呪歌
地平線の向こうに、突然影が現れる。
それに気づき、続いて曇天を見上げた彼は、後ろを歩く少女を振り返った。人形のような表情に苦笑してから声をかける。
「コレット、ちょっと休憩するぞ」
返ってきたのはうなずきだった。
ルイス・ヴェルフェンが異能者の少女コレットと旅を始めてからおよそ一か月。二人は、現在の滞在国リクトワールの国境付近まで来ていた。そろそろ関所で出国手続きをしようと考えていたところである。だが、それには一つ問題があり、その問題を解決するためには大きな街に寄らなければならなかった。
そう思っていた矢先の、あの影である。
「この先には町があるの?」
適当な岩場に腰かけているコレットが問うてきた。ルイスはうなずいて、水筒の水を少し口に含む。それを飲み下してから補足のために口を開いた。
「エルテっていうでっかい商業都市だ。おそらくあそこなら身分登録できるだろ」
そう言うと彼は、水筒をコレットの方に向ける。だが彼女が首を振ると、あっさりそれを引っ込めて袋の中にしまった。
「よかったね」
「いや、おまえがな」
他人事のようにさらりと返すコレットに対し、ルイスは反射的に言葉を投げた。
彼らが直面していた問題とは、これである。国境を越えるにはどうしても、身分証明書がいるのだ。それを発行してもらうためには身分登録といって、出身国にて名前など一通りのことを帳簿に記してもらう必要がある。さらに、それには保証人の存在も欠かせなかった。
コレットに話を聞いてみれば、彼女の出身はここリクトワールであるという。さらに保証人もルイスがいれば十分だ。異能者であっても帳簿から弾かれることはないので問題ない。
「あとは登録だけってことだ。……まさかおまえ、悪い奴らを退治する以外の人殺しとか、盗みとかしてないよな」
意地悪く光る空を見ながら、ルイスは思い出したように問うた。返ってきたのは、不思議そうな返事である。
「――? してないよ」
「そっか、なら良いんだ。法を犯したとか、逮捕歴とか、そういう前科があると登録させてもらえない場合があるからな」
「ふうん」
自分のことなのにどうでもいいような返事に、ルイスは呆れた。だが、もうこの一カ月間で呆れすぎたので心にわだかまるなんとも言えない気分には慣れていた。それが悲しい。
そんな悲しみを無言で飲み下したルイスは、勢いをつけて腰を浮かせた。何も言っていないのだが、コレットがそこに続く。
ルイスは勢いよく伸びをした。
「よし、休憩終わり。もうエルテは目と鼻の先だぞ」
「頑張ろう」
彼の言葉の意味を正確に読み取ったのか、コレットが無表情で拳をにぎる。それにルイスは笑った。
エルテは商業都市というだけあって、商人、旅人、大富豪といった人々の出入りが激しい。国境付近ということで貿易の中心地となっており、外国人の姿も多く見る都市だ。ルイスも何度か足を運んだことがあり、そのたびに街道を埋め尽くす極彩色に目がくらみそうになったのを覚えている。
だが――この日のエルテは何かがおかしかった。
街の中に踏み入った瞬間にそれが分かる。どこか空気が淀んでいるように感じたのだ。心なしか、町全体が黒ずんで見えるような気がしてルイスは息を詰めた。
落ち着いて辺りを見回してみると、幾人かの人を見かけた。しかしそれは観光客や商人ではなく地元民のようであり、彼らの視線は総じて険しい。
しかも――それは、平然とルイスの隣を進む少女に向けられていた。
「どういうことだ……?」
厳しい顔でルイスは呟いた。が、その瞬間はっと目を見開く。少し前、街の外での会話が頭をよぎった。
慌ててコレットを振り返るが、彼女はいつもの調子だった。
「なんだかみんな、怖い顔してる」
怖い、という感情が微塵も感じられない様子でそう言う彼女に、ルイスは重々しくうなずいた。
どうするべきかという考えが頭をよぎるが、かといってこのまま進む他に取れる方法などない。ひとまず二人は宿を探して、街の奥へと歩いていった。
だが、視線の鋭さゆえにあまり辺りをきょろきょろと見回す気にはなれない。とりあえずルイスは、道端で箒をもって地面を掃いている男に声をかけた。
「なあ、この街に宿屋はあるか?」
すると男は、どこか据わった目つきで二人を眺める。そしてコレットを見ると地面に視線を戻して言った。
「今、余所の人が女を連れて街を歩いちゃいけねえ。とっとと立ち去るんだな」
にべもない返答に、ルイスは顔をしかめて口を開いた。だが、言葉を発する前に鋭い忠告が飛ぶ。
「さもなければ、いつか街の人間に殺されちまう」
決して厳しくも激しくもない、だが重々しい言葉は、ルイスはおろかコレットまで閉口させた。お互いに視線を交差させたあと、コレットが男の方を向く。
「どうして?」
端的に問うた。しかし、男は何も答えず二人に背を向け、再び箒で淀んだ石畳を掃きはじめる。コレットが見上げてきたが、ルイスとしては首を振るほか何もできることはなかった。
その後も何人かに話を聞いたが、全員があいまいな返答をくれ、かえって謎が増えるだけだった。二人は仕方なく人目を避けられるような空き家の軒先に逃げ込むと、そこに腰を下ろす。石段は、いやに冷たかった。
「さあて。こりゃあ登録どころか街に滞在できるかどうかも怪しくなってきたぞ……」
ルイスは呟いてから空を見上げた。先程まで石灰色だった空には、今や分厚い黒雲がかかっている。嫌な風が、二人の旅人の肌をなでた。
地面にひらりと落ち葉が舞い降り、風に押されてかさりと乾いた音を立てながら滑っていく。今にも千切れてしまいそうな落ち葉を見つめていたルイスは、ふと人の気配に気づいて顔を上げた。
その瞬間、二人を見つめる男と目が合う。長い髪を後ろに流し、紐でまとめている。優しげな細い目ときっちりとした服装、両手に持った袋に詰まる本を見るとどこかの知識人のようだった。
「あれ……もしかしてあなた方は、外の人ですか?」
ルイスたちを見つめていた男は、彼が見つめ返したことに気づくと目を瞬いてそう言った。ルイスはわずかながら胡散臭さを覚えつつも、「そうだけど」とぶっきらぼうな答えを投げる。すると男は顔を伏せてため息をついた。
「それは、なんというか――間が悪いですね」
嘆く姿に演技の素振りはない。ルイスは、じっと相手を見つめるコレットを一瞥してから、改めて男の方を見た。
「あんたは、この街の人間か?」
「はい。しがない学者です」
微笑みとともに告げられた彼の素性は、ルイスの第一印象とさして変わらないものだった。相槌を打っていると、男は袋を抱え直しながら思わぬ提案をする。
「良ければ私の家にいらっしゃいませんか? この街に何が起きているかも……お話しておかなくてはならないでしょうし」
ルイスは言葉に詰まると、コレットの方をさっと振り返った。彼女もルイスの方を見つめている。
「わたし、おなか減った」
状況を考えているのかいないのか読めない発言に、ルイスは人目も忘れてため息をこぼした。
――ここでは、率直な要求に勝る言葉などないのである。
と言うわけで二人は、学者の男の厚意に甘えることにした。セルジュ・ユングと名乗った男は何食わぬ顔で奥へと彼らを引きつれていく。途中何度も、街の人の鋭い視線が刺さったが、さすがに地元民の行動には何も言わないのかそのまま顔を逸らしてしまった。
セルジュの家は比較的人通りの少ない場所にぽつんと立っている。豪邸からは程遠いが、きれいな壁や扉を見る限り、貧乏というわけでもないようだ。
「ささ、入ってください」
セルジュはあっさり扉を開けると、中に二人を招き入れる。ルイスはコレットと口をそろえて「お邪魔します」と言ってから踏み入った。
中に廊下というものはない。入ってすぐに、雑然とした光景が目に飛び込んできた。暖色の灯火に照らされた部屋。必要最低限の家具しか置いていない殺風景な場所なのだが、なぜか床にいくつかの本が散らばっている。
「いやあ、汚くて申し訳ない。ここしばらくお客さんは来なかったし研究に没頭していたので、ろくに掃除もしていなくて」
セルジュは、部屋の中を呆けて見ていたルイスとコレットの横に立つと頭をかいてそう言った。それからかがみこみ、進路上にある本をかき集めて重ねると、それらをひとまず部屋の隅に置いた。そうしてから、二人に座るよう促してくる。
ルイスとコレットが隣り合って席に着くと、セルジュは「お茶をお出ししますね」と言って西の部屋へと消えていく。どうやらそちらが台所らしい。
研究者の背中を見送ったあと、コレットがふいにルイスを振り返る。
「ルイスの部屋も、こんなふう?」
なんの脈絡もなく訊かれたので、男は正直たじろいだ。それから、長らく戻っていない自分の部屋を思い出してぽつりと呟いた。
「俺の部屋はもっと殺風景だ」
それこそ、必要最低限の家具と本くらいしかない狭い場所。そんな淡い思い出をこめて言うと、コレットは何度かうなずいた。
しばらくしてセルジュがお茶を持って戻ってくる。二人にティーカップを差し出した彼は、自分の分を持って席につくと目礼した。
「改めまして、セルジュ・ユングと申します。神話学や異能についての研究をしています」
簡潔にそう述べたセルジュ。彼の言葉を聞き、ルイスはふとさっきの間に見た本の山を思い出す。「神話」や「異能」あるいはそれらの関連がどうのといった表題が目立っていた。二人揃って簡単に名乗ってから、ルイスは質問をぶつけた。
「神話と異能っていうのは、なんか関係があるものなのか?」
隣に異能者がいるからこそ聞いておきたい話でもある。セルジュは賞金稼ぎの彼の反応が意外だったのか目を瞬いたが、それから卓上で指を組んで口を開いた。
「異能の正体については様々な説がありましてね。創世神話との関連性もそのひとつなんですよ。だから私はその方面から調べている、というわけです」
言って彼は、本の山のひとつを一瞥する。その様子を見ながらルイスは呟いていた。
「創世神話……確か、神様が大戦争したあとに、お互いの過干渉を防ぐためにそれぞれ違う世界を創ったとかいう話だったか」
「おや、詳しいですね」
かなり小さな声で言ったつもりだったが、相手には声が届いていたらしい。一瞬顔を赤らめたルイスは、それから続けた。
「失礼。昔からそういう話に興味を持ってたクチでね」
照れくさくなってそう言ったが、偽りない男の微笑みは深くなるばかりである。ひょっとしたら嬉しいのかもしれない。その証拠に、いきなりこんなことを言ってきた。
「では、“幻の都”なども信じていらっしゃる?」
「え……ああ」
ルイスは唐突な質問に目を白黒させつつも、正直に答えた。すると隣から袖を引っ張られる。コレットがじいっと見ていた。
「ルイス、それって」
興味をそそられたような目に、彼は苦笑を返した。
「まあ、おとぎ話みたいなもんだ。機会があったら話してやるよ」
それから再びセルジュを見る。その顔からは、既に笑みが消えていた。
「さて。それじゃ、そろそろ本題に入ってもいいかな」
「――そうですね」
束の間、男の顔に陰りが生じる。だがそれは、すぐに淡白な表情へと取って代わった。静かな眼差しが二人を見据えたとき、彼はおもむろに語りだす。
「今、この街ではある事件が起きています。人々は、それを『呪歌』事件と呼んでいます」
「呪歌?」
聞き慣れない言葉をルイスが反芻したとき、傍らでコレットの眉が動く。だが、正面を見ていた男はそれに気づかなかった。
「ええ。数日に一度、夜になると歌が聞こえるんです。この街のどこかで、一人の女が歌っているそうで。そして、その歌を聞いた男が突如行方をくらまし――二、三日したあとで死体になって見つかるんです」
あまりにも不気味な話に室内が静まりかえった。何を思っているのか、コレットの表情もいつもより硬い。しばらく言葉を探したルイスは、恐る恐る口を開いた。
「えーっと。それって本当に本当の話か?」
あまりにも現実離れしすぎていて、呪歌の部分だけでも嘘なのではないかと思えてくる。対して、セルジュは極めて冷静な態度で言った。
「分かりません。ただ、歌の力によって男が昏倒し、連れ去られた場面を見て慌てて逃げたという人が何人もいるんです。そう考えると、少しは現実味を帯びてくるかと」
「なるほど」
学者の淡々とした語り口にルイスは少し冷静になる。
これで色々と合点がいった。街の者たちがどこか殺気立っていることもそうだし、コレットを見ていたのも「奇妙な女」として警戒していたからだろう。
「でもそうすると、本当に身分登録どころじゃなさそうな」
ルイスがしみじみと呟くと、セルジュが目を瞬いた。
「身分登録? もしかして、彼女のですか?」
コレットを視界に入れながら訊いてくる男に対し、青年は適当な相槌を返す。すると、意外なようでそうでない答えがあった。
「役所は一応普通に運営しているので、行けばさせてもらえると思いますよ」
断言からは程遠い答えに、旅人二人は目を瞬かせた後、お互いの顔を見合わせた。それからルイスは、深いため息をついたのである。