青空の下
景色が歪みを見せたかと思えば、一瞬あとにはもう遺跡の外にいた。目の前には、透き通るような青空が広がっている。ルイスはしばらく呆然とした。
「……戻ったな」
「うん」
独り言に答えたのはコレットである。転移を終えた彼女は、何事もなかったかのような態度でルイスの隣まで来て、じっと見上げてきた。
彼はだが見返すことをせず、そのままその場に座りこむ。血のにおいがする息を長く吐き出すと、ようやくそこで少女を見上げた。
「悪いが少し休ませてくれ。さすがに痛い」
「わかった」
コレットはあっさりとうなずいて、ルイスの隣に腰かけた。それに彼はほっとする。
地下都市での異能の効果により、出血は止まったし腹の穴もふさがったようではあったが、折れた骨までは治っていないのだ。さすがに休息も無しに町まで歩いていくのは辛かった。
無言で空を仰ぐ二人を、そよ風がなでていく。先程までの激戦が嘘のような、現実離れした平穏であった。
「……なあ」
ふいに、ルイスは口を開く。コレットが顔を彼の方に向けた。
「なあに?」
問いかける声は、いつも通り平坦だ。感情を読み取れないことに何故か安堵する自分に苦笑しながらも、ルイスは息を吸って言葉を続けた。
「おまえは、これからどうするんだ?」
答えはすぐには返ってこなかった。
地下でのあの口ぶりからすると、コレットのあてが無いように見えた旅の目的は、おもにオーレリアを止めることにあったように、ルイスには思えてならなかった。それを終えた今となっては、この無垢な少女がどこへ行くつもりなのか、疑問がよぎる。
だが、コレットはこともなげに言った。
「ルイスといっしょに行く。いいでしょう?」
「おいおい」
呆れたルイスは、少女を見ていた目を細めた。視線の先にいる彼女は、首をきれいに傾けている。まるで最初から決めていたような態度に、男は驚かざるを得なかった。
「本気で言ってるのか? どこか穏やかな町で、おまえを受け入れてくれそうな家を探してそこで暮らすっていうのがいいかと思ってたんだが……」
「ルイスと行く方がいい」
「けっこー厳しいぞ。知ってるだろ?」
「でも楽しい。知らない人とくらすよりも、ずっと」
コレットはどこまでも食い下がる。困り果てたルイスはうめきながら頭をかいたが、だからと言って強い意思をたたえた碧眼が逸らされることはなかった。
このまま何度問答を繰り返しても、彼女の答えはきっと変わらないままだろう。ルイスは唐突にそう悟る。すると、なんともいえぬ諦観と温もりが心にしみ出してきた。
「あーはいはい。分かったよ、好きにしろ」
ひらひらと手を振りながら男がそう告げると、異能者の少女は大きくひとつうなずいて、それからまた正面を向いた。喜んでいるのか当然のこととして受け入れているのか、このときのルイスにはまるで区別がつかなかったが、大して気にしなかった。もはやよくあることである。
「ルイスは?」
少し経ってから、コレットがいきなり言った。問いを向けられた本人は、二、三度目を瞬く。
「うん?」
「ルイスはこれから、どうするの?」
「あー……」
再び天を仰ぐ。青空を、薄い白雲が漂っている。それは茫洋とした自分の心にとてもよく似ているような気がして、ルイスはなんとも言えない気持ちになった。
「どうするかな。もう目的は達成したからな」
呟いたきり、彼はしばらく黙りこんだ。
フィルシュタット王国の真実は、対立する二人の異能者によって暴かれたのだ。ルイスが旅をする理由は、もうない。
だが――
「まあ、またしばらくぶらついてみるかな。お尋ね者を懲らしめながら」
青い目が再び男を捉えた。
「旅をするの?」
「きっと、この広い世界には、まだ俺たちが見たこともないようなものがたくさんあるはずだ。それを見て回るっていうのも、きっと楽しいと思うぞ」
答えて、大きく伸びをする。同時に、どこかの木にとまっていたらしい鳥たちが、一斉に声を上げて飛び立った。
「お互い、今やるべきことを終わらせたんだ。少しくらい自由きままに動いてみたって罰は当たらないだろうよ。……『この世にいるべきじゃない』人間同士、仲良くやろう」
コレットはわずかに顎を動かした。それから、旅、と小さく呟く。
ルイスはしばらく、座りこんだまま彼女を観察してみた。だが、今までとなんら変わらない。身じろぎひとつせず、表情も人形のように動かないままだった。
男は少女から目を逸らし、足元をくすぐる草を見ながら考えてみる。どれくらいの間かそのまま熟考を続けて、ふいに顔を上げた。
「どこに行きたい?」
質問に大きな意味はない。
ただ――いつも流れに身を任せて渡り歩いてきたのだから、たまにはこの少女の希望を聞いてもいいだろうとは思った。
コレットは丸い目で青年を見上げる。そのまましばらく停止した。
「どこでもいいよ」
少しして、まったく同じ姿勢のまま答えをくれる。ルイスは予想通りと言えばその通りな答えに呆れて目を細める。
「おまえ、そればっかりだな」
「だって……きっとルイスといっしょなら、どこだって楽しいから」
コレットはそう言って、微かな笑みを浮かべた。注視していなければ絶対に気づかないであろうその微笑を、しかしルイスははっきりと捉えたのである。照れくさくなって目を背けた。
「なら、ひとまずはフィルホーエン観光でもするか。どうせ、そろそろ伯父さんのところにも顔出したいと思ってたしな」
「ルイスの家族?」
「そうだよ」
端的に答えて、ふとルイスは考えた。こんな変わり者を親戚のもとへ連れていって大丈夫だろうか、何か素っ頓狂なことを言い出しはしないだろうか、と。
ただそんな憂いも長持ちはしなかった。短くうなったあと、彼は心配することを放棄したのである。
「まあ、どうにかなるだろ」
彼の親類の中にも、少し変わった人は何人かいるのだ。そこにコレットを放りこんだところで、恐らく大きな混乱はないだろう。それどころか諸手を挙げて歓迎されるに違いない。彼らの姿を想像し、思わず眉間を押さえる。
まず浮かんだのは、どこかゆるい笑顔の数々であった。
「…………ああ、余計な誤解を招かないといいんだが」
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない」
ルイスがぴしゃりと言うと、コレットはほんの少し不思議そうな色を見せて彼を見てきたが、数秒するとすぐに何事もなかったかのように正面を見る。
先程からお互いに何度か繰り返しているやり取りにおかしくなったルイスは、小さく笑ってから、勢いよく息を吸い込んだ。
そして、自分の両頬を掌で打つ。
「よし、コレット。そろそろ帰るか! テオに心配をかけ過ぎても良くないからな」
「わかった」
ルイスがどうにか立ち上がると、コレットも腰を上げる。
同じように見える風景は、しかし刻一刻と移り変わっている。それは時代の流れを想起させるようであり、青年は刹那の間、先祖たちが生きた遠い日に思いをはせた。
紫の瞳は過去を辿り、やがて現代へと巡ってくる。
「行くか」
誰にともなく呟いた。隣の少女は言葉を発さない。だが、無言のままでもしっかりと、彼のあとについて歩き出したのだった。
「ねえ、ルイス」
「なんだ?」
「また湖を見にこよう。テオと」
「――ああ。弁当でも持ってくるか」
安寧を告げるやりとりは、ささやかな響きだけを草原に残す。それすらも、わずかな音たちにまぎれていく。後に漂うのは、戦をにおわせる微かな血の臭いだけだった。
やがてそれを残した二人の旅人の影すらも、木々の向こう側へと消えていった。




