8話 大きくなったな、総一郎73
ひとまずある程度片づけただろう、という手ごたえがあった。
ローレルは、そんな軽い足取りでソーの病室へと向かった。扉を開けると、もう慣れた様子のソー、“ユウ”が「いらっしゃい」と出迎えてくれる。
「今日もお話を聞きに来てくれたの?」
「はい。聞かせてください」
「分かった。じゃあ、そうだね。何から話そうか……」
ユウは、そう言って、またぼんやり上を眺め考える。それから、こんな事を言った。
「最近、少し体調がおかしいんだ」
「え……」
ローレルは、思わずアナグラムからソーの体調を読み取った。だが、体調面に関して、ソーの身体から読み取れる異常はない。それをして、ローレルは吟味の上、こう尋ねた。
「今も、ですか?」
「ううん。今は、そうだね。調子がいい。最近、あまりこういうことはなかったのだけれど」
ローレルは、その言葉にほっとする。体調がおかしいというのは、恐らく前世の記憶からの情報だろう。つまり、前世にユウが、この時期体調の狂いに悩んでいた、ということ。
「そうですか。大変ですね」
「そうなんだ。研究室でも何度か眩暈がして、少し休む必要が出たりと迷惑をかけてしまって……。あ! もちろんその研究室はブラックっていうんじゃないよ? ちゃんと残業代も出るし」
「ブラック……?」
ローレル、前世特有のワードだろうか、とEVフォンから三百年前のデータベースにいくつか検索を掛けてみる。ブラック企業、というのが引っかかったので見てみると、現代では違法行為に引っかかる(割と厳罰)それこれが記されていた。
前世はその辺りの法整備がまだ甘かったのだろう。大変ですね、と思いつつ、ソーの無理をする癖は、この辺りから来ているのかと訝しむ。
「働き過ぎは良くないですよ。ご自愛ください」
「いいや、僕なんかまだまだだよ。研究室に寝袋用意している人だっているんだから。帰れてるだけマシだと思うな」
「それ絶対間違ってる基準なので参考にしないでください。何ですか寝袋って。キャンプ気分ですか。公私混同して働いているという事ですか?」
「え!? どっちかというと私生活を犠牲にしてでもというか……。あ、でもそれも一種の公私混同か。そうか、アレは良くないんだね」
なるほど……。としきりに考え込むユウ。ある意味では、初めてコミュニケーションが成立したような感じがした。記憶を取り戻したソーの価値観が、これで適切になってくれればいいのだが。
「それで、ええと、体調がおかしいという話でしたか」
「うん。彼女にそれを話したら、病院行ったら? ってね。軽く言ってくれるよ。そんな暇ないっていうのに」
「そう……ですか」
ローレルは、その情報は今の段階では掘り下げられないだろうと推察した。恐らく今のユウにとって、その真実は“未体験”のものにあたる。つまりは未来のことだ。そして三百年前、未来のこととは未知のことだった。
「そういえば、彼女さんはその後お変わりなく?」
自然、ローレルは別の話題を提示することになる。初めの頃は何だかもやもやしたユウの彼女についての話だったが、今は何だか、シラハの話を聞いているようで、微笑ましい気持ちにさえなれるのだ。
「そう……だね。彼女の話はどこまで話したんだっけ」
「魔法の道具には作り手がいるんじゃないかっていうところまで聞きました」
「ああ……、そういえばそんな話もあったね。んー……あれから進展あったのかな。ちょっとよく分からないけれど……。うーん」
首を捻り捻り、ユウは思い出そうとしていた。そこで、「ああ、そう言えば些細なことだけど」と枕を置いて、話し始める。
「魔法の道具が関わっているかどうかはさておき、彼女、生徒の匿名相談室みたいなのを始めたんだって」
「匿名相談室、ですか」
匿名性というのは、結局究極的には担保されないもの、というのが現代における結論だ。誰かが何かを使って「こう」と言えば、その一つ一つを辿ればたどり着ける。問題はそれが面倒か否かでしかない。
という野暮なツッコミは不要だろう。ローレルは「どんな風にしたのですか?」と純朴な振りをして尋ねると、「彼女も結構考えたみたいでね」と説明を始める。
「多くあるSNSの中でも都合のいいものを選んで、相手が分かるディスプレイ部分を物理的にガムテープでふさいで、最後にあらゆる相手の声をボイスチェンジャーにかける仕組みを組んで完成ってね。これで見えないし聞こえても分からない相談室、というわけさ」
「どうにかこうにかこじつけて作った感がいいですね」
「そうそう。それが面白くってね。ガムテープでふさぐからって、古いノートパソコン引っ張りだしてきて、相談室専用! とか言っちゃって」
「ふふ。目に浮かびますね」
意気揚々と宣言するシラハは早々に難くない。ローレルはクスクス笑い、「そうだね。彼女はいつも楽しそうで」とユウもふふっと肩を揺らす。
「どんな相談が来るのですか?」
「重いものからふざけたものまで、だって」
例えば、とユウは顔を上げて思い出す構えになる。
「重いものだと、彼氏の子供を妊娠した、とか」
「……重い? めでたいことだとは思いますが、重い、と言われると何とも……」
「え、だって中学生がだよ? 大変じゃないか。中学生二人で生きていくのだって難しいのに、赤ちゃんもだなんて」
ユウの言葉にローレルは眉をひそめ、疑問を口にする。
「そんなお年頃なら、赤ちゃんの祖父母がこぞって世話をするでしょう。地域からの補助金も手厚いはずです。ただでさえ生まれない赤ちゃんを、赤ちゃんを育てられる経済力のない親に任せきりにするなんて、社会によるいじめのようなものじゃないですか」
「……たし、かに?」
ユウのキョトンとした態度に、ローレルは三百年前にはこの辺りの法整備も常識もなかったのだろうか、と考える。あの貴族の園のような既得権益まみれの構造上どうしようもない治外法権ならばまだしも、一般社会でそうなのだ、と思うと、三百年前も中々に未開だ。
「それで、他にはどんな相談が?」
「え、ああ、うん。え? うん」
「どうされました?」
「……いや、何でもないよ。それで、そうだね。他か」
じゃあふざけた奴で、とユウは語り出す。
「毎週金曜夜八時になると、必ずラジオの真似をしてひたすら一時間話し続ける生徒が居たんだって」
「それは将来有望なパーソナリティーですね」
「話す内容は毎回きわどい性癖話」
「もう少し遅い時間の方がよさそうですね」
「マトリョーシカ……なんちゃらの良さを一時間聞かされたときは脳が理解を拒んだって言ってたね」
「マトリョーシカ……?」
マトリョーシカの何がどう性癖の話になるかが分からないローレルは、キョトンと首を傾げて、アナグラム計算しようかどうか迷って、止めることにした。この世界には知らないでいた方がいい知識もある。邪神の知識などが筆頭だろう。
そんな風な雑談をして、その日の会話は終わった。再び眠りにつくソーの姿を見て、ローレルは思う。
「放っておいても、きっとソーは全てを思い出すのでしょう」
だが、問題はいつまでにそうなるかという事だ。恐らく、ローレルが何もしなければ、重要な局面でソーの記憶が完全なものになることはない。昨日の話と今日の話で、過ぎた時間は大きくない。ソーの前世、ユウがいつ死んだのかにもよるが、そこからソーの16年分の人生を取り戻すにはまだ時間がかかるはずだ。
「……」
ローレルは、決断の時が迫っていると認識する。このままではどっちつかずだ。ソーの覚醒を待つのなら、アナグラムに干渉して彼の時間を早めるしかない。だが、今の彼の安穏とした日々を守るなら、今、彼の時間を止めてしまうのがいいだろう。
「……私が、あなたの人生を決めてしまっていいのでしょうか」
ローレルは、自らの手が震えているのが分かった。ソーの幸せは、ローレルにとって自らの命よりも重い。その所在が、カバラで最適化も出来ないまま、この手にゆだねられている。
何もしない、という選択肢はない。どっちつかずを選んだなら、きっとソーはいずれ覚醒し、そして間に合わなかったことを、多くを失ったことを知るだろう。そんな真似は出来ない。彼の絶望を想像するだけで、ローレルは胸が苦しくなる。
決めるのだ。そう思う。思うだけで、ローレルは分からないままだ。
「私は、あなたの人生を背負ってもいいですか? ソー……」
返答はない。ソーは、静かに寝息を立てて、穏やかに眠っていた。この安らぎを守りたい。それだけのことが、どうしてこうも難しい。
翌日、またソーの病室を訪れると、彼は考え込むような真剣な顔をして、ベッドの上に上体を起こしていた。
「こんにちは」
ローレルが挨拶すると、「ああ、……こんにちは」と困ったような声で“ユウ”は言う。彼の中で何か進展があったのだ、と話しかけると、彼は眉を慣れさせて、弱った笑みでこう言った。
「以前、体調がおかしいという話をしたよね」
「はい」
「病院で調べてもらって、ガンだってわかったんだ」
その言葉に、ローレルは何と返せばいいものか分からなかった。ユウの死、つまりソーへの転生の時が近づいている。ローレルは、言葉を探して、結局見つからなかった。
「えっと、それは、その」
「いいんだ。共感なんて誰にもできない。……ごめんね、今日は帰ってもらえないかな。少し、心を整理したいんだ」
「……はい」
ローレルは立ち上がり、一礼して病室を出た。ローレルは、すでに終わった大昔のことだと理解した上で、緊張に包まれていた。それはつまり、このことがローレルにもかかわってくることの証左か。
ローレルが決断せねばならない時は迫っている。きっと、すぐそこに。
さらに翌日にソーの病室に訪れると、彼はまた、どこか安穏とした様子でベッドの上に寝転んでいた。昨日の緊張感などはない。かと言って、寝ているのではなく、両手を頭の下にやって、薄目で秋の風を浴びていて、やはり寝転んでいるといった様子だった。
「やぁ、こんにちは」
「……こんにちは」
ソー、“ユウ”から挨拶されるのは珍しく、ローレルは僅かに逡巡を孕みつつも挨拶を返した。いつものように彼の横に座ると、彼は前置きもなくこう言った。
「彼女にガンのこと話したよ。泣かれちゃった。治らないって言っても、別れてくれないって。ふふ、彼女らしくって笑っちゃったよ。そんなに愛してもらえてるなんて、思ってなかった」
その言葉を聞いて、何だか、たまらなくなった。ローレルはシラハの今際の際が想起されて、俯いてその涙を隠す。ユウはそれに気付いたか気付いていないか、「それでね」と続ける。
「色んなことを話したよ。これからのこと。病気のこと。僕の、寿命のこと。病気だけど、結構末期だったみたいでね。この若さで、ってお医者さまも言ってたよ」
「……詳しく、聞いてもいいですか」
「うん。……俺の寿命は、恐らくもって一年ってことだった」
ユウは上体を起こす。けれどローレルの顔を見ることはなく、自分の膝のあたりを見つめて続けた。
「今から治療をしても、延命効果は薄いし、治療の副作用で何も出来なくなる。仕事の研究を続けられないのもそうだけど、何より彼女の邪魔をしてしまうのが我慢ならなかった。……僕は、死を受け入れようと思う。だから、別れようって、彼女に言ったんだ」
「それを」
「そうだね。彼女は頑として受け入れなかった。『あなたがあなたでなくなるか、あなたが私を嫌うかでない限り、私はあなたと別れない!』って。ズルいよね。泣きながら、必死に訴えかけてくるんだ。それを突き放しきれなかった。僕は」
ユウは言葉を探す。それから、ふっと笑って、こう言った。
「僕も、彼女を深く愛していたんだ。彼女のために、人生を最後の最期まで走り抜けようと思った。この一秒一瞬を、一欠けらだって無駄にしないようにしようって」
ユウは顔をあげる。そこにあったのは、覚悟を決めた時のソーの顔だった。ローレルは思う。前世から、ソーは、覚悟を決めるとこんな顔をするのだと。
「僕、彼女にプロポーズしようと思うんだ」
ローレルは息をのむ。“ユウ”は、ふふっと相好を崩した。
「ガンのことなんてきれいさっぱり忘れて、給料三か月分の指輪を買って、彼女とデートをして―――――最後に、指輪を差し出してプロポーズする。僕が死ぬまでの時間の全てを、彼女に捧げようと思った。喜んでくれるかだけは少し不安だけど」
「喜んでくれます」
ローレルは、思わず口を挟んでいた。意外そうにこちらを見てくるユウに、ローレルは引っ込みがつかなくなって、いっそすべてを言ってしまえと、さらに続ける。
「喜んでくれます。彼女さんは、あなたとの時間の一瞬一瞬を宝物みたいに思ってくれます。あなたは素晴らしい人。あなたを愛した彼女さんはとても幸せな人。だから、最期の瞬間まで、彼女さんに幸せをあげてください。きっと、そうすれば」
「……そう、すれば」
ローレルは唾を飲み下し、言葉を吐きだす。
「―――彼女さんも、覚悟が、決まるかと」
覚悟。ローレルに足りなかったもの。
「覚悟、覚悟、か。そうだね。僕はもう決めてしまったけれど、彼女にも必要なものだ」
はい、と首肯しながら、ローレルは自らにも必要なものであると認識した。覚悟。どうなっても受け止めるという心構え。
それに気付いて、ローレルは拍子抜けしてしまった。何だ。それなら、とうに決まっている。ローレルはソーがどうなっても、隣に居ると決めたのだから。
それから少し話して、“ユウ”は再び床に就いた。寝息を立てる様子はとても安穏としている。きっとこれから、彼の記憶の中で、プロポーズが行われ、受け入れられ、そして生涯を終えるまで幸せな時間が過ぎるのだろう。
そして、ユウはソーに転生する。彼の半生が波乱と苦痛に満ちていると、ローレルは知っている。
だから、今この瞬間だ。
今彼の時間を止めれば、ソーはユウとして永遠に安穏とした幸福の中にいられる。今彼の時間の加速を行わなければ、ソーが全てを思い出すころにはすべてが終わっていて、間に合わなくなっている。
止めるか、加速させるか。
ローレルはもう、覚悟を決めた。
「ソー、ごめんなさい」
ローレルは、彼の額に手を当てる。
「あなたは素晴らしい人。あなたを愛した私は、今も、今までも幸せでした」
ローレルはアナグラムを揃えにかかる。散らばっていたアナグラムが、少しずつ0に近づいていく。
「だから」
ローレルは力を籠める。聖神法に似た発動の所作。アナグラムを通して、物理現象から魔法が再現される。
「これからも、幸せにしてください。代わりに、私もあなたを幸せにしてみせます」
パツッと静電気のような微弱な電気が走った。一度ソーの目が開き、そして閉ざされる。その先にあるのは、彼がせっかく忘れていた地獄。それをもう一度取り戻させる。地獄を経た先でこそ、彼は何モノをも退けうる強者として君臨できる。
「ソー」
ローレルはソーの前髪を上げ、そこに口づけをした。そしてローレルは自嘲するように告げた。
「私、前よりも欲張りになってしまったみたいです。今の今までは、あなたさえ幸せでいられればいいって思っていましたのに、前世のあなたと彼女さんの話を聞き続けて、お二人のようになりたいって願ってしまったんです。だから」
それから呼吸を一つ挟んで、こう続ける。
「私に、覚悟を決めさせてください。あなたと共に地獄を走り抜ける覚悟を。あなたの一生を背負う覚悟を」
代わりと言っては何ですが、とローレルは囁く。
「私の一生を、あなたに捧げます。……ふふっ、おかしいですね。何だか、プロポーズみたいです」