8話 大きくなったな、総一郎66
ソーが、目を覚まさない。
ローレルはベッドの傍らで、その様子を見つめていた。意識せず唇を噛んで、その頬に触れる。ソーは反応せず、ただ規則正しいリズムで呼吸に胸を上下させていた。
ミスカトニック大学付属病院の、一室のことだった。
リッジウェイ警部確保のはずが、ヒイラギとの思わぬやり合いとなったあの事件から数日。あの時に気を失ったソーは、それ以来ずっと目を覚まさなかった。少し乱暴に揺すっても、むずがる気配さえない。
心配の余り、ソーに関わる様々なアナグラムの再計算を徹夜で行ったのが昨日のこと。出た結果は“問題なし”。これまでの予定通りにすべきことをして、目覚めを待っていればいいという計算結果が出た。
故にローレルは、こうしてそっとソーの傍で、その安静を見守っている。どうせ無事に目覚めるのなら、という家での介護を申し出たが、ローラにはローラのすべきことがあるだろう、と周囲に案を棄却され、ソーの入院が決まってしまった。
「本当は、私が全てお世話したかったのですよ」
呟けども、やはりソーからの反応はない。それが切なくて、ローレルは立ち上がった。
「また明日来ますね、ソー。あなたの夢が、幸多からんことを」
そっと神に祈って、ローレルは病室を後にした。すると、出口で待機していたらしい小柄な影から、「君も殊勝だね」と声をかけられる。
「……ナイ」
そこに立っていたのは、ナイだった。彼女特有の、花の匂いが香ってくる。彼女は小柄ながら背中を壁に預けて、足を交差させ、顔は横に目線だけをこちらに向けていた。
「何さ。総一郎君との蜜月を邪魔したら、ボクの番の時に邪魔をするといったのは君じゃないか。そんな驚いたような目で見られても困るよ」
「……そんな事も言いましたね。いえ、私はただ、あなたが普通に現れて普通に接してくる今が、何だか不思議に感じたというだけです」
「ボクが今まで殊更に神出鬼没に振る舞っていたのは、その必要があったからでしかないからね。実力の制限下に仕込みを入れるには、頭を使わなきゃならないんだもの」
つまり、今のボクにはその必要がないという事さ。ナイはそう言って、皮肉げに口端を吊り上げた。「それは大変結構ですね」とローレルは躱して、まっすぐに歩き始める。すると、一拍おいてナイの足音が付いてきた。
「あは、ローレルちゃんが嫌そうな顔をするの、ボク結構好きかも。君、とことん総一郎君を根っこに動いてるから、未来とか全然見えないんだよね。会話が退屈じゃない、というのはとても大切なことだよ、うん」
「私はそれを理由にあなたに絡まれるとしたら複雑です。ソーへの愛にも短所が生まれてしまったという事になってしまいますから。―――――で」
「うん?」
とぼけて首を傾げるナイに、ローレルは鋭く尋ねる。
「いくら自由に振る舞えるようになったからと言って、あなたが理由もなく私に構いに来るとは思えません。用事は何ですか。素早く片付けて立ち去っていただければ幸いです」
「あは! ローレルちゃんも中々言うようになったね。けれど、その読みは間違っちゃあないよ。用事はある。とても大事な用事がね」
「何ですか」
病院の廊下。そこで初めてローレルはナイに振り返った。ナイはニタァと邪悪な笑みを浮かべて、こう告げる。
「総一郎君が目覚めるまでに一度、ボクに付き合って欲しいところがあるんだ。色々模索したけど、多分それしか方法がない。そして、その手段はボク一人では手に入れることができないんだ。だから君が付き添って欲しい」
「私が出来てあなたが出来ないことは、滅多にないかと思いますが」
「自分を良く客観視していて、人間の割には本当によく分かってるよローレルちゃんは。けれど、これはちょうどその『滅多に』の中に含まれることなのさ。というか、ボクがちょうどできないって感じだね」
ローレル、ナイの物言いを聞いて、何となく当たりを付けた。つまり、『邪神である以上出来ない事柄』なのではないか、ということ。そしてそれをクリアするのに、ナイが人間として優秀とするローレルに声をかけるのは、なるほど合理的だった。
「分かりました。重要事項のようですので、それに合わせてスケジュールを組みます。いつがいいですか?」
「あは、ドライだね。やり易くていい。―――明日だ。明日、君が総一郎君のお見舞いのタイミングで合流しよう。場所は君がいる場所でいいね?」
「プライバシーを侵害しないのでしたら、それでも構いませんよ」
「ボクが君のプライバシーに興味があるとでも?」
「私が釘を刺さなければ、興味がなくとも侵害するのがあなたでしょう? ナイ」
ローレルの指摘に、ナイはキョトンと口を噤み「君、意外にボクの事分かってるんだね」と肩を竦めて「じゃあ決まりだ。明日、その時に」とナイは人ごみに消えていった。ローレルは奴の退散の直後に十字を切っておく。
それから、通い慣れたルートを通って、ARFの本拠地に向かった。かつてタワーが建っていたという話だったが、今は大きな住宅街の施設といった趣だ。スラム街ではあったが、温かみがあってローレルとしてはこちらの方が好きだった。
「失礼します」
一声かけて入ると、「ローレル~!」とシェリルが走り寄ってきた。彼女はジャンプしてローレルに抱き着いてくるので、一緒になって倒れないように、カバラで導き出した体勢で上手く受け止める。
「どうしたんですか、シェリル。私もフィジカルが逞しいタイプではないので、今足腰が悲鳴を上げてますよ」
「どうしよう~!」
引っぺがして見てみれば、シェリルは半泣きだ。地味に日光が当たっている部分が灰になっているので、カーテンを広げて日陰を作ってあげる。灰になっていた部分がスムーズに再生された。表情に何の変化もないのが、何とも強さを感じさせられる。
「何があったんですか? 私が出来ることなら手伝いますよ」
「……応援演説の台本が全然完成しないの……」
「……なるほど」
ローレルはEVフォンから日付を確認した。演説の日まで、残り一週間もない。
「それは、中々、ですね」
「ヤバいよぉ……どうしよう……」
涙目で縋りついてくるシェリルを見る。読み取れる思惑のアナグラムは『代わりに書いてくれない?』だ。ローレルは毅然とした態度で告げる。
「ですが、あなたの体験はあなたにしか書けません。あなたの経てきた地獄の話こそが、亜人の人権獲得のための切符になるのですよ」
「うぅぅ~……」
分かったよ……、と答えて、シェリルはトボトボ廊下を引き返し始めた。その途中でチラとこちらを見てきたので、ローレルは難しい顔で「そうですね……」と思案とアナグラムの試算をしてみる。
「ソーが目覚めたら、三人でどこかお出かけしませんか? インスマウスの水族館とか」
「うげ! インスマウス? あそこの魚人はもう顔も見たくないんだけど」
「あら、不服ですか? 最近は割と開発されていて、景観もいいと聞きますが」
「あー、んー、まぁ、ならいいけど……でも、それ以前に」
シェリルは、とても無垢な目で、ただ心配からこう問うてきた。
「ソウイチ、ちゃんと目覚めるの?」
ローレルは、その言葉に胸を突かれたような気持ちになった。ローレルは僅かに呼吸が止まり、それから深呼吸をしてから、こう答える。
「目覚めます。必ず」
「……ボス、シラハみたいに、ソウイチが死んじゃうなんてことはないんだよね?」
「はい。ソーは今、精神的に不安定で、それを補うために長期間の眠りを必要としているだけです。精神的に安定を確保できれば、自然と目を覚ます想定です」
「そっか……。分かった、ありがと。じゃあ、うん。頑張る」
「頑張ってください、シェリル。台本をかき上げて、演説も立派にこなし、そして楽しく水族館です」
「やった。秋だから日よけで厚着しても不自然じゃないし、楽しみにしてるね」
「え、ナイトコースのつもりだったんですが」
吸血鬼の割に昼に抵抗がなさすぎる。ローレルはそんな彼女の背後のアナグラムにソーの影響を透かし見て、軽い嫉妬心と、それ以上の誇りを感じた。
「ん? どうしたの?」
「いえ。救われた助けられたとばかり言うソーでも、誰かのためになれているのだと実感できただけです」
「ソウイチは厳しいもん。甘えさせてくれるけど怠けさせてくれないし」
だから、頑張るしかないよね。シェリルは、そう言って部屋に戻っていった。ローレルもついていくと、途中の部屋で薔薇十字の面々が丸椅子を囲んでひそひそと会話を交わしていた。
「その様子だと、進捗は順調みたいですね」
声をかけると、振り返ったのはグレアムだ。彼はソーを前にしたときほどわざとらしく皮肉っぽい態度はとらず、ニュートラルな態度で言葉を返してくる。
「ああ、シルヴェスター。救世主様のお見舞い帰りかい? ご様子は」
「寝息そのものは健康的でした。再計算も同じ結果です。数日後、早ければ明日にでも目覚めるかと」
「そうかい。こちらも演説会の段取りが決まったよ。複数選択肢を洗ったが、敵もカバリストなら余計な茶々を入れられずに壇上に立たせればいいという結論になった」
「それはつまり……討論演説、という感じですか」
「ああ、そうなる。今や様々な工作が功を奏して、支持率はほぼ均衡だ。ならば直接対決するのがいいはずさ。そのときにこそ、カバリストの人員の数や、応援演説のエピソードの質というものが問われるというものだよ」
彼女も気合が入っているようだしね。とグレアムが顎で示したのは、奥で文書を前に唸るアイだった。ARFの服を着ていない今は、マナミと呼ぶべきだろうか。彼女は頭を抱え、紙面を前にずっと硬直している。
「あれは……好ましい状態なんですか?」
「アレそのものは良くないよ。だが、良くない状態がずっと続いて、緊張が高まって、というときにこそ生まれるものはある。ヴァンプも同様だね。彼女は苦しむあまり、ふらふらとさ迷い歩くように言葉を探しているよ」
「はい、先ほど会いました。じゃあ私から余計に手出しする必要はなさそうですね」
「そうだとも、我らがエース。ここはぼくらに任せたまえ。君には君に仕事がある」
「ソーの看病をしようとしたら止めたというのに、いまだに指示が出されていませんが」
苦情交じりに返すと「だが、それ以外にもやることはあるだろう?」とグレアムは皮肉げな笑みを浮かべた。ローレルは「否定はしません」と肩を竦めて、それからそっと声色を変える。
「それで、ヒイラギの調査はどうですか」
「あ……私の担当ですので、私が答えます……」
おずおずと手を挙げて応えるのはマーガレットだ。彼女は息を吸い、そしてゆっくりと吐きだしてから説明を始めた。
「アナグラム上では非常にマズイ状態です、エース。例の異空間化していた廃工場はすでに解体工作を完了しておりますが、なおもアーカム全体の外宇宙的因子によるアナグラム変動は上昇状態にあります。それに」
一息入れて、マーガレットはこう続ける。
「ヒイラギの追跡は、十を超える失敗と回収できたアナグラムから、おおよそ不可能と断じていい段階に入ったかと存じます。数値データは後でお送りしますが、恐らくは外宇宙的魔術の行使でもってヒイラギ自身が逃げ込むための異空間が形成されています」
「そこへとアクセスする方法が、我々には無い、という事ですか」
「はい。ナイに交渉すれば可能性はありますが、以前エースに提出いただいた狂気因子を取り除かれたナイのアナグラムデータ的に、彼女が対応可能な場合、彼女が個人で対応している可能性が高いです」
「そうですね。その上でナイが対応し切れていないというのなら、恐らく人類側には手出しが非常に難しいのでしょう。ありがとうございます。引き続き警戒を」
「……かしこまりました……」
一気にしゃべって少し息切れした様子のマーガレットは、席に座ってずこずことジュースを啜り始めた。相変わらずオンオフの激しい子ですね、とローレルはちょっと面白い気持ちになる。
「あとは……リッジウェイ警部ってどうなりましたっけ」
「追跡はARFの面々が担う形になっているよ。我々もある程度は握っているからここで話してもいいが、二度手間だろう。奥の部屋でハウンドたちがたむろしているはずだ」
「ARFの本拠地でARF幹部メンバーがたむろするとは言わないでしょう」
「見てみればいい。アレはたむろしているよ」
はぁ、とローレルは生返事して、薔薇十字の面々に手を振ってその場を離れた。彼らも揃って一瞬手を振り返してくれるのを見て、ARFに比べると、独特の雰囲気がありますよね、と再認識した。
それから人の気配のアナグラムを発見して、奥の薄暗い部屋を見て、ああ、と思った。
「……すごいですね。確かにこれはたむろしてます」
そこにあったのは、ど真ん中のソファで疲れ果てて眠るファイアーピッグに、そのお腹の上に腰かける彼の娘ウィッチ。隅の巨大なスパコンを前に、ぼさぼさの髪を振り乱して電磁キーボードをたたくハウンド。そしてバーベルをダンベルのように片手で扱い筋トレをするウルフマンの姿だった。
揃って机を囲む薔薇十字を見た後だと、余りに無秩序である。
「あら、イッちゃんの恋人じゃない。名前は、えっと……ローラ、だったかしら」
「はい、ローラです。ソーの様子の確認は済ませましたから、少し様子を、と思いまして」
「これ見て様子が分かる?」
「ええ、多少は。ピッグはリッジウェイ警部の新しい隠れ家に乗り込んで戦闘し、引き分けでその疲れをいやすべく睡眠中。ハウンドはその際に回収したアナグラムを分析に掛けて、警部の情報の再精査。ウルフマンは実力不足を感じてトレーニング、ですよね?」
「すっご。え、J、カバリストってみんなこうなの?」
ウィッチに話しかけられ、バーベルを上げ下げしながらウルフマンは答える。
「ああ、大体このくらいは読み取ってくるらしいな。ローラは特にすごいって話ではあったが」
「私は少し計算が得意なだけです。機械の力を頼らなくていい分、他の方よりも少し工数少なく結果が出せるだけですよ。大したことではないです」
「わー謙虚~。ねね、ちなみに私は何してたか分かる?」
ローレルは唇に人差し指を当てて、斜め上に視線を向けた。それから計算を終えて、こう答える。
「久しぶりに大好きなお父様と接する機会が取れたから、冗談めかした形でちょっかいをかけている、ですか?」
「バッ、あっ、がっ」
「ヴィー、諦めろ。それはおれも見てて分かった」
「J! 黙ってなさい! そしてローラ!」
「何ですか?」
ローレルは、クスクスと笑って問い返す。
「……そう素直に笑われると、注意しづらいじゃない」
「大丈夫ですよ、本人には言わないです」
「パ、ごほん、こいつに言ったらホント、承知しないからね」
「はい、ふふ」
可笑しげに笑うローレルに、ウィッチは毒気を抜かれた、という顔で視線を向ける。ウルフマンは「いやー、マジ親子だって聞いたときの驚きったらなかったぜおい」と言いながら、バーベルをゆっくりと片手で地面に下ろした。
「で? ただ様子を見に来たってワケでもないだろ?」
そうして、肩を竦めて彼は問うてきた。ローレルは、「ええ」と頷いて本題に切り出す。
「リッジウェイ警部のその後について、お聞かせ願えますか。ちょっと前まで激突していたのは分かりますが、直接聞かせてもらえると分析しやすいので」
「拮抗状態だ。お互いに致命打を持たない状態が続いてる。アタシらに足りないのはボスの戦闘能力。アイツらに足りないのは、準備だ」
割り込んで言葉を挟んだのは、ハウンドだった。彼女は眼鏡を外し、椅子に体重を預け、脱力して話しかけてくる。
「何度か退路を確保した上で散発的に強襲を繰り返して分かったが、奴らはアタシらを潰せる実力がある中で、それが出来ない状態にある。つまり、アタシらの相手なんかしてる場合じゃねぇって訳だ」
「その準備というのは、やはり」
「ああ、そうだ。アタシら全員が頭を抱えた、シラハの子。アレよりももっとひどい何かを、奴らは画策している。その準備に必死だから、アタシらを徹底的にやり込める余裕もないわけだ」
ローレルは考える。それから、こう言った。
「ベルに、会わせてもらっても?」




