過る夢
ひとまずこの日はセルジュの家に泊めてもらうことにした。そうして翌日、晴れ渡った空を見てひとつうなずくと、二人は役所へ向かうため街へと繰り出していく。
相変わらず人々の視線には厳しいものがある。だが、昨日彼らと一緒にいたセルジュがけろりとしているせいか、その視線はいくらか和らいでいた。
ルイスの記憶にあるエルテは、多くの人々が行き交う賑やかな都市である。だが今はそんなものとは程遠い様相を呈していた。静かすぎて、広い道を歩いているとむなしく感じる。
彼らは知らぬうちに息をひそめながら役所へと向かった。コレットが、途中ふと思い起こしたように囁きかけてくる。
「道を知ってるの?」
純粋な問いにルイスは淡々と答えた。
「エルテには何度も来てるから、もう体が覚えてるさ。多分な」
コレットは何度もうなずくと、無言で前に向き直る。もはやおなじみと化した流れであった。
そのまましばらく歩いていくと、地平線に大きな建物の影が顔をのぞかせる。ルイスは一度足を止めて、コレットに呼びかけた。
「あれが、目的地の役所だ」
影を指さしそう告げる。すると彼女はしげしげと影を眺めた。「大きい」と呟いている。
コレットは幼子のように色々なことに興味を示し続ける。しばしの旅の中でそれを学んだルイスは、時折こうして積極的に物事を教えるようにしていた。
いつまでも立ち止まっている彼女の頭を軽くたたいて促し、青年は歩き出す。
「ねえ、あなたたち旅人?」
聞き覚えのある内容の呼び声がかかったのは、まさにその瞬間のことであった。
ルイスが振り向くと、女が立っていた。ルイスよりも少しだけ年上だろうか。腰まである長い黒髪をなびかせる彼女は、彼と目が合うと人懐こい笑顔を見せる。
「ああ。今から用事があって役所に行くところだ」
青年が答えると、女は相槌を打った。それから楽しそうに提案してきた。
「それならちょうどいいわ。私も役所に行こうと思っていたところなの。一緒にどう?」
問いかけられて、ルイスは「俺は構わないけど」と呟いてからコレットを見る。彼女は相変わらずの無機質な瞳でしばらく女を見ていたが、やがて一回、うなずいた。
その意味するところを悟ったらしい女は、大きな瞳を輝かせた。
「やった! 私はメイベルよ、よろしくね」
こうして二人から三人になった彼らは、道を歩きながらなんでもない話に花を咲かせる。
「にしても、あなたたちも大変ね」
メイベルがいきなり思い起こしたように言った。ルイスが首をかしげて見せると、彼女は視線だけで辺りをうかがいながらこそこそと言った。
「だって、例の『呪歌』事件のせいでよくない目を向けられてるんでしょ」
「分かるか」
女の言葉に青年が問うと、彼女は肩をすくめて「嫌でも」と言う。ルイスはうなずいただけだった。
しばらくして、頭上を鳥が旋回していく。そんな光景をルイスが目で追っていると、隣からいきなり声がした。
「どんな人なの?」
さすがにルイスは慣れていたものの、メイベルはそうはいかない。ぎょっとした様子でコレットを見下ろしていた。すると、少女の紺碧の瞳と女の黒い瞳がぶつかり合う。
「その歌を歌っている人って、どんな人なの?」
コレットは繰り返して、メイベルにそう訊いた。彼女はしばらく困っていたが、やがてわざとらしい咳払いをして視線を前に戻すと、記憶の糸を辿っているのか視線を泳がせた。
「そうねえ……詳しくは知らないけど、噂では若い女の人らしいわ。長衣を着てるっていう話もあったわね」
「ずいぶん曖昧なんだな」
分かってはいたことだが、ルイスはついそう口にした。メイベルは特に気にした様子もなく言う。
「だいたい事が起こるのが夜だから、姿がよく見えないそうよ。遭遇しちゃった方もそれどころじゃないだろうし。おかげで真実は闇の中、ってわけ」
メイベルはなぜか楽しげな口調で締めくくる。ふふ、と笑い声を漏らす彼女に対し、何が面白いのかよく分からなかったルイスは何も言わずコレットの方を見た。
すると彼女は、珍しく考え込んでいるようだった。
そうこうしているうちに、役所の前に辿り着く。簡素な木の扉を開くと、鈴の音が響いた。さすがに役所というだけあって、中は広い。ルイスの目に長いカウンターが飛び込んできた。ふむ、と呟いたとき、メイベルが前に躍り出る。
「身分登録は右から三番目の受付よ」
軽やかに舞った女はそう言うと、「それじゃ」と言って違う方向へと歩いていった。ルイスはそれを見届けたあと、コレットの手を引いて教えてもらった方の受付へと向かう。
身分登録は簡単に済んだ。名前と年齢を教えればそれで終わりである。ちなみに年齢については、コレットがたっぷり間を開けて「十二」と言った。そのときの考え込む様子を見ると、本当かどうかは怪しいところである。
「では、帳簿に記録いたしますのでしばらくお待ちください」
受付を担当している若い女性は慇懃にそう言うと、少しの間奥に引っ込む。ルイスとしては、その瞬間にじろりと睨まれたことが気になった。
渋い顔をして首をひねっていると、左隣の受付から「申し訳ありません」とおどけた声が聞こえてきた。ルイスとコレットが振り返ると、金髪に優しい顔立ちの男がいた。彼は垂れた目元を穏やかに細める。
「彼女はね、『呪歌』事件に過敏になってるんですよ。恋人が被害にあった、とかで……」
「はあ」
さっき睨みつけてきたのは恐らくそのせいだろう。ルイスは生返事をすると、肩をすくめた。
「よく分かりました」
あの不穏な事件についてささやかれている最中に、奇妙な少女を連れた傭兵のような男がやってくれば、それは警戒もするだろう。
男は彼の返事を聞いて、もう一度笑いかけてきた。ちょうどそのとき、女性が戻ってくる。
「記録が完了いたしました。証明書は翌日に発行いたします」
淡々とした言葉に、ルイスは目を丸くする。
「ありがとう。早いんだな」
もっと時間がかかるものだと思っていたので、手際の良さに感心した。
しかし素直な称賛に対して返ってきたのは、「職務ですので」という素っ気ない言葉のみだった。
ともあれこれでひとまずは用事が済んだことになる。ルイスはきょろきょろしているコレットの手をとると、頭を下げて役所を出ていった。
その際、なんの気も無しにメイベルの方を振り返ったが、彼女は職員と軽い応酬をしているだけである。
役所の外に出ても街は相変わらずだった。楽しげに会話する恋人たちや手をつないで歩く親子がいる。犬の散歩をする若者や、うたたねする老人がいる。平穏そのものの光景を包む空気はしかし、どこか薄っぺらい。
思わずため息をついたルイスは、コレットを見下ろした。
「さ。セルジュのところに戻るか」
「うん」
気分を変えるつもりでことさら大きな声を出す。するとコレットからいつも通りの返答があって、ルイスはなんだか自分がばかばかしくなってしまった。口元を緩めて、ゆっくり街の中へと踏み出した。
靴が地面を打つ。音が鳴る。風が吹く。聞こえてくるのは――穏やかな旋律。
ルイスは目を見開き、息をつめて振り返った。奏でられるものが「歌」であると気付いたのはその瞬間であり、動作はほとんど反射的なものだった。コレットも眉一つ動かさず同じ方向を見ていたが、このときの彼は気づかない。
紫の目が捉えたのは、ひとつの高い建物だった。クリーム色の壁と三角の赤い屋根。おそらく、レストランか宿屋か、そんなところだろう。その屋根の上に、ともすれば見逃してしまいそうな小さな影を見た。
歌は続く。長い髪が風になびき、旋律が紡がれる。見えないはずなのに、影が静かに笑ったような気がした。
ルイスとコレットが見つめていると、やがて影は姿を消した。青空に溶けていくように、なんの音もなく消えてしまい、同時に小さな歌も途切れる。そして、空気が弛緩した。
「どういうことだ……?」
ルイスは眉をひそめて辺りを見回す。街の人々に変化はなかった。多少顔ぶれが変わったくらいである。つまり彼らは、影に気づくことはおろかさっきの歌すら聞かなかったことになる。
自分たちだけ聞いた歌。屋根の上の影。そして、真昼にそれらの現象が起きたこと。すべてが、異質なように感じる。
「ルイス」
青年が思考にふけっていると、下から声がした。コレットが、珍しく驚きを含んだ目で彼を見ていた。
「どうした」
頭をかきながらルイスが聞くと、コレットは屋根の上をちらりと見る。そしてあっさりと口にした。
「さっき、『おんなじ力』のにおいがした」
喧騒が遠ざかる。ルイスは、息をのんだ。彼女が『おんなじ力』と呼ぶそれはすなわち――異能のことだ。
「なんだって?」
「ほんの少しだけど、感じたの」
ルイスの驚愕など意にも介さないように、コレットは淡々と続ける。それから無言で屋根の上を指さした。今はもう誰もいない空間。ルイスはその意味するところを知って、頭を抱える。
青空の向こうに消えてしまった謎の女をこちらから呪いたくなった。
不吉なものを目撃した二人は、だがどうしようもないのでとりあえずセルジュの家へと戻る。床に積み重なる本の表紙を見ながら、ルイスはふと訊いた。
「そういえば、コレット。歌を使う異能ってあるのか?」
横でぺたんと座りこむコレットは首をかしげていたが、やがて瞬きをして言った。
「いくつか、知ってる。幸せな気持ちになる歌とか」
「……そりゃ、羨ましいな」
しかめっ面で答えながら、ルイスは「一度聴いてみたい」などと考える。そんな二人の微妙な空間に、セルジュが入ってきた。
「異能のお話ですか?」
彼は開口一番にそう訊いてくる。ルイスはどきりとしたものの、平静を装って軽く首を縦に振った。
「歌を使う異能がないかどうか、ちょっと気になってな」
「なるほど」
学者が興味深げにうなずく。どうやら、先のコレットの発言は聞かれていなかったらしい。ルイスはひっそりとため息をついた。
「そういう風変わりな異能も、存在するとは聞きます。そもそも異能の中身は一人ひとり違うものですし」
そう、唐突に語りだしたセルジュを、ルイスは少し呆れた目で見る。彼はいつの間にか分厚い本を一冊、手に持っていた。
「基本的に異能者はひとつの能力に特化しているので、実は弱体化させるのも容易だったりするそうです。……ある意味、恐ろしい話ではありますが」
教師のように弁を振るうセルジュの声が、最後だけ少し沈んだ。言葉の意味を汲み取ったルイスは深くうなずく。だが、ここで違和感が生まれた。
「……ひとつの能力に特化? 複数を操ることはないのか?」
――そうではないはずだ。口先で問いながら、頭の中では別の自分がそう言いきっている。
一方セルジュは、あっさりと手を叩く。
「そういう人もいるようで。ただし、そうなるとかなり強力な異能者ということになります」
ルイスは思わずコレットを振り返りそうになり、ぐっとこらえた。そうしているとセルジュは「おお、そういえば皿を取りに来たのでした」と言って棚を開け始める。中から皿を三枚取り出すと、その足で厨房の方に戻っていった。どうやら料理の最中だったらしい。
引っ込む際に彼は「失礼」と言ったのだが、ルイスはろくに聞いてはいなかった。ただぐるぐると思考の回転を続ける。
コレットが強力な異能者であるということは、予想の範囲内だった。しかし改めて事実を突きつけられると深刻さに頭が痛くなってくる。自分がこれから彼女とどう接していけばいいのか――そもそもどこまで彼女と行動を共にするべきか、分からなくなってきた。
「ルイス」
呼び声が響く。ルイスの内心など露ほども知らないコレットが、相変わらずの表情で彼の方を見ていた。彼が目で続きを促すと、コレットは言う。
「ひとつ、思ったことがあるの」
「なんだ?」
ルイスは問うた。そしてコレットは、小さな子供が「思いついたこと」を言うときと同じようなさらりとした声音でこう続けた。
「歌う女の人をつかまえる方法。ご飯の後にお話しするから」