眺めているとあの公園で遊んでいた頃を映し出していた。女の子はいつの間にか僕の前から消えていた。まだ、山の向こうには夕日が沈んでいない。


 僕はまだ自分の顔を思い出せないけれど、この夏の終わらない町から出たくて、あの自転車のおじさんと一緒に、少しずつ歩き始める。いつかここから出て、あの女の子に会える日は来るだろうか。


 終わらない季節なんてない、そう思うと冷たい風が頬を撫でた気がした。



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