世界へ踏み出す
酒場を出た二人はその足で、ひとまず服屋に向かった。もちろんコレットの服を買うためである。
「どうして服を買うの?」
純粋というにはあまりにも単純すぎる問いかけに、ルイスは顔をしかめながらもしれっと問いを投げ返した。
「おまえは一生服を洗わない気か?」
答えはなかったが、彼女なりに納得したらしい。痛い視線は彼から外れた。
この時代、旅人でなくとも服を毎日洗濯するというわけにはいかない。そんな贅沢が許されるのは王侯貴族ぐらいのものである。それでも、一か月に一度か二度は洗うのだ。そのとき、代わりに着る服がなくては困り果ててしまうだろう。
細い路地を少し進むと、ルイスがこの町に来てはいつも立ち寄っている中央通りに出る。するといきなり雑踏という名の雑音が耳を覆うのだ。大都市に比べれば生易しいそれも、閑静な通りと比べればずいぶんとやかましい。
「にぎやか」
コレットがきょろきょろと辺りを見回しながらそう言うのも、無理はない。
ともかく彼らは適当に服屋を見つけると、そこに入った。小ぢんまりとした店ではあるが、中に入ってみると思いのほか人は多い。
服飾の店特有の華やかな空気が漂ってきて、ルイスは居心地の悪さを感じて頭をかいた。それから、ぼーっとしているコレットを連れて女物の服が並んでいる方面へと歩いていく。その間、周囲の客は振り返って二人に好奇の目を向けていたが、ルイスはそれを黙殺する。
そして小さくてかわいらしい服の陳列棚が見えると、そこでコレットの手を離した。
「おまえ、選んでこい」
棚の方を鋭く指さして言う。すると、コレットがその方角を振り返ってからまたルイスを見た。
「ルイスは行かないの?」
「俺はどこの変態だ」
兄弟と言うにも親子と言うにも不自然な二人だ。それが共に少女の服選びをしていては、事実はどうあれ不審な目で見られるのは目に見えている。というわけでルイスは、それ以上の反論を許さずコレットの背中を押した。
危なっかしい足取りで棚の方へと駆けていく少女の金髪を見送ってから、手持無沙汰になったルイスは自分の財布を確認した。重さから考えると、服を数着買うのには問題なさそうだ。
もっとも、彼自身が倹約家であることに加え、先の任務の報酬をもらったばかりなので、最初から代金の心配はしていなかったのだが。
「ルイス」
客から怪しまれない程度に店の中を歩きまわっていると、やがて三着ほどの服を手にしたコレットがかけてきた。
「これがいい」
無表情で差し出された三着を見て、ルイスはなんともいえない気持ちになる。
どれも単色のわりと地味な長衣。どうやら衣服に興味はないらしい。それはそれでどうなのかと思ったルイスだが、かといって自分が洒落た格好を好むわけではないので、投げやりにうなずく。
「分かったよ。会計するからついてこい」
「うん」
ルイスが歩き出すと、ほとんど同じ歩調でコレットが続いた。
代金を支払って店の外に出るまでずっと、複数の視線がついて回るのが気配で分かった。後で根も葉もない噂が広まることを考えて、ルイスは思わずこめかみを押さえた。
そんな男の小さな苦悩を脇におけば、とりあえずこの場での問題は解決したことになる。二人は続いて、食料の買い出しに出向いた。適当な店を見つけてそこで保存のきく堅焼きパンを大量に購入する。
日が傾き始めるころには、ひとつ大きめの荷物が増えていた。
「さーてと、そろそろ宿に戻って荷物整理するぞ」
青空を仰いで、ルイスは呟く。だが、なんの声も返らないことに違和感を覚えて視線を戻した。
「コレット?」
名前を呼ぶ。隣を見ると、コレットは正面でもルイスの方でもない方向を見つめてぼうっとしていた。
「どうした?」
「声が、きこえるの」
噛みしめるように呟く少女に対し、男は首をかしげて耳を澄ませる。
――すると、微かに声が聞こえた。歌うような、語るような、穏やかな響きを持った女の声。
二人は町の雑踏を潜り抜け、その声の方に向かった。 楽しそうに談笑しながら歩く男女を軽くかわしたルイスは、その先、小さな家の軒先で何かを語る、金髪の女を見つける。彼女の周りにはちょっとした人だかりができていた。
口は、詩のような唄のような不思議な旋律で、古いおとぎ話を奏でていく。
あるところに、自分勝手な王がいた。その国はこのときとても貧しく、民は重い税金と貧しさに苦しんでいた。しかし、王は毎日、民のことなど考えもせずに贅沢な暮らしをしていた。
そんな王のもとに、ある日一人の女が現れた。美しい女だった。女はたちまち王の心を掴んでいった。二人はいつしか、本当の夫婦のようになった。
しかし、それを見て王妃が黙っているはずがない。王と王妃はよく喧嘩をするようになった。だがある日、王妃は王に愛されないことを悲しんで自ら死のうとした。
それに衝撃を受けた王は、妻を見ていなかったことを悔い、それからはよく王妃といるようになった。だがもちろん、美しい女への想いを完全に断ち切れたわけではなかった。王妃はそれを理解し、夫がその女と少しの間時を共にすることは認めた。
――だが、それが女の怒りを買った。
女は王夫妻が仲良くなったと知ると、ある日突然城から去った。そしてその二日後、強大な力をもって、王都を焼き払った。
女は、異能者だったのだ。
焼け落ちる都と王宮を空から見下ろして、女は高笑いしたという。
最後まで話を聞いて、ルイスは無意識のうちに顔をしかめる。
「ありきたりだが、後味悪い昔話だな……」
少なくとも、子供に聞かせるような話ではあるまい。ルイスはそんなことを考えながら、ぼんやりと続く声に耳を傾ける。
「――『あなたが自分勝手なままであれば、こんな死に方をしなくて済んだのに』」
だが、隣から響いてきた声に意識を引きつけられる。
普段からは想像もできないほど流ちょうに言葉を紡ぐ声はしんと冷え切っており、うすら寒さを感じさせた。
ルイスが言葉を喉につかえさせたまま驚愕の表情でコレットを見やっていると、彼女は言った。
「国王の前に現れた女は、そう言って焼き殺したんだって。国王を」
すらすらと、文章を読み上げるように言った彼女はそれから、何事もなかったかのように男の方を振り返った。
「かえろう、ルイス。荷物をせいりするんでしょう?」
「あ、ああ……」
ルイスはそれ以上を言えないままそんな返事をすると、もやもやとした気分を引きずったまま、中心街のざわめきから遠ざかっていった。
一日の始まりを告げる鐘が、重々しく鳴り響く。
その音を聞いて宿の戸をあけたルイスは、払暁の光に目を細めた。空は紺碧と黄金色の美しい濃淡で彩られており、ちりばめられた雲が浮いていた。
「いい空じゃないか」
彼は口元を三日月形に歪めて呟く。その後ろに、いつも通りコレットが続いた。
「まぶしい」
彼女は平坦な声音でそう言うと、ルイスの横に並んだ。
ふとルイスは、こいつとは昨日会ったばかりなんだよな、と不思議な気持ちになる。昨日は長いような短いような、変な感じのする一日だった。
ルイスが物思いにふけっていると、女将が出てくる。
「いやあ、惜しいね。あんたらがいたらこの辺りも楽しくなるのに」
からかうような口調に、ルイスは振り返って苦笑した。
「あいにく不良に目をつけられてるかもしれないんでね。できるだけ早く出発したいんだ」
あの筋肉質の男と痩せた男がこの町の人間であるという確証はないが、用心しておくに越したことはない。もちろん、長くいると金が尽きるという理由もある。
女将は彼のその返事を最初から分かっていたかのように、微笑んで首を振った。
「あんたはいつも媚びないねえ。ま、そういうとこが好きなんだけどさ」
「光栄だ。一部じゃ無愛想って言われるがな」
身体ごと女将の方を向いたルイスは悪戯っぽく笑って返す。それに対して女将は大声で笑うと、今度はコレットの方に視線を向けた。
ふくよかにしてたくましい腕で、そっと彼女の髪をなでる。
「コレットちゃん、だったっけ。こいつのこと頼むよ」
無表情にうなずくコレットを見て、ルイスは「むしろ世話すんのは俺の方なんだけどな」と、小さな声で呟いた。
最後の鐘の音が鳴り響く。それはゆっくり町へと浸透していき、音に導かれるようにして町の人々が動きだした。静かだった空気が、小波のようなざわめきに包まれていく。
ルイスは女将の前に立つと、袋を担ぎあげた。
「それじゃ、俺たちはもう行く」
「ああ。気が向いたらいつでも寄るんだよ」
「気が向いたらな」
慣れ親しんだ声がけに素っ気なく返したルイスは、ぞんざいに手を振りながら歩きだした。コレットが、一度頭を下げて彼の後に続く。
女将がずっと見送ってくれていることに気がついていたが、彼は振り返らなかった。
始まろうとしている町をするりと通り抜け、二人は朝日が照らす大地の中へと出る。人の手によりそれらしき道が少し整備されてはいるが、一度横に逸れればそこには手つかずの自然な広がっているのだ。
「ルイス」
もう、何度も聞いた呼びかけ。ルイスは少女を見た。
「なんだ?」
問いかける声には、本人も気づかないような微かな温かみが混じっている。だがコレットはそれを感じたのか、どこか嬉しそうな表情を少しだけ見せた。
大きな瞳が、青空を見上げる。
「世界って、とても広いんだね」
そこにたどたどしさはない。だが、昨日のような厳しさもない。穏やかな、まるで母親のような声は、二人以外誰もいない大地に薄布のように広がり――そして消える。
だがルイスは、消えた声を、言葉を、そっと拾い上げた。
「ああそうだ。世界は広い。おまえが想像してるより、俺が見てきたより、ずっとな」
言い聞かせるように呟いた言葉は、束の間空中を漂った。
それを忘れないうちに、男は少女の手をとる。
「さて、行くぞ」
「うん」
誰にも知られない応酬のあと、二人は一歩を踏み出した。
淡々とした一人旅が、わずかな色彩を帯びた二人旅に変わった瞬間だった。