8話 大きくなったな、総一郎70
ローレルがいつものようにソーの病室を見舞うと、ウルフマン、ハウンド、アイが彼を囲んでいた。
「……そうか。ありがとな、ユウさん」
苦しい声でいう人間形態のウルフマンに、「それほどでもないよ」とソー、“ユウ”は答えた。それから、静かに口を閉ざし、何も言わなくなる。
「あの、みなさん。どうされました?」
ローレルが近寄って話しかけると、ソー以外の全員が疲れたような表情でローレルに振り返った。ハウンドは「ああ、シルヴェスターか。いや、一応この目で確かめておこうかと思ってな」と肩を竦める。
「では、ここで失礼しますね、悠さん」
「うん。さようなら」
別れを言うアイに追従して、ぞろぞろと病室を出て行く三人。その内ハウンドに手招きをされ、ローレルはちらとソーを見てから彼らに続いた。ソーは虚空を見上げて、静かに安寧の中にいた。
病室を出ると、ウルフマンが難しい顔をし、腕組みをして全身を捻っていた。アイも疲れたように壁に背を預けてため息を吐き、ハウンドはいつも被っている野球帽のツバを掴んで指先でいじる。
「報告の通りだった」
ハウンドはそう言った。ウルフマンは頷き、アイは目を伏せる。
「直接見舞いをしても得られるものはない、という報告は的確だった。アナグラムでは、何も異常を検出できなかった。Jの嗅覚でも、アイの目でも分からなかった。トラウマで軽度の記憶喪失者の対応をしたときは、こうじゃなかった」
「はい」
「……シルヴェスター。アンタは掴んでるのか? 薔薇十字エースのアンタなら」
「……」
ローレルは、言葉を探した。カバリストとして何かを掴んだという訳ではない。だが、推論はいくつか手の中にある。
「確度の低い推測なら話せます。聞きますか?」
「……」
ハウンドは後ろに控える二人を見る。ウルフマンは「すまん、予定が詰まってる」と首を振り、アイも「ごめんなさい。Jくん同様、今日もスケジュールを調整して時間を作りましたので……」と頭を下げる。
「了解した。あとでこの話は共有する」
ハウンドの了承を得て、二人は足早にこの場を去っていった。「悪いな。演説会も近いこの土壇場だ。実働部隊の方がかなり忙しくってな。むしろ、アタシの方が今は自由に動けるくらいだ」とフォローを入れた。
「大丈夫です。気にしません。薔薇十字も夜な夜な睡眠時間を取れなくて呻いているくらいです。何故か、私が随分と余裕を持たされているというか」
少し、申し訳ないくらいなんですが。ローレルが言うと「シルヴェスターは良いんだよ。お前にしかできないことがあるし、それはお前に一任することで動く」とハウンドは頷く。
「それで、シルヴェスターが言う『確度の低い推測』を聞かせてもらいたいんだが、いいか?」
「はい。……ソーの前世についての話は?」
「シラハから、そんな話を雑談で聞いたことがある。あの時はアナグラムが嘘を示していなかったことが、不思議とは思っていた」
「私の推測はとてもシンプルです。彼の状態は前世にまで記憶が巻き戻っていて、それは魔法もカバラもなく、亜人も居なかった時代のものです」
そこまで話すだけで、カバリストにはおおよそ伝わる。ハウンドも、まばたきをして、一度首肯した。
「つまり―――歴史の授業で習うような亜人、魔法登場の直前に何らかの契機があって、それ以前のことは魔法を始めとした新しい技術は対応できない、と?」
「そのように私は見ています。ですから」
ローレルは、病室の方に視線を向ける。
「究極的には、今のソーにどう働きかければ助けられるか、ということは、誰にも分からないのでは、と」
「……」
ハウンドは、目を伏せた。それから「言葉を探したが、適切なものが見つからなかった。どう言えばいいのか……」といいながら、拳を握る。なのに、そこに至るまでの腕は力を失って、だらんとしていた。
「質問させてくれ。それは、諦めか? それとも、事実か?」
「私かソーのことを諦めるなんてありえません」
ローレルは、弾かれたようにハウンドに向かう自分に気付いた。ハウンドは目を丸くしてローレルを見て、それから「なら、いい。……任せるよ」と軽く肩を叩いて去っていった。
ローレルはその後ろ姿を見つめながら、己の全身がピンと張り詰めていると知った。四肢の震えを、深呼吸で鎮める。
「……ソーがお姉さまとの子供の真実を知った時、こんな気持ちだったのでしょうか」
分からないというのは、本当に恐ろしいことだ。改めてそう思う。分からないことがほとんどない技術を、誰よりもうまく行使して生きてきたがために。
ローレルは踵を返し、再びソーの病室に入った。彼はベッドに寝転んで、しかし目を開けて、窓から秋空を見上げているようだった。それからすぐにローレルに気が付いて、「今日は何の話をしようか」と微笑んだ。
「何でもいいですよ。あなたが話したい事を聞かせてください」
「そうだね……。なら、進展があったから、そのことについて話そうか」
進展、と聞いて、ローレルは硬直した。ソーが眠っている間に、彼の時間が進んでいる? 同時に分かるのが、ローレル個人を認識は出来ていないものの、以前にこのことを話した、という事は漠然と理解していることだ。
僅かなりとも、記憶を取り戻そうとしている。ローレルはそのことに、安堵と危機感を同時に覚え、腹の奥にわだかまる何かを感じた。
「彼女がね、就職したんだ。昨日その一周年祝いをしたんだ」
昨日は、変わらずローレルがソーの話を聞いただけだ。彼女とこれだけの付き合いになる、という内容だった。概算するなら、彼の中で何百倍もの速度で時間が取り戻されていることになる。
「そう、なんですか。どうでしたか?」
「色々と思うところはあるらしいけれど、結構楽しいって。残業がキツイって笑ってたよ。でも、数年以内にやめる職場だし、だって。はっきりしてて、何だか“らしい”なって」
ふふ、と“ユウ”は笑う。その様子をして、本当に幸せそうです、なんてことを思ってしまう。
「彼女の任されたクラスはね、最初から学級崩壊を起こしていたみたいなんだ」
「……」
穏やかにパンチ力のある情報を盛り込むのはズルいと思う。
「学級、崩壊、ですか?」
「うん。クラスが無秩序状態だったんだって。それを学級崩壊っていうんだけど。授業中に私語は当然はしゃいで暴れまわるのも普通、みたいなところからスタートしたって」
「ああ、そういうことですね。理解しました。……それは大変なことではないですか? それも、新任の教師が担当とは……」
「そうだよね。僕もそこを心配してたんだけど、流石彼女だったよ。自己紹介する予定だったのを、急遽内申点の話に変えて、『君たちの将来を私は一手に握っています。勝ち組にも、負け組にもできます。勝ち組になりたかったら媚びてください』だって。笑っちゃったよ」
「彼女さん、とても、という言葉じゃ足りないくらい気が強いですよね」
「うん、強いよ。中学生40人くらい手玉に取れて当然、みたいな風に言ってたもの。実際数日で、みんな大人しく授業を聞いてくれるようになったって」
「……それは、すごいです」
「ふふ、うん。すごい人なんだ、彼女は」
聞けば聞くほど、シラハなのではないか、という疑いが拭えなくなる。その推測が事実か否か、ということそのものには状況改善のための価値は恐らく無いにしろ、何と言うか、運命めいたものを感じてしまうのは無理からぬことだろう。
――――純粋な興味があって、ローレルはこう言った。
「それで、一周年ってことは、それからも色んなことがあったんですよね? どんなことがあったのか、とか、聞きましたか?」
「もちろんだよ。彼女はそういう人だから、色々なことを経験したって言ってた。いじめが発生して学校側も大事にしたくないとか言ってたからって、クラスの生徒全員に防犯ブザーを渡して鳴る度に駆け付けたりとか、いじめっ子を割り出して面談して友達になって、親御さんの所に乗り込んでいじめの元となるストレッサーを潰しにかかったりとか」
「もうだいぶ面白いんですが」
「いじめっ子にオタクの素質を見出して、いじめられっ子ののめり込んでる分野に引き入れて、いじめられっ子を師匠扱いして仲を取り持ったりって話もしてたね」
「立場逆転どころじゃないですね」
「あとは……信じてもらうのは難しいかもしれないけどって前置きして、不思議な話も聞いたかな」
不思議な話、というワードで、場の雰囲気に静寂と怪しさがもたらされたのが分かった。“ユウ”はこちらを困り眉で見て「聞きたい?」と尋ねてくる。ローレルに、首を横に振る理由はなかった。
「きっかけは、今話した防犯ブザーだったらしいんだ」
そのように、ユウは語り始めた。
「いじめれっ子が鳴らした防犯ブザーが、妙な音を出したらしいんだよ。彼女の耳にどこにいても聞こえるし、鳴っている間、周囲にいる人間全員が頭痛で動けなくなるっていう。とても便利で、不思議な防犯ブザーがあったんだって」
「それは……彼女さんが買い与えたものですよね?」
「うん。そのはずだよ。みんなに配れるような安物だったはずだって。もしかしたらサプライズで一つくらいちょっと違った種類のものを入れたかも、とは言ってたけど、それが“都合よくいじめられっ子に行く”とは考えにくいよね、というのが僕らの見解だった」
ローレルは唾を飲み下す。「それで、どうなったんですか」と続きを促すと、「うん。それで彼女、も調査を始めたらしいんだ」と彼は言う。
「調査の結果はとても興味深いものだった。―――そういう不思議なアイテムは、その防犯ブザーに限らないらしかったんだって」
例えば、とユウはつなぐ。
「不良が抗争で使うバットには、持ち手以外に触れた人間を気絶させる力がついていたとか。テニス部の使うラケットには、ボールを引き寄せる力があったとか。絵を描くのが趣味の所為との筆には、見るものを魅了する絵を描く力があったとか」
「……まるで、おとぎ話の魔法のアイテムですね」
「うん。そしてそれを聞いて、僕はとても恣意的だと思ったよ。バットは分かりやすいね。破壊力に優れているのではなく、過程によらず気絶させられる、という特性は、不良の抗争で猛威を振るう以上に勝利という目的に直結していて、かつ『被害を出し過ぎないように』という意図が見え隠れする」
作り手が居る、という結論になったのは、自然なことだったという。
「そ、それで、どうなったのですか」
ローレルが前のめりになって聞くと、ユウはふふ、と肩を揺らして、言った。
「そこまでしか、分からなかったんだって」
「……え?」
「僕も残念だったから、気持ちは分かるよ。でも、人生ってそんなものなのかなって。最後まで分からないことの方が多い。それも人生って言うか、さ」
彼女のもやもやしてそうな不満顔が可愛かったしね。なんてついでのように惚気られて、ローレルも分かりやすく不満顔だ。それを見て、ソーか「あはは」と笑う。その一瞬が、ローレルは、記憶を取り戻してくれたみたいで嬉しかった。
その日の見舞いは、そこまでだった。例のごとくソーは眠気を訴え、ローレルは部屋を後にした。そして、取り掛かるべきことへと向かうのだ。
「ファーガスの剣、ですか」
管理者はソーだが、ソーはあの状態だ。ならば、働きかけるべきは情報を司るハウンド、そして現在ARFの運営を任されているファイアーピッグか。
先日はヴィーと友達になったばかりでもある。場合によっては頼るのも手だろうか。ローレルは様々なことを吟味に掛けながら歩く。歩く。
そして、いつものようにARFの拠点についた。大きな民家を思わせる外観。だが今日は、緊張にその姿が揺らいで見えた。
「……心配いりません。カバラが効果を持たないのは、ソーだけなのですから」
ローレルは覚悟を決めて、そっと扉を押し開いた。いつもは気にもしない、小さなオートタレットの動きが気になる。ローレルの顔は施設の認証システムに登録されているのだから、反応されるわけもないのに。
奥に進み、ARFが主に活動する部屋に一直線に進んだ。すると、都合のいいことにハウンドとファイアーピッグが揃って話しているのが見えた。
「……そうか。ソーイチロは、そうだったか」
「ああ。シルヴェスターに任せている以上大きな心配はしちゃいないが、少なくともアタシには何もできない状態だった」
「難儀だな。まったく、オレがボスと仰ぐ相手はいつだって難儀な連中ばかりだったよ。自由奔放天衣無縫。勝手に盛り上がって大勢でどこまでも進んじまうお祭り野郎。度胸がありすぎて見てるこっちが肝を冷やす革命家に、運も不運も一手に吸い込む渦中と来た」
「ハハ、そろい踏みだな。だが、確かにボスは運もあれば不運もある。……結局アタシは、ARFから離れられなかった。あれだけ苦しい思いをして、それでもだ」
「人望、っていうとしっくりこねぇがな。目を話したら死んじまうんじゃねぇかと思うと、放っておけねぇ。姉弟そっくりだよ、その辺りは」
「違いない」
二人は言い合い、くくっと笑った。それから、物陰で聞いていたローレルに「気にせず入って来いよ。もうアンタはアタシらの仲間だ。だろ、シルヴェスター」と呼ばれる。
「……込み入った話のように聞こえましたので。遠慮してしまいました」
「エースの嬢ちゃんは、慎み深いな。これで我らがボスのことになるとあれだけはっきりするんだから、人間ってのは分からんもんだ」
「恋は盲目といいますが、愛は不可能を可能にするんですよ」
「こうやって煽られて、恥ずかしがるどころかやり返してくるんだから、嬢ちゃんはすげぇよ」
敵わねぇな、とピッグが言い、「アタシはとっくに降参した。ヴァンプくらいじゃねぇのか。まだ心折れてないの」と返した。ローレルはアナグラムを読み解くまでもなく、察してしまう。
「……ソーって、やっぱりモテるんですか」
「まぁ、そりゃ」とハウンド。
「邪神に目を付けられてたり、シュラのそれこれがなければ、度胸も実力も頭脳も兼ね備えた好青年だぞ。しかもあの顔立ちだ。ライバルが邪神や嬢ちゃんとかじゃなきゃ、今頃ハーレムでも築いてたんじゃねぇか?」とピッグ。
「結構ボスも押しに弱いしな……。ヴァンプも押しまくっていいところまで行ってたし、今は公言二股だろ? ありうるかもなぁ」
自分の恋人のハーレムの話など聞きたくもないローレルは、「さて、では本題ですが」とニッコリ笑みを作って切り出した。「お、おう」「いや嬢ちゃん、その強引さはすげぇな……」とそれぞれに言いつつ、身を乗り出して話に応じてくれる。
「率直に言います。ベルが使っていた剣を非常時の際、ベルが使用可能な状態にしていただけませんか?」
ベル、という名前を聞いただけで、ハウンドの態度がピリついた。ピッグはそれを横目に「あれはボスの管轄だったはずだが……、ボスがこんな状況である以上、オレたちに申し出るのは間違っちゃないな。理由を聞かせてくれるか?」と冷静に問いかけてくる。
「前提ですが。私は現在、ナイが警戒し、薔薇十字が予言してきた大いなる終焉への対策を打って回っています。薔薇十字がARFに全面協力状態なのも、その一環です。恩を売り、その分協力してもらう。かつそのときに、ソーがカギとなる。故にこそ、ソーは薔薇十字では救世主と呼称されます」
「そうだな。それは承知している」
「その上でベルにあの剣を返して欲しいという要求の理由を述べますが、彼女があの剣を握れる立場になることが、その終焉を打ち払うための鍵の一つであると判明したためです」
「そうか、了解した。ではオレの見解を述べるが、事情を良く知らない以上、オレが判断すべき問題ではないと判断した」
だから、とピッグは顎でハウンドを示す。
「ハウンドが許可を出せばそれでいい。さてハウンド。お前の判断はどうだ?
「反対だ」
「だそうだ。ということで、好き勝手やるといい。オレは見てる」
言うなり、ピッグは深くソファに座り込み、完全に観戦の構えとなった。一方厄介なのがハウンドだ。じっと目を細めて、警戒をあらわにローレルを見つめている。
「ひとまず、反対の理由から、聞かせてもらってもいいですか」
「リスクが非常に高いからだ。シルヴェスター、アンタは奴を上手く御せた経験しかないだろうから分からんだろうが、奴との戦いは常に熾烈だった。裏を掻かれ予想は外れ、そして奴の一撃の一つ一つがアタシらにとっての致命打となる。やってられないったらなかった」
「理解しています。ヒイラギがバックについていた頃のベルの脅威、という話ですね。今は状況が変わっています。ヒイラギはとうにベルを見捨て、ベルも正気を保とうと努力しています。彼女が脅威だったのは、制御できなかったからではありません。ヒイラギが、敵の立場から制御していたためです」
「だから危険性は低いと? ならアイツのアナグラムデータを毎日監視してるアタシの立場から言わせてもらうが、奴は一日一度、正気を失って修羅に乗っ取られる時間がある。その際は理性もなくクッションを跳ねまわるんだ。今はそれで済んでるが、そこにあの剣なんて言う劇薬を投入してみろ。どうなるか分かったもんじゃねえ」
ローレルは、ならばアナグラムを計算すればいいと返しかけた。だが、ファーガスの剣は彼の異能性の塊だ。すなわち、桁数ばかりが膨れ上がり、アナグラム計算では対処しきれない領域になってくる。
そして思うのだ。またしても、と。今まで、カバラは並大抵のもののほとんどを計算に掛けるだけで対応できた。だが邪神にまつわるものがあれば、計算出来れども狂うし、ソーのブラックホールなど常識外の異能は膨大過ぎて処理が追い付かないし、三百年前に関しては対象外となる。
ローレルは目を閉じ、『カバラがあればどうとでもなる』などという甘い考えでここに来た自分を恥じた。そして同時に、分からないなら決めるしかないのだと強く思った。分からないから手を出さないのでは通じない。行動するしかないのだと。
「……おい、言い返さないのか? そんな薄弱な根拠でこんなリスキーな申請をしようと思ったのかよ、シルヴェスター」
怒りというよりは呆れに近い声色で、ハウンドはローレルに語り掛けてくる。ローレルは目を大きく見開いて、こう返した。
「ハウンド、冷静になって思い返しましたが、私の記憶にこの提案をするに足る根拠が見つかりませんでした。つまり、私は今何者かの洗脳下にある可能性があります。調べていただけますか?」
「……はぁ!?」
驚きの余り、ハウンドはガタッと音を立てて立ち上がった。それから、「ちょっ、ちょっと待て。本人から洗脳されてる可能性があるとか言われるの初めてて混乱してる。えっと、調査か? 分かった、確か……これ被れっ」と引き出しからヘッドセットを投げ渡してくる。
「はい。これを被って、ここがスイッチですか?」
「ああ。ハハ、カバリスト相手は話が早いなチクショウ。じゃあ他の手順も分かるな?」
「ええ、これをこうして」
機械から読み取れる使用方法のアナグラムから、ローレルはテキパキヘッドセットの準備を進めた。それを見ていたピッグから、「マジでこの嬢ちゃんすげーな……」と引き気味に言われる。
「やっほー、学校終わったから手伝いに来た、わ……何やってるの?」
「洗脳調査です。私が洗脳されている可能性がありそうだったので」
「はい?」
「気持ちは分かるぜヴィー。アタシも戸惑いながら作業してる」
ハウンドは電磁ヴィジョンを立ち上げて手際よく準備を整えた。ヴィーは「え、なになに、洗脳? 誰が、誰を?」とピッグに寄っていき、ピッグが「何者かが、嬢ちゃんを、らしい」と肩を竦めた。
「こっちは整った。そっちも整ったな? じゃあ一瞬頭に電流を流してアナグラムを総洗いする。少し痛むが害はない。いくぞ」
「いつでも構いません」
ハウンドが電磁ヴィジョンからヘッドセットを稼働させた。途端、ローレルの頭に強い頭痛が走る。だが、一瞬だ。すぐに痛みは抜け、多少の余韻が残るばかりとなった。
「完了だ。自動で収集したアナグラムがスパコンで処理される。それも終わったな。確認を始める。データはこれだ」
EVフォンに通知が来て、ローレルもそこから分析に入った。「何この速度感」とヴィーが呟き、「カバリストってのはこう言うもんらしいな」とピッグはマイペースにマグカップにコーヒーを注ぎ、ヴィーに差し出す。
そして、カバリスト二人は同時に言った。
「「分析不能?」」
図らずしもハモってしまって、ローレルとハウンドは目を合わせた。ローレルはこんなことがあるのかと首を傾げる。本当に分析不能なら、ソーのように異常を何も検知できないという形に落ち着く。だが、分からないことが分かる、というのは珍しい。
一方でハウンドは何か心当たりがあるのか、『分析不能』のアナグラムをそのまま過去ログで検索を掛け始めた。スパコンが駆動音を立てる。検知に目まぐるしく、電磁ヴィジョンにコードの羅列が続き数秒。「ビンゴ」とハウンドは言った。
「これ、知ってるぜ。ボスが前から使い始めた不可解技術『灰』と同じだ。怪しかったからしばらく使ってるのを観察しつつ経過を見たが、あれはかなり有用だった」
ギラリと輝くハウンドの眼光に、ローレルは頷く。
「そして今回も同じ原因だったのだとすれば、その謎の存在は、我々に好意的な形で干渉しているということになります。とすれば、今回も」
「可能性は高い。さしずめ、シルヴェスターは無自覚なメッセンジャーだったってとこか。となると、悪くないな。特にシルヴェスターが洗脳に自覚して、そこからアナグラムを辿れたってのが良い。普通こんなルート確保は想定されないから、相手方もここにブラフは仕込まないはずだ」
分かった、とハウンドは首肯した。
「いいぜ。許可を出そう。『灰』はかなり高度な未知技術の一端だったし、その中枢を構築できる相手が好意的に干渉した結果でのメッセージってんなら、メタ的なアナグラム分析でも危険性を低いと試算できる」
「ありがとうございます。それで、具体的にはどうなるのでしょう」
「そうだな……とはいえベルの不安定性が解消されたわけじゃないからな。自由にはしないが、常に剣を入手可能な権限を渡しておこう。いざとなればその場の判断で、ベルは剣を使って牢獄を破れることになるな。言っててゾッとしないが」
背筋にゾクッと来ていそうな態度で言うハウンドに、ローレルは「大丈夫ですよ。今の彼女には悪意はありません。制御できていないだけで、根幹としては理性的です」と告げる。
「そうか? ……そうであることを祈るぜ」
言いながら、ハウンドは電磁ウィンドウの同じ場所を何度も叩いて、複数の許可を通していた。そして一度アラート表示がなされた上でそれも問題なしとして、全ての許可が下りる。
「これで、剣はベルに返還されたも同然だ。……直接伝えてやれ、シルヴェスター」
「はい。感謝します、ハウンド」
「感謝なんか要らねぇよ。アタシは合理的だと判断したから動いた。それだけだ」
ハウンドは皮肉っぽく口端を吊り上げた。それを見たヴィーが「あ、カッコつけてる」と茶化し、「言ってやるな、ヴィー」と注意しつつ、ピッグは喉の奥で笑う。
「……たまにくらい調子のさせてくれよ、クソ」
ハウンドはバツが悪そうに、野球帽のツバで赤面を隠す。