酒場の男
水瓶の中に映る顔は、妙な気だるさを帯びているように思えた。
それがどうにも堪らなくなって、ルイス・ヴェルフェンは顔を上げて周囲を見渡した。
水瓶を囲む世界である酒場は、今が朝であるにもかかわらずかなりのにぎわいを見せている。仕事帰りの傭兵や軍人たちが、大声で笑いながら杯を掲げ、呷っていた。店内には酒と肉と煙の臭いが満ちている。それはここの日常であった。
そして彼も、その日常に溶け込む一人である。鞘の存在を確かめながらもう一度水瓶を見た。やはり不機嫌な顔が映り込む。
鏡代わりに置いてあるというそれは、見る者が見たら驚くだろう。貴重な水をそんなことに使うのか、と。現にルイスも最初はそんな感想を抱いた。だが鏡がわりの水瓶は、結局のところ水源が豊富なこの地方独特の、文化の産物なのである。
「待たせたね」
不意に正面からそんな声がかかった。ルイスは視線を水鏡からその方向へと転じる。ふくよかな体格の、人が好さそうな笑みを浮かべた女が立っていた。
「別に。待ってたつもりはないけど」
ルイスは素っ気ない声を上げる。
あまりにも冷たい態度に、この酒場を切り盛りする女将はまったく表情を変えない。ただ「あんたはいつもそうだねえ」などと言いながら、男の握りこぶしひとつ分のふくらみがある麻袋を差し出してきた。
「これ、この間の報酬だよ」
「ありがとう。早いな」
渡された袋を、ルイスはわずかな驚きとともに受け取った。硬貨のじゃらじゃらという音とともに重みが伝わってくる。
「凶悪な指名手配犯の捕縛なんていう仕事をあんたがそつなくこなしてきちまうから、こっちも張り切ったのさ。どういう神経してんだか」
笑顔で言う女の態度には、少しばかりの呆れが含まれている。一方、ルイスはというとその場に腰かけて麻袋を弄んでいた。
「自分でもそれなりにできそうな仕事を選んでこなしてるだけだ。不思議なことじゃないだろ」
「うん。あんたが一部で凄腕って言われている理由が分かったよ」
女はそう言うと身をひるがえし、それから男を手招きした。無言のそれに従い、ルイスは袋を荷物の中へとねじ込むと、それを担いで腰を持ち上げた。
遠慮のない笑い声の間に、杯の打ち鳴らされる甲高い音が響き渡る。男たちは仕事の愚痴などをぶちまけたり、同胞の冗談に笑い転げたりするのに夢中で、間を通り抜けていくルイスの存在に気づいてはいなかった。
ルイスは女将に案内されるまま店の奥のカウンター席へと足を運ぶ。そして、誰も座っていないそこの真ん中を選んで再び腰を下ろした。木の丸椅子がぎしりと軋む。
ふと顔を上げてみると、そこに女将の姿はなかった。いつの間にか店の奥へと引っ込んだらしい。退屈そうに頬杖をついた彼は特に考えもせず周囲の喧騒に耳を傾ける。
すると、店の雑音に混じって不穏な囁きが聞きとれた。
「なあおい、あの噂って本当か?」
「ん、どれだよ」
「西の林の向こう側に、盗賊がいるって」
「ああ……」
潜められた話し声に気を引きつけられたルイスは、さりげなくそちらへ目をやった。左端の丸いテーブルを囲んだ男二人が、言葉を交わし合っている。
うち一人の、大きな剣を携えたいかにも傭兵という風情の男が、気だるげに相手を見つめた。
「俺は実際見てねえから知らないが、かなり真実味があるって話だぜ? なんてったって、数日の間に西へ抜けたほとんどの人間が汗だくのぼろぼろで帰ってきやがる」
男がなんでもない世間話のように言うと、対面に座る軽装で弓をテーブルに立てかけていた若者が、顔をしかめた。
「まいったなあ。今度はあっちの方に狩り場を探しに行こうと思ってたんだが」
「やめとけよ。ろくな目に遭わないぞ、きっと」
どうやら生粋の狩人らしい若者は、武人の気配を漂わせる男にそう忠告されると、気弱そうな目をふせて、うーんと唸った。
一方、話を聞いていたルイスはさりげなく店の壁にある掲示板へと目を走らせた。
仕事の斡旋所を兼ねているこの酒場には、その掲示板に手配書や依頼書の類が貼り付けてあるのだ。今も、少々乱雑に十数枚の紙が留めてある。だがそのどれもに、「盗賊」という文字はなかった。
「最近この近辺ではやってる噂みたいだねえ」
ルイスが一人で首をひねっていると、のん気な声が聞こえた。彼が紫の目を真正面に走らせると、やはり女将が立っている。彼女は、右手に持っていたカップを力強く置いた。
中に入っているのは、酒ではなく茶である。中央部から取り寄せたというそれは、酒を飲まないルイスの、この酒場でのお気に入りだった。
カップに口をつけた彼は茶を飲み下すと、女将に質問を飛ばす。
「どういうことだ?」
「そのまんまの意味さ。確証はない。だが、どこかの誰かが言い出して――それがあちこちへ広まった」
女将はルイスの二つ隣の席に置いてる別のカップを手にとると、布巾でそれを拭き始めた。鮮やかな手際の間に滑り込む声は、妙に穏やかである。
「ただねえ。何人もがぼろぼろで帰ってきたっていうのは事実なんだよ。だから今や、盗賊の話は噂の域を超えちまってる」
「でも、そこに手配書はないぞ」
ルイスは茶をすすりながら、先程見た掲示板を指さした。女将はそれを一瞥してから、深く納得したように「ああ」と声を漏らす。
「そうだね。この斡旋所にも他のところにも、情報書類の一枚も回ってきてない。つまり、まだ賞金を懸けられていない盗賊どもってことになる」
「なるほど。出来立てほやほやのひよっこ集団か、あるいは今まで上手く息を潜めていた手だれの盗賊団か……」
呟いてみてルイスは自然と苦い顔になった。思い浮かぶ可能性が両極端すぎて出方に困る。それは、歴戦の傭兵たちもその場所に向かうのをためらってしまうだろう。
さらに彼は、もう一つの苦々しい事実も思い出した。
「そいつらは、どこに現れたんだっけ?」
今までより少しだけ声を張って問いかけたのは、女将が磨き終わったカップを奥の棚にしまおうとしていたからだ。彼女は振り返りもせず答える。
「確か、西の林を抜けた先の古い砦にたむろしてるってさ」
西の林、と女将の言葉を反芻したルイスは、頬杖をついてしばしの間考え込む。空いた片手で茶の入ったカップをゆらゆらと揺らした。
そうしてたっぷり三十秒間迷った後、茶を見つめた彼は、短く息を吐き出すとそれを一息で飲みほした。空になったカップをいささか乱暴に置く。
女将が振り返ったことにも気付かないまま、ルイスは席を立った。
「おや、もう行くのかい?」
「ああ。ちょっと、その砦とやらに乗りこんでくる」
不敵な笑みを浮かべて、ルイスは告げた。
「……は?」
素っ頓狂な声は女将のものだ。目を丸くして、完全に固まって彼を見ている。彼女がこのような反応を示すのは珍しいことだ。ルイスは思わず噴き出してしまった。
「わざわざ首に金がかかってないような奴らを退治しに行くの?――生粋の賞金稼ぎのあんたが」
わずかに皮肉を含んだ口調で言われたルイスは、押さえかけていた笑みを緩やかに浮かべた。
確かにルイスの本業は賞金稼ぎであり、獲物は基本的に懸賞金がかかった相手である。本来ならば件の盗賊団のような輩には見向きもしない。だが――
「進路上にそう言う奴がいるってんなら、どの道戦うことになるだろ。どうせなら不意をついてさっさと追い出しちまう方がいい」
西の林の先は、ルイスがこのあと向かうつもりでいた場所である。だからこそ今回は、重い腰を上げた。
肩をすくめて言ったルイスに対し、女将はわずかな憂いの表情を見せたもののそれはすぐに影を潜めた。彼女は、制止の言葉もかけようとはしなかった。
「そうかい、気をつけていくんだよ」
まるで母親のような声がけ。それに小さくうなずくと、ルイスは女将に背を向ける。そして振り向きざまに、カウンターに数枚の銅貨を放った。甲高い音を立てて散らばったそれを手早くかき集めた女が、男の背に言葉を投げかける。
「ああ、そうだ」
そのまま退散しようとしていたルイスはぴたりと足を止める。
「家名持ちの傭兵や賞金稼ぎは珍しいから、安易に名乗るんじゃないよ。ルイス・ヴェルフェン」
彼は振り返ると、わずかに引きつった笑みを相手に向ける。
「もうそれは飽きるほど聞いたよ」
耳に馴染んだ警告に軽い台詞を返した男は、正面に向き直ると誰にともなく「行ってくる」と声をかけ、古いながらきちんと手入れされた扉を開けて酒場を出た。
後に残るのは変わらぬ喧騒と、靄のように漂う虚無のみである。