8話 大きくなったな、総一郎55
強い力で襟首をつかまれ、総一郎は覚醒した。
目を覚ますと、顔を真っ青にした白羽が、意識が朦朧としたままに総一郎にしがみついていた。荒い呼吸。震える体。総一郎は、迷わなかった。
電脳魔術を起動し、登録してあった病院の電話につなぐ。そうしながら上体を起こし、白羽を抱き上げた。
『おはようございます。こちらはミスカトニック大学附属病院です。ご用件をどうぞ』
「以前入院していた姉の様子が変なので、至急救急車をお願いいたします。姉の名前はシラハ・ブシガイト」
『かしこまりました。登録ナンバー0692923744444の該当を確認。救急隊を向かわせますので、シラハ様を出来るだけ安静に保っていてください』
一度電話が切れる。直後簡易ダウンロードの許可がダイアログで求められ、許可するとアプリが立ち上がった。
『こちらは全日本緊急患者安全確保プログラムです。ミスカトニック大学付属病院から受け取ったデータをもとに、シラハ・ブシガイト様の安静状態確保の方法を指導いたします。指示に従って、シラハ様の安静を確保してください』
「分りました。何をすればいいですか?」
『まず―――』
アプリの指示に従って気道の確保やら体勢の変更などを行っていると、すぐにインターフォンがならされた。出迎えると救急隊員たちが総一郎に一礼して白羽を救急車の中に運び込んでいくから、総一郎もそこに同席する。
そこにいたって、やっと実感と予感が追い付いてきた。寝台に寝かされ苦しげにあえぐ白羽を見つめる。手がはみ出していたから、その手を握る。
「総、ちゃん……?」
白羽が事態を掴めていない声色で名を呼んできた。総一郎は不安も心配も押し殺して、微笑んで言った。
「大丈夫だよ、白ねぇ。ずっとそばにいるから」
平気で嘘を吐く総一郎でも、これだけは嘘ではない。
決して嘘には、してなるものか。
以前までの入院と違ったのは、ARFの面々がわざわざ集まってお見舞いに来てくれたことだろうか。
「シラハさん! 大丈夫ですか、まぁた搬送されたって聞いて、今回こそはっつって来ましたよ」
「白ちゃん、大丈夫ですか~? 前回は遅くなってごめんなさい。今日は急いできましたからね~」
いの一番に登場したのは、Jと愛見のペアだった。ここで言う前回、というのは初めて過労で倒れた時の事だろう。つまり、極めて忙しい時期だったが故に、いったん緘口令を敷いたときだ。
「愛ちゃん、それにウー君も。ありがとうね」
容体の落ち着いた白羽は、静かな声で二人を出迎えた。そばで座っていた総一郎も「よく来たね」と歓迎だ。
「しっかし、シラハさん少し見ない内に細くなったなぁ。ダイエット成功ってとこですか? 痛ってぇ!」
「ごめんなさいね、白ちゃん~。J君空気読めないものですから~」
軽口をたたいて愛見にシバかれるJに、武士垣外姉弟はクスリと笑ってそれぞれコメントを。
「ある意味読んだ結果の言葉って気はしたけど」
「私は気にしないよ、二人とも」
まぁ座んなよ、と総一郎が椅子を差し出すと、J、愛見の二人は揃って腰を下ろす。この二人も揃っているのが板について来たな、と思いながら見ていると、Jがこう質問してきた。
「検査は終わったんですか? シラハさん」
「うん、一通りね。びっくりしたよ朝は。何か息苦しいなって思って目を覚ましたら、救急車の中にいるわ、総ちゃんが泣きそうな顔で私の手を握ってるわ」
「イヤ本当に。朝起きたら顔真っ青にして震えてるし過呼吸起こしてるし。心配で気が気じゃなかったよ俺」
総一郎が反撃すると、白羽は笑顔で固まった。Jと愛見はお互いに視線を交わしてから、ジャッジを下す。
「イッちゃんの反応は妥当だな。体調落ち着いてよかったなシラハさん」
「白ちゃん。あんまりイッちゃんを心配させちゃダメですよ~。仲良し姉弟なんですから、そんなことになったら心配するのは当たり前です~」
「うん……はい……。気を付けます……」
白羽は申し訳なさそうに項垂れているが、実際仕方のない事なのだろう。白羽は天使で、今の今まで風邪らしい風邪もひいてこなかったのだ。体調に気を付ける、といっても何をどうすれば気を付けられるのかも分かるまい。
だからこそここ最近は、可能な限り無理をさせないように付き添っていたのだが。結局は体調を崩してしまった上に、原因も碌に分からないままだ。天にも祈る気持ち、というのはまさにこう言う事なのだろう。総一郎には、もうどうしていいか分からない。
「じゃあ~、検査結果が出るまでお喋りしていきますか~。最近はARFの活動もだいぶ落ち着いてきて、かなり余裕がありますし~」
「ああ、本当にな。どっかの誰かさんがエグイ仕事を全部片づけたり自動化してくれたからな」
「……ら、楽になってよかったね!」
「怒るぞ」
「ごめんて」
Jに一睨みされて、総一郎は両手を合わせてごめんのポーズ。「ったくよぉ」と腕を組んで溜息を落とす彼に、総一郎は話を逸らすがてらこう質問する。
「ちなみに、今ってARF全体としては何をしてるの? 白ねぇの容体が急変して、家で世話してまた入院、みたいな流れでだいぶ忙しくてさ。そっちの状況全然掴めてなくて」
「ヒルディスさんが指揮取ってるぜ。本人はあくまで仮のものだって言ってはいるが、ヒルディスさんが来てからかなり安定して選挙支援の方も進められてるよ。その点で言えばあのチビ邪神の横やりも全然なくなったな」
「そうですね~。っていうか、全然姿を見なくなったというか~……。わたしたちが関わってないだけかもしれないですが、薔薇十字もあまり見なくなりましたね~」
「……それは」
放置してはマズイ類のきな臭さではないだろうか。
「J、愛さん。余裕があるようならその二つに関して調べてもらえるかな。ヒルディスさんには報告した上で、ナイには俺を、薔薇十字にはアーリをアドバイザーにおきつつ動いて欲しい」
「ん、おう。何だこれ結構マズい奴か」
「やっぱりそうですよね~。かしこまりました~」
今からか? とJに尋ねられたから、吟味の上で「いいや、要らないよ。未来を読む彼らが早急な対処を事前に求めてこなかった時点で、今すぐってほど逼迫はしてないはず。それに、すぐだと白ねぇが寂しがるから、明日くらいからかな」と伝えた。
「ふふっ。ちょっと見ない間に、総ちゃんったらすっかりリーダーになっちゃって」
男子三日会わざれば、って感じ。と白羽は可笑しそうに笑っている。だがそれが祟ったのか、呼吸が乱れて咳き込んでしまった。
「大丈夫? 白ねぇ。ほら、ゆっくり呼吸して。水飲む?」
「ケホッ、ケホッ。……う、ん。のむ……」
伸ばしてくる手にペットボトルを渡す。白羽は細く白い喉を鳴らして水を飲みほした。それから、ほっと一息つく。
「治まった?」
「うん……。ありがとうね、総ちゃん」
「これくらい何でもないよ」
疲れ気味ながら微笑んでくる白羽に、総一郎も笑い返した。Jたちが白羽を心配そうに見ているのに気が付いて、「そ、それで」と総一郎は話を変えに掛かる。
「他のみんなはどうしてる? その、ARF全体っていうより、個々人の調子っていうか」
「そうだな……ヒルディスさんは今言った通りとして」
「シェリルちゃんは、ちょっと寂しそうにしてますね~……。懐いていたイッちゃんが白ちゃんに付きっきりですし~。辛うじて、薔薇十字のローラさんと一緒にいるのをよく見ますが~」
「あ、なるほど。そっかそこで仲がいいのか……。そうだね、ローレルが相手をしててくれているなら安心だ。それで他はどうかな」
総一郎の促しに、「あとは……ハウンド、つまりアーリか?」とJは首を傾げる。そんなJの視線を向けられ、愛見も「う~ん……」と困り顔だ。
「すまん、おれはよく分からん。たまに見かけるが常に忙しそうでな。その他に何かあるかって考えたんだが、思いつかねぇ」
「わたしも、同じです~。仕事では頼りになりますが、プライベートに関してとなると、全然知らないんだなって今気づいたくらいで~」
と、そこで病室の入り口から二つの影が現れた。「よぉボス、生きてるか?」と片手をあげ片手をポケットに突っ込むアーリに、「ボス~、お見舞いにきてあげたよ」とアーリの影からひょこって顔を出すシェリルだ。白羽は嬉しそうに視線をやる。
「よく来たね、二人とも。忙しい中ありがとう」
「ま、多少余裕が出てきたんでな。……病状の方は、どうだよ」
「あはは……、ご覧の有様かな」
「回復するための策なんかは見つかったか?」
「ぜーんぜん。参っちゃうよほんと」
白羽とアーリのやり取りに、総一郎はどうしても眉を垂れさせてしまう。こっそり一神教に詳しい人物にもコンタクトを取ったりもしてみたが、打開策は見つからないまま今日に至っているが故に。
「でも」
白羽は、こう続けた。
「負ける気はさらさらないよ。一人だけの命じゃないからね」
その言葉の力強さに、沈鬱になりかけていた空気がパッと晴れるのが分かった。「そうだ! シラハさん、その意気だぜ」「白ちゃんが弱気になっていないようで、よかったです~」とJ愛見カップルが励まし、「ボスがそう言うんなら、大丈夫か」とアーリが安心そうに肩を竦める。
「……」
唯一、シェリルだけがいまだ心配そうにしていた。「まだ何か気になる?」と総一郎が尋ねると、シェリルはそっと総一郎の耳に口を近づけ、囁いてくる。
「あのさ、ボスのお腹……」
凍り付く総一郎である。「そ、その、ちょっと出て話さない?」と誘うと「いや、そうじゃなくて」と冷静に首を振られる。
「なぁに二人でコソコソ話してんだ?」
割り込んできたアーリに、総一郎は「あいや、別に何でもないよ。ね、シェリル」と話を合わせるよう合図を送った。シェリルはキョトンとして眉をひそめ、「え、いや、え? 全然なんでもなくないけど。何で隠そうとするの?」と珍しく鈍い反応だ。
「おいソウ。ヴァンプはこう言ってるが? 何を隠そうってんだ、教えろよ。ん?」
アーリはニヤニヤとちょっとからかってやろう、くらいの気持ちで総一郎に探りを入れる。一方総一郎は、冷や汗がダラダラと伝う心持だ。こんなところで暴露する準備はしていないし、こんな大勢の前で言いふらす内容ではない。
「ったくソウも強情だな。おいヴァンプ、結局ソウは何を隠そうとしてるんだ?」
「え、だから、ボスのお腹」
「え、私?」
「うん。ボスのお腹――――」
総一郎は、どうすべきか迷った。大声を出してでも遮るべきか。だが何か違和感があって、続く言葉を聞いていた。
「―――何か、いい匂いしない?」
は? という顔を、全員がした。それから、シェリルとそこまで親しくないJが怪訝な顔をし、アーリはその意味を考えるそぶりをし、愛見は何か勘づいて白羽の腹部を手の目で観察し始め、白羽は首を傾げ―――総一郎は、理解と共に総毛だった。
「白ねぇ、ごめん」
布団を剥す。腹部を露出するように服をめくる。少し張った、見慣れたお腹。「ちょっ、おれ一旦出るからな!」と気を利かせて出ていくJに総一郎は感謝しつつ、愛見に声をかける。
「愛さん。これ、どうですか」
「……、これ、え……?」
愛見は顔を蒼白にして、首を振る。白羽は、「え、何、何でそんな顔するの。赤ちゃんに、何か変なところがあったの?」と怯えた声色で問い、アーリが目を剥いて白羽を見る。
「赤、ちゃん……? どういうことだよ。ボス、妊娠してんのか? そのお腹、でも、じゃあ、相手は」
アーリの視線が総一郎のそれとかち合う。アーリは信じられないものを見た、という顔で、一歩後退した。総一郎はその視線を振り切って、「愛さん。お願いします、何を見たって言うんですか? 教えてください。お願いですから!」と強く問い詰める。
「……すいません、少し席を外させてください」
愛見が駆け足で出て行こうとする。それを、総一郎は手を掴んで止めた。「愛さん!? 何で教えてくれないんですかッ? 俺たちがそんなに気持ち悪いですか!」と言葉を放つと「ちが、おぇ、ちがう、ん、です……」と口を押えて涙目でただ首を振る。
「そ、ソウイチ、落ち着いて。眼鏡の人、行っていいよ。吐き切ったら戻ってきて。ね?」
必死になる総一郎を止めたのはシェリルだった。彼女が総一郎の手を吸血鬼の腕力で愛見から引きはがすと、愛見は口を押えて一目散に出ていく。
それから、病室に静寂が落ちた。白羽は不安げに総一郎を見ていて、総一郎は震える手をシェリルに捕まれている。そしてアーリは、「近親……、嘘だろ、おい……」と小声で呟いていた。
どうすべきか、分からなかった。混乱が総一郎の頭を占めていて、暴れ出してしまいそうなほどのストレスを、辛うじて強い力で掴むシェリルの手が押さえつけていた。
「……シェリル。君は、どう……?」
それ以上の適切な言葉が浮かばなくて、総一郎はただ漠然と小さな吸血鬼を見る。彼女は白羽の腹部に視線をやって下唇を噛み、眉を垂れさせ「とっても芳醇なにおいがするの。だから、それだけ良くないと思う」と首を振った。
白羽は恐怖に歪んだ表情で、自らの腹部を、赤ちゃんを抱きしめる。
「だ、大丈夫……。大丈夫だからね……、私が、お母さんが、守ってあげるから……」
そう、自らのお腹に向けて囁く白羽に、アーリは言った。
「ボス、アンタ、どうかしてるよ。お前もだ、ソウ。実の……実の姉弟で、そんな。ソウには、最近恋人もいるだろうが。認めたくないが、あの邪神だってソウが好きなんだろ。それを……」
「アーリ、今、それどころじゃないんだ。そういう倫理だのなんだのっていう話は、止めてほしい」
「―――ハッ! じゃあやめてやるよ。代わりにボスの中にいる赤ん坊の話をしよう。ボス、そいつ堕ろした方がいいぜ。ヴァンプが嗅ぎつけて、観察したアイがトイレに駆け込んで今絶賛トイレとお友達だ。分かるだろ。碌でもねェもんが入ってんだよ」
「ッ」
白羽が、アーリの言葉の衝撃に見たこともないような顔をした。それは怯え、竦み。いつだって物事をハキハキと言ってのける白羽が、何者にも恐れず突き進む白羽が、強い信念でもってみんなの旗印を務めあげる白羽が、自らの子の喪失に、ただ怯えた。
「アーリ!」
総一郎は、それに激しい怒りを覚えた。普段なら仲間に決して向けないような鋭い声色で、アーリを威嚇した。普段穏やかな総一郎だからこそ、そしてウッドの側面を持ちうる人物だと知っているからこそ、アーリはその言葉に怯み、しかし言い返してきた。
「何だよ! アタシ間違ったこと言ってるか!? やべぇもんがボスの中にいなきゃあよぉ! アイがあんな反応する訳ねぇだろうが! 違うかよ、ヴァンプ! お前が嗅ぎつけたんだろ! なぁ!」
「っ。や、止めようよ。私たち、仲間でしょ? こんな言い争い……よくないって」
「よくない、じゃ効かねぇだろうが! アタシらのかけがえのないボスの中に、得体の知れないものがいるってことだろ! ボスの体調がどんどん悪くなってるのにも関わってんじゃねぇのか!? それで今日も体調を崩して緊急搬送されたんだろうが」
「っ。う、うぅ……」
白羽が、強く自らの腹部を抱きしめて震えるのを見て、総一郎は声のトーンを落とした。
「もういい、アーリ。一旦出てくれ」
「はぁ!? アタシは、アタシの意見を述べてるだけだろうが! それを」
「違う。全員頭に血が上ってるんだ。冷静じゃない。シェリル、アーリをお願い。……二人きりにさせてほしい」
「それこそ反対だ! お前ら姉弟の癖に、そういう事をしたからこうなってるんだろ!? そんな節操のない二人をこんなところで二人きりなんて」
すぅ、と息を大きく吸い込む音が聞こえた。そして、大きく足を踏み鳴らす音。シェリルが、拳を振りかぶっている。
「喋らなかった人、今すぐ喋るのやめて」
シェリルの拳が、アーリのめり込んだ。彼女は絶息して、その場に倒れ込む。そんな彼女を、シェリルは一人で担ぎ上げた。それから心配そうに総一郎と白羽を見つつも、不安を堪えるようにまぶたをぎゅっと閉じて、部屋から出て行った。
そして、総一郎と白羽の二人が残された。総一郎は小さく縮こまる白羽に近寄り、強く抱きしめる。白羽は、震える声で、総一郎に問うてきた。
「大丈夫、だよ、ね? わ、私たちの赤ちゃん、ちゃんと産んであげられる、よね。赤ちゃんに、私、会える、よ、ね……?」
「……」
総一郎は、何も答えられない。総一郎とてこの赤ん坊の父親だ。まだ実感が強く湧いていないけれど、最近ずっと白羽の傍にいて、そのお腹に触れて、命の息吹を感じて、やっと父の自覚を持ちかけていたところなのだ。
―――だが、それと同時に、優先順位を間違えるつもりもなかった。まだ見ぬ我が子よりも、総一郎は白羽が大切だ。白羽と天秤にかけるなら、総一郎は躊躇わず我が子を捨てるだろう。
だから、何も言えなかった。ただ、白羽を少しでも安心させるように、不安にしゃくり上げる姉の背中を、優しくトントンと叩いていた。