8話 大きくなったな、総一郎67
ベルに会わせて欲しい、というローレルの言葉に、ハウンド、ウルフマンの二人は肩を跳ねさせた。ファイアー親子はキョトンとしているあたり、何も知らないのだろう。
「……正気か、シルヴェスター」
「ええ。私は正気です、ハウンド。彼女はヒイラギと一時期行動を共にしていました。彼女が何を企んでいるのか、概要を知れるだけでも大きな価値があります」
「ローラ、その、こんなこと言いたくねぇけどよ。ローラでも難しいと思うぜ。イッちゃんに負けて連れられてきてから、交代制で飯だけは与えてるが……ほぼ廃人に近い。たまに部屋で暴れることがある以外は、ほとんど横になってぶつぶつ言いながらぼーっとしてるだけだ」
「ありがとうございます、ウルフマン。その情報だけで、どうすべきか分かりました。ハウンド、セキュリティキーを受け取っても?」
ローレルの返答に、ハウンドはポカンとしてからくくっと笑い「これが本家筋のエースか。ほらよ」と空中で何かを払う所作をした。同時、EVフォンに通知が来て、地下室への扉の電子キーがアクティブになった旨が示される。
「では行ってきます」
「おう。アンタならどうにかしちまうんだろうな、シルヴェスター。流石ボスの恋人の座を勝ち取っただけはある」
「ああ……そうか。そういえばあの熾烈な戦いを勝ち抜いてきた奴だもんな、ローラは。そりゃ頼もしいのも不思議じゃないか」
ローレルは何だか気恥ずかしくなって、挨拶もそこそこに部屋を出た。薔薇十字でエースだのなんだのと言われるのにはもう慣れたが、ARFでも同じことをされるとは思っていない。
速足で建物の奥に向かい、そして扉に辿り着いた。厳重で、分厚い鉄扉だ。ローレルはEVフォンを操作してキーを解除し、扉を押し開く。その先には、暗がりへと深い下り階段が延びていた。
「何度来ても、ここは嫌な雰囲気がありますね」
一時期はナイを確保していた場所でもあったし、過去にはシェリルが拷問にあった場所でもあったという。そして今は、ベルがこの下で隔離されている。つくづく無貌の神に縁のある場所だ。
ローレルは一人おりていく。感知センサーが反応して電気がつく。追われるように後ろが暗くなっていく。ローレルはそして、地階へとたどり着いた。
「……声がしますね」
かすれていて聞き取りずらいが、ずっと続いているのがアナグラムからも分かった。ローレルは深呼吸をして、二つ目の扉に触れる。電子キーからロックの解除がなされる。同時、背後で一階の階段入り口の扉がロックされたのが、駆動音で分かった。
そっと扉を開く。廊下。まっすぐ行った最奥に、彼女の部屋はあるという。ローレルは、迷わず進んだ。
「……さい。ごめんなさい。わたっ、私、私、うっ、ううっ、ううううぅぅぅ……」
近づくにつれて、何を言っているのかがはっきりしてくる。ローレルは、嫌な気持ちになった。あまりにも計算結果通りに救いがなく、あまりにも予想通りに悲惨で。
ローレルは速足で廊下を突っ切る。そして、扉に手を掛けた。
「ベル。私です。ローラです。入ってもいいですか?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……。私、こんなに殺すつもりなんてなくて、みんなが、みんなが私を殺そうとしてくるから、自分の命を守ろうとしただけで……!」
「……」
ローレルは、大きく息を吸って、言った。
「クリスタベル・アデラ・ダスティンッ! 何ですかその様は! ファーガスがあなたの様子を見て、どう思うか考えたことはありますかッ?」
息をのむ音。同時、正気が戻ったアナグラムを見つけた。扉の向こうで、よろよろと立ち上がり、そして何度か転びながらこちらに向かってくる足音を聞く。そして、扉ののぞき穴から、目が覗いた。昔よりずっと憔悴した、疲れた目だ。
「ロー、ラ? あ、ああ、久しぶり、だね……。―――こんなところに、何をしに?」
「ヒイラギがまた悪さを企んでいるので、あなたに助言を伺いに来ました。開けてもいいですか?」
その提案に、ベルは色めき立って首を振った。そこには、ローレルを案じるアナグラムが見え隠れする。
「だっ、ダメだ! 私は今、何をするか分かったものじゃ」
「分かりました、開けます」
「ちょっ、ローラ!? 本当に危ないんだ私は」
制止の声も聞かず、ローレルは扉を開け放った。ベルはナイが着せられていた拘束具よりはだいぶマシな病人服を身に纏って、扉の向こうに立っていた。病室はクッションで四方を覆われていて、いかにも精神病院の一室と言った風情になっている。
「ベル」
ローレルは、にっこりと笑いかけた。ベルは怯んだような顔で、自分よりもずっと小柄なローレルを見つめている。
「協力して、下さいますよね?」
ベルはローレルの圧に、ただゆっくりと首を縦に振った。ローレルは、確かな手ごたえを感じる。修羅とされるこれは、ローレルならば対処可能だと。
故にローレルは、大胆不敵に病室に「お邪魔します」と入り込んだ。それから振り返って、「どこに座ればいいですか? 椅子や机のようなものは、この部屋には無いようですが」とクッションに覆われた部屋をしてベルに尋ねる。
「あ、ああ。じゃあ、そうだね。済まないけれど、その辺に適当に座ってもらってもいいかな?」
ベルがそう言って壁を背にそっと腰を下ろしたのを見て、ローレルもそれに倣って横に座り込んだ。
揃いも揃って体操座り。壁を背に、二人は小さく並ぶ。
ベルは言った。
「ローラ。君はその、何と言うか、危機感がないのか?」
「違います。あなたが私にとって危険ではないだけですよ、ベル」
率直に返すと、ベルはキョトンとして「そう、か……」と俯いて、反芻するように口だけで言葉を繰り返していた。ローレルは、そこから感情のアナグラムを取り出さない。闇雲にアナグラムを取り出して、理解しようと考えるカバリストをして、二流と考えるが故に。
「それで、聞かせてもらっていいでしょうか。ヒイラギが今、何を目的として動いているのかを。彼女は今、どんな企みをしているのかを」
「……どんな状況か、聞かせてもらってもいいかな」
「もちろんです。順を追って説明します」
それから、しばし時間を割いて、現状をベルに説明した。ベルはしばらく目を伏せて考え込んでいて、一通りローレルの話が終わってから、俯いて話し出した。
「言い出しっぺはナイだったけど、その目的に執着していたのは、ずっとヒイラギだったと思う」
ローレルはその隣で、小さく「はい」と相槌を打つ。
「矛盾が、ヒイラギが求める何かを呼び寄せるらしいんだ。触媒になるっていう話をしていたけど、要するにそういう事だと思う。だからヒイラギは、あのおぞましい実験の数々で矛盾めいた状況を多く創り出していたのだけれど、そのどれもが失敗作だって言ってた」
その言葉から溢れるアナグラムは穢れていて、計算に掛けようとするだけで良くない予感が脳裏によぎった。つくづく相性が悪い敵だと、ローレルは思う。知るだけで理解し、最善の手段でもって事に当たるカバリストにとって、理解すると発狂する性質は本当に厄介だ。
「その何か、とは何なのかご存知ですか?」
故にローレルは、ベルの言葉を求める。言葉をアナグラムとして分析すれば、待つのは自らの狂気だ。だが、言葉を言葉のままに捉えれば、うすら寒い気持ちになる程度で抑えられる。
だがベルの言葉は、真に迫っていた。
「神、だそうだ」
「……その」
ローレルは目を伏せ、言葉を探して問い直す。
「無貌の神であるヒイラギが、さらに恐ろしいものを呼び寄せるというのですから、神である、というのには納得がいきます。ただ、神、と漠然と言われても難しいです。もう少し具体的にお話しいただけますか?」
「具体的には、私も分からないよ。だが、彼女の言葉を聞く限り、彼女にとっての神、といったニュアンスで喋っていたと思う。我らキリスト教徒にとっての神でもなく、無貌の神そのものというのでもない。無貌の神を含む、神々にとっての神、というような」
「それは……」
ローレルは下唇を隠し、アナグラム分析を避けて深く考える。
「とてつもない相手、というのは、分かりました。何故矛盾が必要なのかは分かりませんが、とにかく必要なのでしょう。そして今、その矛盾としてヒイラギに活用されているのが、平行世界から来たソーのお父様、と」
「!? そ、そうなのか。何と言うか……彼もとことん因果だね」
「本当に手のかかる恋人です」
「この話題の中でさらりと惚気られる君は、本当に尊敬に値すると思うよ」
しかし、とベルは言葉をつなぐ。
「その、言い方は悪いと思うが、ソウのお父様が触媒となるのなら、シンプルにその触媒を破壊してしまうのが、ヒイラギの思惑の一番簡単な破り方のはずだ。そういうことは出来ないのか?」
「ナイが尻尾を丸めて逃げ出した相手、と言えば状況が分かるかと思います」
「なるほど、常人では不可能に近いわけだね。ソウか、あるいは……」
「あるいは?」
「……いや、気にしないでくれ」
ベルはそっと首を振った。重要情報を伏せているのかと思ったが、アナグラムとしてはそうでもないらしい。ならば無理に聞くこともないだろう。
「そうですか、分かりました。しかし、なるほど。ありがとうございます。参考になりました」
ローレルは言うが早いか立ち上がり、軽く会釈をした。ベルはこちらに手を伸ばしかけて、しかし引っ込める。
「……またね、ローラ。久しぶりに話せてうれしかった」
ローレルは、「はい」と素直に頷いた。
「私も、久しぶりにあなたと話せて楽しかったです、ベル。いつかまた、こんな狭苦しい場所ではなく、喫茶店などでお喋りできる日が来るといいですね」
ベルは、ローレルの言葉に、唇を噛んで視線を逸らした。それから「そう、だね。そんな事がまたできるのなら、望むべくもない」と呟く。
「……。では、また」
ローレルは、その複雑な感情に、殊更言及しなかった。ベルを救うのはローレルではない。誰が救えるのかも分からない。だがきっと、救う資格があるのだとしたらファーガスだけだろう。今は亡きファーガスだけ。
そしてローレルは、後ろ手に扉を閉め、振り返らずにその場を立ち去った。もう、ローレルが手を差し伸べるのはソーだけだ。他に目移りすれば、きっとするりと、彼を手から零してしまう。
「ごめんなさい、ベル。私は、私の限界を知っているのです」
ローレルは迷わない。今はただ、ソーが幸せになってくれればそれでいい。
翌日、昼過ぎにローレルは準備をして、いつもの通り病院に、ソーの見舞いに訪れていた。
ミスカトニック大学病院は、その日も何も変わらないように見えた。アナグラム上の変動も、ほとんど無いと。
だが、病室に近づくにつれ、微細な変動があることに気が付いた。ローレルは、不安に突き動かされて速足で病室に向かう。
そして、扉を開け放つとそこにはベッドの上で上体を起こしたソーが、呆然と窓の外を見つめていた。
「ソー!」
ローレルは思わず名前を呼んで、彼に駆け寄っていた。それから抱き着いて、「良かった……! 分かっていても、不安でした。あなたが、無事に目覚めてくれて、本当に良かった……!」とこぼすと、戸惑いと共に受け入れられる。
だがそこから、想定と違う行動が待っていた。いつものソーなら、そっと『心配かけたね』と労ってくれたはずだった。しかし“彼”は、こう話しかけてきた。
「あ、えっと、ごめん、一旦離れてくれるかな?」
まるで子供をあやすような声音で言われて、ローレルは驚きの余りそのまま従うしかなかった。それからそっと離されて、その顔を真正面から見つめることとなる。
それは、別人だった。ソーのはずだったし、ソーの顔だった。だが、別人だった。面影もあって、似ているという気もするが、根幹にある何かが異なる。
彼は言った。
「ごめん、人違いじゃないかな……? 勘違いだったら申し訳ないんだけど、“僕”、君のことちょっと見覚えがなくて」