エピローグ1 月桂冠をあなたに4
「おいボス、死んでんなよ」
総一郎がローレルのことで思い悩んで机に突っ伏していると、背後からガラガラの渋い声が降ってきた。振り返ると、そこにはヒルディスが立っている。人間の姿。そう言えば豚の姿はここ数年見ていないなぁ、なんてことを思う。
「死んでないですよ。ちょっと考え事をしてただけです。今日タスクももう終わってるし、俺の仮想人格が質疑応答全部やってくれてる」
「ボスに仕事で待たされたことなんてねぇよ。単純に、ボスのことを慮って様子をうかがいに来たんだ」
「それは、どうも。……俺そんなキツそうですか?」
「いいや。本当にヤバいときは、ボスは空元気になり始めるからな。そん時は幹部総出で止めることになってるが。今はむしろ、分かりやすくうだうだやってる分、安心感がある」
「安心感て」
「ま、どちらにせよお困りなんだろ? オレの役職って何だよ。ん?」
「……そうですね。相談させていただきますよ、相談役さん」
「おう。やっと人のこと頼るのに自然さが出てきたな」
「お蔭さまで」
柄の悪い偉丈夫は、総一郎の皮肉にニッと笑った。適当な椅子を近くから持ってきて、ギィ、と音を立てて座る。このタイミングで足を組んじゃう辺りが、何とも“らしい”。
「それで実際、どうなんだ。ボスの奥方が随分無茶ばかりする、というのは風の噂で聞こえてるが」
「その通り。マタニティブルーなのに、ホルモン調整の注射は拒否する。陣痛でも脂汗だらだら流しながら料理を続ける。妊婦なのに『何か必要なものがあれば買ってきましょうか?』は、自分を顧みてなさすぎる。不安だし、心配だよ」
そこまで聞いて、思った以上に何か心当たりでもあったのだろうか。ヒルディスは段々とげっそりした顔になって、総一郎の話を聞いていた。そこではた、と気づき、総一郎は問いを一つ。
「ヒルディスさんて、既婚者ですよね。奥さんがヴィーを妊娠してた時、どんな感じでした?」
「そこまで自分の限界に挑む、みたいな感じはなかったが、似たようなもんだったな。自分が妊婦だっていう自覚を持ってくれ、って何度怒鳴りつけたか分からん」
「ハハ……。自由奔放な奥さんだったようで」
「自由奔放、なんてもんじゃない。アレは本気で自分が母親になることを忘れてる奴の行動だった。つーかオレとは関係ない子供が死ぬほどいるんだよな。慣れ過ぎてるってのもあったのかもしれん」
「おぉ……」
一瞬ギョッとするが、ヒルディスがそこに対して特に違和感を持っている様子はない。そう言えば神話の出だったな、と思い出す総一郎だ。どこの神話でも、性に関する当たりは全体として雑なことが多い。
総一郎は気を取り直して続きを促す。
「と、いうと?」
「妊娠中に姿消して、探し回ったら他の男とヤッてたときは、とうとう腹が据わった」
「奔放が過ぎる」
ローレルのそれとはまた別のヤバさである。
「それで、どうしたの……?」
「……下世話な話をするが、いいか」
「ど、どうぞ」
「まぁ、なんだ。要するに欲求不満というか、やりたいようにできていないのが良くなかったって話なんだよ。で、――――様の場合はそれがうまいもん食いたいとか、動き回りたいとか、ヤリたいとか、そういう生物的に直球なものだった。なら、対応はシンプルだ。だろ?」
「……つまりは」
「オレが遊び相手全部務めた。ここでいう遊び相手ってのはつまり、健全な意味も、そうじゃない意味も含めてってことだ」
「なる、ほど」
苦労してるのだな、と思う。だが、アプローチとしてはこれ以上ないほどに正しい、という気もする。
「要するに、問題行動は欲求不満から来るのだから、その欲求を果たしてあげればしなくなる、という話ですか」
「そうだな、それに尽きる。あとは、ボスが奥方の不満の正体をどこまで掴めてるか、ってところに集約されそうだな」
「……」
ヒルディスさん、と名を呼ぶ。何だボス、とヒルディスは答える。
「少し整理するから、付き合ってもらえる?」
「おう。どんとこい」
総一郎はこれまでのローレルの行動と言葉を思い出し、根っこに一番近いものを掘り起こす。
「不安だっていう話だったんだよ」
「不安、ねぇ」
「うん、不安。その不安を払拭するために、力が欲しいというか、強くなりたいというか。だから要するに、ローレルは今のままだと家族を守れないって、そう感じてるみたいなんだ」
「ボスと奥方が揃えば、それこそ無敵に思うがなぁ」
ヒルディスの物言いに、何か引っかかるものがあった。だが、その正体にまでは至れない。総一郎は続ける。
「だから、弱った自分に大きな試練を課すことで、より強く、より家族を守れる力を、っていう風に考えてるみたいなんだ。だから苦しい道を選ぶ。そうしないと見えないものがある、みたいな口ぶりだったよ」
「なるほどな……。論理的には間違っちゃない。が、結果としては大間違いだ。となると、前提に何か潜んでるな」
「やっぱり? 睨むとしたらそこだよね」
総一郎も話していて、やはりという確信を得た。論理的には正解なのに間違っているというのは、根底的なところで認識違いが起こっている可能性が高い。
「となると、その前提間違いは何なんだろう……」
「オレの意見だが、聞くか?」
「是非」
こほん、とヒルディスは咳払いをして、仮説を立て始める。
「話を聞いてて思ったのが、何つーかな、認識が大きくずれてるように思ったんだな」
「認識、というと」
「オレからしたら、ボスと嬢ちゃん……昔の呼び方が出たな。ボスと奥方が揃えば、それこそ天下無敵だ。どんな困難があっても対応できる。そういう風に見える」
「はい」
「だが、それで不安、というのか奥方の考えになる。つまりは、こう表現するのが正しいかというと微妙だが、自軍の戦力を過小評価してるし、敵軍の戦力を過大評価している、という風に推察するのが順当だろうな」
「それです。俺が抱えてた違和感の正体、まさにそれです」
「そら良かった。なら、ソーイチロ。お前がすべきことは分かるな?」
「もちろんです。助かりました、ヒルディスさん」
頷いて、総一郎は立ち上がった。そこで、「ああ、マズったな。すまん、昔のノリで名前を呼び捨てしちまった、ボス」とヒルディスが謝ってくる。
「……別に、構いませんよ? みんな徹底してボスって呼んでくれるけど」
「いいや、良くない。ボス、お前はもう立派なボスだ。オレが手取り足取り、市長選後に組織運営について教えてやったガキじゃない。お前は自分で考えて、この組織を回すトップだ。それを尊重しない奴に、居場所はねぇよ」
「重く考えすぎですって。ヒルディスさんには、俺だって頭が上がりません。何度危ない橋で助けられたか。こうして今だって助言をもらってる。人を頼るってことも、あなたに叩き込まれた面は少なくない。これからも頼りにしてますよ」
「……そうかい。それなら、いつか再会した時、姐さんに顔向けができるってもんだ」
もっとも、地獄にいくオレが姐さんに会えるかは分からんがな。冗談めかして笑うヒルディスに、総一郎は「きっと会えますよ。白ねぇなら地獄も天国も関係なさそうだし」と答えて、荷物を手に取る。
帰宅すると、リビングでローレルとナイがにらみ合っていた。
「何やってんの……」
総一郎の呆れ声に、腕を組んでローレルの前に立ちふさがるナイは、「ローレルちゃんに聞きなよ」とひどく冷たい声で言った。ナイのこういう声は中々聴けないから、ちょっとびくびくしながら総一郎はローレルに問う。
「ローレル、何でこんなことになってるの。説明してもらってもいい?」
「……大したことではありません。ベビー用品の買い出しを忘れていたことに思い至ったので、買いに行こうとしただけです」
「え、何で通販にしないの?」
「届く前に破水したらどうするのですか」
「届く前に破水するのって、ローレルは道端で破水するってこととほぼ同義なんだけど」
「その程度、どうにかします」
総一郎、流石にキレた。
「ローレル、座って」
「何ですか。体に負担をかけないように、というのであれば、間に合ってます」
「違う。正面から話し合いをする必要があると思ったから、座ってって言ってる」
「……分かりました」
ローレルは、しぶしぶ机についた。強い言い方はローレルには効かない。上から押さえつければ思い切り反発するのがローレルだ。それが彼女の強すぎる克己心にもなっている。
でも、道理を語れば聞いてくれる。それが腑に落ちれば従ってくれる。
「ローレル」
総一郎もローレルの向かいの席についた。ナイは総一郎の横に座る。
総一郎は、核心を突いた。
「ローレルは、俺を信頼できないんだよね?」
その一言に、ローレルは目を剥いて息をのんだ。肩を跳ねさせ、顔を蒼白にして、震えながら小さく細かく首を横に振っている。
「そ、そんな、私がソーを信頼してないなんて、そんなこと、ありません」
「そんなことない人の反応じゃないんだよ、それは。それに、ニュアンスも違う。信頼してないんじゃなくて、信頼できないんだ。ローレルの意思じゃなく、何かがローレルの中で悪さをしてる。今の反応で、そこまで掴んだ」
「……」
ローレルは、総一郎の言葉で一瞬にして荒れ狂った呼吸を、少しずつ抑え始めた。それから眉根を寄せて、「いいえ、私がソーを信頼していない、信頼できないなんてことはありません」と反論してくる。
「それは何故かな」
「証拠があります。私は、あなたが助けてくれると確信して行動したことが何度もあります。大きな例でいえば、リッジウェイ警部に襲われたときに立ち向かったこと。ソーが助けてくれるという確信がなければ、あんな命を捨てる真似はしませんでした」
「そうだね。なら、こと戦闘においては信頼してくれてるんだ」
「全面的な信頼です。私は、ソーが助けてくれない状況を想像できません。私がこれだけ頑なに助けを拒んでいるのに、あなたは懲りずに手を差し伸べてくれる。それを見ていて信頼が出来ないのは、異常なことです」
「ってことは、ローレルちゃんはその異常なわけだね」
ナイの一言に、ローレルは言葉を失った。表情厳しく「ナイ、あなたは」と言い返そうとするのを、ナイは鋭い言葉で封じ込める。
「せっかく前に恥をかかせないで上げたのに、結局今の今まで解決できずにいるからこうなっちゃうんだよ。バカだね。問題が問題と認識できたなら、それを解決すればよかったんだ。そうしないから、今総一郎君に痛いところを突かれるし、ボクに好きなように言われる」
「ッ、私は信頼して」「ないさ。ローレルちゃんは総一郎君を信頼してない。出来てない。そのことを認識できていないからこうなる。いいや、違うね、認識したくないのさ。つまり、ローレルちゃんはバカなんじゃなく、バカで居たいんだよね?」
「……!」
ナイの止まらない嘲りに、ローレルは下唇を噛んで、顔を真っ赤にひどく悔しそうな顔をした。ここまで感情的なローレルを見るとは、と総一郎は驚いてしまう。
「ま、いいさ。バカで居たいならそうすればいい。総一郎君は頼られたがりの甘えられたがりだからね。甘え上手のボクはどんどん甘えて、総一郎君の心を奪っちゃうんだから」
言いながらナイが総一郎の手を抱きしめるのを見て、ローレルは一気に不安そうな顔になった。しかしナイはと言うと、そんなローレルの様子から目を逸らす様子はない。俯瞰する総一郎からはそれが、ナイの不器用な気遣いに見える。
「……」
ローレルは、とうとう黙ってしまった。だが、ローレルは思考停止をしない。俯いていても、反論の言葉すら思い浮かばなくても、それでも抗い考えるのがローレルだ。
「ソーに」
ローレルは、口を開く。
「ソーに、問題はない、です。ソーは、誰から見てもすごい人で、頼もしくて、時折目が離せない時もありますけど、それでも、あなたは救世主にふさわしい人でした。あなたに愛されている今が、私は本当に幸せで、それだけ、失われるのが怖くて」
問うたのは総一郎だった。
「いつか失われるって、そう思うの?」
「……いいえ、思いません。もう、失われるような大きな事件は起こりません。予言の通りなら、全ては終わっています。あなたをも苦戦させ得る脅威は、もはや存在しません」
「それでも、不安?」
「……はい、不安です。ソーはこれ以上ないほど強い人だってことは、ちゃんと理解しています。私だって、弱いつもりはありません。二人で力を合わせれば、どんなことだって、乗り越えられる。それは、頭では分かっています」
「腑に落ちていないってこと?」
「分かり、ません。お金の心配や、生活の心配はしたことがないんです。でも、あなたを守れなければ、という心配は、ここ最近、ずっと消えないんです。ソーを守りたい。ソーを失いたくない。それと同じくらい、この子を守りたい。でも、私は、ソーも赤ちゃんも一人で守れるほどは、まだ強くなれていません」
「……」
総一郎が死ぬ、という事は、あり得ない話ではない。復讐を目的に現れた誰かが居たなら、総一郎は抵抗しないだろう。その事を言っているのか。白羽がベルから聞きだしていた以上、ローレルが知っていても不思議ではない。
だが、そういう事ではないような気もしていた。ローレルは、総一郎に問題がある訳ではないと言った。総一郎が消極的に死を受け入れる、という事が不安、というものではない。もっと漠然としたものが、ローレルの内側にあるように感じる。
そこで、ナイが口を挟んだ。
「ローレルちゃんはさ、親になるってタイミングで、不安定になったよね」
ローレルはその指摘に、一瞬激しく震えた。「ニアミス。けどしっぽは掴んだ」とナイはニヤリ笑う。
「そういえば、ローレルちゃんの家庭事情ってさ、結構複雑じゃなかったっけ? ねぇ、総一郎君。君、ローレルちゃんのとこでホームステイしてた時、誰が世話してくれた?」
「え、誰って、ローレルのおじいさんおばあさんに決まって……」
総一郎は、そこで悟る。何でこの違和感に長年気づけなかったのか。
「ローレル、君の親御さんは……」
「……ナイ、恨みますよ」
「恨んでくれて結構。見ていられなかったからね」
じゃあボクは、ローレルちゃんが怖いから退散しようかな。そう呟いて、ナイは椅子から降りてリビングから出ていった。それを見送ってから総一郎がローレルに向かうと、彼女はぽつりぽつりと話し始める。
「私の両親について話すのは、これが初めてでしょうか……。実は、私、両親がいないんです。父は亡くなり、母は消息不明で」
「……ごめん。俺、何で気づけなかったんだろう」
「気付かせないように振舞っていたんだと思います。つまり、祖母が、アナグラムをいじって、と申しますか」
ソーのホームステイ時期は、ソーもそれどころじゃなかったですし。とローレルは苦笑する。
「父が亡くなったのは幼少期で、あまり覚えていないんですが、優しい人だったように思います。でも、体が弱くて」
「うん」
総一郎は、相槌を打ってローレルの話を促す。
「母は、それをどうにか支えようと、懸命にやりくりしていたように思います。私も小さくて、手がかかって……。父の看病と私の育児で、母はどんどんやつれていきました」
思うんです、とローレルは核心に切り出す。
「母がもっと強い人だったなら、父は死にませんでしたし、私を手放すこともなかったのではないでしょうか。母は父が死んだタイミングで、どこかおかしくなっていたように思います。私を学校にも行かせずに、ずっと傍にいるように、と。愛情深い人だったのですね。だから、自分の元から愛する人が離れることが許せなかった」
結局私は、行政を経由して祖父母の下に預かれることになりました。それからは、母のことを聞いてません。
ローレルの話を聞いて、総一郎は沈黙を返す。ローレルは、総一郎の目を見て言う。
「ソー、私は、母の血を色濃く継いでいると思うんです。愛する人の喪失に耐えられない。私はそういう人種です。でも、幸か不幸か、私は強くなることができる。今強くなくても、過酷な枷を自分に課すことで、より高みを目指すことができる。そういう性質が、あると思うんです」
「だから、出産後の、つまり、“来るべき試練”にそなえるために、今強くなりたいって、そういうこと?」
「はい。私は、あなたのために、あなたとの赤ちゃんとのために、強くなりたい。だから、手を出さず、ただ見守っていてほしいんです。私は、今は辛いですけど、すぐに強くなります。ソーも赤ちゃんも、一人で守れるような、そんな頼もしいお母さんになります」
そうすれば、とローレルは結んだ。
「そうすれば、この不安も、消えると思うんです」
総一郎は言う。
「その不安はまやかしだよ。やり方が完全に間違ってる。君はトラウマから母と同じ試練を自分に課して、乗り越えようとしている。でもローレルのトラウマと実際の出産は無関係だ。トラウマはトラウマで別のものとして乗り越えるべきものだし、出産は出産単体で挑むべき大事だよ。はっきり言わせてもらうけど、その二つを合わせて対応しようとするのは怠慢だし舐めてる」
ローレル。と総一郎は呼びかける。ローレルは正面から冷や水を掛けられて硬直している。
「ローレルは一つ勘違いをしてる。言葉上で取り繕ってて自分では気づけてないみたいだけど、聞いてるこっちとしてははっきり分かる」
「何、ですか」
「ローレル、君自分のことメチャクチャ強いと思ってるでしょ。それ思い上がりだよ。君はもっと弱い。君の考え方は、周囲に敵しかいない修羅のそれだ。人間のそれじゃないよ」
「……」
ローレルは、口をパクパクさせて、何か返したいが何も言い返せない状態になっている。
「人間は人に頼り人を支える。人を愛するっていうのはそういう事だ。その意味では、俺を頼るっていう発想がどこにもない今、君は俺を守るべき宝か何かだと思ってることになる。俺は宝じゃないよローレル。君と同じ人だ。君が勝ち取ったトロフィーじゃない」
「え、あ、わた、私そんな」
「ローレルに必要なのは自覚だよ。自分が弱い一個人だって自覚。俺のことを守るべき宝同然だと思っていた自覚。それに」
「それ、に」
戸惑いがちにオウム返しするローレルの手を、総一郎は両手で包み込む。
「俺っていう旦那さんに、頼むから頼ってくれって言われるくらい、愛されている自覚」
「―――……!」
ローレルは瞠目した。総一郎は続ける。
「ローレル。立場が逆転して改めて、俺たちは本当に似たもの夫婦なんだなって思うよ。だから俺は、君がかつて俺を止めてくれたように、君を止めようと思う。今度は俺が君を叱る番だし、君を支える番だ。それで初めて、対等な夫婦だと思う」
ローレルは、俯いて震えていた。嗚咽さえ漏らして、絞り出すような声で言う。
「本当は、辛かったんです。苦しくて、不安だったんです。過酷な運命を背負うあなた一人を支えるのですら、あんなに苦しかったのに、もう一人守らなくちゃならないなんてって」
「うん」
「私しかいないって、私、本気で思い込んでいました。頼られることは良いことでも、頼ることは悪いことだって。だから、私一人で出来ることなら、私一人ですべきですし、そうでないのは本当に恥ずべきことだって」
「ローレル、前から、何か頼むとき毎回申し訳なさそうだったもんね」
ローレルは、顔を上げる。珠のような涙をこぼして、泣き笑いを浮かべて総一郎を見上げる。
「でも、そうですよね。私たち、もう、夫婦なんですものね。私はもう、ソーを頼っていいんですよね。ソーからの愛を、信じていいんですよね」
「うん。むしろ、信じてくれなきゃ寂しいよ。頼って欲しいし、甘えて欲しい。子育てだって、俺にもやらせてくれないと嫌だよ」
「……はい」
泣きながら、ローレルは本当に嬉しそうに笑った。その瞬間、アナグラムが乱れた。総一郎はハッとして計算に掛ける。
「ローレル」
「……ソー」
ローレルは一転して表情を強張らせ、総一郎を正面から見つめる。
「破水、しました」