異能者
しばらくして「もう裸じゃないよ」と、コレットと名乗った少女が言ったのでルイスは木陰から出てきたのだが、そこでさらにぎょっとすることになった。
彼女は、手足を濡らしていた。それは当然なのでまだいい。だが、裾の濡れた長衣をそのまま着こんでいるとなると話は別である。
「おまえな……」
彼女の常識のなさに、ルイスはがっくりとうなだれる。一方コレットはというと首をかしげたまま歩いてきた。手や服から滴り落ちた滴が、草の上で跳ねて光る。
「コレット、それ乾かせよ」
「でも、着替えがないよ」
コレットはルイスを見上げてそう言う。ルイスは手で目元を覆って、
「あるから」
と言った。
元よりルイスは彼女が求めれば、予備で持ってきた服を貸し出すくらいの気持ちでいたのだ。もちろんこの少女にはかなり大きい服ではあるのだが、真っ裸よりはましである。
少女はしばらくの間不思議そうにしていたが、ルイスがじっと見ていると首を振った。
「大丈夫」
そう言って、いや大丈夫じゃないだろ、と思うルイスにくるりと背を向ける。それから、手を空にかざして小さな声で短く何かを唱えた。すると、小さな手の周りの、空気の流れが変わったように感じられる。
彼女はその手で、長衣を丁寧になでつけた。すると――つい先ほどまでじっとりと湿っていたのが嘘のように、衣はその白さを取り戻してふわりと揺れたのである。
驚愕するルイスの鼻先を、微かな熱気が通り過ぎる。そこでようやく、彼は目の前の少女が「何らかの方法で熱を行使した」のだということを察した。
コレットは服を乾かし終えると、背を向けたときと同じくらいの軽やかさで彼に向き直った。
「ほら、これで良い」
笑いもせず、かといって馬鹿にした様子もなく、ただ淡々と言う彼女。
ルイスはその様子に低くうめいた。
「おまえは」
口にして見たものの、その先が見つからない。もぞもぞと口を動かして、結局押し黙るにとどまった。
対するコレットは、今度は首をかしげることもなくただじっと立っている。その様子にルイスはますます悩んだ。
得体の知れない力を使う謎の少女。こんな存在と、安易に接してもいいものかどうか。そう自分の胸に問いかければ返ってくる答えは「否」である。だが、ここで見捨てて野垂れ死にされても後味が悪いように思う。
知らぬ間に、とんでもない泥沼状態だったことに気づいたルイスは空を仰ぎたくなった。そんな彼のもとにさらなる追い打ちがかけられる。
「ルイス」
少女の声が鈴のように響き、男の名を呼んだ。彼は改めて彼女の方を見ると、「なんだ」と無愛想に問いかける。
コレットは言った。
「わたし、ルイスと一緒に行きたい」
飾り気のない言葉にどきりとする。ルイスはむっつりしたまま顔を背け、しかしよい言葉が思いつかないとなると渋々彼女に問いかけた。
「おまえはいつも、色んなところをふらふらしてるのか」
「してるよ」
日常会話のようなさらりとした応酬。気負いのない様子のコレットに脱力しかけたルイスは別種の問いをぶつけてみることにする。
「目的地はないのか」
「ない」
「――本当に?」
「うん。ただ、あちこち歩き回っているの」
むしろ先ほどよりも答えが返ってくるのが速かった気がする。職もなくただ歩きまわっているだけといった感じだ。
そういう子供がいることは珍しくない。多くはないが、戦争や紛争が勃発することのあり得るご時世で、戦災孤児や捨て子などは放浪を余儀なくされることがあるのだ。だが、このような少女が一人で、というのは珍しい。
少なくともルイスは出会ったことがなかったし、話にも聞いたことがなかった。
だからこそ彼はたっぷり迷い、迷った末にこう言った。
「仕方ないな。ひとまず俺と来い。来た道を戻るぞ」
無表情ながら嬉しそうに飛びついてくる少女を見て、面倒なものを拾ったという意識は湧いた。
だが――この行いを散々後悔する羽目になろうとは、このときはまだ思ってもみなかったのである。
川辺での平凡とは言い難い会話のあと、二人は即座に引き返し、ルイスがつい数時間前まで身を置いていた町まで戻ってきていた。
ミーシアと名のつくその町は、田舎ではありつつも大都市への中継地点として絶えることのない活気を見せている。酒場と兼用とはいえ、よそ者のための仕事斡旋所があるのもそういった要素が大いに絡んでいるからだと言えた。
二人は町の活気にまぎれるようにして、大きな店の軒先に腰かけていた。可愛らしい看板と並べられた植木鉢から察するに、花屋なのだろう。花の甘い香りが風に乗って漂ってきている。
「なあ、おまえ親とか家族とかいないの」
石段の上で足をぶらぶらさせているコレットに向かい、ルイスはもっとも気になっていることを問いかけた。するとコレットは町の風景から目を離さないまま口を開く。
「いない。みんないなくなった」
やはり感情の読み取れない声音に対し、ルイスは目を伏せてそうかとだけ言った。それから深く息を吸う。
「でも、『みんな』とはしばらく一緒にいた」
横から投げかけられた言葉の続きに、ルイスは目を瞬きながら振り返る。
「『みんな』? 仲間がいたのか」
コレットはこくんと首を縦に振った。
「うん。でも、とても窮屈だからさよならしたの」
未だに足を揺らし続けるコレットを見てルイスはなんとも言えない気持ちになる。
「つまり、目的地どころか伝手もなくほっつき歩いている、と」
「たぶんそういうこと」
端的に返す姿は人形とあまり変わりない。
だが、対する賞金稼ぎの男は「参った」とでも言いだしそうな空気を全身から醸し出していた。今度こそ空を仰いで嘆息する。今日の空はどこまでも青く、流れる雲がよく映えた。
「ルイスは、わたしと一緒が嫌なの?」
唐突にコレットはそんなことを言った。瞬間、まるで小さなとげに触れたように胸がちくりと痛むのを感じたルイスだが、隣の少女の表情は、相変わらず少しも動かない。
ルイスは両手を後頭部のあたりで組んだ。
「別に嫌じゃない。ただ、俺みたいなのと一緒にいてもろくなことがないぞ」
コレットは、まるで壊れた人形がそうなるように首をこてんとかしげる。
「どうして?」
「――そういうもんなんだよ」
幾度となく向けられてきた無垢な問いに、男はこれまでで一番曖昧な答えを返した。
事実、彼女にはそうとしか説明しようがなかった。
根なし草の荒くれ者にして、嫌われ者の放浪者。それが賞金稼ぎや傭兵に対する評価だ。そんな人間といるというだけで、人々からはあまりよい目を向けられないだろう。
コレットは遠くを見るような目で町を眺めているルイスをしばらくじっと見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「でも、わたしは」
「――てめえ、いい加減にしろよ!」
だが次の瞬間、抑揚のない言葉をさえぎって、凄まじい怒声が町の空気を震わせた。
町の活気が訝しさをはらんだざわめきに変わり、やがて嫌な音と共に悲鳴がこだまする。ルイスがほとんど反射的に立ち上がると、コレットも静かに続いた。
大声でのののしり合いが続いている方向へと慎重に歩いていくと、人だかりが見えた。同時に聞こえてくる言葉もはっきりしてくる。金、期日、約束などという語が飛び交っていた。
周囲に野次馬として集まった人々は不安げに何かをささやいたり、呆れて息をついたりしている。ルイスとコレットはそんな彼らの間から輪の中心をのぞきこんだ。
二人の男は未だ激しい罵声の応酬を続けている。そしてそれがしばらく続いた後、二人のうち筋肉質な肉体の男の方が、やせ細った方の胸倉を激しくつかみ上げた。そして何事かを話すと――激しく拳を振るい上げる。
野次馬の多くが痛ましげに目を覆う。そんな光景が連続するルイスの視界の中で、しかし白い長衣が揺れた。
「コレット? おい」
人垣の中を優雅に消えていくコレットにルイスは声をかけたが、振り返る気配はない。そして――男たちの横合いで手をかざす。
すると、拳が頬に直撃する直前に、それは見えないものに弾かれた。殴ろうとした男の方が目をむき、痩せた男の方も唖然とする。いつのまにか、大きな手はその胸倉から離れていた。
野次馬が不審にさざめく中、ルイスも驚いていた。しかし彼の脳裏には、少し前に彼女が一瞬で長衣を乾かした姿がよぎっていた。
一方、二人の男は胡乱げにコレットを見ていた。筋肉質の男の方が口を開く。
「何者だ、てめえ?」
微かに怒気をはらんだ口調。
普通の者だったら怯むところだろうが、コレットは涼しい顔どころかいつも通りの無表情だろう。
「けんかはだめ」
さらりとそんなことを口にしているのが聞こえて、ルイスは頭を抱えたくなった。正論は時に怒りの火を燃え上がらせる油となる、ということを知っているからだ。
案の定男はさっと顔を赤くすると、大股でコレットの方へ近づいた。そして、勢いよく拳を振りかぶる。
「何者かって……訊いてんだろうが!」
怒鳴り声とともに拳がかすんだ。人垣の中からいくつもの悲鳴が上がる。ルイスは、弾かれたように飛び出した。だが――
「暴力も、よくない」
コレットは静かにそう言うと、拳に向けて小さな手を伸ばす。すると彼女の指先に小さな銀色の光が生まれた。それは飛ぶ虫のように拳にくっつくと、勢いよく弾けた。
小さな爆弾が破裂するにも似た音と、男の獣のような悲鳴が重なる。
人々は、唖然としていた。飛び出しかかっていたルイスも束の間それを忘れて立ち尽くす。
男は声を上げながら、激しく地面を転げまわっている。先程まで喧嘩をしていた痩せた男までもが彼を心配そうな顔で見下ろしていた。
やがて、叫び声が上がる口から、途切れ途切れに言葉がつむがれる。
「がっ……てめえ、異能者か……クソっ!」
その後も何かを言いかけたようだが、すべてが咆哮によってかき消される。ルイスはそれを聞き、目をみはってコレットを見た。彼女はやはり平然としている。
ルイスもさすがにどうしていいか分からず呆然としていたが、やがて人々の中から「異能者?」「本当に?」「気持ち悪い……」といった囁きが聞こえてくると、我に返って動きだした。つまりコレットの腕を勢いよくとったのである。
宝石を思わせる青い瞳がルイスの険しい顔を見つめてくる。
「ルイス?」
「とっととこの場を離れるぞ」
自らの名を呼ぶ少女に、ルイスはあえてそれだけを言って、人垣を無理矢理かきわけて喧嘩の現場から走り去った。正直罵倒してやりたいが、今はそんな場合ではない。
そして町を走りながらルイスは思考を働かせる。その中にはいくつかの事柄が含まれていたが、途中で一つの言葉が脳裏に閃いた。
『上には空き部屋があるからさ。どうしようもなかったら使いにきなよ』
それは、かつてあの酒場の女将に投げかけられた言葉。
なんのかのと言いながら彼がその厚意に甘えたことは数えるほどしかなかったが、今回久し振りにそうしてみようと思った。
こうして酒場の上の空き部屋にコレットと駆けこんだルイスは、扉を後ろ手で閉めると大きく息を吐いた。
女将のとんでもない情報網によると、先の喧嘩は金銭がらみのものだったらしい。痩せた男があの筋肉質の男から借りた金をいつまでも返さなかったことが発端だという。こちらからすれば良い迷惑なのだが、勝手に動いたのはコレットであるため、文句も言うに言えない。
女将のにやにやと笑う姿を思い出しながら、ルイスはこの部屋にひとつだけある簡易寝台の方を見た。そこではコレットが、いつかのように両足をぶらぶらさせている。
ルイスは粗末な木造りの椅子の方へ歩いていくと、その上に腰をかけた。椅子の軋みなど今は気にもならない。
そうして彼は、相変わらず人間味のない少女を睨みつける。
「おい、コレット」
「何?」
コレットは、心当たりがないかのような声を上げて彼を見た。それが、彼の苛立ちを強くする。
「おまえは、異能者なのか?」
問いかけは殺風景な部屋にしみこんでいく。コレットはしばらくまったく動かなかったが、やがてまた両足を動かし始める。
「『外』の人たちは、そう呼ぶ」
それは、事実上の肯定を意味する。ルイスは冗談でなく頭を抱えた。
――異能者。それは、理論で説明できないような不可思議な力、『異能』を振るう者たちの総称だ。予知能力者を名乗る者たちもこれに含まれる。
その特異さから、人々によい印象をもたらさないことが多い。最近では異能を悪用した事件の話も聞かれるようになり、そのような蔑視に拍車をかけている。
異能者はペテン師から怪物並みのものまでいるが、どちらかというと目の前の少女は後者だろう。あの意味不明な、しかし強力な力を苦もなく振るってみせたところからも明らかだ。
どこか気まずい沈黙が下りる。もちろん、そう感じているのはルイスだけなのだが、立ちこめる空気が重々しいのは確かだった。
「……おまえが言っていた仲間っていうのは、異能者たちだったのか?」
さんざん悩んでうなった末にルイスがひねり出した言葉は、今は些事とも思える質問だった。だが、コレットは特にそれを指摘することもなくうなずいて言う。
「うん。みんな『おんなじ』だったよ。自分たちの家を見つけるって、言ってた」
淡々とした答えにルイスは納得してうなずきを返す。
社会の爪弾き者として扱われている異能者。だとすれば、彼ら独自の社会や集団がどこかにつくられていてもおかしくはない。
「ねえ、ルイス」
深い親しみのこもった声に、ルイスはつい鋭く反応した。コレットの瞳は、ただルイス一人を見据えている。
「わたしは、あなたと一緒に行きたい」
小川のせせらぎのように穏やかでいて、反論を許さないような声音。そこには確かに、道を定めた少女の毅然とした姿があった。
「賞金稼ぎといるとろくなことがない」――とは、今度のルイスは言わなかった。ただがりがりと乱暴に頭をかいて呟いただけである。
「仕方のねえやつだな」
その後二人は下へ降りていき、女将と数度言葉を交わした。このとき彼女は「何があったんだい」とからかい半分追及半分の目でルイスへと聞いてきた。どうにもならねえな、と早々に放棄した彼はコレットへと目配せする。
彼女の答えは、案の定であった。
「ルイスが信頼しているひとなら」
ルイスは息を吸うと、長いような短いような出来事を滔々と語る。女将はそんなものなどないかのように仕事を続けていたが、話の終盤になると棚からカップを二つ取り出して茶を注ぎ始める。
そうして話が終わって、彼女は穏やかな表情をしていた。
「――へえ、異能者の女の子が一人で、ねえ。珍しい話もあるもんだ」
他人事のような――事実他人事なのだが――口調で語った女将は、ルイスとコレットそれぞれの前にカップを差し出した。
丸の中で揺れる液体に興味津々の少女を呆れた目で見やったルイスは、彼女に飲むよう促すと、視線を女将の方へと転じる。
「実際のところ、異能者に対する差別や偏見は厳しいもんなのか?」
どういうわけかこの女将の情報網は、聞いている方がめまいを覚えてくるほど細かく広い。だからこその質問に、彼女は当然のような顔をして答える。
「まあ、ばれればそれなりに、ね。この辺はまだ風あたりが強くないほうだけど、東の諸国とかは結構ひどいもんがあるらしいよ。それでもほとんどの人間はばれないように生活してるから……きっと、同じ異能者でもない限り言われなきゃ気づかないだろ」
コレットが異能を披露した二つの出来事を思い起こしたルイスは、意識しないうちに苦い顔になる。視界の端に、無表情で、しかし子供と大差ないしぐさでカップを持ち上げてお茶をすする少女の姿が映った。
ルイスは横目でそれをうかがった後、やれやれとかぶりを振る。そしていつかのように茶を飲みほしてしまうと、カップをカウンターに置いた。ほとんど同時にコレットも茶を飲み終わったらしく、静かに座っていた。ルイスはそんな彼女にもう一度目をやって、今度は立ち上がった。
「コレット」
ぞんざいに呼びかけると、少女の顔が彼の方を向く。彼は右手の親指を突き立てて扉の方を指さした。
「今から買い出しに行くぞ。おまえの服と、旅のための食糧だ。で、明日にはここを出る。いいな」
紺碧の瞳が、いつもより大きく見開かれる。ルイス、と唇が小さく動いた。
一方、様子を見ていた女将は呆れたふうに肩をすくめた。
「相変わらずせっかちだねえ。もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」
「ゆっくりしていったら金が尽きる」
間髪入れずに返された、現実的な答えに女将は「そうかい」と答えた。もうすでに予想していたとでもいわんばかりの口ぶりである。
ため息をついたルイスは、いつの間にか席を立っていた少女の細い腕をそっと取った。
「ほれ、行くぞ」
「うん」
ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな返事は、今まで聞いた中で一番弾んでいたような気がした。