8話 大きくなったな、総一郎61
自分の『能力』を、ぐにゃぐにゃと動かしていた。
ARFでの活動の合間。偶然にも、総一郎の手元に仕事が完全にない状態だった。こんなことあるのか、とちょっとびっくりしつつも、手持無沙汰というのも落ち着かず、不意に作業後の大統領たちとの特訓のことを思い出しての行動だった。
「まぁ、思えばこういう風になるように動いてきたから、よくよく思えばようやく、って感じではあるんだけどね」
総一郎のここまでの作業のほとんどは、効率化、自動化に費やされている。ある意味では想定通りなのだが、いざその時が来たら違和感に襲われた、というだけこと。
つまりこれから、こういう暇な時間が度々やってくるという事だった。総一郎は不意に脳裏によぎりかけた“それ”から目を背け、『能力』に集中する。
「己を知り~、ってね」
総一郎は『闇』魔法、と名付けていた真っ黒な球体、ミニブラックホールを手の上に浮かべた。軽く念じ、二つに分ける。戻す。そこから一息に百個くらいに枝分かれするように分裂させる。
小さな粒ほどになったミニブラックホールは、球の形に広がり、均等に配置されていた。ここまでのディティールを脳内に思い浮かべていなかった総一郎は、自分がやった事なのに、何だか圧倒されてしまう。
「『能力』って、本当にズルいな……」
その全てを消す。それから、遠く離れた天井の片隅に目を向けた。
手も翳さず、そこにミニブラックホールを発生させる。発生する。タイムラグも、抵抗もなしに。魔法とはまるきり違う。例えばきっと、総一郎が敵の体の中に“発生しろ”と念じただけで、きっとその通りになる。そして敵はあっさりと死ぬのだ。
隔絶。『能力』しか使わない総一郎と、『能力』以外の全てを使う総一郎が戦ったらどうなるだろう。総一郎は思う。一秒ともたない、と。
「反則だよ、本当」
総一郎は、『能力』以外に費やした今までの自分の努力を想う。だが、『能力』は『能力者』以外を殺すために使えない。そして総一郎のこのミニブラックホールは、余りに破壊に特化しすぎている。
「けど――制限内容的に、ちょうどなのかな」
『能力者』という隔絶された土俵に入るための資格を得ていた、という以上のものではないのかも。そう考えると、多少救われる気分になった。無為な努力をしていたわけじゃない。それぞれの努力には、その目的となる環境がその時々に存在していただけなのだ、と。
ならば、今はまさに『能力』につぎこむ努力が必要だった。総一郎は、ミニブラックホールに念じるイメージを、形や数の変化から“質”の変化に変える。
つまりは―――引力。
大統領がミニブラックホールと呼称する“これ”が本当にブラックホールなのであれば、引力に帯びることも可能なはず―――
そう思い、総一郎は眼前の真っ黒な球体に念じた。
そして後悔した。
まず総一郎が強烈な力で引き寄せられた。寸前でミニブラックホールを消し、勢いそのままに総一郎は執務室を転がる。心臓がバクバク鳴っている。もしかして、今地味に命の危機だった?
「イッちゃん! 大丈夫か!?」
慌てて駆け付けたのはJだった。彼は部屋の真ん中で大の字に横たわる総一郎を見て「ど、どうした? 嫌になっちゃったのか?」と困惑気味に聞いてくる。
「……ちょっとやんちゃしただけだよ」
「そ、そうか……。でもその、何だ。ストレス溜まることがあったらさ、いつでも言ってくれよな。軽い運動くらいいつでも付き合うからよ」
「はは、Jが一緒なら飽きないだろうね」
「ああ! ……イッちゃん、元気だな。元気そうだ」
「え、うん。そうだね、元気だよ」
「……無理すんなよ」
「? うん」
ひどく辛そうな顔をして、Jは横たわる総一郎の肩を軽くトントンと叩いた。それから部屋を後にする。総一郎は一度首を傾げて彼の背中を見送ってから、また椅子に座って『能力』を行使した。
今度は、部屋の中心だ。そして、引力の方向性を決めることにした。引力なんてものは普通万物に働くものだが、総一郎は何故か「対象を指定できる」という確信があった。
総一郎は、シュレッダーにかけなければならない類の紙を手に取って、そこに意識を集中した。そして、ミニブラックホールの引力を強める。
手元で、バタバタと紙が暴れ始めた。だが、総一郎自身が引っ張られているような感覚は全くない。他の部屋の調度品も同様だ。紙だけが唯一、ミニブラックホールの方向に強く引き込まれるような動きをしている。
そして、総一郎は手を離した。紙はまるで掃除機に吸われるように、ミニブラックホールの中に向かって飛び出していった。そして、呑み込まれる。消える。きっと、跡形もなく。
「少し分かった気がする。これは確かにミニブラックホールで、でもやっぱり『闇』魔法なんだ」
総一郎は、確信と共にそう呟いた。それから目を伏せ、こう念じた。
――光を吸いこめ、と。
執務室から光が消えた。引力が光に働いて、粒子も波も一緒くたに吸い込んだ。総一郎は闇の中で思う。闇があるのではない。やはり、光がないことをこそ闇と呼ぶのだと。
「普通の闇魔法って、光に指向性のある重力魔法ってことなのかな……? それとも概念的な存在? 科学的な見地から考えると、よく分からなくなってくるな……」
総一郎は首を捻りながら物思いにふけるが、よくよく思えばそう言った“普通の”闇魔法は元より使えない身だ。詮無きこと、と判断して、自らの『闇』魔法をこう定義づけた。
指向性を有した引力操作能力のある、ミニブラックホール発生、操作の異能。つまる話、大統領の言う通り、ミニブラックホールを操る『能力』という事なのだろう。
「ミニブラックホール、かぁ……」
総一郎は首を傾げて考える。ついでに指を鳴らすと、光が戻った。「光あれ、ってね」とうそぶいて、総一郎は不意に手が止まる。
「光あれ……」
考えてはならない領域に、手を伸ばそうとしている。総一郎は少し顔をしかめて、首を振り『能力』に考えを戻した。概念戦、と考える。
「グレゴリーに勝つにはどうすればいいかな……。宇宙を滅ぼす究極の肉体を封殺する。うーん」
グレゴリーの肉体には、それこそ宇宙を滅ぼしうるエネルギーが宿っている。彼の拳は空を燃やし星を落とす。そしてそれをして“本気ではない”とのたまう。であるなら、きっと、ブラックホールを素手で叩き潰すことをも可能だ。
ブラックホールを内包する宇宙を破壊する一撃を、ミニブラックホールに耐えられる訳もない。
しかし、グレゴリーに負けっぱなしというのは非常に癪な総一郎だ。だから、考える。弓が銃に勝つには。総一郎の『能力』でグレゴリーの『能力』を破るには。
「ううん……」
総一郎は考える。考えて、『能力』で遊んで、また考える。
そうこうしている内に、夜になった。総一郎は皆に挨拶してARF拠点を出て、ミヤさんの店に向かう。
今日も今日とてバスケットコートで、総一郎は『能力』を振るう。
「行くぞ。イチ」
肉薄してくるグレゴリーに、総一郎はミニブラックホールを放った。直径5センチの球系のものを平べったく並べて数千個。連なるその様はまるで壁だ。
“壁”を生み出すのに、総一郎側には何の負担もない。だから、グレゴリーが回避した先にも放つし、何なら予備動作なく1メートルの“立方体”を発生させて詰めにかかることもある。
グレゴリーは、総一郎のミニブラックホールが単一のとき容易に対処できる。だが“壁”や“立方体”のように、大量に用意したミニブラックホールを固定化させて動かすと、対処しきれずに避けるしかなくなる。
その意味で、『能力』としての相性単体ならば、総一郎はかなり優勢だった。大統領も言っていたが、総一郎のミニブラックホールは、グレゴリーにとって「毎度本気に近い力を込めて殴らなければならない強敵」に等しい。それを無限に生み出せる総一郎は、十分にグレゴリーを翻弄しうる。
――ただし、それも概念戦を始める前の話だ。
「オレは無敵だ。イチ、お前のブラックホールなんざ、モノの数じゃねぇ」
何度か模擬概念戦を行ってきて分かるようになったのが、『能力者』がそういった「自分の『能力』への言及」を行うとき、どことなく“見えない何か”に吟味されている、という感覚があることだ。
「総一郎、グレゴリーの概念主張が通ったぞ。論破しなきゃお前の負けだ。早く反論しろー」
ミヤさんの店のジュースを啜りながら、大統領は総一郎にヤジを飛ばす。そう簡単に戦いながら言葉を回せるものか、と総一郎は歯を食いしばりつつ、迫るグレゴリーから距離を取り直す。
「おいイチ、そう逃げるなよ。追い詰めたくなる」
一方グレゴリーは、総一郎がグレゴリーの主張を覆す言葉を練るための時間を与えないように動くのだ。それこそが概念戦の勝利へのテクニックで、要するに戦況が変わるような策を打たれる前に相手を詰ませてしまおう、というもの。
もちろんグレゴリーも本気で殴ってきたりなどしないが、ボクサー級のパンチなら平然と打ち込んでくる。少し前には“灰”で掻い潜れないかと対策を講じたこともあったが、『ん? つまんねー小細工だな』とグレゴリーには何故か普通に貫通して殴られた。
それ以来、『能力者』相手に『能力』以外を使わないと決めた総一郎だ。あるいは、どこかに『能力』を搦めて使用する。そうでもなければ、使い物になるまい。
総一郎は“壁”を飛ばすが、今のグレゴリーには効かない。そこでまた、大統領は総一郎にアドバイスを告げた。
「総一郎、相手が概念戦を始めたら、その時点で敵の領域内に『能力』は使うな。グレゴリーの場合は防御力だな。そこで『能力』を使って負けた場合、それで事象が確定する。まぁ前回でもう手遅れだったから仕方ないんだが、今後は論破してから使え」
「えぇっ!? じゃあ俺の攻撃ってもうグレゴリーに通じないんですか?」
「攻撃の定義による。考え無しにミニブラックホールをぶつけるだけならもう効かないだろうな」
ぐ、と総一郎は歯噛みしつつ、振りかぶるグレゴリーの拳を間一髪で躱す。最近運動不足だったとはいえ、グレゴリーの体力の無尽蔵さにおされている。
「今日もオレの勝ちか? イチ。そろそろ張り合いがねぇぞ。いい加減反論の一つでしてみやがれ」
「そ、そっちが、言わせる隙も、与えないんじゃないか」
「そりゃそうだろ。張り合いがないのもかったるいが、負けるのはそれ以上にごめんだからな」
だから早く強くなれ。言いながらグレゴリーは総一郎のみぞおちに重いアッパーを打ち込んだ。総一郎は絶息し、そして崩れ落ちる。グレゴリーはコートの端、大統領に向かって言った。
「大統領。今日はもういいか? このマゾヒストをボコボコにするのもそろそろ飽きてきた」
「だれ、が、マゾ、ヒストだ……」
「……手加減はもちろんしたが、思いのほかタフだな」
立ち上がる総一郎に、グレゴリーは嫌そうな顔だ。そこに「そうさなぁ。じゃあ一つテコ入れでもしてやろうか」と、怪しげなことを言いながら、近づいてくる大統領。
「グレゴリー、お前の言葉の枷を剥ぐぞ」
「は?」
大統領は、グレゴリーの口に触れた。「鎖があるんだな。お前らしくもない、理性の鎖だ。その本音は腐らせるには惜しいぞ」と訳の分からないことを言いながら、“ナニカ”を摘まみ、そしてはぎ取る。
そしてグレゴリーは、枷の外れた口を“滑らせた”。
「よくもシラハを見殺しにしたな」
総一郎は目を剥いた。グレゴリーは、ハッとして口を押える。総一郎は全身を震わせながら、問う。
「それが、君の本音か、グレゴリー」
「いや、ちが、……。違わない。偽らざる、オレの本音だ」
グレゴリーが言葉に詰まったのは、一瞬だった。途中で、覚悟を決めたのだろう。胸を張って、まっすぐに総一郎を見つめて、奴は言ってのける。
「お前は判断を間違えた。オレがそれを知っていれば。お前がオレを頼っていたら。オレなら――シラハを助けられたんじゃねぇのか。お前が役立たずのARFどもを頼らず、最初からオレに言っていれば―――」
「何様だ、お前」
総一郎は異次元袋から瞬時に木刀を抜き出し、そこに“闇”を纏わせ切り払った。現代式の『能力』活用型居合。しかし、概念が固まった今、グレゴリーにダメージはない。
「今の攻撃にすべてが表れているだろうが。イチ、お前は頭に血が上るとまともな判断が出来ない。違うかよ。最期までシラハの傍に付き添ったそうだな。一度離れて冷静になれば、お前はシラハを救えたんじゃねぇのか」
「黙れ」
返す刃で斬りつける。意味はない。分かっている。分かっているのだ。
「オレは悔しい。お前にシラハを任せると判断したのは間違いだった。シラハがお前を愛していようが、そんなものを踏みにじってでもシラハを奪えばよかった。そうすればシラハはまだ生きていたかもしれない。違うかよ、イチ」
「黙れよ」
袈裟斬り。効果などない。
「お前が無貌の神に攫われたとき、シラハはすげぇ剣幕だったんだぜ。そのとき、オレは諦めちまった。シラハにはお前しかいないんだって、そう思った。―――――今過去に戻れるなら、オレは無貌の神の下に出向いて、攫われたお前を一思いに殺してやる」
「五月蝿いんだよッ!」
総一郎の振るう木刀を、とうとうグレゴリーは受け止め掴み、そして奪い取った。総一郎は無力になる。グレゴリーは、拳を振りかぶりながら言った。
「何なら、今この場で殺してやろうか」
衝撃が来た。痛みは飛んで分からなかった。総一郎はコートのフェンスにまで吹っ飛んで崩れ落ちる。殴られた腹部が焼けるように熱を放っている。その真上から、瞬時に距離を詰めたグレゴリーは、冷酷に総一郎を見下ろしていた。
「……オレは、こんなつまらない奴に、シラハを任せたのか……」
総一郎は、意地で立ち上がろうとする。グレゴリーは、それを無慈悲に踏み潰した。そこで、傍から見ている大統領の存在感が強くなった。視線を奪われる。それだけで、総一郎の中で思考の線がつながった。
総一郎の言葉が、挑発に紡がれる。
「俺がつまらないんじゃない。お前がつまらないんだよグレゴリー」
「あ?」
総一郎は背中を踏みつけにされながら、グレゴリーを見上げる。
「だってそうだろ。お前は一人だ。孤独だ。人間は集団の中にあって、絆を築いてこそだろ。お前の孤高は空虚だよ。だから白ねぇはお前に興味も示さなかった」
「イチ、テメェ……」
「こう言っちゃなんだけど、俺は君に比べれば余程魅力的だよ。引力があるんだ。人を引き付ける。総てを集めて一つの郎党にね。言ってる意味が分かるかな」
「分かるかよクソが。これ以上訳の分からないことをまくし立てるようなら――」
「だから、引力だよグレゴリー。俺のミニブラックホールは、呑み込む闇じゃない。絶大な引力の発生点なんだ」
総一郎は、グレゴリーの真上に発生させたミニブラックホールの、引力の“スイッチ”を入れた。グレゴリーは「はっ?」と声を上げて浮き始める。
「足が退いてくれて助かるよ」
総一郎は立ち上がり、パッパッと体の埃を払う。空中でもがくグレゴリーに、総一郎はさらに四つほどミニブラックホールを発生させ、全て引力をグレゴリーにのみ働かせることで、完全にグレゴリーを宙に拘束した。
五方向から放たれる強力な引力は、グレゴリーを宙に浮かせる形で全てから孤立させた。グレゴリーは流石、体こそ自由に動かせるようだったが、何にも触れられずもがくばかり。
「こ、この、クソ。イチ、これで勝ったと思ってんじゃねぇだろうな」
「思ってるよ。でも一応、君の言い分を聞いておこうか」
「なら、聞かせてやる」
グレゴリーの言葉が練られるのが分かる。概念戦。総一郎は、あえて聞く耳を貸すことにする。
「お前はこう考えてんだろ。如何にオレが最強の肉体を持っていようと、何モノにも触れられなければ意味がない、ってな。殴ればすべてを破壊できても、殴るモノに触れられなきゃ意味がないと」
「そうだね。その通りだ」
「なら、その勘違いを正してやる。お前は見落としてんだよ。この、“空気”っつーいくらでも活用できる、無限に等しいエネルギーを――――」
「なら、それも奪おうか」
グレゴリーは強く拳を振るった。だが、それだけだった。空気はグレゴリーが活用するよりも先、総一郎のミニブラックホールの引力によって吸い込まれ消失した。グレゴリーの周囲二メートル内から、完全に大気が失われる。
「ッ、……ッ、………!」
「何? 聞こえないよ? ああごめん。空気がないから、俺の声もそっちに届かないね。これで君は、正真正銘、本当に一人になったわけだ」
グレゴリーは呼吸も出来ないのに、何かをまくし立てては拳を振るう。恐らく何か状況を覆す論を立てては、その実証に動いているのだろう。だが、概念とて聞くことも出来ない言葉を聞き入れることは出来ないようだった。
その抵抗は意味を持たず、ミニブラックホールの前にただ彼は、駄々をこねる赤子同然だ。
「おめでとう、総一郎。そろそろ許してやっちゃくれないか?」
大統領に言われ、総一郎は「……はい」と言いながらグレゴリーを解放し――勢いそのままに、大統領をブラックホールの引力の対象にした。だが、大統領は宙に浮かなかった。
はためく服を軽く押さえながら、彼は肩を竦めて「悪いな、神経を逆なですることは分かっていたが、一番いい手がこれだけだったんだ」と弁明する。
「大統領。俺はあなたのことを尊敬してました。……けど、これは最悪です」
「分かってる、済まなかった。だが、今このタイミングでお前に概念戦を仕込んでおく必要があった。……その為に手段を選ばなかったことは、謝らせてもらう」
「……必要、ですか」
「ああ、必要だった。必要なことだった。そのことは分かって欲しい。それ以上の情報は、今のお前には毒になるから言えないが」
「毒って何ですか。分かっていることがあるなら教えてください。どうせ俺は、無貌の神の知識に侵されていますし、今更です」
「いいや、言わんよ。事実はお前を壊す。告げられるべきタイミングがあるし、それを逸すればお前は立ち直れない。“視点”がそれを許さない」
“視点”と聞いて、総一郎は背筋が粟立つのを感じた。総一郎はそれ以上尋ねる気になれず、大統領から目を背ける。
「もう、ここに来るのは止めます。どうせ、明日は週末だ。決めなければならないことがある。そして、決めればもう止まれない」
「知ってるよ。だからこのタイミングしかなかった。ほれ、グレゴリー、起きろ」
大統領に助け起こされるグレゴリーを、総一郎は嫌悪と共に見下ろした。グレゴリーは、心底悔しげな顔でこちらを見ていたが、途中歯ぎしりをして、総一郎を睨みつけてくる。
負け惜しみでもいうのか。そう思った。だが、違った。
「イチ、オレを殴れ」
「……」
総一郎は、一瞬呆気に取られて、それからまた目を細め「何さ」と口を開く。
「本音をぶちまけて、散々殴りつけておいて、今からごめんなさいのつもりか? その謝罪替わりに『殴れ』とは、不器用なもんだね君も」
「違う。謝ろうとは思ってねぇ。さっき言った言葉は紛れもなく本心だったし、そのまま殴ったのも後悔してねぇ。だから、謝罪替わりに殴れなんて言わない」
「……なら、何のつもりだよ」
「不公平だろ。オレだけ言いたいこと言って、殴り飛ばした。オレはお前の言い分を聞いてないし、殴られもしてないぜ、イチ」
「……――――」
総一郎は、その論法に唖然として、再度険を取り戻そうとして、失敗した。頭を掻いて、「そうだ。君はそういう奴だった」とバツの悪い顔をする。
「ああ、これがオレだ。ほら、殴れ。オレにとっちゃ酸欠なんてものは苦痛にもなりゃしねぇ。お前が殴らなきゃ、公平じゃない」
「公平じゃない、か。そうだね、公平じゃない。公平じゃないのは、良くないことだ。差別の本質でもある」
総一郎は溜息と共にその言葉を認めた。それから、予備動作なしに顎を拳で打ち抜く。カバラで調整された、鋭いフックだ。グレゴリーは、意識して気を抜いていたのだろう。総一郎の手応え通りよろめき、「いいの……持ってんじゃねぇかよ」と体勢を立て直す。
「だが、まだだろ。オレが何発殴ったと思ってる。気が済むまでやれよ」
「いいや、これで十分だよ。俺は満足した」
「何、気を遣ってやがる。どうせオレはこの程度じゃ何のダメージもない。満足いくまで――」
「俺も満足するまで殴ったし、君もそうだ。なら、公平だよ。数じゃあない」
「……そうか。なら、いい」
グレゴリーは踵を返し、よろめいた足取りでコートから出て行った。総一郎はそれを見送りながら、大統領に言う。
「最近グレゴリーのことが分かってきたんですけど、彼は、変な奴ですよね。ひねくれてるけど、まっすぐだ」
「その表現がアイツほど似合う奴も少ないよな。見ててもどかしいが、同時に気持ちのいい奴なんだ」
「そうですね。……大統領、今回は彼に免じて、許します。事情があったんですよね」
「ああ。もう二度と、あんな真似はしないさ」
「なら、いいです。あなたは約束を破る人じゃない。深い付き合いではないですが、そう思いますから」
「それは光栄だな。さ、出よう」
大統領に促され、総一郎はバスケットコートを出た。大統領が最後に出て電子キーで施錠するのを見ていると、彼は最後にこう言った。
「総一郎、お前はグレゴリーとは違って、嘘も言うし含みも持たせる。皮肉なんてお手のモンだろう。だが、困難を前に考え抜き、悩み抜く。その姿勢は、お前の『能力』も同様だ」
総一郎は首を傾げる。大統領は顔を上げてニヤリ笑い、「分かりやすくミニブラックホールなんて呼んじゃあいるが、“そんなもんじゃあないぜ”、その『能力』」と軽い調子で総一郎の肩を叩いた。
それから年不相応に若々しい表情で、彼は総一郎にこう告げる。
「お前にはお前の結末がある。戦い続けろ。もがき続けろ。お前は、幸せになれる」
その言葉が、総一郎が蓋をしつつあった記憶とリンクした。病床。真っ白で、すすり泣きする声に満ちたあの空間。総一郎は足から失われる力に逆らえず、地面に腰を下ろしてしまう。
『総ちゃんが、私がいなくても幸せになろうとしてくれるって』
呼吸が荒れ、震えが全身を揺るがした。冷や汗が全身を濡らし、俯く鼻先から滴となって垂れ落ちる。
「幸せって、何だよ」
答える者はいない。大統領は、とうに総一郎を置いてその場から去っていた。わざとだろう。気を遣ったのだ。総一郎が、この言葉で前後不覚になると理解していたから。
「俺が、なっていいわけないだろ。幸せになんか。でも、ならなきゃいけないんだよ。どうしようもないんだ。どうしようもないんだよ」
総一郎は、頭を抱えてうずくまる。そうやって懊悩しながら、総一郎は頭の片隅で思うのだ。
大統領は、総一郎を軽く超える嘘つきだ。破らないといった約束を十秒とたたずに破る者が、奴以外にいるものか。