水底に沈む
「ああ、この池か」
鬱蒼とした草木に囲まれている池。緑の中に唐突に出現した水色の穴のようにも見えるそれを見たときのルイスの感想は、以上のものだった。
というのも彼とコレットは、お尋ね者捕縛のために洞窟へ行く途中、この池をすでに見ていたのだ。その時点では別に気にも留めなかったが、その池に今から潜るとなれば話は別である。
横には、ハシバミ色の瞳をくりくりさせて池を睨みつける少女と、項垂れてため息をつく少年がいる。
「そう、この池。この池のどこかに指輪があるはずなの!」
「どこかかー。まあ、そうだろうなー」
川へ繋がっていないとはいえ、わずかながらの水流のおかげで指輪は流されているはずだ。余程運が良くない限り、落ちた場所にそのまま引っかかっている、ということはあり得ない。ルイスがやれやれと呟くと、コレットが見上げてきた。
「大丈夫。見つからなかったらわたしが水をなくしてあげるから」
「いや、それはやめろ。頼むからやめろ」
「どうして?」
「さすがに村人に怒られるからだ!」
いきなり口を開いたと思ったらこれである。彼女のことだから、指輪が見つからなければ本当に池の水を干上がらせるくらいはやるだろう。なんとしてでも見つけてこなくてはならなくなってしまった。
ルイスは上着と靴だけ脱いで荷物と剣を外すと、草の上に置いた。そして慎重に池の前に立つ。水面は凪いでいる。まるで鏡のようにはっきりと、彼の姿を映しだしていた。ルイスはひとつうなずくと、三人を振り返った。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
軽い調子で告げた後、勢いよく息を吸い込んでとどめると、そのまま素足で地面を蹴った。身体が宙に浮き、かすかな弧を描いて水の中に落ちる。視界を白い泡が埋め尽くしたと思ったその刹那、眼前に青い世界が広がった。
ルイスは指輪を探すべく辺りを見回し始めた。だがそのとき、全身を奇妙な浮遊感が襲う。慌てたルイスはしかし、すぐに抗うことをやめた。水底へと潜っていっていた身体はわずかに浮き上がり、そして静止した。
ルイスは首をかしげ、少しだけ息を吐き出す。そして――驚愕に目を見開いた。
呼吸ができたのだ。息を吐き出しても、肺が押しつぶされるような圧迫感を覚えない。顔をしかめたルイスは、ゆっくりと体勢を立て直して池の中を泳ぐ。この池が実はただの池ではないのではないか――そんなことを考えそうになったが、今はひとまず指輪捜索の方に集中することにした。
見渡して目に入るのは、透き通った水と底の土、そしてあちこちにごろごろと転がっている岩の数々だった。どうやら、いつのことかは知らないが、人が掘ったもののようで緑はほとんど見られない。
ルイスは注意深く辺りを見回す。すると、ひときわ大きな岩と岩の間に、光る物があるのが見えた。ともすれば気づかず通り過ぎてしまいそうな、小さな白い光。それに狙いをつけ、彼は水を蹴って進んでいく。
慎重に岩へ近づく。表面の凹凸が確認できるほどの距離になったところで、ルイスはそっと、光る物に向かって手を伸ばした。指輪が流れてしまわないように、慎重に指を絡めていく。穴はルイスの指が通らない程度に小さいので、やはりエルリアのために贈られたものだろう。
握りしめた手をそっと引く。少しだけ指を開いてみると、そこにあったのは銀色の指輪だった。あまり高価なものではないが、状態が良い。大切に使われているのだと思い、ルイスはふっと微笑んだ。
だが、その身体が唐突に持ち上げられたおかげで、そんな思考はすぐに吹き飛んだ。池に飛び込んですぐに感じたあの浮遊感が、今度は次第に強くなっていく。無意識に、両手を強く握りしめた。
――『消エテシマエ』
耳元に優しい囁きが流れ込む。耳を貫く刺すような痛み。ルイスはわずかに顔をしかめ、視線を左右に巡らせた。しかし、広がっているのは水泡のわく水だけだ。
こぽ、こぽり。
水泡が水面へ向かって昇っていく。その数は少しずつ増え、青の空間を白く染めた。
広がる音。流れていく水。逆転する、世界。
ルイスがすべてを感じたとき、すでに事は動き出していた。今まで恐ろしいほど静かだった水が、いきなり流れを作って巡りだす。唯一中にいた人の身体を巻き込んで、激しい回転は続いた。
まずい、と感じたルイスが抗おうとしたとき、浮遊感が唐突に消えた。とてつもない圧迫感が襲いかかる。反射的に息を吐き出すと、押しつぶすような痛みがやってきた。
水が本来の水に戻ったのだと気付いたとき、その痛みは全身に回っていた。そして池の水の流れはどんどん速くなっていく。もはや、右も左も、上も下も分からなくなっていた。
そう思ったとき、身体が羽根のように軽くなり、優しく浮いて、そしてまた落下した。
しばらく、視界は真っ暗だった。そこに光が戻り始めたとき、もはやおなじみになってしまった圧迫感が急に迫ってくる。
「…………っ!」
目をみはって身をよじったルイスは、そのまま激しく咳きこんだ。水が柔らかい草に吐き出される。彼はそこで初めて、自分が草の上に寝ていることを知った。
「ちょっと、大丈夫?」
焦った声を聞き、彼は視線を上に向けた。困り果てた顔でのぞきこんでくる少年と少女の顔が見える。ずいぶんとぼやけた視界。ルイスはゆっくり息を吸うと、目を閉じて吐き出した。気管にひりひりとした痛みが走る。
次に目を開いた時、視界はすっかり元に戻っていた。少女のハシバミ色の瞳がだいぶ大きく見えた。額を手でぬぐったルイスは、左手を草の上について上半身を起こした。
「ああ……大丈夫だ」
吐き出すように呟くと、少年と少女――エルリアとネインは表情を輝かせる。ふっと微笑んだルイスは、続けて彼らに訊いた。
「何があった?」
端的な問いに二人は顔を見合わせるが、やがてネインの方が困ったように頬をかく。
「それが……僕たちにもよく分からないんですけどね。水面に泡が見えたと思ったら、いきなり池全体が激しく渦巻きはじめて。これはまずいんじゃないかと思ったら、あの子が手を挙げたんですよ。そうしたら傭兵さんが池から引っ張り出されてきました」
「そうか」
一応、一般的に言う傭兵ではないのだが、そこはあえて指摘せずに相槌を打った。そして、ネインが指さした方向を見る。そこに佇む少女の姿を認めると、彼はにやりと笑った。
「悪い。助かった」
「うん」
おそらく異能を使って男の体を池から引きずり出したのであろう少女は、良いとも悪いとも思っていないような顔でこくんとうなずいた。いつも通りの反応にほっとしたルイスは、続けてエルリアの方を見る。
「ほれ」
もじもじしている彼女に向かって、ルイスは指輪を放り投げた。放物線を描いて飛んでいったそれを慌てて受け取った彼女は、目を見開いた。
「あ、ありがとう」
「別に。頼まれたことをしただけだぞ」
素っ気なく言い捨てたルイスは立ち上がる。身体にこびりついてしまった草を払い、コレットの方に向かって歩いた。
「しかし、どういうことだろうな。水がいきなり渦巻いたって」
「理由はあるよ」
コレットは舌足らずな発音でそう言った。あまりにもあっさりしたその反応に驚いて、ルイスは足を止める。
「なんだ、分かるのか?」
彼女の方を見て問いかけると、返答があった。
「うん。あれは多分」
だが、その言葉は低い音にかき消される。うなるような轟音と共に地面が細かく揺れた。突然のことにやや慌てたルイスだが、自分の本能が「危ない」と言っていることに気づくとすぐに頭が冷える。咄嗟に踏ん張って、二人の子供の方を振り返った。
「おい、大丈夫か!」
叫んだ先にいるエルリアとネインは、地面に両手をついて身体を支えていた。
「なんとか大丈夫ですー」
「何これ、地震?」
気の抜けたネインの返事にかぶせるようにして、素っ頓狂なエルリアの声が響く。ルイスは眉をひそめた。
「正直分からない。どうなって……」
言いながら正面を見た彼は、唖然とした。
先程まで潜っていた池。そこから、高い水柱が上がっていた。水は渦を巻きながら空中に向かって噴きだしている。その勢いは、何年か前に見た竜巻を思い出させるものだ。
呆然と見ていると、水柱は徐々にその勢いをなくしていく。そしてゆっくりと形を変えた。渦の端々から水が伸びて、やがて人の手のような形をなしていく。
「これは、まさか」
小さい頃、多くの子供が読む絵本の中に、人の姿をとる水のお化けの話がある。咄嗟にそれを想起した男が数歩下がると同時に、彼の予想は現実となった。
変形を続けていた水が静かになり、地面の揺れも収まる。すると池には、巨大な水の女が佇んでいた。彼女は、目も口もない顔を人々に向けた。
『消えてしまえ』
静かな声はルイスが池の中で聞いたものと同じだったが、それよりははっきりとしていた。その女は、沈黙してしまった彼らを順繰りに見ると、おもむろに右手を挙げる。
空気がざわつく。ちりちりと肌をなでる嫌な予感。賞金稼ぎの男は、ほとんど反射的に剣をひろって構えた。同時に女の手が勢いよく振り下ろされた。水であるはずのそれは、重量を伴っている。
ルイスは女の手が達する前に大きく踏み込むと、剣を突き出した。刃が水を貫く。恐ろしい程に手ごたえはなく、しかし水は確かに散った。素早く剣を引いたルイスは地面を蹴って後ろに跳んだ。
腰を沈めて様子をうかがっていると、両断された女の腕が徐々に繋がっていっているのが分かる。ルイスは思わず舌打ちをした。
そのとき、横で一瞬光がまたたく。鈍い音が響き、女の胴体に銀色の光弾が撃ち込まれた。女はわずかに身体を丸めるが、すぐに元へと戻る。光弾は吸い込まれるようにして消えた。
「ルイス、さっきの話の続きだけど」
横から静かな声が聞こえた。ルイスが振り返ると、手元に次弾を形成しているコレットがいた。金髪をなびかせる少女は、水の女を見据えながら非常に冷静な態度で続けた。
「あれ、力のにおいがするの」
一週間以上も前に聞いたのと同じ言葉が示す事実はただひとつ。だが、ルイスの心は思っていたほど波立たなかった。慣れてしまった自分を嘲りながら、剣を構えなおす。
「つまり」
確認しても、コレットの態度は憎らしいほどに変化が無い。
「多分あれは、異能者が作った人形だと思う」
――もはや、異能者との縁は絶えることがなさそうである。




