エピローグ1 月桂冠をあなたに1
ローレルが、沈鬱な表情で窓の外を眺めていた。
ここ最近では、珍しくない態度だった。数か月前までは、どんなことがあっても毅然とした態度を保っていたローレルである。それが今は、どこか不安そうに唇を噛んで、時折自らの身体を見つめる。
「ローレル、ご飯作ったよ」
総一郎がテーブルに一通りメニューをそろえて呼びかけると、ローレルはハッとして「え、あ、ソーがやってしまったんですか? ご、ごめんなさい。私がやるべきだったのに……」と申し訳なさそうに俯いてしまう。
余裕がない、と思う。自然向かうのは、その膨らんだお腹だ。総一郎はそっと近づいて、ローレルのお腹を撫でる。
「大丈夫だよ、安心して。ローレルは、今一番大変な時期なんだ。むしろ、頼ってくれなきゃ困るよ。でしょ?」
「……ソー」
手を伸ばしてくるから、そっと総一郎は受け入れた。するとローレルは、総一郎の胸に顔をうずめてすすり泣いてしまう。読み取れるアナグラムは悲しみでも不安でもなく、ただ混乱のそれ。身体レベルで、今のローレルは少しおかしくなってしまっている。
だが、それは外宇宙的要因とか、はたまた別の問題があるとか、そういう事ではない。
マタニティブルー。
妊娠した女性なら誰でも起こりうるホルモンバランスの乱れによって、ローレルは今、総一郎が知る限り生涯で一番弱っていた。
「あの、ボスの次に無敵と言われるシルヴェスターが?」
「アーリ、もうシルヴェスターじゃないよ」
「あ、そっか。籍入れたんだもんな。ローレル・ブシガイト?」
「そうそう」
二人してゴリゴリに作業しながらの雑談だった。総一郎は最後に何度か操作を入れて「よし完了」と電脳魔術の操作を終える。
「はっや。ボス、アンタどんどん進化してないか? そろそろ人やめ始めてんじゃねぇの」
「え? ウッドと話する?」
「そうだった……半分は人やめてんだった……」
軽やかに総一郎が言い返すのを受けて、アーリは空を仰ぎつつ何度かBMCの操作を。それで作業が終わったらしく、「アタシも完了~。人間辞退まであと僅か~」と両手を上げた。
「ご苦労様。定時まであと少しあるけど、どうする? 先帰ってもいいよ」
「管理職で早上がりは最高極まりないな。けど、もうちょっとそっちの話聞きたいから定時上がりで我慢する」
ニッ、と笑う彼女は、すっかりデキるサラリーマンといった感じだった。全身スーツで身を包んで、かつての不良娘スタイルは鳴りを潜めている。ツインテールも今や過去の話だ。
それは総一郎も同じだった。ARFが名前を変えて亜人支援団体として動き始めてから、結局ろくに学校も通わず中退してしまった。それ以来ずっとスーツが馴染みの衣装である。
とはいえこっそり機会を見て、大学くらいは卒業するつもりだ。遥かに技術の進んだ現代の知識を、好奇心の犬が見過ごせるはずもない。
そんな風に逸れる思考を、アーリが戻した。
「しかし、あのローラがねぇ。ちょっと会ってみたい気もするが、根に持たれても嫌だしな」
「からかったりしなければ大丈夫だよ」
「いやぁ、ああ見えてプライド滅茶苦茶高いだろローラは。そして執着心が強い。違うか?」
「執着心は否定のしようがないかな」
満場一致である。記憶を全消しされてもバックアップから復旧とか、奇跡のアナグラムゼロとか、今から思い返しても人間業じゃない。
「でも、プライドっていうのは違うよ。何て言うのかな。『自分ならこれくらい出来て当然』がプライドの高さのイメージなら、ローレルは『この程度も出来ない自分を踏み越えていく』みたいなイメージ」
「踏むのか」
「うん。乗り越えるんじゃなくて踏み越えてく」
割と生涯で自己ベストを超え続けたい、みたいな考えの持ち主なのだ、ローレルは。しかも過激派。強い心で昨日よりも1%でも優れた自分に挑み続ける。だから計算が得意なだけの女の子から二年後、エースという言葉で呼ばれるほどの達人になった。
「1.01の700乗って千とはそういう数字になるぞ」
「二年後現れたローレルの実力は、俺からすれば割と千倍くらい差があったよ」
なにアナグラムゼロって。
それな。
総一郎とアーリは雑談を交わしつつ、塩梅を見て撤収の片づけをはじめる。
「でも、ローレルがまさかマタニティブルーであそこまで弱るとはね……。俺も予想外だった。いや、ほんと」
「んで?」
「ん?」
ニヤニヤと思わせぶりに、アーリは流し目で見つめてくる。
「素敵な旦那様は、そんな奥様をどうやって励ますつもりなんだ?」
「……そうだなぁ。何がいいと思う?」
「ん、珍しいな。ノープランか」
キョトンとするアーリに、「そうだね、ノープランだよ。今となっては」と含みを持たせて総一郎は言った。「?」とアーリは首を傾げ、後に気付く。
「ここまでで抱えてたプラン、全部失敗したのか」
「端的に言えば、そう」
はー。とわざとらしくのけぞりながら、アーリは立ち上がった。総一郎も準備を終えて立ち上がる。連れだって歩きながら、総一郎はその内訳を話しだした。
「っていうかさ、そもそもマタニティブルーって何さ。って話じゃないか。ホルモンバランスの乱れってことらしいんだけど。で、そんなの現代医療の力でどうにかならない訳がない」
「そりゃそうだ」
「だからホルモンバランス調整の薬を貰って飲むように言ったら」
「言ったら」
「『せっかく初めての子供なのです。この子のためにしてあげられる苦労は、全部してあげたいじゃないですか』」
「え、何だそれ。その流れだと、ローラって無痛分娩も否定派か?」
「あ、うん。そのつもりらしいよ」
「ドMかよ」
アーリも大概毒舌だなぁ、と総一郎は何となく思う。思いながら、通路ですれ違う「社長、お疲れ様です」という言葉に「そちらこそご苦労様。もうすぐ定時だから、ちゃんと守って早く帰ってね」と言葉を投げ返す。
「……ウチもホワイトになったなぁ」
「市長選の時期がおかしかっただけだよ」
玄関口に差し掛かる。すると疲れた様子で首をひねりながら、Jが外から現れた。
「おっ、これで上がりかボス。アーリも」
「うん。大事な奥さんが、今家でマタニティブルーと戦ってるからね」
「ハハ。そりゃあ一大事だ。旦那たるもの、しっかり支えてやらんとな」
「そうだね、そのつもり」
Jにバシバシ背中を叩かれ、総一郎は苦笑する。それに、アーリはうんうん頷いて相槌だ。
「うん。流石ウチのボスだ。ところでJ、お前はいつマナミと結婚するんだ? もう披露宴の出し物ある程度考えてあるんだが」
流れるように矛先を向ける辺り怖い人だよなぁと思う。
「おっ、おれか!? 気が早いな……。まぁ、ボチボチいいタイミングでしようかとは思ってるが」
「ヒュー! やるな。あーあ、アタシもいい男みつけねぇとなぁ」
旧ARF幹部メンバーは、コードネーム呼びの文化も廃れ、何となくあだ名で呼び合うのが通例になっていた。他にも様々なことが変わった、と思う。超の付くブラック気質は幹部メンバー全員で廃止に尽力し、組織の人員はアルフタワー崩壊前同様に増加した。
総一郎とローレルの結婚もそうだし、他にもナイとシェリルが同じプライマリスクール、つまりは小学校に通っているなど、以前では考えられなかったことが多く実現している。人生とは分からないものだ、というのが一つ。
「おれはマナさん回収してからそのままミヤさんとこ飲みに行くかね。アーリ、お前もどうだよ」
「いいな。アタシも行くわ」
じゃ、悪いがここまでだな、とアーリが手を上げるのを受けて、総一郎は「行ってらっしゃい。じゃあ俺は奥さんの所に戻るよ」と告げて、二人と別れた。
家路を進みながら、さぁどうしようか、と言ったことを考える。ローレルは意地っ張りで、効率性を何者よりも上げられるカバリストであるにもかかわらず、ときに人間らしく不合理を愛してしまう。
だが、それを非難するつもりはない。そんな彼女だからこそ、総一郎を愛してくれたし、あれほど身を尽くしてくれたのだと思う。今回は、その性質が我が子に向いたというだけの事。
それはある意味でありがたいことだったし、そんなローレルにならどんなことでも任せられる、と思う。思う一方で、やはり心配になってしまうのが人情というものなのだ。無用な苦労を背負っているのを見ると、その荷物を半分分けてくれ、という気持ちになる。
「まるで一時期の総一郎君のようじゃないか」
「ナイ、人の心を読まないように」
「読んでなんかいないさ。アナグラムから少し推測しただけだよ」
リュックを背負ったナイが、気付くと総一郎の隣に立っていた。「学校帰り?」と聞くと、「こんな遅くまで学校はやっていないよ。単純に、シェリルちゃんや清ちゃんと遊んでいたらこんな時間になっていただけさ」と何とも子供らしいことを言う。
「そっか。何してたの?」
「今日は為替で遊んだよ」
「ん? 川沿い? 浅瀬? 水遊びは危険だからほどほどにね」
「うん。身の丈を超えたことをしないように、注意して遊ぶさ」
お互いに、とってもにっこりしながら会話を交わしつつ歩くと、すぐに家についた。総一郎が最近に借り始めた一軒家。今はローレル、ナイと三人で暮らしている。
「ただいま~。ローレルちゃん、昨日は半分くらい停止状態だったけど、今日はどうかなー?」
面白がるような口調で、ナイは家に中に入っていく。それを「今からかうと後が怖いよ」と苦言を呈しつつ、総一郎もナイに続いた。
ローレルは、家事をしていた。息も絶え絶えで、震える手でフライパンを振るっている。
「わお。流石にそれはボクも引くよ」
「ローレルッ!」
総一郎は台所に駆け付けて、即座にローレルからフライパンを取り上げてローレルを抱きかかえた。ローレルは力尽きる寸前だったのだろう。総一郎に抱えられた途端、うずくまって顔をくしゃくしゃに丸まった。
「ソー……」
「ローレルッ! 何で陣痛起こしてるのに料理を続けてるんだ! 救急車呼ぶとか、せめて休んでくれ!」
「だい、じょうぶ、です……。これは、前駆、陣痛、ですから……。く、ぅ、しばらくすれば、引きます……」
「……ああ、もう。いいから、休んでて。料理の続きは俺がやる」
ローレルを抱きかかえて、総一郎はリビングに移動する。それからソファに寝かせて、ナイに「家事をしようとしないように見張ってて」と告げた。「ローレルちゃんもバカだね。意地っ張りにもほどがあるよ」とナイは、どこまで分かっているのか分からない言葉でローレルをからかう。
「うる、さいですよ、ナイ……。……ソー、ありがとうございます。痛みも引いてきたので、やはり私が」
「ナイ」
「はいはいローレルちゃんは寝てましょー」
「うむぐ」
ナイが何かしら処置を施したらしく、それからしばらくはローレルも静かだった。総一郎はフライパンの中が思った以上に凝った料理だったことに気が付いて、電脳魔術からレシピを検索しつつ、焦がさないようにヘラでかき回す。
それから十数分で完成までこぎつけ、食卓に二人を呼び寄せる。すると呆れた様子で肩を竦めて現れるナイと、その後ろから俯いたローレルが顔を出した。
「なに、二人とも。またケンカでもした?」
「これをケンカと言い表されるのは心外だね。子供のダダに付き合わされて、辟易しているのさ」
「ナイ、あなたのような飄々としたタイプの人には、分からない悩みですよ」
総一郎は何が何やら、と思いつつも、「食事時までケンカしないよ。ほら、席について」と促す。
「じゃあ、いただきます」「いっただっきまーす」「いただきます……」
それぞれがそれぞれのテンションでいただきますを口にする。ちなみに日本語だ。総一郎がずっと言っていたから、移ってしまったのだとローレルは言っていた。
「ん、おいしい。流石ローレル、途中から俺だったのにローレルの味付けって感じになってる」
総一郎が言うと、ローレルは「ありがとうございます……。でも、全部私が作りたかったです」と悔しそうに唇をかむ。総一郎は難しい顔をして、ナイに目配せを。ナイは「ローレルちゃんはね、バカなんだよ」と総一郎に言った。
「……ナイ、今のは聞き捨てなりませんよ。誰がバカですか」
「君さ、ローレルちゃん。君は実にバカだよ。何も見えていない。君は誰よりも見ているようで、実は何も見ていないのさ。自分の立場というものをわきまえた方がいい」
「ナイ、ケンカは」
「ケンカじゃないよ、お叱りさ。総一郎君の前で恥をかかせないだけ、感謝して欲しいものだね」
総一郎にはその言葉の真意がつかめず、しかしアナグラムから読み取る気にもならなかった。ローレルを見ると、彼女は意外にもそれ以上言い返さず、何かを物思いするように俯いて、もそもそと咀嚼している。
「……頑固だね、まったく。もしかしたら、総一郎君側でどうにかするしかないのかな?」
「え、何。どういうこと?」
「さぁね。大丈夫さ、君ならどうとでもなる。だってボクが愛する総一郎君だもの」
ね、とナイはウィンクを一つして、いつの間にか食べ終えた食器を手に台所へと向かった。総一郎はその小さいながらも確かな背中を見て、むむと手を口に、考えるしかないのだった。




