紅玉の乙女
『紅玉の乙女って知っているかい? それはもうとても綺麗でね、1度見ると目に焼き付いて離れないんだよ。あんまりにも美しいから、ブランシャール家の宝とも呼ばれているのさ』
▲▽
ステラが目を覚ましたのは、真夜中だった。喉が渇いたせいでせっかくの眠りが覚めてしまったことに、少し気持ちを落としながら水を飲もうと食堂へ歩く。深夜の侯爵家は、当たり前だが人気がない。使用人達も眠ってしまっている。一応、非常時に備えて執事の一人や二人くらいは起きているがこんな時間に屋敷の中を歩かない。屋敷の外では護衛達が侵入者からこの家を守っているだろう。
ステラは誰にも会うことなく、食堂へ辿り着いた。本当は使用人を呼ぶべきなのだろうが、こんな時間に起こすのは申し訳ない。いくら箱入り娘で、一人では何も出来ない貴族令嬢だったとしても、出来ることはしたい。ステラはそんな女性だった。
食堂の扉を開ける。
「あら?」
何故か食堂と通じる調理室から光が漏れている。誰かいるのだろう。こんな夜遅くに何をやっているのだろうか。彼女は気になって、調理室へ向かう。
「さすが貴族様ん家の飯だな~、すっげえ美味い」
調理室にいたのは、上品な服装をした男だった。格好に似合わず、調理室にある食料を置いてある棚から、幾つかくすねて美味しそうに食べていた。
「まあ………貴方」
ステラが声をかけると、男はかなり焦った表情になる。整った顔からは焦燥と困惑が滲み出ている。
琥珀色の髪に常磐色の瞳。顔立ちは整っており、どこか少年のような幼さを残している。透き通るようなその瞳には、驚きの色が混じっている。
こんなところで何をやっているのだろう。父の客人? しかし、それはないはず。客人であれば必ず顔を合わせているはずだ。いつも父がステラを招き人に会わせるからだ。
「こんなところで何をされているのです?」
首を傾げ、優しく聞く。すると相手は今までの動揺を隠すように、大袈裟に振る舞った。
「ちょっと小腹が空いてな。盗みに行く前に腹ごしらえ、ってところだ」
何故、彼が少し偉そうにしているのかは分からないが、ステラは頷いてそれならお腹が満たされるまで食べていい、と彼に言った。
「………あんた、ブランシャール侯爵家の令嬢か?」
怪訝そうな顔をしながら、彼はステラに聞いた。だが、しっかり手には食べ物が握られている。
「はい、そうですわ。わたくしはステラ・ド・ブランシャール。ヘンリー・ド・ブランシャールの娘でございます」
ステラは上品に、パニエでふっくらとしたスカートの裾を少し持ち上げ、膝を折って挨拶をした。
彼はその動作に釘付けになっていたらしく、ステラが顔を上げるまでずっと見つめていた。
彼の視線を受けながら、ステラが名を尋ねると彼は芝居がかった動作で名乗った。
「俺は世紀の大怪盗、ウィルフレッド・アレン! 今宵、ブランシャール家の宝を盗みに参上した!」
「まあ、泥棒さんなのですね」
「おいおい………あんたの家の宝を盗みに入った奴に対する態度じゃねえ気がするんだけどよ……。普通は叫んだり、使用人を呼びつけたりするんじゃないのか?」
「あら? それでしたらウィルフレッド様もお宝を盗みに参られたそうですが、こんな所でわたくしに見つかってはいけないのでは?」
ステラが微笑むと、ウィルフレッドと名乗る怪盗は恥ずかしそうに視線を反らした。
「いや………腹の虫が鳴いて仕方がなくてだな………腹が鳴ったら気付かれちまうだろ………」
バツが悪そうに頭を掻いた。
正直、ステラにとって彼の訪問は楽しいものだった。いつも屋敷の中で過ごしているため、友人などはいない。家の者以外に会うとなっても、大抵は父の友人だし、それ以外は自分の家庭教師や習い事の教師だ。
客人でも、教師でもない彼の思いがけない訪問はステラの退屈な日々を楽しくさせてくれるような、そんな気がしていた。
「ところで、あんた。紅玉の乙女って知ってるか?」
「紅玉の乙女? ………存じ上げておりません」
「そうか、ならいい」
そう言い、ウィルフレッドは部屋を出ていこうとする。
「あの、それがどうかなさいました?」
「あー、あんたに言うのは変な気分だがまあ良いか。実は今日俺が忍び込んだのはそいつを盗みに入ったんだ」
「まあ………。そうだったのですね。ですが、貴方ってとっても面白い御方ですわ」
ステラがくすくすと笑うと、ウィルフレッドは顔を赤くし抗議の声をあげた。
「な、何でだ!」
「だって、盗みに入った家の者に盗むものを教えたり………それにお口に先ほど食べていたソーセージの欠片を付けていますし」
楽しそうにステラは声をあげて笑った。ウィルフレッドは、口元に手をやりソーセージの欠片を取ると顔から火が出るのではないかと思うほど赤く染めた。
「あ、あんただって充分変わってるさ。怪盗の俺に食べ物をくれるし、全然追い出そうとしないし。仕草は令嬢でも、性格はあまり令嬢らしくない」
「では、お互い様ですわ。わたくし達は二人とも変わり者なのですわ」
ステラがそう言うと、一瞬きょとんとした顔になったウィルフレッドだったが、すぐに笑った。
「そうだな! 俺らは変わり者だ」
ウィルフレッドとステラは顔を見合せて笑った。
▲▽
ブランシャールの屋敷が寝静まった頃、決まってステラは自室の窓の鍵を開けておく。そうしておかないと、ステラの客人が入ってこられないからだ。
客人の訪れを知らせる窓を叩く音に、ステラは窓を全開にする。すると、そこからひょっこりと悪戯っぽく笑うウィルフレッドの顔が現れた。ステラは笑みを浮かべ、ウィルフレッドが窓から部屋に入ってこられるように手伝う。やっとのことでウィルフレッドの体は、部屋の中に入った。
「ウィルフレッド様! お待ちしておりました」
ステラは歓喜の声をあげながら、ウィルフレッドに歩み寄る。彼も少し気恥ずかしそうに頭を掻くと、ステラの頭を撫でた。
「俺も。早く夜がこないか、って思っていたんだ」
あれからウィルフレッドとステラは毎晩、会うようになっていった。毎日、彼はブランシャール邸宅の壁をよじ登り、ステラの部屋に来てくれる。
ステラも彼の訪問を大変に喜んだ。ブランシャール侯爵家の一人娘であり、筋金入りの箱入り娘であるステラは、1度も外に出たことがない。屋敷から一歩も出たことがないのだ。そのため、外の世界に幼い頃から焦がれていたステラにとって、外の世界の住人であるウィルフレッドの話はとても面白かった。
ステラの知らないこと、知らないもの、楽しいもの、怖いもの……。そうしたもの全て、ウィルフレッドは教えてくれた。時には花を持ってきてくれたり、高価なものではないが、アクセサリーをプレゼントしてくれたりした。
ステラとウィルフレッドは毎日、夜になると人目を忍んで二人で会っていた。自分達の関係が許されないものだということは、言わずとも分かっていたがそれでも、二人は会うことをやめない。
「ウィルフレッド様、お探し物の方はどうです?」
ステラは部屋の灯りを少しだけ灯すと、ソファに座るように促した。ウィルフレッドはソファに座ると、ため息をつき背伸びをする。
「全くだ……。皆、“紅玉の乙女”の噂は知っていても、それがどんなものなのか分かっちゃいねえ」
世紀の大怪盗――自称であるが――である、ウィルフレッドには必ず盗むと決めている宝があるらしい。初めて出会った時にも聞いたものなのだが、それはどんな紅玉よりも深く、綺麗で鮮やかな色をしており、そして銀色で見る者すべてが虜になるほどの美しさを持っているそうだ。そしてそれは、ステラの家であるブランシャール侯爵家にあるらしい。ウィルフレッドはずっとそれを探しており、たまに話を聞かせてくれる。
「それよりだ、ステラ。今日はどんな話が聞きたい?」
優しく包み込むような声でウィルフレッドは、ステラの名前を呼ぶ。その声がとても心地よく、ずっと聞いていたくなる。
「そうですわね……昨日、お話していただいたお姫様と騎士の続きが気になりますわ」
ウィルフレッドは何でも知っていた。外の世界のことだけでなく、ステラが知らないこと全部、彼が教えてくれる。ステラもよく本を読むのだが、ウィルフレッドはステラの知らない、全く新しい物語をいつも語って聞かせてくれるのだ。
昨日は、とある王国の姫と彼女に恋をした一人の騎士の物語を途中まで聞かせてもらった。
その国の姫はとても美しく、求婚者が後を絶えずにいた。しかし姫には想い人がいる。護衛の騎士だ。だがある日、父である国王が姫と他国の王子との結婚を決めてしまう。それを知った騎士が、姫が嫁ぐ前日に城に忍び込み、姫に会いに行く、という話だった。
「姫の結婚を知った騎士は、急いで姫の元に向かったんだ。そして、驚く姫の目の前で騎士は言ったんだ。“今宵、貴女を奪います”ってね。姫は“はい、喜んで”と返事をした。騎士は姫を抱き、窓から飛び降りると高々とこう言ったらしい」
ウィルフレッドはステラの腰に手を添えると、その美しい顔を極限にまで近づけて囁くように騎士の台詞を言った。
「死ぬまで、いいえ、死んでも貴女を守ります。って」
ウィルフレッドの息がかかる。思わずぎゅっと目を瞑ってしまう。すると、ウィルフレッドが笑ったのか、吐息がまた頬に触れた。
「顔、真っ赤だぞ。お嬢さん」
「だって……とっても魅力的なお話なのですもの。そのお姫様はとっても幸せ者ですわね」
ステラが誤魔化すように言うと、彼はにっこりと嬉しそうに頬んだ。顔がくしゃくしゃになるように満面の笑みを見ると、ステラの心が締め付けられる。
「この話にはまだ続きがあってだな。城を抜け出した二人は、美しい満月の夜に結婚を誓い合うんだ。ちょうど、今晩のように……」
窓を見ると、丸く銀に輝く月が夜空にのぼっていた。闇夜に輝くそれは、不思議で神秘的に思える。
ウィルフレッドは、ステラの目の前で膝をつき彼女の左手を握った。
「ウィルフレッド様……?」
常磐色の瞳を真っ直ぐに向けてくるウィルフレッドのいつもと違う雰囲気に、ステラは少し動揺する。
「騎士は姫に言うんだ。“私は月に誓います。私は貴女を世界一幸せな女性に致します”そう言って、騎士は姫の左手に指輪をはめるんだ」
ウィルフレッドがステラの左薬指に指輪をはめた。銀の縁に、赤い宝石が真ん中に小さく輝いている。思わず見とれるステラにウィルフレッドが言った。
「あんたみたいだったから思わず買っちまったよ。銀の髪に赤い瞳のステラのような、そんな指輪だろう?」
そう言い、彼の指はステラの細い糸のような銀髪をすいていく。髪を流れるように触れる指が、熱を与えるように段々とステラの体温も上がっていく。
「ウィルフレッド様……わたくし、今まで貰った中で一番嬉しいですわ。あぁ、わたくしも何か貴方様にお返しがしたいわ」
いつも貰ってばかりだから何だか申し訳ないわ、と伝えるとウィルフレッドは困ったように笑った。首を横に振り、目線を合わせると優しく言う。
「俺はあんたが笑ってさえいれば良い。あんたの笑顔で俺は何だって出来る」
「ですが、わたくしばかり貰っていては……」
「ただもっと、我が儘を言うなら……」
そう言って、ウィルフレッドはステラの髪に口づけをする。まるで肌にされているかのように、髪から感触が伝わってくるようだった。
▽▲
「お嬢様、旦那様から書斎に来るよう伝言を預かりました」
とある日の午後。のどかな時間にお茶をして過ごしていたステラに、父の執事が部屋の扉越しに伝言を報告していた。何事かと思いながらステラは急いで父の書斎に向かう。
広い屋敷の廊下を歩き、父がいつもいる書斎の扉を叩く。
「お父様、ステラでございます」
「入れ」
厳格な父の声が扉越しに響いた。ステラはおそるおそる扉を開け、書斎へ入る。
執務机にどっかりと構えるようにして座る父の顔は、いつも以上に険しい。
「お父様、どういったご用件でしょうか」
ステラの父、ヘンリー・ド・ブランシャールは、国でも重鎮と言っていいほどの重要な立場の人間だ。それ故に、多忙であり、娘でありながらも父と会うのはこうした時くらいしかなく、同じ屋敷に住みながらも1カ月以上顔を合わせないこともあるほどだ。
父はステラを客人に会わせる時か、用事があるときくらいしか会わない。それ以外いつもステラは一人で過ごしていたり、稽古をしたり、勉強をしたりしている。いつも大人に囲まれ、年の近い友人もおらず、実の父ともほとんど会わない生活を幼い頃からステラは過ごしていた。
「今回、クランティッツ公爵家の息子がおまえを嫁にしたいと申し出ている。今日の夜、クランティッツ公爵家の息子が我が邸にやって来る。来月にはおまえと公爵家との婚姻の儀式をするから、そのつもりでいるように」
ステラは驚いた。
クランティッツ公爵家といえば、この国を治めている現国王の親戚でもあり非常に由緒正しく、家柄も良い貴族だ。そしてその息子というのが、カールハインツ・フォン・クランティッツといい、次期当主でもある人物だ。
クランティッツ公爵家から結婚の申し込みがあったことに驚きもしたが、それ以上にそんな時期が近づいていたのか、とステラは思い知らされた。
ここ最近、自覚が薄れていたが自分はブランシャール侯爵家の一人娘で、政略結婚の道具なのだ。侯爵家に男児がいないかぎり、婿をとるか、自分が他家に嫁ぎ何とか侯爵家を存続させるしか道はない。
要するに、ステラには相手を選ぶ自由がないのだ。
それは幼い頃から分かっていたつもりなのに、どうしてそんな事を忘れていたのだろう。ステラは一瞬、怪訝に思うがすぐに答えが分かった。
ウィルフレッドの存在だ。
彼はステラの世界に光をくれた。ステラに希望を与えてくれたのだ。それが彼女にとって、何の意味も無かった日常をかけがえのない日々に変えてくれる。ウィルフレッドが毎日来てくれる、というだけで厳しい作法の練習やダンスの稽古、嫌な勉強だって頑張る事が出来るのだ。
だが、ウィルフレッドは怪盗。もっと言えば、何の取柄もない平民。そしてステラはクランティッツ公爵家ほどではないにしろ、代々続く侯爵家であり高位貴族。
結ばれることはないと分かっていても、いざ現実を突きつけられると胸がはちきれそうになった。
父の前で涙を見せないようにして、さっさと書斎を出た。自室に戻るまでには、その瞳から大粒の涙がとめどなく溢れ出たが、晩には何事も無かったように振る舞った。
予定通りにクランティッツ公爵家の次期当主は、ブランシャール侯爵邸にやってきた。高級な素材をふんだんに使った一級品の洋服を身につけ、彼は自信に満ち溢れた姿でステラの前に現れる。
「はじめまして、カールハインツ・フォン・クランティッツ様。わたくしは、ステラ・ド・ブランシャールでございます」
スカートの裾をつまみ上げ、恭しく一礼するとカールハインツは値踏みするような目つきでステラを隅々まで見つめた。その失礼な視線にステラは腹が立ったが、顔には笑みを貼りつけカールハインツと父の会話を聞いていた。
いつもは無表情で無愛想な父だが、カールハインツを前にすると人が変わったように愛想よく振る舞っている。
「僕は良い物件を見つけたようだ。容姿も良い、作法も完璧。クランティッツ公爵夫人にしても恥ずかしくないな」
「そう言っていただけると、私も娘も感無量ですな」
淑女を“物件”呼ばわりするカールハインツの神経が分からなかったが、ここは我慢を貫くしかない。どれだけ罵られても、失礼な態度を取られても、相手は格上の貴族なのだ。下の者は上の者に従うしかない。
「ステラ、来月に僕達の婚姻式を挙げよう。それまでにもっと磨いておくように」
カールハインツはそう言い、ステラの左手を触った。先程からの不躾な言動に腹が立っていたステラだったが、我慢の限界だった。カールハインツの手を振り払うと、思い切り睨みつける。しかし、彼は余裕の表情で手に持っているものをステラに見せつけるように掲げた。
それは銀色の細い縁に、赤く小さな宝石がはめこまれた指輪だった。
「返して!」
ウィルフレッドの指輪をいつの間にか盗られていた。感情を隠すことを忘れ、ステラは泣き叫ぶ。指輪を掴もうと伸ばした手は、父に掴まれ宙をかく。その様子を面白そうに見つめていたカールハインツは去り際に言い放った。
「君はもう僕のものだ」
カールハインツが帰ってからステラは父に怒られ、自室に軟禁された。
ウィルフレッドからの贈り物だった指輪も取られ、父には怒鳴られ、来月にはあの嫌な公爵との婚姻式がある。ステラの心は荒れ、紅玉のような瞳には似合わない水晶が溢れていた。
涙は枕を濡らす。ステラは枕に顔を押し付けると、むせび泣いた。
その時だった。窓を軽く叩く音がする。
ステラは涙を拭うと、鍵を開け、窓を全開にした。すると、待っていたのか外からステラに抱き着くようにして、ウィルフレッドが入ってきた。
「ステラ、あんた何で泣いているんだ?」
ずっと会いたかった人の温もりを、ずっと聞きたかった声を全身で感じステラはまた泣いてしまった。ウィルフレッドはそんな彼女をあやすように、優しく頭を撫でながら腕の力を強める。
「ウィルフレッド様……」
「ああ、どうした?」
優しく続きを促すウィルフレッドに、ステラは嗚咽をあげる。
「わたくし……婚姻させられたのです……もう貴方に会えなくなる……」
ステラを抱くウィルフレッドの腕がぴくりと動いた。
「誰と?」
「クランティッツ公爵家の次期当主であるカールハインツ様です……来月には婚姻式をするってお父様とカールハインツ様が……」
やがてゆっくりとウィルフレッドは、自身の体からステラを引き離す。それが異常に怖くて、ステラは思わずウィルフレッドの服の裾を掴む。そうでもしないと、彼はどこかに飛んで行ってしまいそうに思えたからだ。
「俺は……ステラを愛している」
急な告白にステラは瞳を瞬きさせた。そして自身も想いをつげようと、口を開こうとする。しかし、それはウィルフレッドの指が許してくれなかった。
口許に立てられたウィルフレッドの人差し指。
「あんたからの返事は、今はまだ聞かない。ただあんたに1つ約束して欲しい」
「ええ、何でも」
「俺を信じて待っていてくれ」
目の前にいるのは、愛嬌のある怪盗などではなく一人の男性だった。真剣なその表情にステラは大きく頷き返す。
「世紀の大怪盗、ウィルフレッド・アレン。必ずやあんたを手に入れよう」
▲▽
カールハインツと初めて会った日からちょうど1カ月後。この日、クランティッツ公爵家では、豪華なパーティが開かれていた。
パーティの主役は、クランティッツ次期当主であるカールハインツと、若く美しいブランシャール侯爵家の令嬢ステラだ。
2人は今日、婚姻式を挙げる。つまり今晩、ステラとカールハインツは正式な婚約者同士になるのだ。
様々な人がステラや隣に立つカールハインツに、祝福の声を届ける。しかしステラの心はどこにもなかった。ウィルフレッドはあれから1度もステラの元に来ていないまま、今日を迎えてしまったのだ。
自分を信じて欲しい、と言ったウィルフレッドも結局ステラを傷付けて姿をくらますのだろうか。しかし、ステラはウィルフレッドのことを信じていた。
きっと、何とかしてくれる。いつか聞かせてくれた話のように、姫と騎士の話のように自分をここから救ってくれるはずだ。
だが、音沙汰なく1カ月が過ぎてしまった今は信頼に加え、不安も大きくなる。
ステラは泣きたくなる衝動をぐっとこらえ、パーティの参加者達に笑顔を振りまいた。そのステラの様子に隣に立つカールハインツは満足そうに頷く。
カールハインツはステラのことを愛してなどいない。彼にとってステラは、自分をよく見せるための『装飾品』に過ぎないのだ。美しい女性を妻に娶ることが出来た『自分』を見せたいだけなのだ。それが分かっているからこそ、ステラはカールハインツを認めることが出来ない。
それに、ステラの心は忽然と姿を消してしまったウィルフレッドにある。
「皆様、お楽しみ中のようですがそろそろ婚姻式へと参りましょう」
カールハインツの父であるクランティッツ当主が、パーティの参加者に向けて言った。会場はどっと歓声が起こり、その声を浴びカールハインツは益々満足そうに微笑む。
「新婦であるブランシャール侯爵令嬢のステラ嬢は、社交界に登場せずともその美貌の噂は絶えることがありません。その美しく珍しい銀の髪と、まるで宝石のような赤い瞳は“銀の華”または――」
クランティッツ当主の演説の途中で、会場の灯りは全て消えた。いきなり空気がひんやりしたかと思うと、あちこちで悲鳴が聞こえる。服が濡れた、だの何やら騒いでいる様子だ。
急いで使用人達が燭台の火や、シャンデリアの火をつけて回る。ようやく灯りが戻った頃には部屋の様子は変わっていた。
インテリアのように大々的に飾られていた大きなケーキの上に、固い長方形の紙が突き刺さっている。ちょうど、カールハインツの名前の部分に突き刺すようにしてあり、犯人の悪意を感じた。
カールハインツがそれを不機嫌そうに引き抜いた。1枚のカードだった。
『今宵、紅玉の乙女を奪います。
世紀の大怪盗 ウィルフレッド・アレン』
カードの差出人は、ウィルフレッドだった。
嬉しいような、腹が立つような複雑な感情になる。ウィルフレッドがここにいるのは分かったが、こんな時でもあのブランシャール家にある“紅玉の乙女”を狙っているとは。
自分のことよりも宝の方が大事なの、とステラは怒りたい気分だった。
ウィルフレッドの名前を聞いた途端、会場にいる人々はざわめく。カールハインツも珍しく、動揺している。
「護衛騎士を付けろ! 今すぐにだ!」
カールハインツもウィルフレッドの言う“紅玉の乙女”がよほど大事なのか、傍に控えていた執事に叫ぶ。執事が慌ただしく部屋を出て行こうとすると、会場のざわめきをものともしないほどの凛とした声が響き渡った。
「無駄だぜ、もう“紅玉の乙女”は俺の手の中にある」
会場を見渡すように、二階へ続く階段に一人の背の高い男性が立っている。
愛しいその琥珀色の柔らかい髪、穢れのない透き通った常磐色の瞳。そして、自信に満ちた、ステラが大好きなあの笑み。
ウィルフレッドがそこに立っていた。
「コソ泥め……お前が狙っているものはもう僕のものだ」
カールハインツがそう吠えると、ウィルフレッドは嘲笑うように鼻で笑った。
「残念だな。俺が先に手に入れたんだぜ」
「おい、兵士は何をしている!!」
カールハインツが叫ぶ。しかし、会場の客人も加え誰も動こうとしない。そこに流れていたのは、カールハインツとウィルフレッドだけの空気だった。
「あんたご自慢の兵隊さんは、俺のお仲間が相手しているよ」
ウィルフレッドがくるりとその場で一回転する。その瞬間、ステラに何かの感触が伝わる。
怖くなって目を瞑っていたが、何も起きない。おそるおそる瞼を開ける。聞こえてくるのは、カールハインツの怒鳴り声だけだ。それも小さく聞こえる。
誰かが自分を抱き上げているようだ。腰とひざ裏に誰かの体温を感じる。ステラは瞳を向けた。
「今宵、紅玉の乙女を奪います」
「ウィルフレッド様……っ!」
ステラはウィルフレッドの首に手を回し、強く抱き着いた。思わずよろめいたウィルフレッドだったが、すぐに態勢を取り直す。
「お待たせしました、お嬢さん」
そう言い、優しく降ろしてくれる。
どうやらここは船の上らしい。それなりの良い船だ。
「ウィルフレッド様、来てくださらないかと思いましたわ。何たってあれから1ヶ月も姿を消してしまいましたもの……」
そう言い、恨みがましそうに彼を見るとバツが悪そうに微笑んだ。
「ちょっと準備に手間がかかっちまってな。でも待たせて悪かった」
「来てくださったもの、それだけで充分ですわ」
ステラの言葉に、ウィルフレッドは安心したのかほっと息をつく。そしてステラの目の前に、膝をついた。
まるであの日の光景が再生されているかのようだった。
「死ぬまで、いや、死んでもあんたを守る。ステラ嬢、俺と結婚してくれませんか?」
そう言い、ウィルフレッドは小さな箱から1つの指輪を差し出した。
輝く銀色の縁には、ステラの名前が刻み込まれており真ん中には紅玉が輝いている。カールハインツに盗まれた指輪とはまた違う、素敵な装飾だった。
ステラは涙を浮かべながら、嬉しそうに薬指にはめる。
「ステラ・ド・ブランシャール。ウィルフレッド・アレン様に一生愛を誓います」
ステラがそう返事をすると、ウィルフレッドはステラの手を取り甲に口づけを落とす。
立ち上がり、ぎゅっとステラを抱きしめる。
嬉しそうに息をはくと、絞り出すように話し始めた。
「やっと……“紅玉の乙女”を手に入れた。愛してる、ステラ」
「紅玉の乙女……?」
「ああ、そうか。あんたは知らないのか。ブランシャール家に伝わるとされる“紅玉の乙女”はステラ、あんたのことだったんだ。まあ、納得だわ」
初めて知る真実にステラは目を丸くする。
「じゃあ、ウィルフレッド様が探していたそのお宝は……」
「そうさ、あんたのことだよ。ステラ」
ウィルフレッドは、ステラの頬に優しく口づけをする。柔らかいウィルフレッドの唇の感触が伝わり、ステラは顔を赤めた。
ウィルフレッドは、ステラを抱き寄せると船の舵を取る。
そして、耳元で呟いた。
「今宵、貴女を奪います」
ステラも同じように、背伸びをしてウィルフレッドの耳元で呟いた。
「はい、喜んで」
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