8話 大きくなったな、総一郎71
ベルの隔離室へ向かう階段を下りながら、不意に、親子について考えた。
具体的には、ヴィーの親子だ。傍から見ていても仲がいいと思う。何となく同調したり、ちょっかいを出したり。
それにソー。彼の両親について、雑談で少し話したことがある。厳格な父と、朗らかな母だったと聞いた。父からは剣を、母からは魔法を学び、そしてある事件をきっかけに生き別れ、死に別れをしたと。
ローレルはどうだったか。祖父母とは一緒に住んでいた。彼らを両親と呼べるなら、関係性は良好だ。離れてしまっているが、こまめに連絡をしている。ソーとの再会を話した時、とても喜んでくれたのが記憶に新しい。
―――実際の両親については、よく分からない。いくつか情報は掴んでいるが、深く知りたいとは思えなかった。
「人間関係とは、難しいものですよね」
親子関係とは、あらゆる人類にとって必ず初めに結ばれるもので、最も因縁深いものだ。それが愛情に満ちたものか、あるいは憎悪、無関心、そもそも“結ばれない”という形で結ばれるかはさておき。
階段の一番下に辿り着きながら、何でこんなことを考えたのだろう、と考える。それはきっと、妥当すべき敵としてソーの平行世界の父親が現れたからだ。その高まり果てた修羅性は、神性を得て阿修羅に昇華された。親子。修羅。
「許してッ! 許してぇえええええぇぇぇぇぇ……!」
地下扉を開いた瞬間、ベルの絶叫がローレルを襲った。のたうち暴れる鈍い音は、クッションでやわらげられてなお痛々しい。
「ごめんなさい。許して、許してください。殺してごめんなさい。抵抗してごめんなさい。生きててごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。いや、いやぁっ。うぅ、ううぅぅぅぅぅぅうううぅぅぅぅぅぅ……」
ローレルは思う。前よりも、だいぶ悪化している。数日前のベルは、錯乱して絶叫することはなかった。自己弁護することができていた。今は、完全にすべてを投げ出して許しを乞うている。まるで、実際に痛めつけられているように。
「なるほど、ハウンドが眉をひそめるだけはあります」
普通に考えて、この状態の相手に強すぎる武器を与えるという判断は下せない。それをカバリストとは言え、判断材料となる発見とアナグラムのみで考えを改められるというのだから、ハウンドも優秀だ。
「許してください。ごめんなさい。すいません。悪かったです。申し訳ないです。お許しください。謝ります。だから、だから……」
「……」
ここまでの状態だったなら、まず映像で見せてくれてもよかったのに。
「はぁ。ベル? また来ましたよ。私のことが分かりますか?」
ちょっとアナグラムが複雑に絡まり過ぎていたので、軽く言葉を投げかけて反応を見る。すると「うぅ、う、う……?」と反応があった。なるほど、外界から刺激がない状態が続くことでこの自責状態は悪化するらしい。
「……ロー、ラ? は、はは。幻覚かな……? こんな短期間で同じ相手にまた会うなんてこと、考えにくいっていうのに。でも、折角幻覚なら、ファーガスが一度くらい出てきてもいいのにな」
「ファーガスじゃなくて悪かったですね」
「え。……もしかして、本当にローラ?」
「ええ、私です。前の通りここですか?」
ローレルがのぞき穴から覗き込むと、うずくまって芋虫のように横になって悶えるベルと目が合った。
「……」
ベルに、正気のアナグラムが整い始める。同時、恥のそれも。ついでに顔の赤みも。
「や、やぁ……」
「こんにちは、ベル」
のぞき穴から手を振ると、ベルは声もなく顔を隠してより体を縮こまらせた。意外に余裕があるのか。あるいは何か条件があるのか。
「開けますよ。いいですか」
「う、うん……。君がいれば、多分私もおかしくならないと思うし、いいよ……」
指を開いてその隙間からこちらを見つつ、ベルは答えた。EVフォンから認証キーを通して開錠する。扉を開くと、その隙にいそいそとベルは起き上がって身だしなみを整えていた。
そしてぽつり言う。
「……君が来ると、正気に戻れて良いんだけど、その分とても恥ずかしいね……」
「どういう精神状態なのか私には全然分からないんですが」
「うん……ごめん」
しきりに恥じ入って、正座で地面をじっと見つめるベルに、ローレルは冷静な目を向けていた。人間は刺激のない環境に置かれると、自然おかしくなっていくという。ローレルが考えるのは、彼女の波乱に満ちた半生がそれに拍車をかけているのではないか、という説だ。
とはいえ、仕方がない側面はどうしてもある。修羅は浸食能力があって、拘束、隔離下になければ暴走を瞬時に制御不能に陥る。特に対応可能な人間が組織の長しかいないとなれば、そしてその長が不調となれば、人道に反していてもこうするしかない。
敵。
ローレルは、彼女がARFにとっていまだ敵であることが問題なのだと看破する。
「ベル、単刀直入に言うのですが、あなたにファーガスの剣を返すことになりました」
「ッ!?」
ベルの反応は顕著だった。顔を上げて息をのんで、顔色を赤く青くし、口角を上げ、そして下げた。
「嬉、しい」
けど、とベルはまた俯く。
「やめておいた方がいい。見たじゃないか、さっきの私の様子を。……正気で居られない時間があるんだ。ずっと一人で居ると、私の中で、私が殺してきた人たちの声が響く。それをずっと聞いていると、少しずつ、少しずつ分からなくなって……」
アナグラムに狂いが生じた瞬間を見逃さず、ローレルは一つ、パンッと拍手を打った。するとベルが肩を跳ねさせて「ご、ごめん。それで、ええと」と我に返る。
「つまり、やっぱり、危険だよって、そういうことなんだ。正気を失っている間、私は何をするか分からない。そんな私に、ファーガスの剣を与えたら、また暴れ出したとき困るだろう?」
想定された通りの拒絶だった。だから、ローレルは考えていた通りに返す。
「ですが、そんなあなたにしか出来ないことがあると言ったら?」
「……詳しく聞かせてもらってもいいかな」
ベルの顔つきが、キリと引き締まった。ローレルは、段々とベルの正気に関わるアナグラムの解法を理解していく。
「我々に好意的ではあるものの、身元を明かしたくない何者かが、私に『ベルにファーガスの剣を渡せ』とアプローチしてきたようなのです。そして状況を鑑みるに、恐らくその人物が望んでいるのは、とある場面でベルがファーガスの件をもって現れることである、と推察しています」
「そう、か。なるほど事情は分かったよ。そして、ファーガスの剣が必要になる、という前提を考えると」
「ベル、あなたが以前指摘した『ヒイラギにとっての神』や、それにまつわる何者かでしょう」
「……」
ベルは唇を噛んで、ぶるりと全身を震わせた。そして「それは、大役だね、はは」と乾いた声で笑う。それで、と彼女はつないだ。
「それで、その大役が、私に務まるとでも?」
「もちろん、あなた一人ではありません。あなたよりももっと強力な面々も揃っています。ですが、それでもなお手が足りない、という指摘でした。そして、その人手不足を埋めるのはあなたなのです、ベル」
「それは……」
ベルは口を閉ざし、静かに考え始めた。彼女は自らの手を見下ろし、ぐっ、ぱっ、ぐっ、ぱっ、と開閉する。
「出来るかな、私に」
「出来ますよ。あなたは強い人です。ソーと一対一で戦える相手なんて、世界中でもそうはいません」
「ふふっ。君は変わらないなぁ。でも、そうか。確かに、彼は本当に強い。そんな彼とアレだけ戦えたのなら、私も、力になれるのかもしれないね……」
少しの沈黙を挟んでから、ベルは顔を上げた。それから、こう返答する。
「いいよ、分かった。力になろう。けど、私が危険なのとそれ自体は別問題だ。そこを解決してもらえないかな。アナグラムを見たけど、私では遅すぎる」
「はい。あなたの確約さえあれば、どうとでもしましょう」
そう言ってローレルが立ち上がると、「あ、その、良ければ待って欲しい」と懇願するような目を向けてくる。
「どうかされましたか?」
「い、いや、なんて事はないんだが……。も、もう少し話していかないか? 君といると正気で居られるようだし、そ、そうだ! その、今なら私も知恵を巡らせられそうだし、一緒に考えたいんだ」
ローレルはその様子を見て、何となく察した。アナグラム分析に掛けるのが無粋な、なんとも純朴な申し出だ。苦笑して、ローレルは腰を下ろし直す。
「……いいですよ。では、もう少し話しましょう」
ローレルも、ベルとは長い付き合いだ。騎士学院が崩壊してからはあまり会うことはなかったが、だからこそ、お互いに抱く思いはただ旧友のそれのみ。ローレルの親しい薔薇十字メンバーはベルに殺されていないし、ベルを苦しめる指示を出していたメンバーを、ローレルは知りもしない。
ならば旧交を温めるのも悪くはない。ローレルはそう判断して、ベルの隣に腰を下ろした。ベルは先ほどよりちょっと気恥ずかしそうに「あ、ありがとう」と視線をローレルから外してしまう。
「そうですね……手はいくつあっても困りません。その“ヒイラギにとっての神”とやらが降臨したとき、どう追い払うかも考えておきましょう」
「ソーのお父様をどうにかするのではなく、ってことか? 私としては、そちらを呼び出されるよりも前に、お父様の方を倒してしまうのがより確実だと思ったんだが」
「どちらかといえば、すべての可能性を吟味しておく、という話です。ソーのブラックホールで解決するのならば単純で分かりやすいですが、そうとも限らないでしょう?」
言われ、ハッとして様子で「そうか。強いだけの攻撃が通じない相手の可能性もあるんだ」と、ベルはしみじみ呟いた。その様子にローレルは、確認の意図で話題を変える。
「……あの剣は、ファーガスのものだったんですよね」
「うん。彼が、学院を襲った黒きドラゴンを薙ぎ払った剣だった。ファーガスが一人で様子を見に行くだなんて言うから、心配で気が気じゃなくて、つい私も行ってしまったんだ」
「ありましたね、そんなことも。それで、見たんですか」
「ああ、見たよ。ファーガスの凄まじい力を。盾はあらゆる攻撃を弾き、剣は振るうだけで触れても居ないドラゴンの身体を容易く裂いた。一方的で、神々しくて、……畏れすら抱いたよ」
はにかむように、ベルは笑った。それから「そういえば、盾はどこに行ったんだろう。薔薇十字の拠点を潰して回っても、結局見つけられなかった」と恐ろしいことを言う。
ローレルは、確か、と思い出してこう言った。
「確かあの盾、何かに与えられた衝撃を百倍くらいにして返すんですよ。ですから薔薇十字から政府に移譲して、今UKのエネルギー問題の一助に活用されてますよ」
「嘘でしょ!? えっ、そんなことになってるのあの盾。えぇ……?」
「私もその話を聞いてしばらく笑っていましたが、でもエントロピーを凌駕し続ける永久機関があったなら、私も同じことをするな、と思いました。国防に使うには、守備範囲が小さすぎますしね」
「盾がエネルギー問題に使われるとは……」
そこまで言って、ベルは「ふふっ、そうか。なら仕方がない」とあっさり諦めた。「取り返そうとは思わないんですね」と聞くと「ファーガスの生み出したものが誰かのためになっているなら、望むべくもないよ。少なくとも、私が使うよりよほどいい」と首を振る。
「そういえば、あの剣については詳しく知らないんです。盾同様絶大な力があるとしか。ベルはその辺り、詳しく知っていますか?」
「もちろん。あの剣には、二つの恐るべき力がある」
言いながら、ベルは指を二本立てた。ローレルはそれに、ひとまずピースサインで真似して返しつつ話を聞く。
「まず一つ目に、剣が攻撃の意思を持って振るわれたとき、剣先から使用者の望む距離までを断絶することができるんだ。その意味では、威力があるというより、現象をもたらすといったニュアンスが近いかな。剣出来ればその衝撃でもって切れるというより、振るった先に断絶という結果がただ生じるというような感じ、と言って伝わるかな」
ローレルはその言葉をアナグラムからかみ砕いて、自分の言葉で言い換える。
「威力の高い剣というのではなく、概念的な出力機という事であってますか? 強い力を込めればその分威力が上がるというエネルギー的な考えではなく、すべき行動をすれば、エネルギーの多寡に関わらず結果のみをもたらすというような。カバラを使うのに力んでも意味がないように……」
「良かった、伝わったみたいだね。そう。あの剣は、すべきことをすれば、断絶という結果だけが残る、そんな武器だった。そしてそのすべきことというのが直感的に認識する剣と何も変わらないから、使い勝手が良かったよ」
ふふ、とベルは笑う。それから彼女は「次に二つ目」と説明を続ける。
「私の方ではいまいち実感がわかないのだけれど、あの剣にはヒイラギ曰く、『殺せない相手を殺す能力が宿っている』とのことだった」
「それはつまり、不死殺し、という事ですか?」
「言葉通りに解釈するならね。元々ファーガスが剣を振るった相手というのは、不死の伝説を持つ黒龍だ。それをいとも容易く殺してのけたというのは、そういう事なんだろう、と漠然と考えてはいるけれど」
言いながら、ベルは自らの胸元に指を突き立てた。修羅。修羅は完全な不死ではないが、その高い治癒能力は不死のそれを彷彿とさせる。事実、ベルがヒイラギの下に居た時は『殺せない敵』として対策を練られていた。
「ヒイラギは、うまかったよ。私が自責で正気を失っているときに、戦う命令と共に剣を渡してきた。そういうときなら、私は言われるがままに剣を振るうしかないから」
自殺防止のコントロールが上手かった、という話か。ローレルは下手な慰めを悪手と断じて「そうですか……」とただ相槌を打つ。
だが、ベルが陰鬱とした言葉を吐くのはそこまでだった。彼女は一度大きく深呼吸をし、表情を引き締めて、「と、すれば、だ」と続けた。
「あの剣で対応できない相手となると、何だろうね。ひとまず、修羅は相手取れるはずだ。だが、それは単なる修羅、という意味合いになる。事実、あの剣をもってしてもソウには敵わなかった」
「ソーは苦戦していたと言いましたが、結果を見れば傷一つ負っていなかったそうですね」
「ふふっ。そうだね、けれど、それも当然かもしれない。一撃でも当たれば私が勝っていた。あの剣は、そういう武器だった」
あの剣の弱点があるとすれば、とベルは言う。
「第一に、『現象としての断絶』を阻みうる何か。つまり、ブラックホールは形あるものじゃない。単なる引力の発生点だ。だから断絶というのがそもそも意味をなさない。直接斬れば対処できたけれど、ソウのブラックホールの数には対処してもしきれなかったね」
「形無いもの、という事ですか」
「そうなる。ただしそれは、距離のある状態での話だ。あの剣は直接斬り合えば、恐らく何でも対処できると思う。それこそ、形無いものですら、殺しうると」
「……それは、心強いですね」
ローレルが素直に評すると、「全能ではないけれどね。弱点あるが、という話かな」と謙遜した。だが、アナグラム的には自分事のように喜んでいるのだから、何とも一途なものだ。
「ええ。誇らしいですね。草葉の陰で、ファーガスも役に立てると喜んでいるはずです」
「……ファーガス」
横を見ると、ベルは静かに、今は亡き恋人を思い出して泣いていた。ローレルはそっと彼女の背中に手を回し、そっと撫でる。
「ご、ごめん。まだ、情緒が不安定なんだ、きっと。っ。……だから、その」
「いいえ、気にしません」
「……そっか。それなら、よかった」
下手な慰めの言葉は、彼女には要らない。慰められたいとも思ってはいないだろう。ファーガスを助ける機会を逃したのもベルだし、ソーにだけは復讐をしなかったのがベルだ。
だからローレルは、自らが口にできる最大限の共感を示す。
「もう何年も経つのに、お互い一途ですね」
「……はは、そうだね。お互い一途だ。私はずっとずっと後悔して」
ベルは、そこでローレルを見た。その瞳に宿るのは羨望。ローレルが首を傾げている中で、ベルはこう言った。
「でも君は、すべきことを絶対にやってのける。本人から拒絶されてなお、記憶を消されてなお、立ち上がる」
ローラ、君は私には眩しいよ。ベルはそのように目を伏せた。その言葉に、ローレルは様々な思いが激しく争い合った。僅かな時間手が震え、それも理性で押し留め、ローレルは表情を変えず、言葉を返す。
「私、そんな強い人に見えますか」
「え。見えるも何も、君は……」
そこで、ベルは言葉を止めた。それから、こう尋ねてくる。
「今、ソウ、良くない状態なの?」
「……すいません、無用に感情的になってしまいました。そうですよね。ベルはここでずっと軟禁状態だったんです。外のことも、多くは知らない。そんな事も分からないなんて……」
ローレルは息を吐いて、「今日はこの辺りにしておきましょう」と立ち上がった。それから「ベルとこんなに話す機会は久しぶりで、楽しかったです」と告げる。
「そ、それは、もちろん。だけど、その」
「いいえ、気にしないでください。私は、すべきことをするだけですから。強いも、弱いも、関係がなくて。この世は無慈悲で、誰も、何も、私のことを待ってはくれないのですから」
扉に向かい、今度こそ立ち去ろうとするローレル。それにベルは「ローラ」と改めて名を呼んでくる。
「今回のことに限らず、何かあれば、呼んでほしい。力になる。死力を尽くそう」
「……ありがとうございます。そのときは、よろしくお願いします」
軽く頭を下げて、ローレルは扉を閉じた。扉の向こう、のぞき穴から、ベルは笑みを作ってそっと手を振っていた。ローレルはそれに手を振り返し、廊下を渡って地下を立ち去る。