血濡れの少女
林を包み込む空気はしっとりと湿っていた。不思議とそれは、人の身体に心地よい湿気を運んでくる。緑色の葉は風にそよいで爽やかな音色を奏でていた。
平穏そのものの光景の中に、しかし彼は険しい顔で踏み入った。履き慣れた靴が柔らかい土を踏んでも、視線の鋭さは揺るがない。
林に根を下ろす草木をかき分けて進みながら、彼は数時間前にいた町の風景をはっきりと思い出した。赤茶色の屋根と白亜の壁が美しい街道で、盗賊がいるとささやきあっている人々の不安そうな顔。
広まる噂。盗賊の存在。すべてがあいまいな中で、ルイスは案外楽観的な考えを抱いている。
「ま、いないならいないでそれに越したことはないだろ」
――というわけで。
盗賊の噂が本当にただの噂なら、そのときは古い砦とやらを拝借して一晩を過ごし、そのまま次のに向かって発とうというのがルイスの計画だ。彼は自分の肩を見て、そこで揺れている小さな袋を確認した。
「どうせ荷物は軽いしな。うん、問題ない」
いつも持ち歩いているのは財布と剣と身分証明書くらいのものである。おかげで毎度荷造りは簡単に済んでいた。
男は息を吐いて少しだけ表情を緩めると、天を仰いだ。草の間から白い光が薄く差し込んできている。
「さて、あとどれくらいで林を抜けられるかな」
大して考えもせず、歩きながら呟いてみた。答えるものはない。しとしととした静寂が、空間を包むのみだ。
だが、直後。その静寂を切り裂くかのように微かな音が聞こえた。ルイスは一瞬で表情を引き締め、前を見据える。まるでそこを狙ったかのように、風に乗って立て続けに音が、声が聞こえてきた。
「これは……悲鳴か!」
そう判断した瞬間、ルイスは地面を蹴って駆けだした。細い木の枝や、顔をくすぐる厚い葉を乱暴に払いのけながら進んだ。だが、荒々しい走りに対して表情はしんと冷えている。
間もなくして、彼の体は真っ白い光を突きぬけ、林の外へ出た。
広がるのは緑の草原。風に吹かれてそよぐ大地は、束の間ルイスを呆然とさせた。しかし彼の目はその向こうに建つ巨大な建物を捉えると、再び鋭い光をたたえる。
「あれか……」
言ってすぐ、悲鳴が聞こえた。今度ははっきりと男のものであることが分かる。立て続けに聞こえてきたのも、すべてが男の叫びであった。
恐怖で塗り固められた声に、隊商が襲われでもしたかな、などと考えながらルイスは進む。
そうして五分もしないうちに砦の前へと辿りついた。そして、違和感を覚えて足を止めた。
灰色の石でできた巨大建造物は確かに、ずっと昔に棄てられたものであるらしい。石壁のあちこちがひび割れ、ところによっては崩れかけている。そんな中で上部に開けられた小さな四角い窓の連続だけは、どこも傷つかず無事である。
だがルイスが覚えた違和感とはそこではない。
砦の外に、人がいないのである。少なくともそれを取り囲む草原は静かで、人の姿がないどころか気配さえしない。
「どういうことだ?」
ひとりごちた彼は慎重に砦へ向かって歩いていった。そして、その最中にまた悲鳴を聞いた。砦の中から響いてきたそれは、長い間反響を続け、やがてぷっつりと途切れた。信じたくないが、悲鳴の中に爆発音が混じっていたような気もする。
おいおい、と呟いたルイスは腰をまさぐりながら再び走り出した。右手が剣の柄をしっかりと握る。
紫の瞳はすぐに、傾いている門戸を捉えた。素早くそこに駆け寄った彼は右手の感触をしっかりと確かめると、建てつけの悪いどころかすぐにでも外れそうな門を乱暴に蹴り上げる。
門はけたたましい音を立てながら内側へ吹き飛ぶと、間もなく倒れ、そして砕けた。木片があちこちに散らばる。
ルイスはそんな光景に一切頓着せずに砦の中へと進んでいった。古い場所に残されているものはほとんどなく、あるのは件の盗賊が持ち込んだと思われる大きな麻袋や武器のたぐいのみであり、それすらも今は床に散乱している状態であった。
「なんだこれは」
忌々しげに呟いた彼の足を、そのとき誰かがつかむ。腕は男のものだったが、力はひどく弱い。
足をつかまれた男は面倒くさそうにその先を見た。そして、顔どころか全身から血を流し、恐怖に目を剥いている盗賊と思しき男の存在を知る。彼はルイスの視線に気づくと、わななく唇を動かした。
「た、たすけて……く……」
だが、か細い懇願はすべてを伝える前に途切れた。腕の力がふっと抜け、巨躯が冷たい石畳に落ちる。
それを見届けたルイスは呆然としていたが、視界の端に青い光が瞬くと顔を上げた。――そして、驚愕した。
広い砦には、盗賊団と思われる人間が数十人倒れ伏している。全員が血を流し、中には腕や足がおかしな方向に曲がっている者もいた。
それだけではない。凄惨な光景の中心に、人がいた。
年の頃、十五ほどの少女である。白と見まごうほど淡い金髪を波打つようになびかせる彼女は、揺らめきのない目で盗賊たちを見下ろしている。肌は透き通るように白く、四肢は細い。長いまつげの下にある、大きな紺碧の瞳はなんの感情も映してはいなかった。
精巧に作られた人形を思わせる少女がそこに立っているだけで、違和感の塊なのだが――さらに異質な点を付け加えるとすれば、小さな手や纏う白い長衣に真っ赤な血がべっとりとついているのだ。
彼女を唖然として眺めたルイスは、ひとつの推論に辿り着く。
「まさか、こいつが盗賊団を倒したのか」
口にしてすぐ、頭の中にあり得ないという否定の言葉が過る。しかし、素直にそれを受け入れることができずに、ルイスはただ立ち尽くした。
一方、血臭漂う砦に佇んでいるこの少女は、少ししてルイスの視線に気づいたのか、ゆっくりと彼の方を見た。ルイスが息をのむと同時に口を開く。
「あなた、だれ?」
舌足らずな問いかけ。それはルイスを落ち着かせるには十分すぎるものであった。我に返った彼は少しだけ答えを考えてから、吐息を漏らす。
「通りすがりの賞金稼ぎ。というか、おまえの方こそ何者だよ?」
「……しょうきんかせぎ、って何?」
「おい」
予想の斜め上をいく回答に、ルイスは冗談抜きで転びそうになったが、脱力感に耐えて答える。そうでもしなければ話が進まない。
「こういう盗賊団とかを倒して、お礼の金を貰うっていう仕事」
ふうん、という気のない相槌が返る。怒鳴ってやりたい衝動に顔を引きつらせた彼はすんでのところでそれを飲みこんだ。
「……この盗賊どもを伸したのはおまえか?」
ルイスの険しい問いかけに少女はしばらく考え込んだが、やがて「うん」と短い肯定の言葉を返す。
「嫌なことをしてきたから、ちょっとお仕置きしたの」
けんか相手の頭をちょっと叩いた、くらいの口調で言われて、ルイスは再び沈黙する。お仕置きにしても度が過ぎていると指摘したくなったが、どうせ首をかしげられるだけなのでやめておいた。
眉根を寄せて少女を睨んでいると、その少女の方がいきなり動き出した。転がっている男たちの身体をそろそろと避けてルイスの方へと歩いてくる。
「あなたは、こいつらを倒しにきたの?」
歩きながら彼女が問う。
ルイスは眉間のしわを軽く揉みほぐしながら答えた。
「ああ。だが、手間が省けたようで良かった」
「そう」
言って顔を上げるのと、少女が足を止めるのはほとんど同時だった。静かに佇む少女を見たルイスは、ぎょっとして半歩退く。
彼女は、細い両足にも赤い血をつけていた。
「おまえ、それ」
やや上ずった声で言ってみたものの、少女からはなんの反応もない。男はしばらくうめいてから、改めて状況を確認した。
今にも崩れそうな古い砦。その中に転がる、再び立ち上がれるかどうかも怪しい数十の男たち。そしてそれの傍らで向かい合う自分と謎の血まみれ少女。
変な状況にもほどがある。ほぼあり得ないが、どこかの旅人に見られでもしたらまずい。盛大なため息をこぼして剣の鞘を叩いた彼は、だがそこでくっと顔を上げた。
少女の背後で立ち上がる、大きな黒い影。陽炎のように揺らめくそれを見据えた男は、改めて剣の柄に手をかけた。
静かに足を引いて、腰を落とす。不思議そうに目をくりくりさせる少女に向けて、そっと言い放った。
「おい、ちょっとしゃがめ」
「――? こう?」
幸いにも少女は疑いもせず伏せてくれた。光る物を振りあげる黒を見据えたルイスは、瞬間に抜剣した。そして相手の動揺を捉えると、一歩を踏み出して大きく剣を振りかぶった。
両断される身体。現象に遅れて、肉を絶つ嫌な感触が手元に伝わった。ルイスは目を細めると、素早く剣を持ち上げて自分の手元に戻す。
すると、もの言わぬ骸となった男は真っ赤な血を噴き上げながら後ろに倒れるのだった。
微かな噴水のような音に気付いたのか振り返った少女。ルイスは彼女を尻目に刃の血糊を振り落とすと、剣を鞘に納める。
「こんなガキにやられて、少しは懲りたかと思ったのにな」
つい漏れた呟き。ルイスは苦笑してから、視線に気づいてその方向を見る。
少女が初めて目をみはっていた。立ち上がることさえ忘れている彼女にルイスは少し怯む。
「あなた、すごい」
小さな唇からもれた単純な呟きに、ルイスはどういう表情をして対応していいか分からなくなった。目をつぶってたっぷり悩んだ。
――が、それは徒労に終わる。
「今のどうやったの? 教えて」
「……変なことを聞こうとするな!」
色々と常識から外れている少女に、ついにルイスは指を突きつけて怒鳴った。場にこぼれた沈黙にしまったと思ったものの、謝ることはせずに踵を返す。
「あの」
「近くに川がある。そこで身体と服についてる血をちゃんと洗っとけ。話はそれからだ」
若干不安げな少女の声をさえぎり、ルイスはそう言って歩き出した。
少女がとてとてとおぼつかない足取りでついてくるのが気配で分かって、彼はなんとも言えない気分に頭をかいた。
林を出てすぐには、どこまでも広い草原が続いているものだと思ってしまいそうである。しかし、実際は砦の近くまで行くと数本の木々の傍らに流れる小川などを見ることができた。
そのことを克明に記憶していたルイスはそこへ少女を連れていった。さすがにこの血濡れを放置しておくわけにはいかない。
ルイスが「ここで洗え」と手短に指示すると、少女は素直にうなずいて、それからなんのためらいもなく川に足を突っ込んだ。驚いたルイスは、それから慌てて近くの木陰に身を隠した。
水で布を洗う音を聞きながらルイスが木の根元に座りこむと、感情の起伏に乏しい声が聞こえる。
「どうして隠れるの?」
「ガキの裸を見て喜ぶ趣味はない」
やりきれなさに、苛立った声でぴしゃりと言い切ると、少女はまたも気のない相槌を返しただけである。変な方向に理解されているのではと思ったが、確かめる勇気はなかった。
しばらく、場には水音だけが響き渡った。穏やかな静寂は空気のように流れていく。
その流れに身をゆだねていたルイスはしかし、ふと気になって薄目を開けると見えない少女に問いかけた。
「なあ、おまえ名前はなんていうんだ」
「なまえ?」
たどたどしい反問は、予想していたことだ。ルイスは短く相槌を打っただけで、あとは静かに答えを待つ。少女は自らの足を丁寧に洗い流しながら考え込んでいるようだったが、しばらくして「名前」とはっきり言いなおすと、続けた。
「わたしの名前は、コレット」
「そうか、コレットか」
座りこんだままで、ルイスは刻みこむように少女の名を口にした。深い意味はない。ただ、そうしたかったのだ。
「あなた、は?」
ふいに澄んだ音色のような問いかけが聞こえてきて、ルイスは顔を上げた。相手が見えるはずもないと知りながら振り返る。
「俺?」
「そう。あなたの名前、教えて」
ゆったりとした口調には、大地に根を張る大樹にも似た強さが込められている気がした。ルイスはわずかに目をみはる。しばらく目を伏せたあと、言葉を発するべく口を開いた。
「……ルイス、だ」
――刹那の間が空いたのは、女将の忠告が脳裏をよぎったからである。
しかし少女は彼の内心になどまったく気付かない様子であった。
「ルイス」
まるで大事な何かを慈しむように男の名を繰り返す。
きらりと光る純粋な言葉を受けとめて、ルイスは久方ぶりに穏やかに微笑んだ。