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夏の終わりに  作者: 黒漆
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蛤の見る夢

 事務所の扉を開き、その先の応接間に人の姿を認めると、その男は真っ直ぐにそちらに向かい、椅子の肩に手を置いて勝手に話し始めた。


 「調べてもらいたい、あんたその手のトラブルに詳しいんだろう、頼むよ。全くあいつはいつまで経っても親離れできない、困ったものだ」


 髭を蓄えた壮年の男、汚らしさはなく切りそろえられた髪や髭、こざっぱりした着こなしのスーツ。工藤源一が封筒を手に話す。その平坦な声色から、困った風を装ってはいるが、実際はさほど深刻に思っていないのか、あまり興味がなさそうだ。


 「見えると言うんだ、どこにいても、たった一人で部屋にいようとも、女達の姿が張り付いて離れないとね。バカバカしい、医者にかからせたがどうも結果が芳しくない。私としては君の手を煩わせるまでもないと思うのだが、あいつは言い出したら聞かない奴でね、申し訳ないと思っているよ。しかし、興味本位で聞きたいのだが、こんな事をしていて商売になるのかね、今時、信じるのは若い世代のもの知らずか、能のない愚か者ばかりだろう」


 自分の依頼をどうでもいい事かのように語りきり、工藤は質問する。相手が未だ一言も話していないにもかかわらず。


 「この通り、儲かる仕事ではありません。それで、わざわざこんな狭苦しい職場に、どういったご依頼で」


 そう切り出した相手の口を遮って、工藤は封筒をテーブルに置いた。


 「ふん、分別の利く人間は嫌いじゃない。君は果たしてどちらの人間なのかな、利用する側か利用される側か。依頼の内容はその封筒の中に記してある、後で読んでおいてくれ。私の事は知っているだろう、頼んだよ。報告書はうちの事務所に送って欲しい。送り先も抜かりなく記してある、大丈夫だ、私は君に頼んだ、という事実さえ作れれば後はどうでもいいんだよ。一度だけあいつに会って会話をしてくれればあいつも満足するだろう、結果は求めていない。金はその封筒に充分用意したはずだ。後は好きにやってくれ」


 工藤はそれだけを伝えると踵を返し、ドアの向こうへと急ぎ足で消えていった。



 見上げれば淡い青の空、雨上がりの水気をはらんだ空気のヴェールに穏やかな日が差し込んでいる。体を撫でつける弱々しい風が通りに吹いた。どこか懐かしいようで、それでいて見たことのない風景。白や赤、クリーム色の単色の壁に四角く切り取られたガラスのない窓、剥き出しの木の柱が二階部分から地面に伸びている。通りは舗装されておらず、人の足で踏み固められた硬い土がどこまでも伸びていた。通りには崩れかけの手引きの、木の荷台が放置されていて、荷台に積まれた萎れかけのりんごが山のように積まれていた。


 足元を見るとそのうちの一つなのか、りんごがつま先に触れていた。するとりんごが黒ずんで固くなる。物音が聞こえ、視線を建物に向けると、二階部分の窓、縁に何かが見える。窓枠の奥に人がいるのか、薄く伸びた影がゆらゆらと揺れていた。私は言いしれない恐ろしさをおぼえて逃げ出す。



 「知っていますか、蜃気楼は昔、巨大なハマグリが夢を見ていると思われていたそうです。まあ、龍が見る夢、というパターンもありますが」


 草臥くたびれたスーツ、褪せた皮のハンチング帽、不服を思わせるへの字口。探偵を名乗る粟野がそう言った。


 「一体、私に何の用なんです。要件を言って下さい」


 梅雨も明け切らない六月上旬、あまり雨の降らない日々が続いていた。晴れ間に優しげな日が浮かび、海岸には穏やかな波が音を立てている。相良涼はこのところ毎日、同じ時間に海岸に訪れていた。


 涼の目に映る海岸線、海の上に滲むような空気の境界線が出来ていて、じわりじわりと歪んだ景色が湧き出し始めていた。蜃気楼、その姿が時間を追うごとに鮮明になってゆく。


 「用って、まあ、こちらも色々あるんです。知っているでしょう、先月の事です。この海岸線にワンボックスカーが猛スピードで突っ込んで、若い連中が何人か死亡した。それが地元じゃ有力な議員の息子でしてね。まあ、仕事なんですよ」


 粟野がくわえタバコに火をつけたのを見て、涼は嫌悪感を隠そうともしない。


 「止めてください、私、タバコ吸わないんですから。それに関係ないでしょう、何故毎日、私に話しかけるんです。それに、ただの事故じゃないんですか、その人たちが運転で無茶をしただけでしょう」


 「俺だって何かある、なんて思っていない。これは報告書を書くための時間稼ぎみたいなもんです。事故は結局、スピードの出しすぎによる不注意、という事になっている」


 「だったら何故、私に話しかけるんですか」


 「知っていますか、蜃気楼、ここの所、毎日見えてるそうです」


 何を言っているのか、といった素振りで涼は粟野を見た。


 「私はそれを見に来ているんです。あなただって知っているでしょう、私と一緒でこの海岸に毎日きているんですから」


 「知っているとも、けれどもねえ、蜃気楼ってもんは条件が厳しい、中々見られるものじゃあ無いんですよ。毎日見える、そんな事になったら観光客でこの場はごった返すでしょう、ニュースにもなるはずです。だがそんな事にはなっていない、どうしてでしょうね」


 呆れ顔で涼はため息をついた。


 「あなたが何を言いたいのか解らない。だって現実的に見えるじゃないですか、あの空の向こうに、あなただって見えているんでしょう」


 実際、涼の目には蜃気楼が見えていた。そう、どこかで見たことのあるような街並み、波止場に聳え立つ灯台の姿が。



 私は通りを駆け抜けて石張りの道を蹴った。葉の薄い、背の高い木々が建物の合間に等間隔に立っていた。坂道を抜け、灯台の姿をその目に捉える、すると麦わら帽子を被った何人かの人々がこちらに向かって走ってくる姿が見えた。


 ああ、人だ、この場所がどこか聞かないと、そう思って走り続けると徐々に姿が鮮明になってくる。三人、どれも女性、麻布の粗雑な服、つばの短い麦わらの影で鼻先から上が隠れている、赤い唇がわなわなと震えたいた。


 

 「俺、どうしたらいいんだよ、うざってえ。あいつらなんだんだ、誰なんだよ教えてくれよおっさん。あんた見えるんだろう」


 胸元の開いたシャツ、汗まみれの髪、血走った目、汚れた皮のパンツ。男はどう見ても普通ではなかった。工藤良一、依頼者の息子だ。


 「俺さ、オヤジから口止めされてっから、必要以上の事は話せないんだわ、ごめんな。でもさあ、この幻、いや幽霊なの? よくわかんねえけど、こいつらに付きまとわれる理由ってのは、大体予想できんだよ。でも、それいえねえんだよなあ。解ってくれよおっさん」


 「それを教えていただかなければこっちもやりようが無いんですよ、坊っちゃん」


 「んだよ、無能かよ。噂なんて大したことないんだな。お前さ、実は見えてないんだろ、今だって居るんだよ。その窓の向うにピンボケしたようなぼやけた女達が、俺を見てんだよ。ああ、どうなんだ」


 言われなくても見えていた、七人の女性が窓に手を貼り付けて、覗き込むように良一に目を向けていた。顔は朧気で、その誰もが粗末な服を身につけている。


 「正直に教えてくれないか、何したんです、何もしないでこんなことにはならんでしょう?」


 「あ、わかんねえの? 俺もわかんねえんだよ、あいつら死んだと思ってたら、そうでもねえみたいだし、別にばらした訳でもない。意味わかんねえ、だったらこいつらなんなんだよ、どっから湧いてきたんだ、なんで俺につきまとう、それを調べんのがお前の仕事だろうが」


 七人が綺麗に動きを揃えて両手をぴたりとガラスにつけた。音のない抗議が始まる、両手でガラスを叩く、音が聞こえてきそうだが鼓膜に音は届かない。


 「ああ、うるせえ、くそ。お前に聞こえねえのかよ、くそが」


 良一が不意に立ち上がり、椅子を投げつけた。跳ね返った椅子が無関係の客のテーブルに当たり、騒然となる。


 「いいか、なんとかしろ。お前だって親父のコネがあった方が何かと便利だろう。そうすりゃ、仕事に困ることなんざなくなるぜ、じゃあ、今日はもう帰っから」


 良一はそう言い残し、どこかに電話をかけ、店員に通話させるとそのまま端末機を持たせたままにして、足早に店から去っていった。


 

 震える唇から言葉が漏れる。忘れて、忘れて、忘れて。フラッシュバックするあの夜、忘れられない。あの夜のことを忘れられない、忘れたいのに。灯台から鐘の音が降り注ぐ、後ろから前から、脇の道から、三人の女性がこちらに向かってやってくる。街の中心に私達が集まり、暫くするとやがてこの街に白い波がやってくる。私達の辛さを洗い流すために。



 「私には見えませんなあ、そんなもの。でも何かしら別のものなら見える。実を言いますとね、あなたと同じ感覚の持ち主が他にもいるんですよ、七人。この場所で何日か過ごした結果、蜃気楼が見えると、そう言った人達」


 「七人、あなた、七人って言いました? それって皆女性ですか?」


 「ええ、女性ですよ。それも皆、俺のような男を恐れて、毛嫌いしている女性達。始めは話しかけるのもえらく苦労したもんです。まあ当然でしょうなあ、こんな風体です。危ないですからね、それでも、ここに来ることが止められないそうです、なんででしょうね」


 「知りませんでした、じゃあやっぱり、あれはただの夢じゃ無かったんだ。私、ずっと何かを忘れてるって、そう思ってたんです。それで、ここに来ると何故かほっとするんです。あの、どこかで見た街に行く夢を、私は最近、昼夜問わずにずっと見ていた」



 薄いヴェール、空気の層は私達を守る殻、眩しい光を和らげてくれる。私達はこの街から影を追い出さなければならない、私達の安らぎのために。私はあの窓枠の影について皆に語った。灯台の光が影の居場所を照らしだしてくれる。


 私達は足並みを揃え、あの影の元へ向かう。黒い人型の獣を追い立てなければ、この街の安らぎを取り戻すために。



 「俺はね、一人の少女に会ったんだ。彼女、ある夜からずっと意識が戻らなくてね。どうやら学校からの帰り道に乱暴されたらしい、何故か随分と議員から金を積まれたそうだよ。彼女、ジョルジョ・デ・キリコの絵が好きだそうで、部屋に何枚かのポスターを飾っていたそうだ。クリーム色の壁、どこか懐かしい、人気のない路地。知っているでしょう」


 「そう、そうなのね。やっぱり本当にいたんだ、私以外にもあの夢を見ている人たち」


 「けれども、夢をずっと見続けることもできんでしょう。あんた達は生きているんだ、このままじゃあ生活にも支障が出る、そう思いませんか」


 「でも、まだだめなの。あれがいる限り、私達安らげないもの。あの影がある限り」


 「あんな場所に半身を置いてきて、長くは続かない、でもそうする権利は貴方がたにはあるんでしょうな。良いですか、戻れなくなる前に殻から外に出るべきだ、もう目先の復讐は果たしたでしょう、あんな男のために人生を諦めてはいけない」


 「いいんです、もう少し、もう少しですから」


 粟野は諦めたように首を振ると、背を向けて立ち去った。空には薄い雲が伸び、梅雨らしく雨が降り始めようとしていた。



 街を巨大な黒色が疾走する。私達はそれを追いかける。移動に困らなかった、この街の中ならば、どれだけでも速く動ける。走らなくても追いかけられる。何も怖くない、影に触れられても、何をされても痛くも痒くもない、ただ私たちはあの影を追い立てるだけだ。そうして私達は幾つかの獣を追いやり、消してきた。


 でも、まだ残っている、長く伸びる毛をなびかせて、真っ黒な獣が街に居座っている。それを消さなければ、安心できない。



 事務所の電話が鳴り響く、受話器を手に取ると聞き覚えのある声が、かなり慌てた様子で押し寄せる。


 「おい、どうなっているんだ。なあ、悪かった。君を悪く言うつもりはなかったんだ。つい、息子が死んだ事にショックを受けてね。きつく言ってしまっただけなんだよ。解るだろう、家族を失うことの辛さは他と比較など出来ない。妄想だと思っていた、この私が、そんなものの影響を受けることなど有り得ないと、しかし、こうして現実に直面すると見過ごせない。あれはなんだ、四六時中私をつけまわすあれは、息子が、良一が言っていた事は本当だったのか、待ってくれ、契約は切ったといったがあれは勢いで言ってしまっただけだ、頼む、君しかこんな事を頼める相手はいないんだ」


 男は未だ止むことのない言葉の嵐を気にも止めず、受話器を置いた。



 私達は遂に獣を追い詰めた。相当の高さの建物、その窓際まで、私達は怯える獣を更に追い込み、窓まで押し進む、そして戦慄いた獣は遂に窓に乗り出して、外の世界に飛び立った。尾を引く雄叫びを耳にして心が安らぐ、全ての不安が消えた。


 もうどれだけ待っても白い波はやってこない。私達は前に進むために思い出さなければならない、それぞれの身に起きたあの夜の出来事を。



 高層ビルから工藤源一が飛び降りた。そんなニュースを目にしてから、粟野はこの数日の日課を果たすため、海岸線へと向かった。海岸線には車椅子の少女と六人の女性が待っていた。


 「もう、蜃気楼は見えません」


 涼が粟野の顔を見るとそう呟いた。


 「君たちは思い出したのか、辛いだろうが大丈夫なので?」


 粟野が煙草をくわえると涼が答える。


 「何で私達をどうにかしなかったんですか」


 「気に入らなかったからですよ、金も送り返しました。だってそうでしょう、数人の男がバンで女性を連れ去って、訴えられないのを良いことに、一人で何ともならなかったからといって、調子に乗って七人にも手をだして、よってたかって、人間の屑だ。今の世の中じゃ被害者が訴えたところで激しい風評に晒されるだけだ。その上、権力者の息子だった。気に入らないじゃないですか」


 「私達、この子の御陰で救われました。あの日、あなたが言っていたハマグリの夢って、この子が見ていた夢の事だったんですね」


 「誰でもあんな事が身に起これば殻を作りたくなる。あなた達は同じ被害者だ、同じ殻に閉じこもり、同じ夢を見て、そして自力で悪夢を追い立てて、脅威を乗り越え、現実に戻ってきた、それでいいじゃないですか」


 粟野の口にくわえられた煙草から火も付けていないのに煙が上がる。


 「ああ、これ、肩身が狭いので電子タバコに変えたんです」


 粟野がそういうと、涼は辛そうな表情を少し和らげて、もう文句は言わなくて済みますねと微笑んだ。


 夏の終わりとはいつの事か、もう冬ですね。後数話で終わる予定ですので、もう少しお付き合いください。長編用のプロットだったんですが、短編に纏めるとこうなります。解り難くて申し訳ありません。

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