8話 大きくなったな、総一郎64
ローレルがその場に駆け付けた時、不服そうな顔をしてグレアムが目的の工場入り口に立っていることに気が付いた。ローレルは駆け足を止めるようにのけぞってスピードを落としつつ、彼に近づいて問いかける。
「グレアムっ? あなた、行方不明になっていたのでは」
「ああ、シルヴェスターか……。扉は開いてる。早く助けに入ってあげるといい。ぼくはこれでも、邪神同士に身元の売買をされて振り回されたりと疲れていてね、君の相手をしている余力はないんだ」
―――ヒイラギの魔の手から逃れたのは良かったが、ナイの指示下も面倒な限りだったとも。
これまで何があったのかを漠然ながら想像させる物言いに、「分かりました。詳しい話は後ほど」とローレルは工場の中に侵入した。
息を潜めての行動だったが、状況を確認してすぐにそんな必要はなかったのだと悟った。敵はヒイラギただ一人。そして注目を奪うのは体を折って爆笑するナイだ。
彼らの近くにいたシラハらしき人物にぎょっとするも、邪神に常識を当てはめる気のないローレルは、気にせず接近する。そのタイミングでちょうどナイはソーを支え何かを呟き、そして横たえようとしていた。
まるで図ったようなタイミングだ。ローレルは別段ここまでカバラを練っていた訳ではなかったが、図らずしもちょうど居合わせることができたらしい。ナイの『君は本当に抜け目ないね』とでも言いたげな目配せに『何のことでしょうか』と見返しつつソーを介抱する。
カバラで確認する限り、ソーは修羅の暴走によって非常に弱っていることが分かった。修羅が暴れ出した時の対処法など決まっている。人を殺せば修羅になり、人を愛せば人となるのだ。
「ソー……、落ち着いてください。大丈夫ですよ。私が来ましたし、ナイがあなたの代わりに暴れてくれます」
その言葉で修羅が少し落ち着いたのだろう。ソーの全身から、強張りが抜けたのが分かった。ローレルはほっと一息ついて、鋭く睨み合うナイとヒイラギを見た。
「けひ、ひ、けひひひひ! 強がってまぁ……、ナイ、そんな意味のない演出で強がったって、何の意味もないではありませんか。だってそうでしょう? 地面が泡立ったって、無数の目と口が笑ったって、こうやって潰してしまえば!」
ヒイラギは大声で話しながら、足元に出撃した謎の目を踏みつけにする。目は驚いたようにまぶたを閉じ、消えてしまった。
「ほうら。このすべてが虚飾だったとすぐに分かります。所詮は演出にすぎませんわ。何も怖れることなど」
「うわ、君バカだねぇ。ちょっと奥の方に隠したからって、まさか引っかかるだなんて思ってなかったのに」
―――本当に化身? 君。
そんなナイの問いかけに、ヒイラギは総毛だってその場から飛び退った。同時、ヒイラギが先ほどまで立っていた足元から、翼の生えた巨大な蛇の化け物が大口を開けて伸び上がる。
「あは。流石にこれは避けたか。にしても、ヒイラギ。君やっぱり、力がある状態で見ると小物だなぁ……。こんなのに手玉に取られたのかと思うと、悔しい限りだよ」
「ひ、けひひひひ……。ナイったら、強がってしまって……。いいですわ、なら、勝負いたしましょう」
ヒイラギは額に血管を浮き上がらせながらも笑顔を作り、指を鳴らして工場中に響くような大きな音を響かせた。虚空より現れるのは今ヒイラギを襲った翼の生えた巨大な蛇めいた怪物だ。ナイも「おいで」と手を叩くと、地面で嗤う口の一つが翼蛇の怪物となって出現する。
「さ、まずは小手調べと行きましょう」
ヒイラギのもとから、翼蛇の怪物が伸び走った。一瞬遅れてナイの怪物も直行する。二匹の怪物は真正面からぶつかり、食らい合い、もつれ合って―――最後に、首筋を食いちぎって片方が勝利した。
「けひひひひ! あら、ナイ! 力を取り戻したのではなかったんですの!? この程度で勝負がついてしまうなんて、肩透かしにもほどがありますわ!」
「ううん、違うよヒイラギ。ボクはね、そんな小さな忌まわしき狩人一匹、どうでもいいのさ」
ナイは手を合わせ、そして満面の笑みを浮かべ言う。
「ボクが見たいのは、君の吠え面だからね」
ナイがそう言葉を継いだ瞬間、地面に浮かび笑っていた口の全てが翼蛇の怪物となって、ヒイラギの怪物を食い散らかした。ヒイラギは瞠目してその様を見つめるしかない。数匹のナイの怪物がヒイラギの怪物をバラバラにしたのを見て、ナイは首を傾げる。
「あれ? こんなものなの? 拍子抜けだね」
「ナイッッッッッッッッ!」
ヒイラギはフーッ、フーッ、と息を荒げ、血走った目でナイを睨みつけていた。それをして、ナイはただ嘲ってクスクスと嗤うばかり。
だが、周囲はざわついていた。「あのペテン師……。フィアーバレットの効果、切れてるし」とシェリルが呟くのを聞いて、ローレルは“ああ、なるほど”と思った。
ずっと、気になっていたのだ。ヒイラギがあれほど普通に行動しているのに、激しい恐怖のアナグラムが常に垂れ流しになっているという事実との乖離が。
「ナイッ、ナイナイナイナイ、ナイィッ!」
「あはは、何かなまったく。そんな何度も呼ばなくたって聞こえているよ」
「あぁ、バカにしてくれますわ。本当に、本当にッ……!」
ぶるぶると震えるヒイラギの全身に満ちるのは恐怖。カバリストでなければ、屈辱からの震えにしか見えなかっただろう。だが、違う。顔を必死に悔しげなそれに歪めているだけで、彼女は激しい恐怖に掻き立てられている。
あるいは、恐怖をバネに強がっているだけか。
「そら、どんどん行こうじゃないか。次はシャンタク鳥かな?」
「けひ、ひ。い、いいでしょう、乗ってあげますわ。あなたのその下手なお誘いにッ!」
ヒイラギは虚空から鎖を取り出し、その鎖を引いて巨大な化け物を召喚した。象とも、鳥とも、馬とも取れない造形の怪物。強いて言うなら、馬のような頭部を持ったドラゴンと形容すべきだろうか。その全身は、鱗でびっしりと覆われている。
だが、決してドラゴンではないのは一目でわかった。ローレルは自身を脅かす強烈な精神汚染をカバラで排除する。この手の汚染は、通常のドラゴンにはないものだ。
「おや、随分いい個体を連れてきたね。大きさといい、正気削りの概念強度といい、中々苦労したんじゃない?」
「けひ! ええもちろん、わたくしはあなたとは違い、質を追い求めますの! ドリームランドにはこれ以上の個体なんていないんですのよ!? つまり、この勝負は私の勝利が確定して」
「じゃあ〈魔術〉で殺そう」
「いるというこ、と……?」
ドラゴンめいた化け物は、ナイが指を鳴らすと同時、体をビクンと跳ねさせ、そして崩れ落ちた。ピクリとも動かないその様は、誰が見ても絶命の証左に映るだろう。
「え、あ、ナイ、あなた、シャンタク鳥同士で勝負って」
「言ってないよ、そんなこと。ボクは聞いただけさ。次はシャンタク鳥かな? って。あは。すっごい無様な顔。いいね。けど、気に入らないな」
ナイは、口端を吊り上げて、ひどく嗜虐的に嗤う。
「まだ、君は強がってる。そうだろう? フィアーバレットの恐怖があってなお、君はそれを押し殺して屈辱に顔を歪めている。それじゃあ足りないよ。吠え面の次は恐れる顔を見せて欲しいな。涙をこぼし、全力で縮こまって、ほうほうの体で隅っこに隠れ、逃げ潜み震える君が見たい」
ナイは手を広げ、ケタケタと哄笑をあげた。
「実力差は分かった頃だよね? なら次は、身の程を分からせよう。強がることに何の意味もないことも悟らせてあげる。その後は、ナマイキな心を根っこからへし折ってあげるよ。ほら、逃げ惑うんだ。時間をかけて、丹念に、丹念に君を壊してあげる」
ナイが一歩踏み出した。それにヒイラギは怯みを見せ、一歩後退する。壁の、地面の口々が嗤い、嘲り、ゲタゲタと声と恐怖を満たす。
「ひっ、ぃっ……!」
ヒイラギは、とっくに敗北していた。顔は蒼白で、とうとう恐怖をも隠しきれなくなった。ナイはケタケタと嗤いながら、少しずつヒイラギを追い詰めに掛かる。
そこでヒイラギが目を付けたのは、ナイ以外―――つまり、ARFの面々だった。
「だ……だれか、誰か! わたくしを助けなさい!」
その言葉に、ARFの誰もが眉をひそめた。しかしヒイラギは厚顔無恥にも助けを求めて叫び続ける。
「例えナイでも、彼女の愛しい人と親しいあなた達なら易々とは殺せないはずです! さぁ! 何を愚図愚図しているのですか! 早くわたくしを助けなさい!」
「……いや、助ける訳ないだろ」
怒りを通り越してあきれ顔で、ウルフマンはヒイラギの提案を跳ねのけた。他の面々も同じ考えだったのだろう。顔をしかめて遠巻きに見つめるばかり。
しかし、ヒイラギはそれに激昂する。
「先ほどわたくしが、平行世界からシラハ・ブシガイトを取り寄せて見せたでしょう!? 何でこんな大きなメリットをわざわざ言葉で説明しなければなりませんの!? これだから無知で無能な人間は……ッ!」
ヒイラギは雷のような金髪をぐしゃぐしゃにかきむしって、盛大に顔を歪めた。ローレルは思う。醜悪だと。アレだけ美しい容姿をしていて、そう思わせられるほどの邪悪だと。
そして知るのだ。
この程度、序の口でしかなかったのだと。
「――ああ、そうですわ」
急に、ヒイラギはパッと顔色を晴れさせた。それから、満面の笑みをARFに向ける。
「いいでしょう。分かりましたわ。そうですわね、出来ない相手にやれという方が愚かしいのです。わたくしが悪かったですわ。ですから、わたくしが合わせましょう」
ヒイラギはそっと両の手を合わせ、それからARFに目を這わせた。嫌悪にそれぞれが身を固くしたり跳ねさせたりする中、「まずは」とヒイラギは切り出す。
そしてヒイラギは、虚空に手を入れた。何者かをシラハのごとく“こちら側”に引きずり込んだ。現れた少年の姿にJは全身の毛を逆立たせ、アイは口を覆ってなお声を漏らし、そしてハウンドは足の震えの余りその場にへたれこんだ。
「はっ? な、何だここ。お前誰、だ、よ……ARFが揃って、る? つーか、おい、こんなとこに姉貴呼んだの誰だ。姉貴はただの一般人だろうが」
「おや……。最初にあなたを引くなんて、幸先がいいですわね。あなたはARF初期メンバーの心を乱すことができますもの、ロバートくん?」
―――でも、わたくしが誑かさなかった平行世界のロバートくんらしいですわね。アレだけ可愛がってあげたのに、何だか肩透かしですわ。
そう言うヒイラギは、少しずつ余裕を取り戻しつつあった。ローレルはナイを見る。ナイは、吟味するように状況を静観している。
「ほら、少しは実感が持てた頃合いでしょうか? それともまだ足りませんか? けひ、欲張りですこと。でも構いませんわ。じゃあ次は、そうですね……、シェリル・トーマス。あなたの姉君にまた会ってみたくはございません?」
「え、お姉さまって……」
ヒイラギに声をかけられ、シェリルは戸惑いの声を上げた。それに、ヒイラギはケヒケヒと嗤う。
「ああ、もちろん本当の姉ではございませんよ? そちらはほとんど記憶もないでしょう。あなたに会わせるべきは、あなたの半身としてあなたを支え続けたもう一つの人格。ほら、おいでなさい」
シェリルの困惑を置いて、ヒイラギはまた“連れてくる”。
「わっ、なに? 誰? ここは……シェリ、ル? え、う、嘘。どういうこと? わたし、あの子みたいに気づかない内に分裂した……? なに、どういうこと? シェリルの人格は、確かに消したはずだったのに!」
「あら、この世界線は可愛らしい吸血鬼さんと敵対関係だったみたいですわね。でもご安心くださいませ? わたくし、こういうイレギュラーにもちゃんと対応いたしますわ」
ヒイラギは手刀で『シスター』の首をあっさりと刎ねた。この程度で吸血鬼は死なない。だが、何か小細工でもしたのか、『シスター』はあっさりと首から血を噴いて倒れ死んだ。
「あ……お姉、さま……」
「まぁまぁ、気落ちすることはないですわ。また次のタイミングであなたの敬愛するご両親を呼んで差し上げます。では次は―――そうですわね。ヒルディスヴィーニ、あなたの妻をここに―――」
「ああ、なるほど。仕組みが分かった。随分大掛かりなことをやるなって思ってたけど、ヒイラギ。……君は本当にあくどいね」
ナイが声を上げる。クス、と嗤うナイのアナグラムは、ヒイラギをどう攻略して、どう屈辱を味わわせながら殺してやろうかという吟味を示していた。




