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夏の終わりに  作者: 黒漆
10/13

ピーホープ

 繁華街内の路地裏、狭苦しい店の中は独特の匂いが広がっていた。魚醤の焦げた臭いに、唐辛子を混ぜ、更にレモングラス、香菜シャンツァイそう、パクチーを混ぜ込んだ特有の香りだ。私は十数年ぶりに日本に帰国してこちらで店を開いた南江なみえに、開店祝いも兼ねて挨拶に来ていた。


 「おう、久しいな、よう来てくれた。何だか随分と懐かしい顔に見える」


 「そう言うお前こそ、こっちにいる時はあんなに太っていたのに、今じゃあ鶏がらみたいな有様じゃないか。それに、色黒になったなあ」


 自慢じゃないが私は日本から出たことがない。だから南江にも日本から出ていってから全くあっていなかった。年賀状を書くわけにもいかず、メールのアドレスすら知らない。そんな途切れた付き合いが何の拍子か、偶々駅で俺を見つけた南江が、声をかけてきてから復活した。


 考えてみれば小学生時代から大学まで、腐れ縁が切れずに続いていたのだ。本当の親子兄弟よりも長い時間を共に過ごしたのに、友人生活の幕切れはあっさりとしたものだった。


 南江が不意に交際相手と日本をでると言った時、俺はどれだけ反対したか。友人の門出を祝ってやれないあの頃の俺は、浅い男だった。けれどもあの頃の俺は度が過ぎた海外嫌いだったのだ。


 何しろ周りが悪かった。会社の人間から遠い友人まで、付き合い始めてすぐに、トントン拍子で国際結婚したものの、破綻を迎えた人間がどれ程多くいたことか。その誰もが金を奪われただの、騙されただのと吹聴していたのだから、悪い印象を持たない訳がない。人が良く騙されやすい南江を慮れば、反対せずにはいられなかった。


 浅慮だったと今ではわかっている、彼らの相手が一方的に悪かったんじゃないと。彼ら自身も悪かったのだ。亭主関白を当たり前とし労働を押しつけ、何でも金で解決しようとし、何でも言うことをきかせられる小間使い、伴侶をそんなふうに思っていた、そんな人間が彼らの中に少なからず居たからだ。


 気がついた、彼らが離婚してから自分の負を打ち消すために大げさに出来事を吹聴していたのだと。それでも俺はやはり、慣れ親しみ、安全で便利な日本から出ていった南江の考えが理解できなかった。


 「今日は貸切だから、好きに座ってくれや。まだ店に慣れてなくてね。週の半分は休みにしてんだ」


 黒くやせ細り果てた南江は、額の油を拭き取りながらそう言った。その姿はなんだか使い古された道具のようで、燻り、煤けた灰色の壁に妙に溶け込んで見えた。それにしてもこの店、新しいというにはあまりに汚すぎる。


 「お前、中古物件でも買ったのか、それにしてもコレは汚いだろう」


 「いや、良いんだよ。俺は元々居酒屋でもやろうかと思っとたのよ。この店は長年焼き鳥屋をやっててな。そこの親父が引退するってんで譲ってもらった」


 「焼き鳥ってお前、この店の香り、どう考えたってタイ料理のものだろう」


 「はああ、やっぱりわかるんか。いやあ、まあ、勘弁してくれや。この匂いが止められなくてなあ、向こうを懐かしく思うのよ。向こうの焼き鳥はガイヤーンて言うのよ、どうだ、食ってみるか」


 南江はそう言って顎をさすり、口元の皺を深くして笑った。俺は取りあえず店内のカウンターに落ち着くと店の中を見回した。カウンターの奥には成程、薄汚れた換気扇の下に油の染みこんだ焼き台が用意されていた。燻蒸された肉の匂いが鼻の中をくすぐる。


 「ほいよ、これがガイヤーン。まあ、こっちの手羽揚げみたいなもんだ。調味は違うが、もち米やパパイヤのサラダと一緒に食べるのが通例だな」


 薄茶にこんがりと焼けた手羽焼きを頬張る俺を南江は興味深そうに眺め、どうだ、と聞く、カリカリに揚がった皮、スパイシーな肉汁、悪くない味だった。もち米には甘辛いソースを好みで足して一緒に食べるのだそうだ。


 「うん、これは悪くないな。いや、旨いよ」


 「そりゃよかった。向こうじゃよく作ってたが、正直、日本人の口に合うのか不安でね。どうだい、偶にこうしてこの店に料理を喰いにきてくれんか」


 成程、これは店のセールスなのだなと俺は内心笑った。まあ、昔の顔馴染みだ。たまに足を運ぶのも悪くないかもしれない。


 「お前にも商魂が宿ったって事かな。まあ、飲食業だって厳しい世界だろうし、良いよ、通ってやるさ」


 「ああ、悪いな。目指すのは居酒屋だから、日本食も手広くやるつもりだ。安心してくれや。まあ、お前にその度味見をしてもらわにゃならんが」


 そこで、あれ、と思う。こいつは味音痴だっただろうか。どちらかと言えば大学時代、一人暮らしの間も、料理が好きで味にこだわって自炊ばかりしていた奴だったはずだ。


 「お前、向こうで香辛料利かせすぎて馬鹿舌になっちまったのか。確か舌には自信があるんじゃなかったか」


 「いやあ、それがなあ。人生ってのは何があるのかわからんもんだ。それを語るにゃ少し時間がかかるが、いいか」


 香辛料の香りにいくらか生臭さが混じる。見るとこれから焼くのだろうか生の肉とレバーが焼き台の横に置かれていた。南江は口を歪め、苦笑いの表情を作ると静かにため息を吐き、言葉を継いだ。


 「そりゃ構わない。どっちにしてもなんで帰ってきたのか気になってたんだ。何があったのか教えてくれたら嬉しい」


 「お前、馬刺し好きだったよな。今用意してやるから待ってろ。そうだなあ、俺はな、逃げてきたんだ。あの懐の深い国から、マイペンライ、大丈夫と言っていられなくなってな」


 そうして皿に馬刺しを用意した後、南江の長い話が始まった。


 「向こうの六、七、八月はこっちとは違って寒いのよ。こっちの五月みたいなもんか、若干肌寒くてな、毎日が雨なんだ。どっちにしても雨季と乾季しかないからな。雪も標高が高い場所でしか見れない、平坦な土地が多くてな。越していった頃は苦労した、風呂に湯船も無い、シャワーだけだ。それにインフラも整っていない土地が多くて、納屋のような家に住んでいる人達も多くてな。それでも生きていくには困らない。こっちに比べると物価が安いからだろうな。


 俺は首都からだいぶ離れた村に移り住んでなあ、料理の腕には少し自信があったから屋台を始めたんだ。向こうの人間てえのは、食事の合間に何かを食べる習慣が常態化しててな。太っていることがある意味で良身分に見えるようになっている。


 食に困らない事がお金に余裕がある、裕福だという見解に繋がるからなんだろうな。だからひっきりなしに食べるんだな、ココナッツのクッキーやらもち米の菓子、乾フルーツなんかの屋台が村の市場にずらりと並んでいて、縁日のように人がごった返して毎日賑やかなもんなんだ。


 朝早くから起き上がり、闘鶏の鳴き声を聴きながら仕込みをして、昼から夕方まで屋台で料理した肉を売っていた。一日過ぎるのは早いもんだったよ。楽しかったなあ、どんなに貧しい人間でも笑顔を絶やさなくてな。暖かい国ってのは違うのかね。


 そんな日々を繰り返しているうちに嫁さんが実家に挨拶に行きたいって言ってね。まあ、何度か顔合わせはしていたんだがね。青バナナやマンゴー、スターフルーツの盛り合わせを持って挨拶に行ったのさ。丁度、雨季の時期だったなあ。


 俺の嫁さんはチアップってえ、呼ばれてた。知ってるか、知らんだろうなあ。チューレン、まあ愛称みたいなものなんだが、タイじゃ名前の他にこのチューレンを付けるのが一般的なんだ。本名はまどろっこしいくらい長い名前でね、それじゃあいちいち呼んでられんのよ、だからもっぱら愛称で呼ばれる。それでだろうなあ、長い付き合いでも本名を知らん人間もざらよ。生まれた時から愛称がつけられて、それで呼ばれ続けるってのも不思議だろ。


 実はこの愛称には秘密があってね。タイには古くから精霊信仰が下地としてあったんだ。精霊はピーってえ呼ばれていてな。いい精霊も悪い精霊も等しくピーなんだな。それで人が生まれてから嬰児の間に、いい名前をつけてしまうと、悪い精霊にさらわれちまうって信じられてるんだ。生まれてすぐ死んでしまった赤子は悪いピーにさらわれたんだってな。


 だから、その対策として愛称を付けられる。より妙な愛称の方がさらわれずに済むんだそうだ、面白いだろう。


 まあ、それはさておいて、挨拶に行ったら嫁さんのお母さんが出てこないんだな。親父さんは笑顔で迎えてくれたがお母さんは部屋の奥で寝ているって言うんだわ。俺達は病気にでもなったのかと心配してね。ベッドに寝かされたお母さんを見に行った。


 あれは今でも忘れられねえ。あの日の夜見たものの事は。恰幅の良かった体がやせ細っていてね目が落くぼんで、どう贔屓目に見ても健康には見えなかった。だから病気だろう、医者にかかったほうが良いんじゃないかと訴えたんだが、どうも普通の病気じゃないって、親父さんがそういうんだな。それが、悪い精霊に取り付かれたって。


 俺は信じてなくてなあ、そんなもんいないだろう、早く医者に連れていったほうが賢いって、そういったんだが、嫁さんも俺の言葉を相手にしなくてね。いわゆる霊媒師みたいな先生に頼んであるから大丈夫だって、そういうんだ。


 こんなに痩せちまっているのにそんなもんに頼ってどうするんだって言っても聞かない。仕方ないよな、そこじゃあ俺のが部外者だから諦めたさ。それで実家で一日泊まってね。その日の夜にあれを目にした。


 しとつく雨が地面を叩く音を聞いてね。外からは気味の悪いトッケーの鳴き声が聞こえてた。トッケーは体長二十〜三十センチもあるでかいトカゲさな。げげげ、トッケー、きゅきゅきゅ。家の中の壁ではチンチョって小さなトカゲが這い回ってきゅきゅきゅと鳴くんだ。トッケー、きゅきゅきゅ、トッケー。普段は気にならないそんな鳴き声が気になってね、目が冴えてきた。


 そうしたら、馬鹿馬鹿しく思いながらも嫁さんのお母さんの事が気になってね。悪い精霊とやらはきっとトカゲみたいな姿をしているんじゃあないかと、そんな想像をしていた。すると、家のがたつく扉を開くときの、ごとごとという音が聞こえた、そんな気がしたんだ。俺は体を起き上がらせると部屋の戸を開けて外を覗いたんだよ。そして、あれを見た」


 南江はそこまで一気に話をまくし立てると俯き、黙り込んでしまった。店の扉を風が叩いてガタガタと鳴った。静かすぎる店内、気味の悪さが寒気を招き、怖気が足元から這い上がってくる。そろそろ御暇しようかと口を開こうとすると、南江が面を上げた。


 「少し引っ張りすぎたか、そんな蛇の尾を踏んだ様な顔すんな、悪かったよ、驚かせて」


 南江が笑う。俺は馬鹿にするなよと口で言いながら、いつもの調子に戻ったヤツの様子に内心ほっとしていた。


 「さて、それじゃあ続きを話すか。俺が見たのはお母さんだった。口から血を滴らせたお母さんだったんだ。始めは血でも吐いたのかと思ったのさ、だがそれは違った。血の他に羽が付いてたんだな。お母さんはな、外に出て生きた鳥を食ってたんだ。


 目を血走らせ、筋ばかりの腕に無残に変わり果てた鳥の残骸を抱えながら、その身に食らいついていた。俺は固まっちまってね、唖然とそれを見ていたらお母さんはなんでもないように俺に向かって歩いてきた。そして目の前で止まると普通に挨拶したんだ。こんにちは、久しぶりだねと。


 どうも悪い精霊に憑かれても会話ができないほどおかしくなるわけじゃあない様だ。それでも俺は恐ろしくて仕方なかったよ。それから暫くして、気は引けていたが会わない訳にも行かず、お母さんに会いに行くと普通に戻っていた。見た目が元の恰幅の良い姿にな。それに、外見だけじゃあなく、中身も元に戻ってたんだ。こっちが前回の様子がまるで夢だったと思えるようなそんな状況なのに、驚いてるのは俺だけだったよ。


 それでも俺は精霊なんてもの、信じなかった。あれは所謂、心の病気みたいなもんだろうと、一時的に治ったってまたなるに決まってる。医者に見せたほうがいいってそう言ったんだが」


 成程、それで奥さんと別れてこっちに戻ったのかと私は得心した。確かに精神的な病気だとしても気味が悪すぎる。


 「へえ、治ったのか。不思議な話だな。でも、それと今ここにいる事とどうつながるんだ。そうか、そんな気味の悪いお母さんが居たんじゃあ一緒に暮らせないから別れたのか、それで戻ってきたんだろう」


 「だったら話は楽だったんだがなあ。違うんだ、その悪い精霊に十数年後、今度は俺がとりつかれたんだよ。屋台を辞めて店を持って一段落ついた頃だったんだ、ああいうのは気が抜けた時に襲われるたぐいのものなんだろうなあ。


 とりつかれるってえのは生まれ変わりに似てる。表現しにくいんだが、奇妙な感覚なんだ。前の日までは普通の好みだったのが、ある日急に生きている鳥やネズミを見ると、食らいつきたくなるほど旨そうにみえてくる。ああ、あの肉に食らいつきたい、生の肉をしゃぶりたい、そう思えるようになる。汚らしいものが黄金に見える。わかるかなあお前に」


 恍惚に満ちた表情の南江の口から、肉を腐らせた様な臭気が溢れる。今まで微かに漂っていた生臭さがそれなのだと気がついた。私はどうにか話をそらそうと考えていた。


 「わかる訳がないだろう、また驚かそうったってそうはいかない」


 「俺も見てもらったんだよ、彼女に強引に連れられてその霊媒師に。でも駄目だったんだわ。精霊を信じてないお前から、悪い精霊を出て行かせる力が出せないって言われてなあ。馬鹿だよなあ、別に困るわけじゃあないだろう。寧ろこの旨さが解らないあいつらが哀れだよ。でもなあ、あっちじゃあそのままでは生活しにくくてな、どこに行っても追い立てられてな。でもこっちなら生肉を手に入れるのも難しくない。焼肉を売りにすれば何とか食っていけると考えてなあ、生活するために料理はしなきゃあならんだろう、それで居酒屋だ」


 南江はそう言って背を向けると、調理場奥の冷蔵庫に向かい、ドアを開けた。


 「見ろよ、この肝の色、今朝下ろしたばかりの新鮮なものだ。ほかの部位に比べて高くない。この輝きがなんでわからんのかねえ」


 うっとりとした口ぶりで黒く滴る液のついた何かを撫で回す。生臭さが店の香りを一気に生臭いものに変えた。冷蔵庫の中には詰りきらない程の赤黒い肉が詰め込まれていた。


 「でもな。味がわからなくなってきたんだ。生肉や肝、血以外のものの味が、だからお前に手伝ってもらおうと思ってな。頼むよ、お前しか頼れる相手がいないんだ」


 南江は口を押しつけ、その肉にむしゃぶりついた。口からくちゃくちゃと音が漏れる。私の体が椅子に張り付いたように動かない、力が抜けていた。香辛料の香りが遠く薄れ、鉄さびの匂いが鼻の奥まで充満していた。


 こんな状況にありながら、心は不思議と冷えている。私は南江を視界に入れながら目の前の肉と冷蔵庫の中を見比べ、少し、あの肉が旨そうだと思えてしまってきている自分に驚いていた。


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