みなそこにしずむ
「お前、もう潜らないほうがいいよ。俺達だってそうしてるんだ、どうしてこれだけ言っても止めてくれないんだよ」
「止められないの。海の中で肺が小さくなる瞬間。海流に体がなじみ、一体になれた時のあの気持ちよさが、どうしても」
「それだけじゃないだろ、見られたんだろ。俺の親父も呼ばれたんだ。あいつに呼ばれたんだよ。解ってくれ、俺、心配なんだ」
海に出る少し前のやり取りを思いながら深く深く潜る。次第に気泡と共に思考は溶けていき、真っ白に変わる。足先を伸ばし水をかき、体を水流になじませて。岩の合間に沈み込む、朧気な影が佇む海底、底に沈み落ちるグランブルー。
体をくねらせて下へ、下へ。痛みを感じ、耳に力をいれ唾を飲み込む。重なる岩礁の隙間に見えてくるものがある。
巨大な構造物の影、朽ちかけた木の切れ端、腐食した金属の影。回遊する魚達が構造物の影から現れ、私の体を掠めて泳ぎ去っていく。もう少し、もう少しであれが見える。
船の下から吹き上がる泡、吹雪のような白い気泡、駄目だ。あれはきっと悪い夢、そうに違いない。脳裏に苦しげに首を押さえ、暴れる人の顔が思い浮かぶ。私はその考えを振り払い、真っ白な思考に戻す。
船底の鉄板のすぐ脇、そこにある四角い何か、それは一抱えほどの木箱だった、私達の夏の思い出を詰め込んだ木箱。あの遠い夏の日に、別れと共に沈めた思い出の木箱。それ以外を視界に入れず、集中し、触れようと指先を伸ばす・・・・・・
「魚になりたいって思ったことない?」
日に焼けて真っ黒になった顔でりっ君が言った。私はどちらかというと鳥になりたかった。魚なんて海の中にしか居られない、けど鳥ならどこにでも飛んで行けるし、きっと両手を羽ばたかせるのだって泳ぐのよりずっと楽しいはずだ。
「そうかな、私は鳥になりたいな」
「鳥かあ、まあ、空飛べるのも悪くないか、けど、俺はやっぱり、魚になりたいなあ」
「なんで、なんで。僕はね、ロボットになりたい。だって強そうでしょ」
りっ君の弟の翔君が続けてそんなことを言ったので私達はみんな、笑ってしまった。
「馬鹿だな、こんな場所でロボになったら錆びて動かなくなるぞ」
「いいんじゃない。面白いじゃん、あたしは好きだけどな」
祐君とみさちゃんが笑いながらそんな風に言葉を返す。海岸に長い時間放置された漁船、それが私達五人の秘密基地だった。夏休みが始まるとみんな好きな時間に基地に遊びにきて、勝手気ままに時間を過ごす。小さな船だけど私達には充分な広さだった。船室には持ち寄ったおかしや本、それに沢山の玩具が放り込まれていて、そこで私達は一日中を過ごした。
「お前知らないだろ。海って広いんだぜ、だって地球ってほとんど海だろ、陸地なんて半分もないんだ、だったら魚の方が得だろ」
「ええ、そうかなあ。だって海の中ってみんな景色おんなじじゃない?」
「いや、そうでもない。日本海側と太平洋側じゃ、全然違うよ」
「お、やっぱり祐はわかってるなあ。女ってロマンってやつがわからないから」
「ロマンってどういう意味なの、僕、わかんないよ」
「お前はまだ子供だからわかんないんだ」
「あはは、でも確かによくわかんないな。その場合のロマンってどういう意味なんだろ。まあ僕もさ、海は好きだよ、ここに住んでて海嫌いな奴、いないでしょ」
「私はあんまり好きじゃないな、だってなんだかべたべたするでしょ」
「うーん、佐奈ちゃんは都会育ちだからそう思うんじゃない、ここで生まれたあたしたちはそれが普通だから、嫌だと思わないなあ。潮風って涼しいし気持ちいいじゃない」
あの夏の日、特別だった夏休みの中でも、忘れられない一日。私は数日前から叔母の家に泊まりに来ていた。数年前からの決まり事、両親は仕事が忙しいので家に居ないからこそ、私は毎年叔母の家に厄介になっていたのだろう。夏休みが終わる頃には、私の体も真っ黒に様変わりしてしまう、実際私はこの夏の時期だけの特別な休暇を楽しんでいた。
都会にない静けさと、動物の鳴き声、自然から生み出される音が新鮮で、写真のように焼き付いたあの頃の何気ない毎日、今でも鮮明に思い出せる。長い夏休みはまだ始まったばかりで、この暑い日差しも、のんびりとした時間もずっと続いてゆく、そんな気がしていた。
「そうだ、昨日俺、凄いの見つけたんだ。網浜の奥の岩だらけの場所、あるだろ」
「え、ああ。普段は行っちゃいけないって僕らが言い聞かされてる所だね」
「兄ちゃん、勝手に遊びにいかないでよ」
「お前じゃ無理だって、危ないから。そうそう、あの場所からちょっといった海の底にさ、でかい船があるんだ」
「え、ほんと。知らなかった。ここからじゃ見えないね」
「ああ、あそこ潜ると少し深くなるからな」
「そう言えば聞いたことあるな、中野江おじさんが昔、魚礁にするために廃船を沈めたって。この辺海がきれいだから、今頃いろんな魚が住み着いてるんじゃないかって」
「お前、そんな面白そうな話知ってたなら、俺に教えてくれてもいいじゃんか。なんだよ、何か宝物でもあるのかって期待してたのに」
「あはは、それってロマンだよね。ごめんごめん、あの時おじさん酔ってたし、他の大人に嗜められてたから」
「全く、お前どっちの味方なんだよ」
「それで、どうだったの、船の中」
「私も興味あるな。珍しい魚、いたの?」
「そうそう、そこなんだよ。今の俺じゃちょっと難しくてさ、船だけ見て引き返してきた」
りっ君の言っていた船、あの夏の間には結局見られなかった船、海藻や微生物の付着ですっかりと外観は変わってしまったけれど、それでも数年後に見た船の面影は失われていなかった。私達は全員の思い出を箱の中に閉じ込めて、この船の中に沈めたのだ。
指先が崩れかけた木箱に触れ、簡単に蓋が崩れ落ちる。中にはあの頃よく遊んだビー玉やオハジキ、プラスチックの玩具、貝殻を下手なりに加工した指輪やネックレスが沈んでいた。
その中の一つを手に取る。麻の紐はボロボロに崩れ、穴のあいた巻貝だけが手の中に残った。そろそろ息が苦しくなる、私はそれを握り締め、箱から目を外らす。
「また、その内に中、覗いてくるから、期待してろよ」
「ええ、止めたほうがいいよ、危ないじゃん」
「どうせ止めろっていっても律は聞かないからな、諦めなよ、みさちゃん」
「そうそう、そのへん俺、頑固だから」
「僕も行っていい?」
「駄目だって、まあ、もう少し大きくなってからな」
「駄目だよ翔君、こいつみたいに馬鹿になっちゃ」
「私もそう思う、気をつけなきゃ」
「佐那ちゃんひどいなあ、みさはなんでいつも余計なこと言うんだ、男は馬鹿でいいの」
「あはは、僕も馬鹿だからね」
「祐君は馬鹿じゃないし、馬鹿は一人でいいから」
自然にこぼれ落ちる笑み、何もかもが輝いていて、あの輝きが失われるなんて誰も思いもしなかった。
「親父、素潜りの最中にさ、見たんだって。二つに光る目、海底の暗がりの中にじっとこっちを見る目を、それをみてたら追いかけたくなるらしいんだ。息も苦しくて続かないってわかっているのに、その瞬間だけはどうしても追いかけて行きたいって、そう思うらしんだ。親父、随分後悔してたから。あの日なんで止めてやれなかったんだって、なんですぐに追いかけなかったんだって。俺も思わなかったよ、簡単に死んじまうなんて思ってなかった。酒に深く浸っても親父は潜るのだけは止めなかった。漁の無い日も潜ってばかりいた。全ては追いかけるためだったんだ、あいつを追いかけるため」
お昼のおにぎりを食べ、いつまでもお昼を食べに家に戻ってから帰らない兄弟と祐君を待ちながらみさちゃんと遊んでいて、もう来ないね、帰ろうか、などと話していた頃、やっと祐君が駆けつけた。
表情が固く、青い顔の祐君を前に私は恐ろしくて何も聞けなかったけれど、みさちゃんがどうしたの、と息を途切れさせる祐君に聞いた。
「なあ、律が戻らないらしいんだ。翔がお父さんに言ったらしいんだよ。律があの海に潜ったってこと。それで凄く怒られたんだ、あの海は離岸流が有るから危ないって、それで家から走って出て、それきり帰ってこないって。大人はみんなあの海に出かけたらしい。浜の岩の上に靴があったらしいんだ、律の靴が」
祐君の震え声、信じられなかった。少し前まで普通に話していたのに。あんなに元気そうだったのに。夕暮れ時のあの緩やかな時間が、いつになく緊迫していた。夜が落ちるのが、全ての世界が暗くなってしまうのが怖かった。
結局りっ君はそのまま見つからなかった。靴だけを残して、あれからもう十年も帰らない。
あの日から私達はバラバラになってしまった。鮮烈に覚えていた記憶も、あの日からの日々は空白が多い。秘密基地に向かっても私一人しか居ないことも多く、誰かがいても居心地が悪くて会話が続かなかった。翔くんは家から出てこない。そうこうして四人が揃ったのは夏休みの終わり真近だった。私達は思い出を箱に閉じ込め、そこ箱を沈めようと決めた。
夏休みの最後に思い出と共に箱を沈めた時、翔君以外の私達は水底に沈む船の姿を見ていた。中野江おじさんに無理を言って船に乗せてもらい、沈めた箱。おじさんはもう二度とこの場所に来てはいけないと、それが供養になるからと言われたことが印象に残っている。
息苦しさを感じ、再び、翔君の言葉が頭の中で再生された。
「なあ佐奈、俺、兄貴のことあんまり覚えてないけど、お前兄貴のこと好きだったんだろ。だから俺とつき合ったんだろ。みさも数年で忽然と消えちまった、俺の親父も戻ってこない。祐君はどこか遠くへ引っ越したらしいが連絡がつかない。子供がいなくなった島は終わりだよ。俺達だっていつまでこんな場所で暮らしていけるのか解らないんだ。俺怖いんだよ、皆いなくなっちまった、何でこうなったんだ。俺を置き去りにしないでくれ、頼むよ。親父は間違ってなかった。あの海には潜っちゃいけなかったんだ」
「違うの、違う。私は別に律君が好きだったわけじゃない。ただ、海と一躰になりたいだけなの。死にたいわけでもないし、危ないのは解ってる。でもこの島とこの海があなたと同じくらい好きなのよ。あなただってわかるでしょ、だから置き去りになんてしない、あなたも、この島も海も」
私は知っている。この船は魚礁のために置かれたんじゃない。この裂け目を塞ぐために置かれたんだ。海流は吹き出すときもあれば、逆に吸い込むこともある。りっ君はきっとこの穴に飲み込まれたんだ。船底の穴を塞ぐために置かれた鉄板が、そこから吹き上がる海流で僅かに浮いた、その下から覗く二つの瞳、それは青く、美しく輝いて、海流の中でゆらぎながらこちらを見つめていた。
二年前、私は島に戻ってきた。あの日から深い眠りの中で、苦しげなりっ君の姿をただ見つめている、そんな悪夢にずっと悩まされてきた。だから私はそれを克服するためにずっと海で泳ぎ続けていた。
あの箱の中身を自力で取りに行きたかったからだった。あれからずっと連絡を取り合っていた祐君からのメールの内容も気になっていた。船に行かない方が良い、僕は完全には塞げなかった。傷は時間が癒してくれる、だから君は過去を気にせず前に進むべきだ、僕は旅に出ようと思う、探さないでくれ、という内容を残してそれきり連絡がつかなくなってしまった。元々縁遠い付き合いだから、気にはなっていたけれど、その頃の私にはどうしようもなかった。
そうした事もあって私は、思い出と決別するため、暫くの間フリーダイビングに費やし、肺と体を水に慣れ続けさせて来た。そうして船に訪れた時、やっと船の中を見られた。
船室の壁に穴を開け、沈めやすくされた船はほぼ骨組みだけの状態で、船底とデッキ以外は壁が残っていない状態だった。デッキに沈めたはずの箱の姿が見えなくて戸惑った覚えがある。しかし、すぐに船底に箱の姿を見つけた。私がそちらに潜って近づくと、大きな鉄板が近くに敷いてあるのが見えた。それが海流からかガタガタと揺れ、端から白い泡を吹き上げていた。
私はそれに近づき、薄く開いた鉄板と海底の隙間を覗いてしまった。それ以来、箱に近づきたくて近づけない、そんな毎日をずっと繰り返してきた。
潜るのは好きになった。けれど今の私はそれとは別に、あの場所に近づきたいと、そう思い始めていた。あの箱から思い出の品を取り戻せたら、私は現実を見据えられる、もうこの過去に囚われずにいられるとそう思いながらも、言い訳を続けて、翔君に厄介になり続けている、そんな自分ももう許せない。何とかしなきゃ、そう思い続けてもう二年も経ってしまった。
口が自然と開き、息が抜けてしまいそうだ。海流の流れが変わろうとしている、早くここを離れなきゃ、そう思いながらも動けない。深緑と深い青をその瞳に湛えながら海の底に私を誘おうとしていた。目を逸らせずに瞳の奥をのぞき込めば、その向こうに美しい海が広がっていた。鳥の群れのように行き交う見たことのない美しい魚。その群れの中で一際大きな真っ白な魚が泳いでいる。鱗がなく、艶かしい動きで体をうねらせて群れの中を優雅に泳ぐ、イルカのような美しい魚。
それがこちらに向いた時、見たことのある顔が見えた。あの日のままの面影、変わり果てた律君、ヒレの先にはよく見ると小さな指がついていた。やがて同じ魚が数匹身を寄せるように現れる。
私を見て誘っていた、かつての友人達が。
すっかり冬となってしまいましたが、以上、全十三話で終了となります。読んでくださった方に厚い御礼を。長らく貴重なお時間を下さり有難うございました。それではまたいつの日か。