きれいな人
セルジュにより手当と諸々の後始末の根回しをしてもらった二人は、この日も彼の家に泊まることとなった。
「きっともうしばらくすれば、街の人も外からやってきた人たちに不審な目を向けることはなくなると思います。少しずつですけど、きっと復興していける……あなたたちのおかげですね」
ルイスとしては、処理が終わったあとにそう言ったセルジュの、さっぱりとした笑顔が妙に印象的だった。
さらに彼はコレットが異能者だと知ると、彼女にいろいろと質問をしていた。怪我のせいか疲れ切っていたルイスは、その途中でコレットに一言添えてから部屋に行き、泥のように眠った。
そんな感じでそれぞれに夜を越し、翌日の朝。二人はセルジュと一緒に、コレットの身分証明書を受け取りにいくことにした。
「なあ、眠くないのか?」
「平気」
コレットは長々と学者の質問に付き合わされていたにもかかわらず、いつものように平然としている。顔色ひとつ変えないその様にルイスはいよいよ感嘆した。セルジュがその横で苦笑する。
「彼女、すごいんですよ。どんなに時間がたってもほとんど表情を動かさずに答えてくれるんだから。どうやったらあんなことができるようになるんですか?」
「……と、俺に訊かれてもな」
むしろこちらが知りたいくらいだと、ルイスはため息をついた。
そんな話をしている間に、昨日見たばかりの役所に辿り着く。あのときはメイベルが隣にいたな、などとらしくもない感慨にふけってから、男はその中に足を踏み入れた。
受付まで行くと昨日の女性職員が対応してくれた。彼女は、ルイスとコレットの顔を見ると眉をひそめる。瞳は色々な感情がごちゃ混ぜになったように揺れていた。ルイスは狂ったような女の笑顔を思い出したが、あえてそのことには触れず、ただ証明書を受け取りにきた旨を伝えた。
女性は慇懃に頭を下げると、いつかのようにカウンターの奥へと姿を消した。その後ろ姿を見送ってから、ふとルイスは呟く。
「メイベルのやつ、どうなったんだろうな」
「ああ……それなら噂程度の話を聞きましたけど」
独り言に答えがあった。ルイスはびっくりして振り返る。視線の先ではセルジュがにこにこと笑顔で立っていて、彼と目が合うと「知りたいですか?」と問うてきた。なんともいえぬ気分になったルイスは、深々とため息をついてから、投げやりにうなずいた。
彼は、少しだけ声を潜める。
「警察署に拘置されてるらしいんですけどね……気が狂ってるっていう話ですよ」
「気が狂ってる、か」
そりゃそうだろうな、という言葉は飲みこんで、ルイスはうなずいた。異能を振るって悦に浸っていたような人物が、いきなりそれを奪い去られれば狂いもするだろう。つい、コレットを一瞥する。だが彼女はなんの反応も示さずに、ただそこに佇んでいるだけだった。ルイスは少し顔を綻ばせて、すぐに目を逸らした。
「なるほどな。ありがとう」
セルジュにそう言ったとき、ちょうど女性職員が戻ってきた。
「お待たせしました。こちら身分証明書です」
そう言って彼女は、一枚の紙を差し出してきた。板張りされたそれの表面には、少女の名前と年齢、出身国などが簡潔に記載されており、下に国章をかたどった印が押されている。
受け取る気がない、あるいは自分の物が来たと分かっていないコレットに代わり、ルイスはそれを受け取る。そして、素っ気なく彼女に手渡した。
「これ、わたしの?」
「昨日、なんのための手続きをしたと思ってる」
「なるほど」
どうやら本当に分かっていなかったらしい。うなずく彼女を見て、ルイスは嘆息した。
その後簡単な応酬をすると、もうそれで身分登録は本当に終わった。三人――コレットが向反応なので実質二人――は職員に頭を下げると、カウンターに背を向ける。しかし、
「ありがとうございました」
声をかけられて、ルイスは足を止めて振り返った。コレットやセルジュも首をかしげている。女性職員はにらむことなく、穏やかな表情で言った。
「『呪歌』のこと、あなたたちがやったんでしょう?」
その視線はルイスとコレットに投げかけられている。二人のうちの一方である男は、どう答えていいのか分からず顔を背けて頭をかいた。それから、口を開きかけたコレットを制し、微かな笑みを浮かべて礼をした。
そして、以降は彼女の顔を見ることもなく役所から出たのである。
今日も天気は快晴だった。ただ今日は、街の空気自体もどことなく弛緩している。通りに行き交う人の数が増え、彼らの表情は一様に明るい。中には、現金なことにさっそくルイスたちを捕まえて商売しようとする者さえいた。それらは適当にあしらった。
「さてと。お二人はこれからどうなさるので?」
セルジュが嬉しそうに辺りを見回しながら訊いた。ルイスは苦笑して、包帯が巻かれている腕を、上着の上から叩いた。
「不完全な状態で出発するのも危険だから、この街でもう一泊しようと思ってる。厄介になってもいいか?」
本当は今日くらい宿をとるつもりでいたが、あることを思い出してルイスはそう訊いた。すると、横を歩いていた青年学者の目は誰から見ても明らかなほど輝いた。
「もちろん! その代わり、コレットちゃんをお借りしますよ」
「はいはい」
予想が見事に的中し、ルイスは肩をすくめる。その横ではコレットが「また質問があるの?」と言っていた。特に嫌ではないようだ。
勝利を、というより許可をつかんだセルジュは一気に上機嫌になる。二人の旅人を追いこすほど軽い足取りで進んでいった。
その背を見ながら、少女が男の服の裾を引く。
「どうした?」
ルイスは問いかけた。
しかし、本当は彼女の言いたいことが分かっていた。分かっている上で、改めて耳を傾ける。
「言わなくて良かったの? あの人に」
冷たい色の瞳が、男の顔をひたと見据えてくる。彼は少しの間、黙りこんだ。
今朝起きた時点でルイスは、コレットに事の顛末と「彼女」が放った言葉を覚えている限り語りつくしていたのだ。それは異能者である彼女に話せば何か、相手が事件を起こしていた理由などが見えてくるかもしれないと思ったが為である。ただ、そのときはなんの成果もなかった。
コレットが、束の間寂しげな目をしただけであった。
「言わなくていい」
ルイスは答える。
「どうして?」
コレットは再び問いかけた。
なんども聞いた疑問を呈する言葉に、相方となった男は変わらず答えを提示する。
「知らなくていい――知っちゃいけないこともある。人の心の中なんて、余計にそうだ」
ただそれは、あくまでも彼の答えだ。だが、彼が世を渡ってきた経験のなかで蓄積された、確かなひとつの意見でもある。
「感情の中には、どうしようもなく醜くて、他人からすれば正視に堪えないようなことだっていっぱいある。本人が頼んでもいないのに、その中身を晒す必要はないんだよ」
コレットは納得したようには見えなかった。だが不満そうというわけでもなかった。いつも通り、どこまでも純粋に、寂寥感が漂う横顔を見つめている。
「ルイスにもあるの?」
「あるさ。たくさん、な」
「――わたしは、そうは思わない」
冷やかな、それでいて優しい声で、少女は断じた。
ルイスは軽く瞠目する。それから肩をすくめた。
「隠してるだけだ。人間なんてそんなものだろ」
自分がきれいな人間だとは、生まれてから一度たりとも思ったことはない。むしろ、汚い人間だとばかり思い続けてきた。
汚くて、醜くて、だがそれらを積み重ねた上に生きている。彼が出会った人間の多くはそうだった。例外がいるとすれば――目の前の、少女くらいである。
純粋で、何にも染まっていない、だというのに汚れを厭わない。それは彼女の方だ。だというのに。
「それでも、わたしの知っているルイスはきれいなルイスばかりだもの。わたしは、あなたが醜くて汚いなんて思えない。とっても輝いているから」
感情を映さない瞳でそう言い切るのだ。
ルイスはばつが悪くなってうつむき、それからため息をつく。
「参ったな……。俺はおまえが思うほど上等な人じゃないぞ?」
結局、それくらいの言葉しか出てこない。困り果てたルイスは結局、未だに顔を凝視してくるコレットの頭を軽くぽんぽんと叩いて歩くよう促した。
「おまえには、もっときれいなものを見せてやりたいな」
小さく放たれた呟き。それは誰にも、どこにも届かない。ただ、平穏を奏でる風に乗せられて、青空の向こうへと流れていった。
その女がエルテを訪れたのは、『呪歌』事件を解決した旅人が街を発ってから三日ほど過ぎた頃だった。くせのある長い黒髪をなびかせるその姿は、街の住民に恐るべき歌い手を思い出させるのに十分なものであったが、彼らはそれを飲みこんで彼女を受け入れた。
街の安宿をとり、ひとしきり商業都市の観光を楽しんだ女はその日の夕方、宿に帰ると見習いと思しき青年を捕まえた。
「ねえ、この街で奇妙な事件が起きたっていう噂を聞いていたんだけど、見た感じではそんなこともなさそうよね」
何気ないふうに訊くと、モップで床を掃除していた青年は納得の声を上げて彼女の方を向く。
「『呪歌』事件のこと? それならついこの間解決したよ。旅の二人組があっという間に犯人を突き止めてしまったんだ。すごいよねえ」
感嘆する青年を見て、女も目を丸くする。
「それって、歌で人を殺せるような人間を捕まえてしまったってことでしょう? 本当にすごい人がいるものなのね」
「ああ。世界は広いよ」
女の言葉に何度もうなずいた青年が、しみじみと言う。それを聞いた女はこう続けた。
「ねえ、お仕事をしながらで良いから教えてくれない? その二人組って、どんな人なの?」
とても楽しそうな女の様子を怪訝に思ったのか、青年が首をかしげる。だがすぐに「ちょっと興味を持ってしまっただけだろう」と思いなおして教えることにした。モップをにぎる手を動かしながら語る。
「えーっとね、まじまじと見たわけじゃないんだけど……男の人と女の子だった。男の人は僕と同じくらいの年で、ちょっと険しい目をした人だったよ。せっかくきれいな顔だっていうのに、もったいないね。で、女の子の方がまた変わっててさ――」
薄く広がっていく水を見ながら、青年は興奮した様子で言った。
「この世のものとは思えないくらい美人さんなのに、本当に無表情なんだ。何があっても眉一つ動かさない。ちょっと聞いた話し声も抑揚が無くてさ。人形みたいっていう言葉がぴったりだったよ」
女はその話を、感動を込めて聴いていた。そして青年が「こんなとこ」と言うとにっこりと微笑んでお礼を言う。そして他愛もない話をしてから二人は別れた。
美人さんだなあ、というのが青年の感想である。彼はあの女にそれ以上の感情を持たなかった。彼にとっては彼女も、多くいる客のうちの一人であった。
だから彼は気付かなかった。
「――人形みたいな女の子、か」
話を聞き終えた女が、そう言って怪しく微笑んだことに。
女は観光を終えて上機嫌になり、さっさと部屋に戻って休もうと思っていた。だが、先程会った青年の話を聞いて気が変わる。
彼女は主人に一言断って外に出た。そして、夜の街が静まりかえっていることを確認するとつま先で軽く地面を蹴る。すると女の体は、音もなく宙に浮いた。彼女はそのまま安宿の屋根の、さらに上まで急上昇した。鳶色の瞳で未だ明りの絶えない都市を睥睨する。
「せっかく噂を頼りに様子を見にきてあげたっていうのに、もう捕まってるなんてね。面白くない女だわ。こんなことなら、余計な入れ知恵しなければ良かったかしら」
心底残念そうに言った女は、風になびく髪を押さえつける。
「でもまあ、あの子がこの街に来ること自体計算外だったし、仕方のないことかもね。それにしても――」
独り言を続けかけた女はそこで、堪え切れないといわんばかりに失笑した。
「ふふふっ。あの子が男と一緒にいるなんて、どういう風の吹きまわしかしら。久し振りに遊んでみたくなっちゃったわね」
幼い子供のような笑顔でそう言った彼女は、直後わずかに瞑目し、そして目を見開いた。瞳には、何か良いことを思いついたときのような、爛々とした光が宿っている。
女は欠けた月を背に哄笑すると、軽やかに安宿の方へと戻っていった。
その奇妙な姿を目撃した者は、一人もいなかった。




