8話 大きくなったな、総一郎74
翌日ローレルがソーの病室に行くと、ディスプレイに『面会謝絶』の文字が表示されていた。
「……」
音は聞こえない。現代の防音は非常に優れていて、いつものソーの病室前のように見える。だが、アナグラムからそうではないことが分かった。ローレルは目を伏せ、病室の扉に触れ、それから呟いた。
「頑張ってください、ソー。あなたに再び記憶が戻るまで、私はいつまでも待っていますから」
告げるような静かな声を落として、ローレルは踵を返した。ここからは、ローレルが出来ることはない。ソーは自らの力で多くのフラッシュバックに耐えるしかない。そのときローレルが隣に居ても、混乱するだけだ。
ならば、ローレルがすべきことはただ一つ。ソーが帰ってくるまでに、可能な限り仕事を片付けて置くことだけ。
「すべきことをしましょう。ソーのために」
ローレルは、迷わない足取りでARFの拠点へと向かう。
予定では、明日に演説会が控えている、という話だった。
「すべきことはしてきたみたいだね、シルヴェスター。救世主さまの容態は?」
薔薇十字の現リーダー、グレアムは、ARFの拠点で待ち構えるようにローレルに話しかけてきた。実力こそローレルの方が上だが、彼には肝心要を外さない安定感がある。ローレルから、よくも悪くピーキーさを取り除いたような、そんなカバリストだった。
「今は悪いです。私がそうしました。計算上では、今日から明日に掛けて回復する見込みです」
「それはまた、随分と加速させたね。ことを為したのは昨日だろう?」
「決心がついたのが、昨日だったので」
「ハハ、責めているわけじゃないさ。我らが救世主さまは、その程度で壊れてしまうほどやわじゃない」
―――ただの感想さ。君が彼のことで間違えるとは思えない。
グレアムはそう言って、ローレルを先導するように建物の扉を開いた。それから、ローレルに言う。
「明日の演説会について話そう。我々にとって出来る最後にして最大の仕事だ」
そこに、先ほどの軽口めいた余裕は全く無かった。ローレルは「はい」と首肯して、彼に続く。いつもの薔薇十字用会議スペースに入ると、全員勢ぞろい状態でローレルたちの並ぶ入り口を見てきた。
「お疲れ様です。愛しい人に苦痛を強いるのは、キツイですよね」
「アンジェ、あまり分かったような振りをしていると、私でも怒りますよ」
「ひっ。いやその、私なりに共感を示したって言うか、その」
「あなたが皮肉好きの人間で、空気が読めないのも知っています。そして何より、アナグラムは嘘を吐きません。情報隠しもです」
「……ローラ先輩には敵わないですよ。はいはい、私が悪うございました」
ちぇっ、と不貞腐れるように言ったアンジェの隣に、ローレルは腰を落ち着けた。最後の空席にグレアムが座り、そして場の空気が引き締まる。
「では、今回もミーティングを始めよう。まず報告から。順番に、右回りでいこう」
こほん、とグレアムは咳払いをして、「では僕から」と机中央の電磁ディスプレイからtoDoリストに収められているタスクをひょいひょいとDoneリストへと移していく。他の面々も、同じようにして報告をしていた。
「僕が抱えていたタスクはこの通りすべて片付いた。問題浮上はなしだ。次、マーガレット」
「私も問題ないです。ワイルドウッド先生」
「私はもう教師ではないんだがね。この通りすべて蹴りを付けた。備考はとくにない」
「わたしもこの通りですね! 完璧でっす」
「最後、シルヴェスター」
グレアムに名を呼ばれ、ローレルは残る一つのtoDOタスクを見つめた。電磁ディスプレイに立方体として浮かび上がるそれには「救世主さまの容態改善」と記されている。
「タスクとしては終わっています。ですが、結果そのものは少し時間を要する想定です。早ければ今日の深夜。遅ければ明日のどこか、という程度でいつものソーに戻るかと」
ローレルも立方体をDoneリストに移動させた。薔薇十字メンバーはそれに異論を唱えない。ならば、ローレル以外のメンバーの分析においても、この認識で問題ないということだ。
―――本当なら可能な限り傍についていたかったが。
ローレルは一瞬だけ目を伏せる。一瞬だけだ。ソーは今まさに苦しんでいるのに、彼のことを考えて、彼を想っているのだなどと言って感傷にふける真似を、ローレルは己に許さない。
「では、準備は完了という事でいいね。なら明日の話をしよう」
グレアムの操作に応じて、電磁ヴィジョンがボードの形をとった。映し出されるのは、まずMr.イキオベ。そして彼の傍に、ARFや他にも呼び掛けた応援演説メンバーの顔が並ぶ。
それが画面の半分。
もう半分は、ロレンシオとその応援演説メンバーが画面を埋めていた。ローレルは、結局この方法を選んだのですね、とグレアムを見る目を細める。
「決定の通り、明日の演説会は対抗演説の形を取ることになった。シルヴェスターには直前の通達となってしまって申し訳ないが、敵がカバリストであることを鑑みての判断と考えて欲しい」
「つまり、我々で敵のカバラ的な干渉を警戒して物事を進めるよりも、相手を懐に入れて『ゲーム』として成立させてしまおう、ということですか」
「ああ、その通りだ。リッジウェイ警部を無力化できなかった以上、我々だけで演説会を行うことは大きなリスクとなりうる。つまり、演説会という一大イベントを守り抜く『タワーディフェンス』になりかねない訳だ」
「タワーディフェンスとは、グレアム先輩も中々に皮肉の利いたものの例え方をしますね」
アンジェがくつくつと笑うのを、グレアムは手ごろな紙束でスパーンとやった。アンジェの沈黙を確かめて、彼は続ける。
「だが彼らを抱き込めば、より自分に都合のいいアナグラムを練れたほうの勝ち、というよりリスクの少ない『計算ゲーム』に構造が変化する。彼らは油断しているのだろうね、やすやすと誘いに乗ってくれたよ」
「結構……、簡単に乗ってくれましたよね」
「そうだね、マーガレット。恐らく、襲撃に用意する火薬よりも、演説スピーチの原稿を考えた方が、コストが低いと判断したのだろう。襲撃の方が彼に分があったというのに、我々の得意な土俵にわざわざ移ってきてくれたという訳だ」
「そうですよね、ワイルドウッドせんせ! せっかく敵が華を持たせてくれるっていうんですから、ちゃあんと勝たなきゃ失礼ってもんですよ」
「私はもう教職ではないのだがね」
ワイルドウッド先生が肩を竦めるのを見て、アンジェとマーガレットがクスクスと笑った。薔薇十字の生き残りメンバーにおいては、鉄板のやり取りだ。それに、特に恨みつらみのないローレルは一緒になって笑える。けれど、この建物には、そうでない者もいるだろう。
「……そういえば、数日前にベルが解放されましたが、いまだにここで活動しているのは意外でした」
「彼女の話はよそう、シルヴェスター。彼女にとっても、我々にとっても、いいことはないよ」
すかさず口を挟んだグレアムに、ローレルは、やっぱり何かしらの出来事はあったのですね、と心中で独り言ちた。見ればアンジェ、ワイルドウッド先生、マーガレットも口を閉ざしてローレルに視線を合わせないようにしている。カバリストがこれだけ分かりやすいのも珍しい。
「ともかく、だ。明日は対抗演説の段取りで進んでいる。警備はARFがやってくれる予定だ。ヒイラギと関わったリッジウェイ警部がどのような動きをするかは読み切れないが、少なくともロレンシオ候補者の邪魔をすることはない、というのが我々の見立てだ」
「こちらの見立てを警部が見破って、逆に動くことは想定されてますか?」
「すでに可能性を吟味、棄却済みだ。仮に今でも亜人憎しで動いたとして、娘を取り戻し何もしなくてもロレンシオが亜人排斥に動いてくれるとなれば、警部には動機がない」
ローレルの指摘を、グレアムは確かに一蹴した。その言葉から読み取れるアナグラムでも、ローレルはその推測の確度を伺い知れる。「ありがとうございます。有意義な返答でした」と微笑み返すと、アンジェが「こういうとこが怖いんですよローラ先輩は」と嫌な顔だ。
「……分かってもらえたなら何よりだよ、エース。では前提の共有が済んだところで、次は実際に取り掛かる、明日の段取りについて説明しよう」
グレアムは電磁ヴィジョンを操作し、表示されていた数名の顔を並び替えた。まずMr.イキオベ、ロレンシオ候補者の顔が上一列に横並びになり、続いてそれぞれの応援演説者たちが並び、最後にまたMr.イキオベ、ロレンシオ候補者の顔が。
「見ての通りだ。まず候補者二人が開幕演説をし、次に応援演説メンバーがそれぞれにスピーチを行う。それらが終わってから、また候補者が最終演説を、という流れだ」
「我々の仕事は何ですか?」
「横やりの阻止だ。応援演説メンバーのスピーチは、上手く補助できれば一気に世論を覆しうる状態にある。しかし、あくまで可能性があるという状態でしかない。それを、実現できるようにサポートする、というのが我々の目的となる」
「そしてそこでもっとも考慮せねばならないのが、横やり、という話ですね」
「まさしくだ、シルヴェスター。応援演説メンバーは、ポテンシャルはあるものの、スピーチに長けているとは言い難い。シンプルに演説慣れしていない者。演説慣れしてはいるが演説に興味が無いもの。演説ではなく商談を始めてしまいそうな者。様々だ」
メンツを見る限り、確かにそれは否めない。演説慣れしていない、というのはARFメンバーからの選出か。彼女は確かに、演説の場においては非常に繊細だろう。
「演説なれしていない応援演説者は、物音一つ、咳一つで集中力を失ってもおかしくない。ヤジなど飛べば間違いなく計画がとん挫する。幸い魔法を使えばある程度は自動でしのげるが、もししのげないようなものがあるならば、我々で死力を尽くして排除せねばならない」
「興味がない人は、途中でやる気を失って帰らないようにある程度自由にやってもらって、その上である程度ちゃんと話してもらう必要もありますしね」
「商談に持って行ってしまう方は、利益の話ではなく、しっかりと政治的な話に修正するように釘を刺しつつ、実際の演説中でも合図をおくったりしなくては」
グレアム、アンジェ、ワイルドウッド先生と説明が引き継がれていく。ローレルはそれに、息を吐きながら背もたれに体重を預けた。
中々骨の折れる作業になりそうです、というのは心の声か。恐らくだが、魔法でどうにもならない横やりは発生する。それも、まず間違いなく悪意の下に。
「まー防衛は防衛でいいんですけど」
そこで口を挟むのはアンジェだ。彼女は僅かに詰まらなさそうな顔で前置きをしてから、にやりとチェシャ猫のように笑って提案する。
「こちらからの妨害はどうなんですか? アタシ、そういうのの方が得意ですし楽しいので、気になるところなんですよね」
しかしグレアムはにべもなく「ない」と首を横に振った。
「えー! 何で!? 何でないんですか! 攻撃は最大の防御って言葉知らないんですかグレアム先輩!」
「その気持ちは分かるが、率直に評価するのであれば、“要らない”。何故なら、亜人差別は明らかに不当であり、その事が衆目にさらされれば、満場一致で摘発されてしかるべき内容だからだ」
アンジェは一瞬停止し、「?」とばかり首を傾げた。グレアムは繊細な金髪を撫でつけて「かみ砕いて言うとだね」とより分かりやすく説明し直す。
「応援演説メンバーのスピーチを成功させれば、その時点でこれ以上ない攻撃として成立する。逆に言えば、このスピーチが成功しなければ万が一にも市長選の勝ちはないだろう。肝心要は、こちらのスピーチが敵よりも訴求力を持っていることではない」
我々の槍は三つだ。とグレアムは語る。
「“Mr.イキオベの下でどれだけアーカムの治安が良くなるか”、”結局亜人とは何なのか”、“亜人がいかに不当に差別されてきたか”。アーカムでの亜人差別の撤廃に必要なのは、これらを事実の通りに世界に向けて発信することだけなんだ」
アンジェはその説明に「あー、何となく分かってきました」と一つ頷いてから、こう要約した。
「つまり、応援演説メンバーのスピーチが成功した時点で勝ち、というゲームだから、敵の邪魔の阻止だけやれてれば問題ない、って話ですか」
「その認識で問題ない。さて、他に誰か質問、または意見のある者は」
グレアムの問いかけに「ではせっかくですので」とローレルは手を挙げる。
「シルヴェスター」
「他の候補者はどうなりました? あと数人いたはずですが」
「手を打って引いてもらったよ。辞退だね」
「賄賂のお金を稼ぐのには苦労しましたね~。いっひっひ」とアンジェ。一方グレアムは無表情でアンジェを紙束でひっぱたきつつ、こう続けた。
「金は法に引っかかるし、その事実を知られればロレンシオに必殺の武器を渡すのと同義だから、いくつか調査の下に色々と都合した」
「名誉が欲しければ名誉を。地位が欲しければ地位を。大変でした」とマーガレット。
「金で済ませられれば、どんなに楽だったかは考えたくないところだね。他の形でも、足が残られないようにするのは大変だった」とワイルドウッド先生。
「……皆さんが何とかしたのは分かりました」
ローレルは察して目を伏せた。常に最適化された動きをし続けるカバリストにとって、「大変」とは掛け値なしの難事を意味する。通常の人間なら過労死してもおかしくない作業量を、どうにかするしかないからどうにかした、という温度感の報告だ。
「その、本当にお疲れさまでした」
ローレルにはそれ以上言えることがない。四人はそれぞれ違ったニュアンスで笑った。そのどれもが疲れた色がにじんでいたのは致し方ないことだろう。
「他にはいないか」
「では、私も便乗してもよいかな」
流れに乗る形で挙手したのはワイルドウッド先生だ。「どうぞ、先生」とグレアムが手で促すと「私は皆の知っての通り、薔薇十字に古く伝わる予言書の解読、現在までにずれたアナグラムから読み取れる最新情報の調整、という役割を担っていたわけだが―――」と前置きし、言った。
「ついに解読、および調整が終わった」
シン、と場の空気が静まり返ったのが分かった。薔薇十字の予言書。それはかつて狂気にのまれた大カバリストたちが、恐怖と発狂に抗いながら残した血に濡れた一冊だ。普通に読み解くだけでも気分が悪くなり、アナグラムから確かに読み解けば狂わざるを得ないという。
ソーを迫害し、孤独に追いやって、修羅の覚醒を促進させる、というのはここに記されていた手順だ。ローレルが当時の薔薇十字メンバーなら、というどうしようもない後悔を、偶に抱かされる存在でもあった。
薔薇十字の予言者は、その性質上、ある程度年老いて、実力があり、組織内で重要過ぎるポストについておらず、そして精神的に安定したカバリストでなければ触れることを許されていない。
それが、ついに狂気にのまれずに読み解かれた、という報告だった。
「……続けてくれ」
グレアムは、唾を飲み下し言った。ワイルドウッド先生は、「詳しく言うと君たちの精神に良い影響を与えないことが分かっているからね。最重要事項のみを述べよう」と告げてから、一秒間を置いて告げる。
「明日、全てが決着する。我々の危惧するすべてが、薔薇十字の役目そのものが、この星の命運すら、明日に」
静寂。だが、その意味を理解できないものは居なかった。ただでさえ最重要事項と定められていた演説会が行われる明日、全てが決着するというのなら、それはつまり、そういうことだ。
「……分かった。我々から気を付けることは?」
「いいや、ないよ。我々がすべきは、今分かっている通り、演説会を確かに遂行することだけだ。それ以外は、我々の仕事ではない。我々にできることはない」
「そう、か。ならいい。みんな、先生からはこの通りだ。団長の僕からあえて付け加えるとすれば、覚悟だけ決めておくように。では、他に質問がある者は」
グレアムの重ねた問いかけに、質問を挙げるものはいなかった。「よし。では最後に再確認する」とグレアムは仕切り直す。
「明日は対抗演説だ。我々の目的は、応援演説メンバーのスピーチの成功。およびその邪魔となる要素の完全排除。方法はそれぞれの裁量に任せる。ともかく、何か邪魔になりそうな要素があればこれを排除しろ。敵なら消せ。事故なら防げ。そして応援メンバーの不調であれば補助に走れ。以上だ」
『承知しました、我らが薔薇十字団、団長殿』
声を合わせた返答を聞いて、グレアムは厳粛な顔で頷いた。「では、ひとまず解散だ。あとは好きにしてくれていい」と解放される。
その隙に、ローレルはアンジェに顔を寄せ、こっそりと聞いた。
「それで結局、ベルとは何が?」
「ローラ先輩以外、薔薇十字メンバーが彼女に一晩追い回されて、捕まると宙づりにされるという恐ろしい夜があったんですよ……。別に殴る蹴るとかがあったわけではないんですが、宙づりで何もできない状態で、スラムの野犬が下で吠えまくってるのが本当に怖くて……」