最後の王
改めて見てみるが、剣には血どころか汚れのひとつも付着していない。鏡のような刃は地下の無愛想な景色を映し出している。
いつの間にか周囲の建物も輝きを失い、だがその黄金色は褪せることなく残っている。
ルイスは無言で剣を鞘に収めると、身体ごとコレットの方を向いた。彼女は微動だにしない。悲しんでいるようにも、何も感じていないようにも見えた。
「どうして、消したんだ?」
ルイスは訊いた。侮蔑でもなく、叱責でもなく、ただ問いかけた。
コレットから返る答えはない。彼女の視線はどこかの空へと向けられたままだ。ルイスは小さく息を吸い込み、重ねて問う。
「――掟だからか」
そのとき、ようやくコレットの瞳がルイスの方を向いた。彼は何も言わない。ただ黙って立って、答えを待っている。すると、小さな唇が動いた。
「それもある。でも、それだけじゃない」
「それだけじゃない?」
予想外の答えに、男は反問した。少女は小さくうなずく。それから、ざっと都の全体を見回した。まるで、遠い過去を懐かしむかのように。そして、噛みしめるように答えを口にする。
「ここもフィルホーエンもなくなってしまったら、ルイスが悲しむと思ったから」
不思議な響きを持って、答えは響く。なぜか強く胸を突かれたような、そんな思いがしてルイスは怯んだ。それからはっと我に返る。
「どういうことだ? なんで俺が出てくる」
フィルホーエンは自分の故郷だ。確かにルイスからすれば無くなるのは悲しいし許せない。それは間違いない。だが、どうしてこの都――フィルシュタットが絡んでくるのか。
だが、そんな疑問をよそに、コレットは当然のように言い放つ。
「だって、ここもルイスの故郷でしょう」
「……!」
何かが塗り変わったような気がした。ルイスは呆然と立ち尽くす。
閃く光景。弾ける過去。
自分と無縁であるはずの景色は、だがまるで自分のことのように焼き付いて離れない。
「わたしは昔、ここに来た。まだここが上にあるときに」
コレットは淡々と告白する。その目は、ある一点に向けられていた。その場所は、かつて都を統べる者が居を据えていた高い塔。
「そのとき、ここを治めていた王家の名前は、『ヴェルフェン家』だった」
ルイスは何も言わないままだ。
コレットは、改まって彼の方を向いた。純粋な目で、真実を放つ。
「――ルイスは、わたしが『とりひき』をした王様の、末裔なんでしょう?」
※
『今日も都は平和だ。だが、だからと言って浮かれてはいけない。都が平和でも地方がそうではないことなどよくあることであるし、都の内部だって平穏なところと不穏なところがあるだろう。王たるもの、常に周囲へ目を配っておかなければならない。それを忘れた瞬間、国はゆっくりと、だが確実に腐敗していく。フィルシュタット王国がそうならないためにも、王は王であることを忘れてはならない。
――今日も王国が、そして我がヴェルフェン王家が幸福に満ちた繁栄を築けるように』
彼は今日も、朝早くから図書館にやってきていた。きょろきょろと辺りを見回してみるが、まだ利用者はほとんどいない。カウンターの隅で馴染みの司書がこちらを見ているだけだ。彼はひとつうなずくと、はやる気持ちを抑えて、慎重に『民話・神話』の書架を目指す。そしてしばらく時間をかけて辿りつくと、『幻の都』ないしは『フィルシュタット』に関する本を片っ端から引っ張り出して、読書のために設けられているテーブルへと運んだ。
カラメル色の机に本の山を築きあげた彼は、分厚い本を開く。それはとても十二の少年が読むような内容ではないが、彼には関係のない話である。慎重に、目を通し始めた。
フィルシュタットと幻の都が脳内で関連付けられたのは、つい最近の話である。その手のことにまったく興味が無く、どちらかといえば剣を振りまわすことの方が好きであった彼にとって、幻の都は馬鹿にする対象でしかなかったのだが、そうも言ってられなくなってしまった。
フィルシュタット。彼の家、ヴェルフェン家の故郷とされる場所。それが実在するとなれば、彼――ルイスは気が気ではなくなったのだ。
あの日、倉庫で壁画と日記を発見して以来、ルイスはどうにも落ち着かなかった。
日記の最初のページに書かれた文章は何度も何度も読み返した。おかげで、その文章を丸ごとそらで言えるほどになってしまったのだ。
幻の都が実在すること。ヴェルフェン家がかつてそこを治めていたこと。幼い彼は、それを知ってしまったのである。
だが実際のところ、ルイス少年はそれを疑っていた。
幻の都自体が眉唾物なのだ。それに自分の家が絡んでくるなんて、物語の中くらいでしかあり得ない都合のいい展開だと思っていたのである。
かといって一笑に付すこともできなかった。両親がわざわざ出入りを禁じてきた倉庫の中で見つけてしまった記録だからである。
そんなわけで、真実を確かめるために足しげく図書館に通うようになってしまったのだった。
だが、今のところめぼしい情報は得られていない。あまりにもフィルシュタットについての本が少なく、またおとぎ話程度の曖昧な話しか書かれていないからだ。
日記は冊子の途中で終わっていた。国がもうすぐ滅びるようなことが書かれていた。
調べていくうちにルイスは、どうしてヴェルフェン家の治める王国がなくなってしまったのか、それを知りたいと思うようになっていっていた。
思い切り叫びたいのをこらえてため息をこぼした少年は、一通りめくった本を閉じる。本当に知りたいことはここにはないと、急に思った。
彼は天井を仰いでしばらく固まると、その後で勢いをつけて起き上がる。そして、残りの本に全部目を通した。そして一冊が終わるごとにため息をこぼした。
恐ろしいことに、図書館にあるこの手の本は、この日ですべて読破してしまったのである。
本の中に真実はない。そう思ったことがきっかけだったかは分からない。
「なあ、おれ、旅に出たい」
だが、ルイスがいつも世話になっている伯父にそう告白したのは、間違いなくこの日の夜のことだった。
※
遠い日を回顧するとき、彼の中にはいつもほろ苦さが生まれる。
頭をかいてため息をついた青年は、それを土の上に捨てた。それから遥かかなたの風景を仰ぎ見て、続けてコレットの方を見やる。
彼女は良くも悪くもいつも通りだ。急かさない、嫌そうな顔もしない。そこに立っているだけだ。
「どうしてそんなふうに思ったんだ? ヴェルフェン、なんて名前、うちだけのものじゃないだろう?」
ごまかしたかったわけではない。ただ、疑問に思ったから、ルイスはその言葉を選んだ。
「剣があったから」
「剣……」
ルイスは再び、自分の得物に目をやる。実際これも、あの古びた倉庫で見つけたものだった。
「その剣は、代々フィルシュタット王家にうけつがれているものだと聞いたわ。異能を封じこめる力を持っていると」
「ああ、どうりで……」
水の人形が最後に弱体化したわけも、オーレリアを倒せたからくりも、この瞬間にすべて悟る。そして――コレットが自分に期待を向けた理由も。ルイスは言いようのない疲れを感じて、肩を落とした。
コレットは彼の心情に気づいているのかいないのか、細い腕を伸ばしてくる。
「それから、目」
「は?」
「あの王様と同じ、きれいなむらさきの目」
なんと返してよいのか分からなくなり、ルイスは渋い顔をして黙り込む。あいにく先祖の顔を知らない彼は、コレットに向けられるような気の利いた言葉を持ち合わせてはいなかった。
だがやはり、彼女はそんなことはどうでもいいらしい。静かな瞳をすっかり慣れてしまった青年へと向けていた。
彼はついに降参する。
「どうやらそうらしい、ということくらいしか分からない。正直なところ、な。家の古い倉庫で、王の日記と思しきものを発見して、そこで俺も初めて自分がなんなのかを知ったんだ。この剣も、その倉庫で見つけてそのまま持ってきた」
「うん」
「それでな。俺はどうにも自分がフィルシュタット王の末裔だと信じられなくて、真実を探るために旅に出たんだ。ま、いつの間にかそれ以外の目的の方が重要になっちまってたんだが」
長く旅をしていると、自然と生きねばならないという感覚が身につく。その感覚のもとでがむしゃらに歩んでいるうちに、本来の目的が見えにくくなっていたのかもしれない。
「でも、ルイスは本当のことにたどりついた」
「……おまえたちのおかげでな」
おとぎ話程度にしか認知されていない国である。その当時の姿を知る人間が生きていると、誰が想像できようか。改めて考えるとずいぶんと途方もない話であり、ルイスは今さらながらに頭痛を感じた気がして、額を手で覆った。
コレットは、なぜか考え込むようにして王宮の方を見ている。彼女にとっておそらく懐かしいものなのであろうそれは、ルイスにとってもまた、自分のものではない古い記憶を刺激してくる重要なものだった。
「……ルイスは」
ややあって、彼女が口を開く。
「王様にならないの?」
「王様? どこのだ」
「フィルホーエンの」
ほどなくして、ルイスは納得する。
フィルホーエンは実際、フィルシュタット王国の後身のようなものである。国民の多くは彼の王国を総べた者たちをあがめている節があった。
そんな中であるから、仮にルイスが出ていけば歓迎されるだろう。王家の末裔はもう、彼とそのわずかな親戚くらいしかいないのだから。
だが――
「いや、その気はない」
資格を持つ青年は、それを自ら放棄した。
コレットは首をかしげている。分からないことに直面したときの、彼女の癖のようなものだ。日常と変わらないしぐさに、ルイスは苦笑した。
「どうして?」
「その理由がないからだよ。俺は別に王様になりたいわけじゃないし、フィルホーエンもひどい統治のもとにあるわけじゃない」
ルイスとコレットが見てきた王国は、極端に異能者を恐れる風潮以外は平和そのものであったし、それはルイスの記憶とほとんど相違ない姿であった。しかも、異能者差別については単にオーレリアが暴れ回ってしまったがためのものであり、上層部に全面的な責任があるわけではない。
「フィルシュタットは滅びた。もうない国だ。だから本当は、そこの王家が生きのびることも、あんまりよくないことなんじゃないか、滑稽なんじゃないか、と俺は思う。どんな理由があるにしろ、国も民も死んでしまったのに、統治者だけが生き残っちまったんだから」
言ってから、彼は自分が本当に王家の血を継いだ人間なのだと苦笑した。
「もちろん生き残りたちの人生を否定したいわけじゃないんだけどな。でも、そのうえでさらに今しゃしゃり出て王を名乗るってことは、本当にしちゃいけないことだ。今のことは、今の人たちに任せるべきなんだ」
ふと、地下都市の天井を仰ぐ。
かつての青空が、間近に見えた気がして、しかし幻想でしかないそれはすぐに消え失せた。
「――そういう意味では、俺も『いてはならない人間』の一人なのかもしれないな」
コレットを見る。彼女は動かない。表情も人形のごとく固まっている。だが、碧眼の奥にはきっと、彼女の心が隠れているはずだ。
「不満か?」
ルイスは相方を振り返った。
少女は、首を振る。
「ううん。ルイスがいいなら、それでいい」
「そうか」
「――ほんとうに、いいのね?」
コレットの言葉は、ただの確認である。不思議とそれは一瞬で分かった。
彼は声を立ててひとしきり笑ってから、小さな頭に優しく手をおく。
「本当に、いいよ。俺は王様にはならない。フィルシュタット王国は、終わったんだ」
フィルシュタットの終焉を告げる「最後の王」の末裔の顔は、晴れやかだった。
かつて異能により焼かれ、また別の異能により、辛うじてその痕跡だけを残した古代王国の都。
彼の国が築いた一時代がようやく幕引きを見せたのは、このときだったのかもしれない。




