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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
自由なる大国にて
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8話 大きくなったな、総一郎65

 ナイが声を上げたのと同時、ヒイラギはまた身を竦ませる。それから、「さ、さぁ! 今示したでしょう!? わたくし以外にはもたらすことのできない、唯一無二の膨大なメリットを! 助けなさい! 早く! わたくしをここから逃がすのです!」と絶叫する。


「う、ぁ、ロバート……う、ぅぅ、ううううぅぅぅぅ」


 ハウンドはもはやARF幹部としての面目を保つことができず、ただ涙して頭を抱え、現実を拒むようにかぶりを振るだけになった。一方シェリルは感情をなくしたように冷酷な目でヒイラギを見つめていて、ファイアーピッグは強い警戒でもって睨んでいた。


「何ですか!? まだ不足というのですか! ならばいいでしょう。冷たい目で見る吸血鬼さん、あなたのご両親でも呼び寄せれば、わたくしについてくれますよね?」


「やめて」


 シェリルの拒絶は明確で即断だった。だが、ヒイラギはそれを認めない。


「けひひひひ! 遠慮なんて要りませんわ。さぁ、泣き別れたお父様からお連れしましょう」


「っ。何だいきな、り……。しぇ、シェリル? 何という事だ……。まさか、再会できるなん」


 て、と続く言葉を、ヒイラギに連れてこられたシェリルの父親らしき男性は、口にできなかった。高速でよぎる黒い影に頭を丸ごと吹き飛ばされて、力なくくずおれる。


「やめてって、言った」


 平行世界の父親の命を絶ったのは、他ならぬシェリルだった。彼女は何かを投げた後のような体勢で、振るっただろう右手の人差し指を失っている。


 その欠損が霧の集約によって再生するのを見て、吸血鬼特有の、例えば体の一部を蝙蝠に変えるなどの方法で攻撃したのだと、遅れて分かった。


 しかし、それはヒイラギには伝わらない。


「あら、このお父様では不満でしたか? では他のお父様をお呼びしましょう!」


 虚空から、また別の父親が連れてこられる。それをして、シェリルは何も言わせなかった。現れたと同時に、人差し指を蝙蝠に変えて、高速で飛翔させた。蝙蝠は瞬時に父親の頭部を貫き、そして殺す。


「要らない。やめろ」


 シェリルの目はギラギラと殺意に輝き始める。だが、ヒイラギは依然として取る行動を変えない。


「あら、こちらもお気に召しませんか……。分かりましたわ! お父様そのものが嫌なんですのね! なら、次はお母様を」


「だからッ! やめろって言ってるでしょ!」


 シェリルの蝙蝠飛ばしの方先が、ヒイラギに向かった。その威力は吸血鬼をも一撃で屠るほど。ヒイラギの身体は簡単に弾け飛び、左腕を根元から喪失する。


 それに、ヒイラギは目を剥いて絶叫した。「い、痛い、痛いですわっ!」と泣きじゃくる。


 異常なのは、それでもなお召喚が終わらなかったことだ。


「や、やめてください。不服だったのは分かりましたわ。そうですわよね。ご両親の誰か一人なんて、そんなけち臭い真似をされたら誰だって怒りますわ。だ、だから、全員連れてきますから。何ならもう数セット追加します。だから、攻撃はやめてくださいまし」


「え、は?」


 ヒイラギの左手が虚空に呑まれ、そして十人のシェリルの両親たちを連れてきた。一部は体が混ざりあって人間の形を失っているモノもいた。彼らは状況の不可解さに戸惑い、恐怖し、そして狂乱する。


「なっ、何だお前たちは!」「わ、私か? 何で私がこんなにいる」「うわぁあああ! 手が! 手が誰かの頭と同化してるわ!」「あが、が、ぎ、ぁ」「何だ! 何なんだこれは! どういうことなんだ!」「あがががががが゛がががが゛か」


「ひ、ぃ」


 シェリルは、その光景に怯えを見せた。しかし直後、覚悟を決めたのか十指全てを使って、蝙蝠の飛翔でもって殺し尽くす。その瞳からは涙がつたっていた。全身に憎しみが溢れていた。


 だがヒイラギは止まらない。恐怖でおかしくなったかのように振る舞って、シェリルの家族の召喚を続ける。


「ごっ、ごめんなさい! そうですわよね。こんなものじゃ当たりませんわよね。もっと、もっと連れてきますから」


「やめろッ」


「分かっています! 分かっていますわ! すぐ、すぐ連れてきますから」


「やめろッッッッッ!」


 ヒイラギが次に呼び出したモノは、とうとう人間の形をしているとは言えなかった。シェリルの両親だったものは何十人分も複雑に混ざり合い絡み合い、おぞましい一つの生命体と化していた。その生命体にここを壊せば死ぬといった弱点はなく、シェリルの一撃は意味をなさなくなる。


「やめてよ、やめてよぉ……っ!」


 シェリルはとうとう泣き出して、何も出来なくなった。彼女の攻撃がやみ、そしてヒイラギが嗤う。けひ、と。けひひひひ、と。


「良かったですわ! やってお気に召してくださったんですのね! じゃあ次はどなたにしましょう! 大丈夫です。わたくしはみなさん全員を、失われた大切な誰かと引き合わせて差し上げますわ。助けてもらえたらそこで打ち止め、なんて事は致しません」


 ヒイラギはけひけひと嗤って、ARFに宣言する。それは復讐にも似た冒涜だった。過去にソーが、ARFが下したヒイラギの、腹いせのような復讐宣言だ。


「さぁ! さぁ! ですから、早くッ! 早くわたくしをお助けなさい! それとも、今お呼びしますか!? わたくしは誰からでもいいんですのよ!」


 ヒイラギの言葉に、そして心を壊された二人の惨状に、ARF全員がたじろいだ。ARFは総一郎との友人関係という立場上ナイに強く出られる余地があるが、実力としてはヒイラギに及ばない。


 そんな敵から、『助けないと今すぐお前の心を破壊し尽くしてやる』と脅迫されるのは、恐怖以外の何物でもないだろう。それに耐えかねた誰かの身じろぎが、ARFの面々の間に流れるアナグラムに影響を及ぼす。恐怖が伝播する。そして。


「ふむ、中々強固な召喚システムを構築したんだね。よくもこれだけ努力できるものだよ。ボクの立場からじゃあ破壊も難しい」


 言葉の内容に反して、ひどく嗜虐的な笑みを浮かべてナイは言った。ヒイラギは、ナイにだけは本当の恐怖を示して震える。


 そして、ナイはこのように告げた。


「仕方ない。面倒、おっと言い間違えた。とても難しい問題だから、心が痛むけれど、冷酷で非情な手段を取らざるを得ないね」


 彼女の手のひらの上には、何かが載せられていた。手が一定のタイミングでドクンッと動く様は、まるで鼓動で。


 ローレルは理解する。それは、心臓であると。


「―――招かれざる平行世界からのお客人たち? 君らが相対するはこの外宇宙を統べる最も強大な神の一柱だよ。畏れ、慄き、〈委縮〉と共に平伏したまえ」


 ナイは、透明な心臓を握りつぶした。途端、ヒイラギに召喚された、平行世界からの存在の全てが苦しみ始める。誰もが心臓を抑えて、苦悶の表情で体を折った。


「な、そ、その魔術は……!?」


 ヒイラギが、引きつった顔で問う。ナイはにっこりと笑って、言った。


「ご推察の通り、皆殺しさ」


 その言葉と同時、苦しんでいた全員の身体が一瞬にして燃え上がり、炭化し、何の価値も有しなくなった。プスプスと焼けこげる音が聞こえる。希望で薄くコーティングした絶望が、根底から破壊されたのが分かる。


 悲鳴は、上がらなかった。焼け死んだ彼らにそんな余裕はなかったし、それを眺めるARFの面々は千々と乱れる感情に言葉を発せなかった。


「ARFのみんな」


 冒涜の煙を纏って、ナイはとても優しげな表情で言う。


「ボクは君たちの仲間じゃない。ボクはどこまでも総一郎君にしか興味がないし、究極的には君たちのことなんてどうでもいい。だが、総一郎君は君たちを見捨てたボクを許さないだろう。そしてボクも、そんなつまらない憎しみを向けられるのは嫌だ」


 だから、とナイはつなぐ。


「ボクはボクにしか出来ないことをしよう。君たちにどんなに憎まれようと気にしないボクが、君たちの大切な人たちの紛い物を皆殺しにしよう。君たちは好きに苦しんで好きに恨めばいい」


 炭化した全員の中で、唯一生き延びたものがいた。平行世界のシラハだった。彼女は炭の中から復活し、憎しみに満ちた顔で「ナ、イ……!」と彼女の足を掴む。


 それを、ナイは冷酷に見下ろした。掴まれた足を上げることでシラハの手を振り払い、そして踏み潰す。


「君は特に性質が悪い。天使ゆえに不死身。そして総一郎君に愛された白羽ちゃんにそっくりだ。君を殺すのには、多くの憎悪を一身に受けることになる。まったく、ボクがいなければ本当に詰みだったね。ほら、〈委縮〉だ。〈委縮〉しなよ。燃えろ、潰れろ。灰になれ」


 “そのシラハ”は、何度もナイに炭同然に燃やされ、そして踏み潰されることでどんどんと形を保てなくなっていった。それでもなお復活するのは、神のご加護かあるいは。


 十数に渡る炭化、踏み潰しを経て、やっとナイは「あは、心折れてなお死なせてくれないゴッドくんも残酷だね」と足を止め嗤う。


「……シラハ、さん……」


 その惨たらしい様子に、ウルフマンは目を背けた。アイは口を押えて声もなく泣き、ヒルディスは拳を握り締めて震えていた。すでに心を壊されたハウンド、シェリルの二人は、何の反応も示さない。だがローレルには、僅かに楽になったらしいアナグラムが読み取れた。


「な、何を黙って見ていますの!? あなたがたの大切な大切なリーダーが何度も殺されたんですのよ!? 早く攻撃しなさい! ナイに復讐なさい! 何を怯えているのですか!」


 叫びARFに攻撃を促すヒイラギ。ナイは何も言わず、ARFの面々を見つめていた。


「ナイちゃんッ」


 声を上げたのは、アイだった。彼女は目隠し越しでも分かるくらい滂沱の涙をこぼして、しかしシラハの親友として、決意をもって言い切った。


「……やって、ください……ッ!」


「はっ、言われるまでもないさ」


 ナイは皮肉っぽく肩を竦め、ヒイラギに向き直った。ヒイラギは「ひっ」と息をのんで、一歩後ずさる。


「ヒイラギ、本当に小物だね、君は。自分よりも弱い相手にはとても強くて、強い相手にはとことん弱い。人間の中でも精神的に矮小な部類に入るだろうね。化身として、恥ずかしくないのかな?」


「うっ、うるさいですわ! わた、わたくしは、人間の尺度になんか測れませんの。け、けひ、けひ、ひ、ひひ……。な、ナイ。あなたはこれから、わ、わたくしの、ひめ、秘めたる策に、ハマっ、て、な、泣き叫ぶことになるのですわ!」


「そっか。じゃあ早いところ殺さなきゃね」


「へっ?」


 ナイの人差し指がヒイラギを指す。「どん、だよ」と小さく呟くと同時、ヒイラギの四肢が爆ぜた。「ひっ、ひぃぃぃぃぃいいいいい!」とヒイラギはもんどりうって泣き叫ぶ。ケタケタとナイが嗤う。


「さぁヒイラギ。いい加減年貢の納め時だよ。随分と好き勝手して、何度も負けながら掻き乱してくれた君だけれど、そろそろウザいから殺すね」


「ひ、ぃ。た、たすけ、だれか、たすけ」


「誰も助けないさ。君のことなんて」


 あは、とナイが嗤う。ヒイラギは恐怖に震え、芋虫のように這いながら逃げようとする。ナイはそれを、嬉々として追い詰めに掛かった。ゆっくりとした足取りで、ナイはヒイラギに近寄っていく。


「た、たすけ、だれか、だれか!」


 ヒイラギは破れかぶれで、虚空に歯を突き出した。そして何かを噛み掴み、引きずり出す。男性。アイが息をのむ。だがそれが何者か分かる前に、ナイが炭化させた。


「往生際が悪いね」


「あ、ぁ、だれか、助けてぇ!」


 ヒイラギはまたも口で何者かを連れてくる。だが、もはやそこに意味はなかった。ナイは容赦なく現れた人物を炭化させて殺すだけだ。距離は着々と詰められていくし、ヒイラギの行使しうるあらゆる行動が意味を喪失している。


 だから。


 きっと、運が悪かったのだ。


 順当にいけば、そのままもう勝負は決まっていたはずだった。覆らない勝敗のはずで、事後処理に近い処刑になると誰もが思っていた。


 そうならなかったのは、本当に、ただきっと、ヒイラギ以外のあらゆる全員の運が、悪かったためだろう。


「え……?」


 ゴト、と今までの生物然とした召喚からの着地音とは、全く違う音が倉庫に響いた。酷く静かなそれは、その召喚された“もの”の異様さに、不思議なくらい反響した。


 それは、仏像のように見えた。奇妙なポーズを取り武器などを持つ腕が左右三本ずつ、計六本。顔が正面に加え左右の三つ。ジャパニーズ文化に慣れ親しんだ人間ならば、きっと知っている存在によく似ていた。ローレルも、ソーを忘れていた頃に熱心に調べたため、その知識から理解できた。


「阿修羅、像……?」


 アイの呟いた言葉に、阿修羅像は静かに目を開き始めた。途端に狂い、暴れ出すアナグラムにローレルは気が付く。それは、ここまでで形成されてきた、ARF陣営有利のアナグラム。成立寸前だったそれは破綻し、阿修羅像を中心にどこまでも波及していく。


 そして、阿修羅像は開眼した。ローレルは、その重圧に動けなくなる。認識されたら死ぬ。そんな直観があった。目立ってはならないと本能が叫んでいた。


「……」


 かすれた声だった。阿修羅像の声を聞き取ることは難しかった。だが、それでも跳ねるアナグラムが教えてくれた。“それ”は敵だと。決して道の交わることのない存在だと。


 故にローレルは、ソーを抱きしめ、阿修羅像から隠す。唇を噛んで、恐怖を噛み殺し、強い敵意でもって睨みつける。


 続く阿修羅像の言葉は、辛うじて聞き取ることができた。それを、ローレルは信じたくなかった。


「……総一郎……?」


 その言葉に、ぴく、とソーが反応した。懸命に薄目を開け、元々荒かった呼吸を過呼吸寸前にまで荒げて、ポツリとこぼす。


「……父、さん……」


 ローレルは、悟る。


 これは、想像を遥かに超えた最悪の事態だと。


「ARFのみんな、粛々と退散することをおススメするよ。ローレルちゃん、不本意だけど総一郎君を君に託す。ボクは時間を稼いでほどほどの所で逃げようかな」


「ナイ……?」


「あーもう、言わせないで欲しいな恥ずかしい。勝てる自信がないし絶対に勝てないから、とっとと逃げてよってことだよ」


 物言いは冗談めかしていたが、ナイの表情はかつてないほど強張っていた。彼女の頬に伝う冷や汗を見て、ローレルは頷きARFへと目を向ける。


「ウルフマンは私と一緒にソーを抱えて逃げていただきたいです! ファイアーピッグはシェリルとハウンドをお願いできますか! アイは誘導をしてもらいたいです!」


「お、おう任せろ!」「はい、わ、分かりました!」


 ウルフマンは動揺しつつも迅速にこちらに駆け寄り、アイは一足先に倉庫の入り口に手の目を向け、何をしたのか通りやすいように周囲の壁を破壊した。


 だが、ピッグは動かなかった。ソーの父とされる阿修羅像を見つめたまま、呆然としている。


「どういうことだ……?」


 ピッグは、唇をわななかせ、動揺の余り叫ぶ。


「何で、何でその像から、――――様の神性が漏れ出てやがる!」


 その意味を、おおよそほとんどの人間が理解できなかっただろう。だが、ローレルはその言葉のアナグラムから、カバラでは読み解けない種族魔法の分野に踏み入り解読する。


 すなわち人の神成り、あるいはジャパニーズブッディズムにおける『成仏』。死を通して人たる苦しみから解放されるという概念の中でも、人から外れる類のもの。だが、これは例外だった。何せ“それ”は生きている。だが同時、仏になるまでの過程で、輪廻どころか世界から外れていた。


「……混ざった」


 ローレルは推論を口にする。それから、かぶりを振って、「ピッグ!」と再度叫ぶ。彼はその声にハッとして、一秒にも満たない短い時間酷く苦しそうに仏像を睨み、そしてシェリルとハウンドを両脇に抱え立ち上がった。


「さぁ行きますよ! ナイ! ここを任せて、本当にいいんですね!?」


「うん。ボクがしんがりなんて大変遺憾だけどね。にしても……本当に、どうしたものかな。何秒稼げるかも……あ」


 ナイのキョトンとした反応に、ローレルは慌ててその視線の先を追った。そこでは仏像がいつの間にか平行世界のシラハの下に立っていて、慈悲の目でもって見下ろしながら、その中心に光る剣先を下ろしていた。途端、シラハの不死性が消える。苦しみもその生も、静かに溶けて消えていく。


 そして、見るのだ。こちらを。ソーを。剣を掲げ、敵意をむき出しにして。


「あー……ローレルちゃん、ごめん」


 ―――これ無理だ。ボクじゃ相手にならない。


 ナイは、この場に至って初めて怯みを見せた。それでも前傾姿勢を保って臨戦態勢を崩さないのは、背にソーがいるが故か。


 そこで、前に出てくるものが居た。


「……ウルフマン?」


 ローレルからは見上げるほどの背丈。全身毛むくじゃらの狼男。強力な亜人。だがこの場では、阿修羅相手ではあまりに力不足な少年が、ぬっと前に歩み出た。


「おや、ジェイコブ君。君では力不足だよ。それとも自殺志願なのかな?」


 ナイがウルフマンに軽口を叩く。だが、狼男は覚悟を決めた顔をしていた。嘲笑をものともせず、ただ、こう言うのだ。


「ローラ、イッちゃんを頼む。ナイもまぁ、逃げればいいんじゃねぇか」


「……どうやら本当に自殺志願らしいね。ならばお言葉に甘えよう。ローレルちゃんも、ボク一人じゃ総一郎君を運べない。手伝ってもらうよ」


「ウルフマン、役割を考えるなら、時間を稼ぐのに向いているのは私やナイです。あなたには、どちらかと言えばソーを抱えて逃げることをお願いした」「ダメだ」


 ウルフマンの返答ははっきりしていた。「だってよ」と彼は続ける。


「イッちゃんのピンチを任されたのは、おれだ。イッちゃんの幸せを任されたのは、ローラだ。おれが連れて逃げたところで、イッちゃん幸せは誰が担ってくれるよ?」


 ウルフマンの言葉は、とても静かだった。いつ死んだとて後悔はない、と言うような声色だった。ローレルは下唇を噛んで、わずかばかりの逡巡を経て、言う。


「分かりました、お願いします。―――ナイ! 行きますよ!」


「うるさいな、大声出さなくったって分かるさ。だが……ジェイコブ君、君が命を懸ける必要はないかもしれないよ?」


「何だって?」


 ウルフマンの問い返しに前後して、仏像は前に立ちふさがるローレルたちを一瞥した。だが、ローレルはその視線のアナグラムから、一瞬で興味が失われたのが分かった。阿修羅像が見ているのはあくまでソー、ただ一人。それ以外は、歯牙にもかけていない。


 奴は軋むように、きごちない動きで、ゆっくりと姿勢を変える。飛び出す寸前のような体勢に、来る、と予感する。


 それを封じたのは、ソーだった。


 厳密には、ソーが顕現させ続けていた小さなブラックホールだった。球状のそれは、仏像が飛び出してきた直後に分裂しながら立ちふさがった。仏像は急停止し、反転して距離を取り直す。ローレルはソーを振り返り見るが、すでに彼は気を失っていた。


 仏像は、数秒ブラックホールを見てから、鋭く息を吐きだした。そして右に位置する三つの手でそれぞれに剣を振るう。数々のブラックホールはそれを受けて霧散し、少数を残すばかりになった。


 だが、ブラックホールは負けなかった。目を離した瞬間に何倍もの数に増殖し直し、またも仏像に襲い掛かる。そこまでの流れを見て、ナイが「あは、助けようとしたら助けられちゃったね。さぁ、速やかにこの場をおいとましようじゃないか」とくるり踵を返した。


 ナイは我先に、と軽い足取りで出口に向かう。その際ローレルが支えるソーの額に軽く口づけをして、「君を篭絡するのは本当に大変だね」と囁いた。それから、ちらとローレルを見て「もしかして残るの? それなら遺言を聞いておくけれど」と皮肉を言う。


「―――残りませんよ。行きましょう」


 呆然とするウルフマンを軽く叩いて合図しつつ、ローレルは倉庫から脱出すべく出口へと駆け出す。その際に、耳にするのだ。気味の悪い笑い声を。そのおぞましい恍惚の声を。


「けひ、けひひひひひ……! ああ、ああ! なんてわたくしは運がいいんですの……! 起死回生の一手を引き、敵の情けない敗走を愉しみ、そしてこんな面白い題材を手に入れるだなんて……!」


 ローレルは、このまま逃げてしまっていいのか、という疑惑にかられる。だが、「欲を出したいなら総一郎君から嫌われてからにしてほしいものだね」というナイの嫌味に、「欲なんか出せません、こんな状況で」と言い返し、駆け足を早めた。


「最高ですわ……! あぁ、本当に、最高の気分ですわ……! 天使を殺す神。子を殺す親。創造主による被造物殺し! なればこそ、なればこそ夢は壊されましょう。干渉できず、認識できず、理解できなかった聖域も、いよいよその御手にて崩されましょう! そうですわ! わたくしが、わたくしこそがお招きするにふさわしいのです! けひ、終焉の時は来たれり! けひひひ、我終焉を招来せり! けひひひひひひひ!」


 ローレルは、顔の強張りを感じながら走るしかなかった。ウルフマンは顔をしかめて、ソーを背負って一心不乱に駆け抜けた。


「……マズイなぁ。今回ばっかりは、手に負えないかも」


 ナイのボソッとつぶやいた言葉が、ローレルの耳にこびりつく。


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