帰郷
「ルイスの、故郷」
コレットは空を見上げながら、ぽつりとそう繰り返した。どこか事務的な響きがある言葉に、男は苦笑する。久々の風景を見渡した。
懐古の情を促す、変わらない光景。風にそよぐ木々も、空の色も、白い看板も――何もかもがあの頃のままで、なぜかふと胸の奥を悲しみが過る気がした。水泡のように湧きあがる苦い感情をのみこみ、唇をかんだルイスは、コレットの頭を軽く叩く。
「とりあえず、今日はもう遅い。どっかその辺で野宿にしよう」
いつも通り、を意識してそう言うと、コレットは首を二回ほど縦に振った。
それから二人は、ルイスの記憶を頼りに適当な穴ぐらを見つけた。そこで枝や葉を使って火を焚き、それを挟みこむようにして地面に腰かける。じっと揺らめく炎を見つめていると、ふいにコレットが口を開いた。
「どうして、あの人たちが襲ってきたんだろう」
彼女の言葉は独り言のような調子だった。それがつい数分前の出来事のことを指していると分かると、ルイスは木の枝を炎の中に差し込みながら吐息を漏らす。
「おそらく、アーネリア政府に何か吹き込まれたんだろ」
「アーネリアに?」
「ああ。ここ、フィルホーエンとアーネリアは昔から敵対している。国民同士の仲が悪いというわけじゃあないが、上の人間からすればフィルホーエン国民が邪魔だったんだろう」
「どうして? ルイスはただの賞金稼ぎなのに」
ルイスはふっつりと黙った。ふいに生まれた空隙の中を縫うようにして、炎が爆ぜる音が、闇の中にこだまする。橙色の光に照らされた碧眼は、男の顔を捉えて離さなかった。
指が離れる。木の枝は、あっさりと炎の中に引きずり込まれて燃えた。
「さあな。目をつけられたんじゃないか? 俺たち、ここ最近はいろいろとやらかしてるだろう」
おどけるようにして口にした言葉はやけに乾いていて、それが男の胸に苛立ちを生む。ちりちりと焼き付いてくる感情の理由を、彼は知っていた。だが、決して形にしようとはしなかった。
ルイスは視線を上げて、コレットの様子をうかがった。彼女は何も変わらなかった。ただ「そう」と言って炎の先に目を落とす。だが、なぜか意識だけは常に自分の方を向いている気がして彼は身じろぎをする。それから結局やりきれなさを覚えて、意味もなく空を仰いだ。
街の明かりが一切ないここは、天に瞬く星がよく見える。白い、あるいは赤い、砂粒のような輝きは昔からちっとも変わっていないようにも、すっかり変わってしまったようにも思えた。
「帰ってくるつもりは、なかったんだ」
無意識にそう口に出した。
「なぜ?」
少女の声が子供の過ちを叱る教師のような響きを持っているように思えて、ルイスは苦笑する。彼は、いっとう強く輝く星を見た。
「知られたくなかったからだよ」
何が、とは言わぬまま男は自分を嘲った。
翌日、二人は街に入った。そこそこ大きな都市で、その名前をルイスはよく知っている。昨日転移してきた場所に行くため、昔はよく通過していたのだから当然である。
フィルホーエンでは、木組みの家が多く見られる。茶色い木枠と白壁のコントラストが美しい通りをコレットが珍しそうに見回していた。ルイスは苦笑して彼女の肩を叩く。
「コレット、あまりきょろきょろしてると目をつけられるぞ」
「ごめんなさい」
軽く注意をすると、少女は素直に謝って前を向いた。
街道は、色とりどりの服を着た人々で埋め尽くされていた。その間を縫うようにして、馬車が走っていっている。大国であるからなのか、それとも『有名な物』があるからなのか、フィルホーエンには世界各地から多くの人が訪れる。
異色な喧騒に耳を傾けながら、ルイスたちはその足で仕事の斡旋所へと向かった。すぐにドーム状の大きな屋根が見えてくる。ここは大きな街なので、斡旋所もかなり目立つ建物だ。
「着いた」
久々に人混みの中をかき分けて進み、大きな扉の前に辿り着いたとき、ルイスは思わずそう言って深く息を吐きだしていた。扉の横では、旗が風に吹かれてばたばたと激しい音を立てている。
「大きい」
コレットが、ものすごく興味をひかれた様子で建物を見上げている。その肩に、ルイスは軽く手を置いた。
「仕事を紹介してくれるところだ。入るぞ」
「分かった……こんなに大きいところ、初めて」
ここまでコレットが物事を強調するのは滅多にないことだ。それこそこれまでも、あまりよくないことでなら頻繁にあったのだが。
ルイスはつい、口元を綻ばせていた。
「すごいか?」
「すごい」
「そりゃ、良かったよ」
すっかり、彼も少女の調子に慣れてしまっている。そんな自分自身に苦笑してから、ルイスは彼女の手を引いて開け放たれた扉を潜った。
斡旋所の中に入ると、周囲の空気は一変する。雑然とした街中はまだ洗練された印象を抱かせるものだが、ここの雰囲気はひたすらに荒っぽい。遠慮のない笑い声や怒号がひたすらに飛び交っている。それはここが、荒くれ者の溜まり場も同然だからだろう。
「さて、と……。何か仕事はないかね」
その雰囲気にすっかり慣れているルイスとコレットは動揺することなく、掲示板に向かって歩き出す。途中、屈強な男を何度か押しのけながら進んだ。
人垣が割れて、掲示板が見えてきた。いくつかの紙が乱暴に破り取られた跡があるが、どの斡旋所でもあることなので、別段驚かない。そもそも多くの斡旋所が手配書の持ち帰りを許可しているので文句を言うことなどできやしないのだ。
掲示板の前に立った二人は、依頼書や手配書を物色する。そしてそのうちの何枚かを丁寧にはがして持ち帰ることにした。
「なんで、悪い人ってみんな怖い顔をしているの?」
「……そりゃ、悪いことをしてたら自然と表情も怖くなるんじゃないか?」
無邪気というよりもどこか焦点のずれた問いかけに、ルイスはやや投げやりな調子で答えていた。ひっそりとため息をついたとき、潜められた話し声が聞こえてきた。何か噂話の類のようである。ルイスはそっと、眉をひそめた。
斡旋所のやかましさは、夜の酒場のそれによく似ている。昼間の、酒場代わりといった心持で訪れている者も多かったりするのだ。当然、いろいろな噂が立つ場所のひとつでもある。
「国境沿いの町がひとつ消えたってな……」
「この間もそんなことがなかったか? あれは確か、アーネリアだったけど」
「異能者の仕業ともいわれてるよな。嫌になるぜ」
そこまで耳に入ってきたとき、ルイスは視線を感じて振り返る。すると、コレットがルイスをじっと見つめていた。――否、ルイスを通してどこかを見つめていた。
「どうかしたか?」
彼がそっと問いかけると、コレットは数回瞬きをする。それから「なんでもない」と首を振った。どうにも素直に教えてくれそうにはないので、仕方なくその頭に手を置いた。
「独断専行はなしだぞ」
「どくだんせんこう?」
「一人で勝手に決めて動くことだ。何かあるなら、必ず俺に相談しろ」
コレットは少しの間固まってから、分かった、と小さな声で言った。仕事の間に何度も何度も繰り広げられたやり取り。そして、彼女は九割程度の確率でそれに従ってくれていたし、そうではない一割も些細な出来事にすぎなかった。
だというのに、今回に関してはルイスの胸から不安が消えることはなかったのである。
斡旋所を出た二人は、ひとまず街の中を見て歩くことにした。すぐにこなさなければいけない依頼もないし、金銭的な危機というわけでもない。少しは羽を伸ばしても良いだろうという、ルイスの判断である。
遠くから小太鼓と笛の音が聞こえる。大道芸でもやっているのだろうか、と考えたルイスはふとコレットの方を見て微笑した。
街の様子に初めから興味津々だったコレットは、観光に出てからというものずっときょろきょろしている。ともすればどこかへ消えてしまいそうなので、ルイスは終始彼女の手を引いていた。
「何がそんなに珍しいんだ? 今までこの程度の街は結構見てきたはずだけどな」
彼がそう訊くと、少女は視線をいずこかへ向けたまま答える。
「だってここは、ルイスの故郷なんでしょう?」
どうやらそれが理由らしい。変わった奴だ、とルイスは肩をすくめた。彼女と行動を始めてもうすぐ一月になるが、まだまだ理解できないことの方が多い。
漂っていたコレットの目が、ふいに止まった。無垢な視線をそっと追うと、その先には露店がある。そこでは、焼いた肉団子を串に刺したものが売られている。香ばしい匂いが漂ってきていることに、そのときになって気づいた。少女はそちらを物欲しげな目をして見ているのだ。もちろん、今まで通りの無表情ではあったが、ルイスにはほんのかすかな感情の動きが分かるようになっている。
コレット、と名を呼んだルイスは、露店の方を指さした。
「……食うか?」
すると彼女は、大きく首を縦に振る。欲求は妙に素直だった。
ルイスはすぐに露店で串焼きを二つ買い込むと、自分のぶんはさっさと食べてしまった。熱いのに苦戦しているのか、少しずつ肉団子を食べていくコレットを引きつれて、雑踏の中へと戻っていく。
そうしてしばらく歩くと、中心街を出たのか人通りが減ってきた。その頃には、コレットも串焼きを食べ終わって満足そうにしていた。
ちょうど、そのときである。
細い路地の先から、静寂を切り裂く悲鳴が聞こえてきた。二人は揃って足を止め、今まさに通り過ぎていこうとしていた路地の方を見やる。
「……なんだ?」
「女の人の、声がした」
気になってのぞきこんでみるが、細い道の先に続くのは暗闇だけである。
だが、訝って首をかしげていると、再度悲鳴が聞こえてきた。そのあと誰かの怒号と思しき声も。
ルイスとコレットは、しばらく視線を交差させる。それから、どちらからともなく路地の中へと足を進めた。
進めば進むほど辺りは暗くなっていく。心なしか、空気も淀んでいくような感じがしていた。放棄された箱やバケツの上を器用に渡っていく野良猫を一瞥しながら、声の主たちに気づかれぬようそっと歩く。すると、声がひときわ大きくなって響いてきた。
「やめて、やめてください! 誰か助けて!」
「助けなんか呼んでも無駄だぜ。誰も来ねえ」
ルイスは声のした方を見て目をみはる。それは、途中で途切れている石壁のすぐ向こう側から聞こえてきていたのだ。彼は壁の切れ目に近づいてしゃがみこみ、同じことをするようコレットにも手ぶりで指示を送る。
そして、追従してきたコレットと共にのぞきこんだ。
壁の先は少し広い空間になっており、そして行き止まりであるようだ。状況としては、そこに二人の大きな男が若い女を引きずってきている、というところだろうか。ルイスと同じ年頃に思える女は、涙で顔をくしゃくしゃにしながらも、必死で助けを求めて叫び続けている。
「無駄だっつってんだろぉ?」
やがて、男のうち一人が大きな声を上げて女の腕をつかむ力を強くした。
「異能者なんて、この世界にいちゃならねえ存在だ。だれも見向きしねえよ!」
ルイスとコレットは、ほぼ同時に身を乗り出した。男の口から出てきた思いがけない言葉が、二人の間を漂う。そしてそれは、瞬時に凍りついた。
碧眼が細くなる。空気の揺らぎを感じ、ルイスはすぐに大きく飛び退いていた。
そうして次の瞬間、男たちの周囲に炎で大量の剣が生成され、それは雨のように石畳の上へ降り注いだ。それらはすべて、同じ時に弾けて爆音と衝撃をまきちらす。
男たちは悲鳴を上げたが、恐らく彼ら自身に被害は及んでいないはずだ。あの一瞬で、コレットは彼らの周りに障壁を張っていた。
やれやれと首を振りながら、ルイスはひび割れた石壁の間から、現場へと踏み出した。コレットが一足先に行き、煙の中から現れた三人の前に立つ。
女の方は軽く目をみはっていた。男二人は明らかにうろたえている。
「なんだ、てめえら!」
「その人をはなして」
男の抗弁をさえぎるくらいの勢いで、しかしあくまで淡々と言ったコレットが、手を突き出した。男たちはすぐさま威嚇姿勢を見せたが、そこで一歩踏み出したルイスが、いつでも剣を鞘走らせられるようにすると、彼らは身を竦ませて口を閉じた。
ルイスは穏やかな表情で相手を見る。
「早く解放した方がいいぞ。じゃないと、俺が剣を抜く前に、この子がおまえたちを焼きつくすなり串刺しにするなりしちまうかもしれないからな」
もちろん、死人を出さぬようと厳命してあるのでそのようなことが起こるはずもないのだが、実際を知らない哀れな罪深い羊たちは、静かな狼の無表情と剣士の言葉を受けただけでたちまち真っ蒼になった。
「ご、ごごご、ごめんなさいー!」
そして、か細い叫びを残して逃げ去ったのである。
後に残されたのは、乱暴に石畳の上へ放り出された女と、賞金稼ぎと異能者だけであった。




