おとぎ唄
昼を告げる鐘が鳴り響く。それに呼応するように木の葉が揺れたことに気づき、彼はふと薪を割る手を止めて空を見上げた。
今日は、雲ひとつない快晴である。薄く広がる空の中を、鳥が気持ちよさそうに旋回していた。降り注ぐ光を受けて彼は思わず目を細めて、それから斧をにぎりなおした。深々と息を吐く。
この村は、基本的に外界と隔絶されていた。外で何が起きていようとも、一切関係なくゆったりと時間が過ぎていく。それこそが村の住人にとっての常識であり、彼もまた例外にはなりえなかった。――だからこそ、来訪を告げる声かけにはひどく驚いたものである。
「少し、聞いても良いだろうか」
そう言われたのは、彼が薪割りを再開してから少し経った頃である。覚えのない声に首をかしげながら振り返り、そしてこれ以上ないというほど目をみはった。目の前に、知らない二人組がいたからだ。
しかもそれは彼の目から見ても奇妙な取り合わせであった。噂にきく傭兵のようないでたちの、妙に整った顔の男と、人形のように表情を凍りつかせた少女。彼女の紺碧の瞳にじっと見つめられ、彼は怯む。それを見て男が相好を崩した。
「ああ、すまない。この子はいつもこうだから、どうか気にしないでやってほしい」
「はあ……」
生返事をした彼は、それから慌てて続ける。
「それで、何かご用ですか?」
丁寧な対応ができた自信はなかった。だが男はそれを気にするでもなく、ただ鷹揚にうなずく。
「この村に泊めてもらえるようなところってないか?」
「ああ、それなら……」
少しの間記憶を辿った彼は、視線を泳がせる。
「確か村の奥に、酒場を兼ねた宿屋が一応あったと思います。毎日閑古鳥が鳴いてるんで、地元民でさえ忘れかけてますけどね」
しらっと答えると、男は声をたてて笑った。その様子が妙にきれいだったものだから、彼でさえもぎくりとする。しかし当人は村の若者の戸惑いなど知らずに、ただ「分かった。ありがとう」と言って手を挙げた。それから、無表情少女の手を引いて村の奥へと歩いていく。
嵐のような出来事のあとに取り残された彼は、しばらくの間、薪割りのことさえ忘れて呆然としていた。
「なるほど、ここが酒場兼宿屋か」
「大きいね」
ルイスとコレットは村人と思しき若者に話を聞いた後、村の奥へと足を踏み入れた。人が訪れること自体珍しいらしく、道行く他の村人たちからは好奇の視線を向けられたものである。そして二人が辿り着いたのが、ひとつのそれなりに大きな建物だった。丸太で作られた建物には、『酒場』と書かれた巨大な看板がぶら下がっている。
「確かに、あまり人は来なさそうだな」
夜になればおどろおどろしささえ醸し出しそうな古い建物を見てルイスはそう漏らす。コレットは何も言わなかった。ただ、ぼろぼろの巨大看板をじっと見ていた。
そんな彼女の肩を叩いて、男は扉を開ける。あまり建てつけが良くないらしく、扉は大きく軋んだ。
店内はうらさびしい様子だった。いくつかのテーブルと椅子だけが鎮座していて、本当に人っ子一人いない。それは昼間だからというわけではなさそうだ。そのおかげか薄暗い空気が漂っている空間を見回して、ルイスは顔をしかめる。
「静かだな」
彼の不快感を伴った声は、人気のない店の中にじんわりと広がった。すると、それに呼応するように店の中で凝っていた影が動く。二人はつい身がまえそうになったが、影の中から気だるげな男が一人出てくると、ふっと肩の力を抜いた。
「おや。お客様とは珍しいな。明日は槍でも降るのか」
「ずいぶんな言いようだな」
「そりゃ、一週間に一回酒飲みに来る奴がいればいい方っていう店だからな」
男の纏う倦怠感に気づいたルイスは、何も言えなくて肩をすくめる。そんな状態でこの人の生活は大丈夫なのか、などと柄にもなく心配してしまった。
「その様子だと、とりあえず宿泊をご所望のようだな」
「――ああ。手続きを頼めるか」
ぶっきらぼうな、店主と思しき男の言葉に我に返ったルイスは、脱力したまま問う。すると相手は不機嫌そうな表情でそっぽを向いた。
「そんなものいらねえよ。いつまででも泊まってけ。宿泊料の安さが最大のうりだぜ」
「それは、うりにして大丈夫なのか?」
「さあな」
男がさらりと答えて鼻を鳴らしたものだから、ルイスはまたしても押し黙る。何がそんなに嫌なのか、主人は二人をカウンター越しにひとにらみすると、背を向けた。そして部屋の鍵をカウンターの上に放った。小さく澄んだ音がする。
やれやれと小さく呟いたルイスは鍵を手に取ると、コレットを振り返った。彼女は無言でルイスのあとに続く。二人はそうして階段を上ろうとしたのだが、その寸前で足を止めた。
ルイスの紫色の瞳が、一枚の絵に釘づけになる。
それは、酒場の壁になんということもない絵のように飾ってあった。古い都市の様子を描いたものである。ルイスは、これをよく知っている。
彼が呆然としていることに気付いたのか、コレットが訝しげに彼を見上げた。そして、その唇から呟きが漏れる。
「“幻の都”……」
コレットが首をひねり、何事もないように動き続けていた店主がその動きを止めた。しわだらけの顔の中で光る鋭い目が、若き賞金稼ぎの姿を射抜く。
「絵を見ただけでその名が出る人間には、久し振りに出会ったな」
皮肉っぽく呟く男の目には、わずかながら驚きが滲んでいる。ルイスが何かを言う前に、彼は続けた。
「もしかして兄ちゃん、この伝説を信じているクチかい?」
しわがれた声で向けられた問いかけに、ルイスはしばらく答えなかった。それでもやがて少しだけ頭を垂れ、「ああ」と短い肯定の言葉を紡ぐ。
ただのおとぎ話を信じている人間とは思えないような静かな態度に、主人は疑念を募らせた様子である。まじまじとルイスを見ていた。だがやがて、いつかのように目を逸らした。
「ほどほどにしとけ。でないと、肝心な時におとぎ話にすがるようなダメ人間になるぞ」
とげとげしい忠告だった。しかし、けっ、とでも吐き捨てそうな表情で言う様がおかしく思え、ルイスはわずかに吹きだす。それから、とても穏やかな笑顔を相手に向けた。
「肝に銘じておこう」
それはこの年の青年には似合わない、どこか達観したような笑みであった。
この店の主と会話したあと、二人は二階へ行き部屋に入った。そこに至るまでに誰かとすれ違うことはなかった。
お世辞にも広いとは言えない、しかし手入れの行き届いた二人部屋だった。その様子を一通り確かめたルイスは、二つある寝台のうち一つに腰かけ、持ってきた荷物や財布を一度すべて投げ出した。改めてそれらの中身を確かめると、ひと息つく。
「盗まれているとかいうことは、なさそうだな」
もっとも、盗まれていれば二人のうちのどちらかがすぐに気付くはずであるから、本当は心配などしていない。
ルイスは財布を荷物の奥へねじ込むと、寝台の上で足をぶらつかせているコレットを一瞥した。何を考えているのかまるでわからない無表情だが、それはいつものことなので今さら気にしない。なんの気なしに肩をすくめた彼は、それから短く彼女を呼んだ。
「明日はこの近くに潜んでいるというお尋ね者を捕まえにいく。それでいいな?」
「うん」
コレットがあっさりと答えた。だが彼女はそれからしばらく考え込む素振りをすると、まっすぐルイスの方を見る。
「手加減しないとだめ?」
端的な問いを、ルイスはあっさりと肯定した。
「もちろん。死人は少ない方がいいだろ」
「分かった」
そしてコレットもあっさりと受け入れた。やがては寝台の上でそれぞれの時間を過ごす。今まで幾度となく繰り返されたやり取りだった。
コレットは、手加減ができないというわけではない。ただ力を抑えることがひどく億劫だから、手を抜かないだけだという。通常ならばそれで問題ないくらいであるが、彼女の場合は別だった。
この少女と最初に賞金稼ぎとしての仕事をしたとき、相手集団の中に死者が出たのだ。これにはさすがのルイスも慌てて、以後は死者を出さない程度に手を抜くよう厳命したわけである。
事のなりゆきを思い出すとなんともいえない気持ちになって、男はそっと溜息をついた。少女はそれを歯牙にもかけず、何か物思いにふけっている。
無言の時間。時計の秒針の音だけが、部屋の中を漂っては消えていく。
それがしばらく続いたあと、少女の紺碧の瞳が相手を見た。
「ねえ。ルイスが言っていたおとぎ話って、どんなもの?」
唐突であり、彼女にしては珍しく長い言葉であった。ルイスは顔を上げてコレットの顔をまじまじと見ると、少し考え込む。そういえば前に、機会があれば話すとか言ったな――と思いだしてうなずいた。
「聴きたいか?」
「聴きたい」
確認のための問いかけも、少女の前では意味をなさなかった。ルイスは小さく笑ったあとに、身体を彼女の方に向けた。
「なあに。この辺りの人間なら誰もが知ってるような、他愛もない話だ」
笑い含みの声で切り出した男は、続けて小さく息を吸う。そして、音を奏ではじめた。
昔、大陸に王国があった 大きな大きな王国だった
いつでも眩い太陽と 神々しい月に照らされて
王国は長く長く栄えた 素晴らしき王のもとに
そこへ、女が現れた 女は旅人だった
その美しさは王国の 多くの人々をとりこにして
ついに王のもとに噂が届いた 気高き王のもとに
王と女は出会う 女は微笑みとともに王に手を差し伸べる
しかし王はそれを はねのけて立ちさった
怒りの火が 燃え上がる
炎は街を包み込み すべてを焼いて消していった
大きな大きな怒りの中で 女が一人高らかに笑って
そして姿を消した
今はもう誰も知らない 王国の物語
名前も忘れ去られた 王国の物語
唄として紡ぎ出されるおとぎ話は、生々しさをともなって部屋の中を流れていく。しかし、コレットの表情に動揺の色はない。ただ、子供が童話を聴くときと同じように、穏やかな顔で耳を傾けていた。
歌い終えたあと、ルイスはもう一度小さく息を吸い、吐き出した。
小さな部屋に静寂が満ちる。それを破ったのもまた、語り手であった男自身。
「まあ、今じゃ寝物語として聞かされる程度の話だ。深く考え込む必要もない」
そう言って彼は腕を組んで思いっきり伸ばす。それを見て、聞いていたコレットはしかし、少し目を伏せると思考するかのように黙り込んだ。訝しく思ったルイスは、彼女の方を見る。
「王国を消した……女」
彼女の小さな唇からそんな言葉が紡がれるのを確かに耳にして、彼は首をひねった。
「コレット?」
思わず名前を呼んだ。すると、少女の瞳がぐるんとルイスの方に向く。彼は一瞬だけ、たじろいだ。問いただすことも、促すことも忘れて黙り込んでいると、コレットが話の口火を切った。
「……でも、あなたはそれを信じているんでしょう、ルイス?」
舌足らずな発音だというのに、子供とは思えないような雰囲気を纏って言葉が流れ込んでくる。ルイスは眉をひそめて、顔を逸らした。
「どうして?」
男は口をつぐんだ。そして瞑目する。脳裏に遠い日の記憶がよみがえる。
薄暗い部屋。雑然と並べられたもの。古ぼけた剣。黄金に光る都市。
いつからか見るようになったそれらの光景は、いつのものかも知らないというのに、確かな実感を伴って彼の中に流れ込んできていた。
やがて、目を開く。
「どうしようもなく子供じみたくだらない理由だよ。気が向いたら、おまえにも話す日が来るかもしれないな」
卑怯だということは分かっていた。だがルイスは、そう口にした。そして笑う。首をかしげているコレットに対して手を振り、村を散策してみようかと提案した。
それ以降しばらく、彼は“幻の都”のことをいっさい口にしなかった。そして再び彼がその言葉を紡ぐとき――ひとつの「終わり」が訪れるのである。




