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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
自由なる大国にて
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8話 大きくなったな、総一郎39

 薔薇十字団との、交渉の日だった。


 ヒイラギに乗っ取られたとされる、カバリスト達。未熟な少年であった総一郎を翻弄した、無慈悲なる計算者ども。


 とはいえ、前情報を考えるに心の奥底から裏切ったわけではない、という見立てだった。故に、どうしたものか、と考えながらも、総一郎はそこに立っていた。


 かつて倒壊したアルフタワーにも匹敵するような、大規模なホテル。


 そのロビーで、ローレルと待ち合わせる予定だった。少し前にこの上階で、ベルの修羅たちを追い払ったのは記憶に新しい。あのボロボロの上階は一体どうなったのだろう、と思わないでもないが、薔薇十字のことだ。うまく処理したのだろう。


「ソー」


「ん、ローレル」


 や、と軽い調子で手を挙げ、合流する。ローレルはいつも通りのように穏やかに見えたが、ところどころに見え隠れするアナグラムから、隠し切れない動揺があることが伺えた。


「大丈夫だよ、安心して」


 総一郎は、考えるまでもなく微笑みかけていた。


「どうなるかは俺にも分からないけど、何とかして見せる。やっとここまでこぎつけたんだ。とっくに下したヒイラギの茶々なんかで、つまずいたりしないよ」


「……はい。ソーがそう言ってくれるのなら、私は信じます」


 ふ、とローレルは口端を綻ばせ、肩の力を抜いた。それから、良い意味で緊張感を保ちながら歩き出す。


「こちらです。便宜上追放という形を取られてはいますが、ソーを案内するのは私の役目だと指示されています。道すがら、最終的な段取りを決めましょう」


「そうだね。確認だけど、薔薇十字団の目的は、ARFのリーダーに俺を就任させること、だっけ?」


「はい。それが叶わなかった場合の次善策として、薔薇十字のARF脱退が提示されています」


「善意的な見方をすれば、自分からトカゲの尻尾きりを提案しているように取れなくもないけどね。ヒイラギの監視がある前提で、確かな意図を探る必要がある。厄介な敵だよ本当に」


 身の回りの邪神は、一人で十分だね。一人でも不要です。と冗談を交わしながら、総一郎たちはエレベーターに乗り込んだ。自動で開いて自動で階を選択し移動を始める様は、便利な反面、何処までこちらの情報を掴んで処理しているのかと思うと、ゾッとしない。


「ローレル、現状確定しているヒイラギの言動というか、行動目的は何?」


「『ソーのお蔭で心を入れ替えることが出来たから、その恩返しをすること』です。アナグラム処理でくぐもった声から割り出した情報ですので、実際の言葉というよりはヒイラギの真意に近いモノと解釈しても構いません」


「恩返し、ねぇ。それが真意と言われても、信じがたいとしか思えないけど」


 これがローレルの言葉でなければ、一蹴していたかもしれないほどだ。だが、総一郎はローレルの作り出した“アナグラム0”を目の当たりにしている。完全に総一郎にとって都合のいいように、たった一瞬とて、世界を塗り替えたのだ。天才カバリストと言われるのも納得の所業である。


 そんなことをしてのけたローレルが断言する以上、総一郎はそれ信じるのみだ。故に、考える。


 ヒイラギは心を入れ替え、そしてその恩返しを総一郎にしようとしている。まっすぐに考えれば、その恩返しとしてARFのトップに就かせようとしている、と解釈できなくもない。


 だが、そんなまっとうな目で、今更ヒイラギというナイ以上に歪んだ無貌の神を見られるものか。


 チーン、と到着音が響き、エレベーターの扉が開いた。すると総勢四人のカバリスト達が、総一郎に腰を折って出迎える。


「よくぞいらっしゃいました、救世主様。こちらへ」


 言って一番に歩き出したのは、ギルだ。再会してから、何をどこまで考えているのかいまだに掴めない、かつて総一郎をイジメた人物。その恨みは、風化することはない。


 だが、私情を挟まず問題に向き合うと決めている以上、総一郎はその背中を睨みつけるにとどめた。ギルに続き客間に入り、促されソファに腰かける。そしてその隣にローレルが座ろうとしたとき、彼は言った。


「すまない、シルヴェスター。席を外して貰えないか? この席では、少し踏み込んだ話をする。ともすれば、君の身の危険になり得るような話題だ」


 ギルからの指示に、ローレルはむっとして言い返す。


「話が違います。私は同席しても問題なかったはず。それに、ソーの危険は私の危険です。同席させていただきます」


「事情が変わったんだ、シルヴェスター。依然として救世主様一人ならばどうとでもなるような危険だが、君に矛先が向く可能性が懸念されている。君は救世主様に並んで薔薇十字にとって重要度が高い。これは指示ではなく命令だ。席を外したまえよ」


 ぴく、とローレルは眉を反応させる。彼女の周囲でアナグラムが変動するのを見て、恐らく卓越した説得力でもって同席を許可させるつもりだろうと推測で来た。


 だから総一郎は、それを止めた。


「ローレル、俺からも頼むよ。知らない方がいいことはあるんだ。せっかくここだけで危険を押し留めてくれるっていうのなら、その方がいい」


「……ソー」


 ローレルは寂しそうに下唇を噛んで「分かりました……」と踵を返した。総一郎はそのトボトボとした後ろ姿に手を伸ばしかけ、理性で押さえ込み、それからソファに腰を下ろす。


 ギルたちも、それに続いた。ギルは総一郎から低い長机を挟んだ向かいのソファに腰かけ、彼を除く三人のカバリスト達は、ギルの座るソファの後ろに直立した。


「シルヴェスターを抑え込んでくれてありがとうございます。彼女が本気で意思を通そうとしたら、抗える実力者はいませんから」


 開口一番、ギルはどういう訳か妙にかしこまった英語で話しかけてきた。総一郎はギルのアナグラムを計算しながら、「俺にとってもローレルの安全は大事だからね」と受け流す。


 ギルは、さらに上っ面で会話を続ける。


「それにしても、最近、暑くなってきましたね。UKではここまでの暑さは珍しかったですから、少し堪えます」


 穏やかそうに目を細めての、世間話。総一郎はギルの意図を汲み切れないもどかしさを抱きながら、「そうだね」と返す。


「UKは、涼しい国だった。雨もパラつく程度だったね。アーカムは雨期になると雨が酷くって。けどすぐに乾くから、傘を差すのは面倒なんだよね」


「ええ、そうですね。UKよりいくらか強い雨でしたが、傘を差さないのはどこも同じなんだと思いました」


 はは、と笑いあう。それから、電脳魔術で解散していたカバラの計算結果を確認した。ここまでの会話に、意図などない。ならば、もういいだろう。


「ギル、ヒイラギについたそうだね。俺は今、君らを皆殺しにすることを選択肢に入れているんたけど」


「冗談が上手いね、イチ。君が人間を殺せないのは知っているよ。まぁそうカッカしないで、リラックスして話そうじゃないか」


 ギルはいつもの皮肉たっぷりな調子に戻って、指を鳴らした。同時、給仕ロボットが、静かに両者が挟むテーブルのサイドにやってきて、紅茶を置いて去っていく。ギルはマイペースにカップに手を付けて、一啜りした。


「アールグレイを用意したんだ。特注の、素晴らしい逸品だよ」


「結構だよ。それで? 一体全体、何が目的で離反だのなんだのと言いだしたんだ?」


「お察しの通り、ヒイラギ関連だ。見くびっていたよ。こちらから触れず、狂気にさえ陥らなければいいと高をくくっていた。特に、君が無力化した分侮っていたね。そういう問題じゃあなかった。僕らは、あの時、暴力的に追い返すべきだったんだ」


 また、ギルは紅茶を一啜りする。総一郎は「もったいぶるじゃないか」と続く言葉を待った。


 ギルは、そっとカップをソーサーに置く。それから、切り出した。


「今ね、僕らは脅されているんだ。ヒイラギの“善意”を僕らに向けないで欲しいと懇願する形で、彼女に協力せざるを得ないでいる。『イチをARFのトップにつけよう、でなければ薔薇十字はARFから離反だ』というのはその一環さ」


「……それを提案したのは?」


「僕らだよ。ヒイラギの荒唐無稽な“恩返し”を、悪影響の限りなく少ない形に変更したんだ。感謝しておくれよ? 実際、恐らく君は、僕らが迫るまでもなくその地位につきつつあるしね。大義名分にもなるんじゃないかい?」


 なるほど、と総一郎は納得する。流石、ローレルの読みはほぼ当たりだったという訳だ。ならば、この提案には乗っておくべきか。総一郎は肩を竦めて弱めの肯定を示す。


「なら、ARFのトップにつこう。それでいいんだろ、ギル」


「ああ。ひとまずヒイラギも満足するだろうさ」


 ひとまずは、ね。そう、含みを持たせて言うギルに、根幹となる問題は何も解決していないのだ、と総一郎は理解した。


 そこで総一郎は、ギルの勧めるアールグレイに手を伸ばした。口をつけると、意外そうにギルは総一郎を見てくる。総一郎は、皮肉っぽく笑いかけた。


「確かに、美味しい紅茶だ。俺に味の違いなんて分からないけれどね」


「……はは。それは、よかった」


 ギルは俯き、唇を引き締める。それから、二度首を横に振った。そして彼は顔を上げる。そこにはもう、飄々とした、どこか嘲るような笑みはなかった。


「イチ、助けてくれないかい。僕らは奴の監視下にある。対抗手段は全て封殺され、自力ではもうどうしようもないんだ。調子の良い事だと思うかもしれないが、僕らは結局、最後には君を頼るしかないんだ」


 ギルは言いながら、メモ帳を取り出し、さらさらと何かを書き出した。そして、総一郎に見せてくる。


『打開策はすでにある。君に迷惑はかけない。だが、この場は乗った振りをしてほしい』


「……」


『まずは抵抗を示してくれ。案ずるな。君は素直に振る舞えばいい。このメモも、ヒイラギに察知されないやり方で書いている。対策は万全だ』


 総一郎は、意識を耳にだけ集めようと目を瞑った。状況が状況だからだろうか、数年前に、地獄を這いずった記憶が蘇った。


 今でもそれは、嫌気がさすくらい鮮明だった。人殺しを覚え、苦しみにくれ、人間性の半ばを犠牲に修羅を芽生えさせた。総一郎は、カバラでも抑えきれなかった右手の震えを、左手で覆い隠す。


 ―――ちょうどいい。これなら、都合よく泥のような感情のこもった言葉を吐ける。


「なら」


 声が震える。総一郎はメモを指さし、その指で丸を作って、感情に溢れた恨みつらみをぶちまけた。


「なら最初の時から、直接俺に『あの差別主義で染まったクソ貴族たち皆殺しにする手伝いをしてほしい』って頼めばよかったじゃないか。何で、あんな、俺を追い詰めるようなやり方を取ったんだ」


「それしかなかった。君の背後には、無貌の神と、彼女らの言う『祝福されし子どもたち』――ファーガス・グリンダ―がいた。君を説き伏せて引き入れる訳にはいかなかったんだ。そうすれば薔薇十字の中に狂気が蔓延し、そして正義ぶったグリンダーに薙ぎ払われることは分かっていた」


「……そう」


 総一郎は一拍おいて、表情を怒りにゆがめた。


「よくその口で、俺の前で、ファーガスのことを貶めることが出来たな。正義ぶった、だと? そっくりそのままお前に言ってやるよ、ギル。お前らは最低の組織だ。正義に驕り高ぶった、非道で、冷酷な、人でなしの集まりだ」


「――そう言われることは、分かっていたよ、イチ」


 総一郎は、立ち上がる。目を剥いてギルを睨みつけながら、言い放つ。


「そうだろうさ。お前は、俺を挑発して、ここで鬱憤を晴らさせて遺恨をなくそうとしているんだ。これから“うまく”やって行くためにね。ああ、効果的だよ」


 総一郎の言葉は止まらない。いいだろう。アナグラムに従って、吐き出してやろうじゃないか。


「何せカバラは人の感情をも数値化して計算する。俺がこうやって怒って、喚き散らして、そこまですべて計算通りなんだろう? 分かってるさ。俺だってお前らの力がなければ困るんだ。やり切れない気持ちを発散する機会を設けてくれてありがとう! これでお互い、手を取り合ってやって行けるね!」


 総一郎はそこまで言い切って、歯を食いしばった。ソファに腰を落とし、髪をかきむしりながらギルのメモを奪い取る。


「……君らは、人間じゃないよ。機械か、さもなきゃ虫だ。どうしてそこまで、感情を捨てられるんだ?」


『これでいいね? 本題を切り出しなよ』


 メモを返す。ギルは総一郎のメモの上から、ぐるりと大きく丸を書いて見せてきた。総一郎は息を大きく吸って、荒れ狂う感情ごと吐きだす。そして悟った。


 どれだけギルを恨んでも、どれだけ薔薇十字を憎んでも、きっと空回りで終わるのだろう。この場で吐きだした総一郎の憎悪すら、ヒイラギを騙すための、目的を果たすための茶番として消化された。そしてそれを、総一郎はいともたやすく受け入れた。


 奴らもそうだが、総一郎も、どこまでも狂いきれないのだと思った。それが心底嫌になって、ぶるぶると震える。ここで荒ぶる気持ちに従って暴れられたなら。だが、きっとそれは出来ない。出来るなら、ウッドなど生まれなかった。


 もういい、と諦めるような一言を吐き捨てて、総一郎は本題に入ろうとした。だが、意外にもギルは、それを遮った。


「そう、お思いですか」


 その声に、総一郎は顔を上げた。ギルの切なげに歪んだ顔に、呆然とした。


 しかし不思議と、初めて見たような気がしなかったのだ。何度かこんな顔を見たことがあるというデジャビュが、総一郎の感覚としてそこにあった。


「……ギル、君は」


「――すまない。君が取り乱すものだから、こちらも当てられて感傷的な気持ちになってしまったようだ。こんなものには意味がない。本題に入ろう、イチ。君は――僕らに同情なんて、すべきじゃないんだ」


 饒舌に、ギルは話題を切り替えた。総一郎は、口を噤む。それから一秒にも満たない身近な時間だけ目を伏せて、「ああ、そうだね。本題に入ろう」と同意した。


「助けてくれ、ってことだったけど、要するに何を求められてるのかな、俺は」


「何てことはないさ。ヒイラギは今、準備段階にある。その準備が完了する前に、奴を見つけて、殺す。それだけのことだよ」


 総一郎は、む、と口を尖らせる。


「君は、俺が人を殺せないってことを分かっていたじゃないか」


 手を差しだす。ギルは分かり切っていたかのように、スムーズにメモを差し出した。総一郎は記す。


『声に出した会話は聞かれている想定だったけど、違うの? こんなこと言っても、警戒させるだけじゃ?』


 メモを返す。ギルは、メモを記しながらこう答える。


「ああ、すまない。言葉足らずだった。つまり、君に限らず、君率いるARFで、ということだよ。無論、かの神話体系に最も触れ、そして耐性があるのは君だ。君がヒイラギを殺すのが、一番安全とは思うけれどね」


『それが目的なのさ。君をヒイラギに警戒させ、ひいては強く恐怖させる。それが今打つべき布石だ』


 出来ないことは仕方がない。と皮肉っぽく、ギルは首を振る。総一郎右口端のみを吊り上げて、「そりゃ寛大だね」と皮肉を返した。事態の詳しい内容は分からないが、それが真の狙いだというのならばこれで問題ないだろう。総一郎は具体的な話に踏み込む。


「分かった。なら、いくつか考えてみようと思う。ARFの調査能力はかなり高いから、そう時間はかからないかな」


『本当は?』とギルからメモで聞かれる。『あんな神出鬼没邪神、簡単に見つけられれば世話ないよ』と総一郎は返答を書いて肩を竦めた。


 そこで、場の雰囲気が弛緩したのが分かった。無事目的を果たせたというところだろうか。それはそれとして、総一郎はリーダーとして念押しして確認せねばならないことがある。


「それで話は変わるけど、俺がARFのトップにつく、という形で合意したことだし、君らにはまた働いてもらえるんだよね?」


「それはもちろんだとも。身を粉にして働かせてもらうさ、救世主様?」


 総一郎は鼻を鳴らし、「上等だ。なら、アーリから指示が溜まってるはず。今すぐにでも取り掛かってくれ。その仕事、期限は残り四日しかないしね」と立ち上がる。


「おや、中々ハードなことになってしまったね。ヒイラギさえいなければ余裕のある仕事のはずだったんだが」


「その恨みは俺からぶつけておくよ。今日はこんなところで良いかな?」


「ああ、当面はこれでいい。では……そうだね。最後に僕から、君に一つお願いを伝えようか」


「何さ」


 ギルは瞳を鋭く細めて、言葉を紡ぐ。


「君が保護した、君に“つく”無貌の神だが、可能な限り見張っておいてくれ。最近、少し自由にさせてるだろう。彼女が活動すると、我々が扱えるアナグラムの範囲がその分丸々減ってしまう。それでなくとも、油断できない相手のはずだ。だろう?」


「……善処するよ」


「ああ、善処してくれ。やりにくくって仕方がない」


 心底面倒だ、という気持ちを示すように、ギルは溜息を吐きながら首を振った。それからさらに情報を追加してくる。


「特に、最近は妙な場面で彼女のアナグラムが残されているときがある。以前のように拘束しておくのが、僕らとしては良いと思うのだがね」


「それはそれは、随分なお言葉じゃないか。ボクに力が戻っていれば、ショックのあまり君たちを人間でなくしてしまったかもしれないね」


 悲しくって泣いてしまうよ、とわざとらしく泣きまねをするナイが、机の端に顔を出していた。薔薇十字団の面々は色めきだってナイから距離を取る。ギルも動揺を隠し切れていない。


 だが、総一郎は慣れたもの。苦笑しながら、軽く返した。


「ナイ、あんまり怖がらせないようにね。ま、今回のは俺の気が晴れたから許してあげよう」


「あは、総一郎君は優しいね。それに比べて君たちは、こんな幼気な子供を『前みたく拘束しておいた方が~』なんて、何て心無い人たちなんだろう。総一郎君の助けになると分かっていなければ、早々に排除してやったのに」


 ケタケタと狂気的な笑みをナイはギルたちに向けた。総一郎にはあまり向けられない類の笑みである。威嚇の色合いが強いそれ。イメージから反しない分驚きはないが、総一郎以外からすれば不気味だろう。


「何で、貴様がここに」


「貴様とは中々言ってくれるじゃないか、ギル君。ギルバート・ダリル・グレアム二世君。君の名前はいやに長いね。半分くらい削ってもいいかな?」


「ッ!」


 ギルの顔が蒼白になる。総一郎も、ナイの言う『名前を削る』がどういう事象なのかは分からないものの、激しいアナグラム変動を起こすとだけ理解して、制止した。


「ナイ、その辺で。ギル、君たちは可能な限り逃げ回っていたようだったから知らないだろうけど、ナイは“こんなもの”だよ。無貌の神としての異能がなくても、どうやってか神出鬼没に登場くらいはできるみたいなんだ。昔みたいに、それ自然なものとして周囲に受け入れさせることは出来ないみたいだけど」


「図書君の家に住めていたころは楽だったなぁ。総一郎君にもすぐに会えたしね♡」


 立ち上がり、ゆっくりと歩いてから、ナイはソファ越しに総一郎の背後から首のあたりに抱き着いてくる。それに、総一郎は癖のようにナイの腕の辺りをさすり返した。さりげなく親愛の情を交わす二人に、ギルは表情を渋く染め上げる。


「……イチ。君は、危機感が鈍っているんだ。その邪神は君の手にかかるのが望みだというじゃないか。なら、そうしてやればいい。さもなければ、きっといつか痛い目を見ることになる」


「あは! 矮小な人間がよくもまぁ知ったような口をきけるものだね。君らが普通の人間よりも先んじられるのはカバラのお蔭だよ? そのカバラを使えない相手についてどうこう言うのは、浅はかな思い込みと愚かな恐怖心でしかないじゃないか」


「イチ! そいつはヒイラギの同類だぞ! あの、我々薔薇十字をへ――――」


 ギルが何かを口走ろうとしたとき、誰よりも素早く動いたのは、薔薇十字団の構成員にして、ファーガスの後輩であったアンジェだった。彼女はギルの背後から握りこぶしを固めて素早く彼の頭を殴り飛ばす。ギルは悶絶して、それ以上のことを言葉に出来なかった。


「ふぅ、危ない危ない。禁止ワードですよ、ギル先輩。熱くなりすぎです。それに……ソウ先輩」


 アンジェは後輩面で総一郎に呼びかける。


「救世主たるあなたにこんな事を言うのはとぉおっても不敬とは理解しておりますが、言わせてください。――何邪神と一緒になって楽しんでんですか。目の前の喧嘩くらい止めてくださいよ、あんたリーダーになるんでしょ」


 率直にぐさりとやられ、総一郎は何も言えずに口端を引き結んだ。項垂れ、沈黙を挟んで「申し訳ない」と告げると、「謝罪は要りませんよ。アタシはあなたを叱れるような立場じゃない。どうせ薔薇十字団として動く外道ですんで」と飄々と躱される。


「……そうだね。では、ここは団長に代わって最年長の私が締めようか」


 続いて沈黙していたワイルドウッドが口を開くと、自然にその場が静かになった。よく練られたカバラの証だ。緩やかで自然につながるアナグラムは、カバリストの警戒を掻い潜って自分の都合のいい状況に至ることが出来る。


「一つ、我々薔薇十字がヒイラギの思惑を逸らすために提案した『救世主様をARFのトップに就任させる』という交渉は、合意を得た。である以上、我々は救世主様の意図通り、引き続き動くことも決まった。だが一つ、救世主様につく無貌の神、ナイについて、禍根を残す形となった」


「禍根だのって話は、君たちにとって明言するだけ損じゃない?」


「いいえ、救世主様。これは、言う必要があるのです」


 総一郎の苦言を、ワイルドウッドはにべもなく退ける。


「薔薇十字団の意向として常にあるのが、我々が至るべき最も大きな命題の一つに『滅びの回避』というものがある。アーカムを中心に起こる世界規模の大災害だ。救世主様も判断された通り、これは無貌の神の手によってもたらされる、という考えが主流とされる」


「今さら、ボクがそんな訳の分からないことをするとでも?」


「しないと我々が信じ切れると言うのかい。ヒイラギと君が敵対している、というのが事実だと我々がどう確かめることが出来る。救世主様が『君は味方だ』と言うから、などと盲目に信じられるのであれば、救世主様を地獄に落として彷徨わせるような方法は取らない」


 総一郎は、拳を握る。ナイはひどく冷めた目でワイルドウッドを見返した。


 しかし彼は、物怖じすることなく言い切った。


「邪神、君の言う通り、我々はか弱い人間なのだ。貧弱で、蒙昧で、君から見ればボウフラのような存在だろう。けれど今はどうだ。運命の悪戯か、曲がりなりにも我々と君は協力関係にある。分かるだろうか。我々が言いたいのは、たった一つなのだ」


 ――君からすれば神経質なほどに繊細な我々を、いたずらに弄ばないでくれ。


 その切実な訴えに、ナイはつまらなさそうに総一郎の肩の上で頬杖を突いた。ここで、総一郎は私情を捨ててナイを注意できればよかったのだろう。しかし総一郎の未熟な心は、ナイのその薔薇十字を軽んじる態度に、胸のすくような思いさえ抱いていた。


 故に、ワイルドウッドの言葉は正しかった。総一郎と薔薇十字の時点で禍根は残らざるを得なかったし、誰にもどうすることは出来なかった。解決したい望む者にはその能力がなく、解決する能力がある者には解決の意思がなかった。


 総一郎は「これで終わり?」と隅で立ち上がったギルに問いかける。彼は沈鬱な表情で「ああ、これが全てだよ」と髪を払い整えた。


「なら、今日はこれで失礼するよ。急ぎの用が片付いたら、またヒイラギ関連の打ち合わせをしよう。じゃあ」


 総一郎は一方的に告げて立ち上がった。ナイがそれに続き、部屋を出ると待ってくれていたらしいローレルが「大丈夫でしたか?」と出迎えてくれる。


「うん。少しいざこざはあったけど、大丈夫だよ」


「そうだね。あの程度の言い合い、児戯のようなものさ」


「いや何でナイがここに居るんですか」


「忍び込んじゃった♪」


「た♪ じゃないですよ、た♪ じゃ」


 声色朗らかにローレルとナイが会話を交わす横で、総一郎は閉まりゆく扉の隙間から、薔薇十字団の面々に振り返った。小さな隙間の奥にいた彼らは、まんじりともせずナイを見つめていた。その瞳に宿るのは、恐怖、敵愾心。


 いやな予感がした。その瞬間にアナグラムの計算に取り掛かれていればよかったのかもしれない。だが、総一郎は短絡的な意趣返しの成功に、鼻を鳴らすのみだった。


「ひとまずこれで、Jとアーリの急務は目途が立ったってところかな。次は、シェリルの手伝いをしなきゃ」


 総一郎は次にすべきことに忙殺され、悠長なことを考えている暇などなかった。すべきことを電脳魔術のノート機能にまとめながら、前方で待ってくれていた二人に追いつく。


 白羽の告げた苦境は、すでに足跡を響かせていたというのに。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 登場人物にそれぞれちゃんと個性があること、ストーリーに無理矢理な展開や矛盾がないことかな。よくありがちなそんな都合良く進む訳ないって展開がない。それだけ話を作るが巧いって感じがする。 [気…
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