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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
自由なる大国にて
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8話 大きくなったな、総一郎47

 情けないくらい、爽快な朝だった。


 総一郎は、自然に目を覚ました。時刻は朝四時を少し過ぎたくらい。つまり、ARFで仕事漬けになる前と全く同じ時間帯だ。


 ベッドの上。隣にある存在感に気付いて目を向けると、ローレルが規則正しい寝息を立てていた。総一郎は僅かな時間、寝ぼけたままに彼女の頬に触れる。ぷにぷにと柔らかくて、むずがる様が愛らしい。


「ローレルは、寝顔も可愛いね……」


 口にして、だんだん総一郎は覚醒してくる。何日ぶりの睡眠だっただろう。全身に強張るような痛みがあって、寝すぎたかな、なんてことを思う。


 だが。


「あぁ、ダメだ。気分が良すぎる」


 何で何日も寝ずに仕事してたんだ、と思うくらい、調子がいい。本当なら、焦るべきなのだろう。数時間あれば片付く仕事なんていくらでもある。それを逃したのだと、悔やむべきなのだろう。


 しかし、多分今、総一郎は誰にも負けない。


「……約束は、素振りまでだったね」


 総一郎は異次元袋を片手に部屋を出た。向かう先は裏庭。サンダルをつっかけながら、袋より木刀を抜き取る。


 夏の残暑残る朝は、しかし秋の予感を孕んでいた。うっすらと汗ばむ気温ながら、風が時折通り過ぎる。


 木刀を、構えた。それから、振るう。筋肉がほぐれる。こわばりが解けていく。


 運動不足からの衰えも、一定の姿勢を継続することからの筋肉の硬直も、素振りを何百と繰り返すごとに取り戻していく感覚があった。息が上がり、そして静まっていく。飛び散る汗が、熱に帯びて蒸気に変わっていく。


 千を超えたあたりで、視界の明滅が来た。忘我の瞬間が来る。総一郎の内側との対面が始まる。


 木刀を振るう感覚ばかりがある中で、総一郎の眼前にはただ闇があった。形ある人というものは現れない。渦が巻いていて、飲まれていくような、そんな焦燥があった。


 けれど、違った。人は居た。ヒイラギ。それが、渦の奥の奥で佇んでいた。総一郎は振るう木刀を強くする。だが、届かない。どうやったら届く。奴は今何を考えている。


 闇の中で、凝視した。奴は俯いていた。以前のような余裕げな笑みは、恐らく浮かべていない。しかし、それが不気味だった。何を思っている。何を企んでいる。総一郎は木刀を振るう。振るい、覗き、そして。


「ソー、精が出ますね」


 ハッとして、総一郎は素振りを止めた。全身から汗が噴き出ている。総一郎は、ちょっと疲れすぎている自分に気が付いた。荒く息を吐いて、その場にへたり込む。


「ソーっ? 大丈夫ですか? ずっと働き詰めだったんですから、以前のようには動けませんよ?」


 ベランダから裸足のまま裏庭に降りてきて、ローレルは総一郎を支えてくれた。総一郎は苦笑いしながら、「ごめん、汗まみれで、汚いのに……」と謝る。


「いいえ、ソーの汗が汚いなんて思いません。頑張るのは素晴らしい事ですが、今日はこの辺りにしておきましょう?」


 声もなく首を縦に振ると、ローレルは総一郎に肩を貸してリビングまで連れていってくれた。ソファまでローレルは連れていこうとしてくれたが、それはちょっと良くない、と総一郎はベランダ傍の床に寝っ転がる。


 そうやって、荒い息が落ち着くのを待った。ローレルが水を持ってきてくれたから、一息に飲み干してしまう。そうしていると落ち着いてきて、総一郎は上体を起こした。


「ソー、もう一杯飲みますか?」


「ううん。ありがとう、ローレル。……久しぶりに運動したよ。やっぱり気持ちいいね。気も晴れる」


 言うと、ローレルは嬉しそうに破顔して「良かったです。昨日より、ずっといい顔をしてますよ、ソー」とタオルを渡してくれる。


 総一郎はタオルで汗を拭いながら立ち上がった。それから「朝ごはんだけ食べたらもう行こうかな。ローレル、作ってくれない? 久しぶりに君の作るご飯が食べたいんだ」とお願いする。


「っ。ええ! もちろんです。少し待っていてくださいね」


 ローレルはちょっと驚いてから、急いでキッチンへと向かった。その足取りは跳ねてしまいそうなほど軽く、見ていて微笑ましく感じてしまうほど。


 シャワーを浴びて出てくるころには、ローレルは朝ごはんの支度を終わらせていた。部屋中に満ちるいい匂いに総一郎は表情を綻ばせながら、「何作ったの?」と尋ねる。


「今日はマーマイトのチーズトーストですよ。たっぷりのチーズ、目玉焼きにベーコン、そしてマーマイトをのせて召し上がれ」


 そうだった、と総一郎は思い出した。ローレルのマーマイト狂いっぷりを。


 警戒しながら総一郎はテーブルを前にすると、いかにも美味しそうな香りを漂わせるトーストとお手本のようなブリティッシュブレックファストが並んでいた。そしてテーブル中央に鎮座するマーマイトである。イギリス人のソウルフード。日本で言うところの納豆。外国人にはちょっとおキツイお味。


 けれどローレルは、宣言どおりトーストにたっぷりのチーズに目玉焼き、ベーコンを乗せ、そして引くほどのマーマイトを塗りたくってかぶりついていた。落ち着いた彼女からはあまり見られないほど蕩けた表情は、それはそれは美味しいものを食べているのだろう、と感じさせるもの。


 総一郎も、それを疑わなかった。美味しいのだろう。ローレルにとっては。


「……いただきます」


 総一郎は日本式の礼をしてから、トーストを手に取った。ローレルが自分のトーストに夢中になっているのを確認して、マーマイトを省いて具をのせる。そして一口。パッと総一郎の目が開く。


「おいしい! あぁ、久しぶりに食べたよ、ローレルのごはん。おいしいね、とっても」


「ふふ、喜んでもらえて私も嬉しいです」


 ローレルの微笑を見て、どうやらマーマイトを塗らなかったことはバレていないようだ、と総一郎はほっと胸を撫でおろす。それから次の一口をかぶりつくべく大口を開けて。


「それでソー、マーマイトを塗らないんですか?」


 バレてた。総一郎は大口を開けたまま止まる。


「……塗らなきゃダメ?」


「え、いえ、ダメという事はないですが。おいしいですよ?」


「う、ん……。そうだね、ローレルにとっては、おいしいんだろうね……」


「いえいえ、誰にとってもおいしくなるように工夫してあるので。是非一口」


「いやいや……」


「いえいえ……」


 お互いに、やんわり強固にマーマイトをめぐって攻防が起こっていた。強い力を出すことはどちらもないだろう。だが、揃って自らが折れる気もさらさらない。


 そこで、ローレルがこんな事を言い出した。


「というか、すでにパン生地にマーマイトを練り込んであるので、ソーは嫌がるも何もなくマーマイトを摂取していますが」


「うっそぉ!? このトースト、パン生地レベルでマーマイトが入ってるの?」


「ソーの口から『うっそぉ!?』という言葉を聞く日が来るとは思ってませんでした」


 ローレルの冷静なツッコミも耳に入らないほど、総一郎は驚いていた。このサクサクながら濃厚なチーズトーストにマーマイトが塗り込まれているなんて、ちょっと信じられない。マーマイトの塩っ辛さが全くない。むしろパン生地の甘さが際立つほどだ。


 そう懐疑的に見ていると、ローレルがすすっ……と無言でマーマイトの瓶を差し出してきた。トーストがいけたのだから、こちらも、ということだろうか。総一郎はローレルに渋面を作るが、対するローレルは目をキラキラさせて総一郎のことを見つめている。


 ちょっとズルだ。と総一郎は思った。思いながら、マーマイトを少しだけ取り、そしてトーストに薄く広げる。


 それからベーコンを乗せ、チーズを掛け、目玉焼きで彩った。総一郎はしばらく苦しい顔をしていたが、脳内で「ええい、ままよ!」と古臭い掛け声を上げてかぶりつく。


 そして総一郎は思った。


 愛するローレルからのお願いだろうと、マーマイトに関してだけはもう二度という事を聞くまいと。


「……ローレル、あげる」


「えっ。こんなちょっとしか食べてないのにですか?」


「ごめん。その、……ごめん」


「えっ、いえ、こちらこそ無理に勧めてしまったようで……」


 気まずい沈黙が降りた。こんなはずでは、と総一郎は思うが、自分が悪かったとも思えないのだ。何せ、マーマイトをおいしい顔で食べるのは無理がある。


 と、そこで堪えきれない、という顔でローレルは笑いだした。総一郎はキョトンとしてローレルを見る。


 肩をゆすり、もみあげの辺りから伸びる趣味のいい金の三つ編みを揺らして、ローレルは心底嬉しそうに笑っていた。それから温かな吐息を一つ経て、穏やかに呟いた。


「良かったです。たった一晩でも、ソーがこんなに元気になってくれたんですもの。色々と準備した甲斐がありました」


 ローレルは総一郎に笑いかける。その笑顔の、どれだけ献身的なことか。どれだけ愛に満ちたことか。総一郎は目を伏せ、死ななければいいなどと浅慮を吐いた自らを恥じた。


「……ごめん。俺、忙しくして、周りが全然見えてなかったね」


「えぇ、そうですよ。無意識的にか、私のこともお姉さまのことも避けていたでしょう。ナイはそれこそ幻のように現れては消えますから、避けるも何もなかったとは思いますが」


 言ってから、ローレルはバッと後ろに振り返った。それからまた素早くこちらに向き直り、総一郎の背後を覗く。


「分かるよ、ローレル。ナイは噂をされたところに現れるのが好きだから」


「今日は居ないみたいですね……」


「うんうん。ボクだってそんな、呼ばれて飛び出て、なんてことは出来ないからね。あ、総一郎君の残したトースト貰うよ」


 総一郎とローレルは、静かに停止した。声の元に視線をやると、総一郎の残したトーストを口にして「しょっぱ! 総一郎君、これはつけすぎだよ」と変な顔をするナイがいた。


「ナイ、君は本当に期待を裏切らないね」


「でしょ? 君たちがイチャイチャしてたから邪魔しに来たんだ」


「ナイ、今は私とソーの時間です。今すぐ席を外してください」


「あは! ローレルちゃん如きの言う事を、このボクが聞くとでも?」


 ケタケタとナイが嘲笑う。それを前にして、ローレルは言った。


「聞かなければナイとソーが仲睦まじくしているタイミングで、私はナイの邪魔をします。意地でも遮ります。『祝福されし子どもたち』の影響をこれ以上ないほど強く受け、あなたの未来視をすり抜けて、あなたよりも高度なカバラを扱える私が、です。分かりますか? 交換条件ですよ。邪魔しなければ邪魔されない。すればされる。それだけのことです」


「……なるほど、単純明快な取引だね」


 ナイはトーストを半分に折って総一郎の口に突っ込み、「仕方ない、その交渉に乗ってあげようじゃないか。その代わり、ボクと総一郎君の蜜月に手出しは無用だよ」とナイは椅子から立ち上がった。それから部屋を出る寸前、彼女は振り返って青い顔の総一郎に言う。


「そうだ、総一郎君。どうせ君に届く情報だけど、先出しで教えてあげよう。警察との総力戦は明後日に決まったよ。それまでに、可能な限りの用意はしておくことだね」


 ナイは言い捨てて、そのまま去ろうとした。その背中に、総一郎は大きな声で「ナイッ!」と呼ぶ。少し面倒そうに、小さな少女は振り返った。


「何かな? 総一郎君。生憎とボクは、今回は不参加で――」

「教えてくれてありがとう。ナイも、無理しちゃダメだよ」


「……」


 ナイは呆気にとられたように何度かまばたきをした。それから、素早く明後日の方向を向いて「そ、総一郎君にそれを言われるようじゃ、おしまいだねっ」と足早に消えてしまった。


「やりますね、ソー。まさかこれほど主導権を握っているとは」


「主導権……って程ではないと思うけどね。ローレルとかにも当たり前に言ってるような感謝を伝えると、ナイは照れちゃってああやって逃げていくんだよ」


「本当に邪神か疑わしい性質ですね」


「可愛いよね」


「……そういう捉え方が不可能とは思いませんが」


「妬いてる? ローレルのことも、俺、大好きだよ」


「――! ……、……もっと言ってください」


 驚いた顔、からの逡巡を経て、ローレルは躊躇いがちに総一郎の腕の辺りに触れ、うつむきがちに催促した。総一郎はほんのり顔を赤く染めるローレルに向かって立ち上がり、その耳元に口を寄せ、こう言った。


「ふっ」


「あっ♡」


 総一郎が耳に息を吐きかけると、ローレルはいかにもな声を上げてしまっていた。彼女は恥じらいに顔を真っ赤にして総一郎を睨みつける。総一郎はひとしきり笑って「じゃあ、今日もお仕事頑張ってくる」と片手を上げた。


「……はい。疲れたら、休んでくださいね。特に明後日は総力戦です。体を休めるのも、仕事の内ですよ」


「うん、分かってる。今日はなるべく、早くに帰ってこないとね」


 総一郎は、守る気もない約束を交わして家を出た。ローレルは総一郎の心を知った上で、きっとこれ以上何も言わずに見逃してくれたのだろう。すべきことは山ほどある。ヒルディスがヘルプに入ってくれたが、いったいどれほど捌けたかもわからない。


「すべきことを、しよう」


 総一郎は、いつもの飛行術式で跳び上がった。移動時間を徒歩でゆっくり潰す気など、総一郎にはさらさらなかった。


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