8話 大きくなったな、総一郎35
アーカムで真正面から総一郎に対抗しうるのは、恐らくたった二人だ。
一人は、リッジウェイ警部。彼はまだ何か手を隠している、復讐の鬼の皮を被った死にたがりだ。とっくに彼は止まれなくて、止めてくれる誰かを求めている。
そしてもう一人は、総一郎の眼前に立つ彼女だ。ベル。UKに居た頃、総一郎が唯一格上と認めた天才。戦略上ならばローレルに一歩譲るが、それでも戦術上でならば、きっとベルは総一郎すら翻弄する。
そんな彼女が、『能力者』ですらないのに、『能力者』であるファーガスが作り上げた武器を握っているのだ。
反則だろう、というのが、総一郎の偽らざる本音だった。
「―――ッ!」
ベルがファーガスの剣を掲げるだけで、膨大な量のアナグラムが変動した。それは普通のカバリストが見たら、おぞましさに吐き気さえ催すだろう光景だ。総一郎とて、脳が理解を拒んでいるのが分かる。
「ソウ、安心して」
泣き笑いしながら、ベルは総一郎に語り掛けてくる。
「痛みも苦しみも、無いことを約束するよ」
「何? 死刑宣告でもしに来たの?」
顔の強張った総一郎の皮肉に、ベルは構わず剣を振るった。グレゴリーがいつかウッドに向かって放った『ビッグウェーブ』に匹敵する衝撃を予感する。きっと『灰』すら意味はない。それが、『能力者』というものだ。
だから、総一郎は『闇』魔法を彼女の剣に放った。そして加速の魔法術式で回避を図る。
単発の『闇』魔法で稼げたのは、四半秒ほどだった。けれどそれが、命運を分けた。
どことも分からない暗いばかりの広い空間を、衝撃が薙ぎ払った。グレゴリーの拳よろしく闇が払われる。そして地面も。総一郎はパラパラと髪の毛が数本舞うのに硬直しながら、視界一面に走る巨大な亀裂に表情を失う。
結論は変わらない。反則だ、こんなもの。
「避けないで。今のは運よく無傷だったけれど、腕を巻き込んだりしてしまったらひどい苦痛が君を襲うことになる。それは本意じゃないんだ。だから、お願いだよ……。苦しめたくないんだ……!」
涙をこぼしながら、ベルは苦しそうに言った。そこに秘められる罪悪感はいかほどか。総一郎は、息を吐いて相対する。
「俺は、君を恨んでないよ、ベル。特に俺たちと共に過ごした記憶のある君ならね」
総一郎が言うと、ベルはぶんぶんと首を振って否定する。
「違うんだ。“どっちも”なんだ。“私”は、君たちを裏切らせる予定で自らの分身を切り離した。そしてヒイラギとのつながりを忘れた“私”は、君たちを心底から仲間だと思っていたんだ。だから『私』は、私は……!」
涙でぐしゃぐしゃになる顔をベルは袖で拭い拭いしてから、また剣を振るう。その予備動作のない攻撃に、総一郎は膨大なアナグラム変動から先んじて避けるばかり。それですら衝撃がかすって服の端を綻ばせてしまうのだから、勝負として成立していないと深く思う。
「ごめんね、本当に、ほんとうにごめんね。こんな事で許されるなんて決して思っていないけれど、でも、せめて君を、苦しみなく、この世から逃がしてあげようって」
「――ッ」
だが、その一言が総一郎の逆鱗に触れた。
総一郎は一連の加速術式でベルに肉薄する。剣での薙ぎ払いで接近が難しいが、ジグザグに宙を駆ければ、彼女から数メートルの空中に躍り出ることくらいできる。
「誰が、逃がして欲しいなんて言った」
木刀を持たない左手で拳銃を抜き、構える。そこに込められる弾丸は恐怖。フィアーバレットは現代最高の不殺武器であるが故に。
「俺は、逃げちゃあいけないんだよ。君の勝手な決めつけで、勝手に死んでいい人間じゃあないんだ!」
「でも! 償いようがないじゃないか! 私だって、君だって!」
吐き出された弾丸を、空気ごと剣が薙ぎ払う。総一郎は魔法で体勢を急旋回させて紙一重で回避した。そのまま猫のように身を捻って着地し、再び銃口をベルへと向ける。
「そうだ! 償いようがないんだよ! だから生きるんじゃないか! 償いきれない罪を償うには、自殺なんかじゃあ足りないんだ! 君のせいで俺は死にかけた! Jは危うく無理心中させられるところだったし、シェリルはぼろ雑巾同然に拷問されたし、白ねぇだってあのままじゃ無事では済まなかった!」
総一郎がベルの罪を指摘すると、彼女の剣を握る手が震えた。修羅の小さな異形がベルの肌を泳ぐ。動揺が彼女の体に明確な悪影響をもたらしている。その隙に、総一郎は駆け寄っていった。
「でも、そんな償いきれない事を償って欲しいなんて、俺たちは今更思ってないんだよ! 危うい状況だったけど乗り切れたのが今なんだ! そしてもし乗り切れなかったとして、それで死んだのならもう、どうしようもないんだ!」
――人は、蘇らせちゃならないんだから。
総一郎は叫びながら、火魔法をベルに飛ばす。ベルはそれを、右手の弓矢機構で迎撃した。器用だねまったく、と総一郎は歯噛みしながら彼女の才能を睨みつける。
けれど、ベルは一層苦しげだった。えずきながら、彼女は言葉を吐き出す。
「蘇るよ! 蘇るって、ヒイラギは言ったんだ! だから私は、ファーガスにまた一目、一目会えるって、あの日のことを、謝れるって……!」
ベルは高く剣を掲げる。すると、そこに暗がりが、情報を遮る闇が集まっていくように見えた。ファーガスの剣が色濃い漆黒に変わり始める。
そして、ベルは言った。
「だからって、君を、君たちを犠牲にしていいはずなんてなかったのに……!」
剣が、振り下ろされる。視界を覆うほどの迫りくるどす黒い塊に、総一郎は『これが絶望か』と身震いするようだった。出来ることと言ったら、破れかぶれに『闇』魔法をありったけに増やしてぶつけることくらいだ。
すると連続する球の激突に、ベルの剣筋は見るからに鈍った。そうか、と総一郎は『闇』魔法の運用方法を少しずつ理解し始める。この『能力』の強みは、数なのか。
となれば、と総一郎は『闇』魔法を、百を超えて周囲に展開し、それらを都合よくベルの剣に纏わりつかせる形で封じ込めた。ベルは随分と動かしにくくなったらしく、「ソウ、お願いだよ……! 私に、少しでも償わせてよ……!」と声を絞り出す。
「望んでない償いを押し付けるのが、そもそもNGだって気づいて欲しいところだね。ともかく、これでもうそのズルは禁止だよ。正面から、ぶつかってきてもらおうか」
ただでさえ三重にベルを殺せない理由がある中で、『能力者』の『能力』ばかりを振るわれるなど絶望でしかない。だが、これで対等と言わずとも勝負になるラインには至れたはずだ、と総一郎は安堵に息を落とす。
「……私は、苦しめたくないんだよ。何で、分かってくれないんだ……?」
言いながら、ベルはファーガスの剣を手放した。そして、右手を振るう。すると弓の機構が拡張され、より禍々しくなった。構えつがえるは修羅の矢。当てた相手を内側から侵食し食い荒らす、恐ろしき武器。
対抗すべく総一郎も拳銃を構える。フィアーバレットは、きっと一撃でベルを無力化するだろう。要は、たった一撃で決着のつく勝負だ。こんなにヒリヒリする戦闘は久々だ、と総一郎は自身に余裕ぶりながら冷や汗を流す。
「フー……」
深く、息を吐きだす。左手に拳銃を握り、右手の木刀を背中に預け、姿勢を可能な限り低くした。ベルもまた、弓をキリキリと音がするほどに強く引く。
睨み合い。膠着。空気が、痛いほどに張り詰めている。鋭敏にとぎ進まされていく感覚は、まるでベルの呼吸すら聞こえるようだ。そして、恐らくはベルも同じ感覚を抱いている。
巡り巡る血液に、空間識別能力が高まっていくのが分かる。何なら、頭に血が巡りすぎて眩暈すら覚えそうだった。心臓は早鐘となり、足の筋肉はバネ同然に反動エネルギーを貯め込み、ベルの弓の弦同然に総一郎の全身もキリキリと張り詰めて。
今だ。
総一郎は駆け出した。何もかもを置いてけぼりにして、魔法を使って自らを空中に射出する。すかさず飛び来る修羅の矢は木刀で打ち払う。そして拳銃を構え、発砲した。
だがベルは、すでに次の矢をつがえていた。寸分たがわぬ修羅の矢の狙いは、総一郎のフィアーバレットとぶつかり合って落下する。ならば、次はこうだ。
総一郎は風魔法で自らの進行方向を操作して、ついにベルに肉薄した。木刀で切りかかると、彼女は弓の機構で受け止める。そして受け流される。その思わぬ近接戦闘の巧みさに舌を巻きながら返す太刀を浴びせようとしたときには、すでにベルは矢の切っ先を総一郎の眼前に向けていた。
「さようなら、ソウ。君の死に祝福あれ」
「そう簡単に逃げる気はないって、言ったじゃないか!」
眼前に迫る修羅の矢を、後ろに飛び退りながら木刀で切り伏せる。修羅の矢は自律的に木刀を避けようとするが遅い。桃の木刀の破魔の力に触れられ、修羅は形を保てず溶け落ちる。
だが、ベルの修羅の矢は連続で襲い来た。ベルは空いた左手で弓の機構をさらに拡張し、一秒間に五本のペースで総一郎へと矢を放つ。
「エグイ真似するねッ!」
必死になって切り払い続けながら、総一郎は後退を続けた。ベルの猛攻の激しさに拳銃をしまい、両手で素早く矢を捌くしかない。
防戦一方だった。総一郎は息せき切りながら、ベルにまた問いかける。
「君はッ、本当に俺を殺して償いになると思ってるのか!」
「だって、君はずっと死にたがっているじゃないか! 学園の時からそうだった! 君はどんどん追い込まれて行って、ファーガスを前に酷く苦しそうで、見ているこっちが苦しいくらいで、ファーガスだってずっと辛そうで」
ファーガス、とベルは想い人の名を零す。もはやこの世にいない彼の名を。二度と取り戻してはならない死者の名を。総一郎はギリと歯を食いしばり、反論する。
「だけど、死は逃げだ! 俺が自分の自己満足のために死んだとき、そのことを悲しんでしまう人が居る! 俺が死のうとしたって、何度だって止めるって豪語する人が居る! そんな相手を残して、悲しみを押し付けて、逃げられるわけがないじゃないか!」
「逃げたっていいだろう!? 私だって逃げたい! ファーガスのいないこの世から! ヒイラギに支配される今から!」
ベルは、弓の狙いを総一郎よりも上に向けるようになった。そして、一度に三本の矢を放つ。するとその矢は弧を描いて、まるで雨のように絶え間なく総一郎を追い込むようになる。
「でも、私は逃げられないから……! だから、代わりに、逃げて欲しいんだ。君が逃げてくれれば、それだけで、私も少し逃げられたような気持になれるから。だから」
ベルは雨あられと矢を総一郎の頭上から降らしながら、その隙を縫ってひときわ大きな修羅の矢をつがえた。それはまっすぐ総一郎を狙う。ベルは、いっそ懇願するように問いかけた。
「私の分も、死んでくれないかな?」
ベルの眼からあふれ出る涙は、修羅の歪んだ皮膚の上に川を作っていた。総一郎は、鋭く息を吐きだして、言う。
「ごめんだね。俺は逃げない。そして君の事だって逃がしはしない。修羅が敵にいるなんて悪夢だからね。無力化して連れて帰ってやるさ」
「無力化なんて、出来ないよ。私にだって制御できないんだ。言うことを聞いてくれるのは、こうやって誰かを殺そうとするときだけ……」
ベルの弓から、ひときわ大きな矢が放たれた。総一郎はそれに突きを繰り出す。だが、今回遅かったのは総一郎だったらしい。体積を増して、より自律性を増した修羅の矢は、総一郎の木刀の軌道を予期してあまりに器用に避けて見せる。
そして総一郎の隙を突くように、空中をうねり何度だって襲い来るのだ。まるでNCRのように厄介なそれに、総一郎は木刀を振るっては紙一重で避けるのを繰り返す。
「逃げたいよ、私は! でも、無理なんだ。君たちだけじゃない。ずっと、私の中で私を責め立てる声が聞こえるんだ。私は大勢のカバリストを殺してきたから。殺したカバリストのすべてを、修羅に染め上げてきたから」
ベルはそう呟き、また巨大な修羅の矢を生成し始める。その影響か、修羅に歪む肌がうぞうぞと蠢く様は、まるで体を常に這い回る寄生虫でもいるかのようだ。
そんな、泣き言を言いながらこちらに狙いを定めるベルに、総一郎は一喝してやる。
「だから、逃がさないって言ったじゃないか。向き合えよ。受け入れるんだよ。それが本当の意味での償いの第一歩のはずだ」
総一郎の厳しい物言いに、ベルは両耳を押さえて首を振った。時間的猶予の確保と共に、精神を揺さぶる言葉の効力を実感する。
「苦しいよッ! 無理だよ……! それに、一歩を踏み出したからってどうするって言うんだッ! 償いきれない罪を、どう償い切ればいい! 分からないよッ! 私には、分からないよ……ッ」
「なら、一緒に考えて行けばいい! 一緒に苦しむくらいなら、俺にだってできる!」
自律的に総一郎をつけ狙う大きな矢は、ベルのアナグラム演算能力を一部受け継いでいるのか、木刀の迎撃を面白いように避け続けた。とはいえそれでも修羅の一部でしかない。総一郎が電脳魔術で高速演算すれば、その回避にも追いつける。
だがやっとの思いで大きな修羅の矢を打ち払ったかと思えば、ベルはまたひときわ大きな修羅の矢をつがえているのだ。今度は、二本も。総一郎は、じり貧になりつつある現状を理解する。
総一郎は、再び構えを作りながら、ベルを説得するのに必要な二つの要素をまとめ上げる。一つはベルの頑なな心の壁。そしてもう一つは、ベルの修羅の制御だ。
出来るか、と思う。それから、やるしかないのだと思い直した。ベルとの戦闘は、十分に死の危険がある緊迫したものだ。それを乗り越えるには、全力を尽くしてやり切るしかない。
となれば、まず心の壁を取り払おう。遠くで怒鳴り合っていてはずっと平行線だ。彼女の立場に寄り添って語らうなら、まず実際の距離から縮めねば。
ベルが反応してくれるようにアナグラムを調整しながら、総一郎は自分の主張を整理し始める。想起するはヒルディスとヴィー、そしてリッジウェイ警部。復讐の連鎖を止められない彼らの、地獄めいた状況。それは、総一郎にも理解しうるものだ。
そこでベルは、泣き叫んだ。
「一緒に苦しんだからってどうなるって言うんだ! どこまでも苦しいままじゃないか! 償いきれないものを償おうとして、自分を何度も呪って! ……私なんて、死ねばいいよ。でもこの修羅の体は、そうやすやすと死を許してはくれないんだ」
ベルの構える大きな修羅の矢は、弓の機構につがえられ、ギリギリまで引かれている。そこで行われている完璧に近いアナグラム合わせに、総一郎は今からの計算では追いつけまい。
つまり、通常のやり方では必中という事だ。ここで勝負を決めに来ている。ならば、総一郎の活路はカバラが計算できない方法に頼ることだけ。
矢が、放たれた。総一郎は自らに、素早く『灰』を刻む。
次いで駆け出した。修羅の大きな矢は総一郎をすり抜ける。ベルはそのことに瞠目してから、総一郎を強く、しかし悲しげに睨みつけて、「それは、ズルだ」と泣き顔に表情を歪めて言った。一方総一郎は、平気で反駁だ。
「ファーガスの剣を使ってた君からズルだなんて、言われたくないもんだね」
「違う、違うよ、ソウ。戦術的な無敵状態くらい、私は何度だって破ってきた。そうじゃないよ。そんなのズルだよ、ソウ。何でそんな、たった一人の人も殺したことがないような、毒気の抜けた顔が出来るの?」
ズルだよそんなの、とベルは言う。言いながら、頭を押さえ、苦しげにうめく。
すると、ベルの体に不思議なことが起こった。彼女の体にいくつもの口が浮かび上がり、大声で喚きだす。
『クリスタベル・アデラ・ダスティンッ! この裏切り者の異端者めッ!』『殺人狂が! その体に貴様の罪を嫌というほど刻んでくれる!』『よくも殺してくれましたねッ! 私の仲間を! 家族をッ! 許さない。絶対に許さない!』
ベルは歯を食いしばり、涙を滂沱のごとく垂れ流しながら、ブンブンと首を振る。
「私には、そんな顔できないよ。だって、ずっと響いてるんだ。この声が、この叫びが! 許されないんだよ私は! 決して許してなんてもらえないんだ! そうだろう!? ソウ、君だって同じだったじゃないか! 私と同じ罪悪感で一杯で、苦しそうな顔をしていて」
ズルだ、とベルの体から、修羅の矢が生えた。そして、弓を介さずに四方八方に飛散する。それはまるで爆弾めいた無差別攻撃。『灰』を身に纏って攻撃を掻い潜る総一郎には、届かない一撃。
だが決して無駄ではなかった。何故なら、総一郎は『灰』を吹き飛ばさなければ、ベルへ届き得る説得力を得られないがため。断続的に周囲にまき散らされるその意思を持った矢は、空中でなお総一郎に向かって戻ってくる。
「ズルだよ。それで君は、逃げずに、なんて言ってたの? とっくに君は逃げているじゃないか。私が逃がしてあげるまでもなく、たった一人で、楽になって……」
総一郎は『灰』をどう解除すべきかを考えつつ、必死に走りながら言い返す。
「なら、君もこの『灰』を書いてやろうか、ベル! こんなものまやかしだ! 吹けば飛ぶだけの甘い夢だ! 正真正銘の逃避だからこそ、醒めた時に辛くなるんだ! 醒めるたびに逃げられないんだって思うんだよ!」
ついにベルが手の届く距離に総一郎は至る。けれど周囲には飛散したベルの修羅がいた。彼女は注意深く総一郎を見つめている。ここで『灰』を解くのは、自殺行為だ。
だからこそ総一郎は『灰』を吹き飛ばす。心に自責が重く積み重なる。自分の過去の罪が目くるめく記憶に去来し、僅かに足が躊躇いを覚える。
「―――ッ」
ベルは再び目を剥いて、それから泣き笑いの顔になった。彼女の修羅が落ち着きを見せ始める。彼女は、言った。
「……本当だね、ソウ。君は、時折楽になれるからこそ、思い出しては、ずっと忘れられないままで居るんだね。――大丈夫、私が、君を楽にしてあげるから」
ベルは小さく指を折る。その合図をきっかけに、細かな修羅たちが一斉に総一郎に跳びかかった。総一郎にはもはや打開策などありはしない。ただ、“こう言えばベルが止まることを知っている”。
「ベル、俺はね、もう許されることを諦めたんだよ」
その一言に、ベルは表情を失った。修羅たちは主の命令を失って再び地面に落ちていく。ベルはキョトンとして、総一郎の顔を見上げていた。
「……それは、どういうこと?」
「そのままだよ。許されないことをした。俺は、俺ですら俺を許せない。俺の被害者のみんなだってそれは同じだ。可能な限り償うけれど、それでも絶対に償いきることなんてできない。だから、許されようとするのを、止めるんだ」
「償うのに、許されないで良いって、どういう事なんだ? 私には分からないよ、ソウ」
心底意味が理解できない、という顔で、ベルはふるふると首を振った。総一郎は、肩を落としてこう語る。
「俺はね、理想の死に方を探るのは諦めたんだよ。幸せに死んじゃならないんだ。苦しんで死ぬべきなんだ。だから、待つんだよ。俺が不幸にしてしまった誰かが、いつの日か俺に復讐に来るのを。俺を、死んだ方がマシだってくらいに苦しめて殺してやろうって人が、目の前に現れるのを」
ベルは、言葉を失っていた。理解が追い付かない、という顔で居たから、総一郎は自分の考えを詳細に伝え始める。
「償い切れないなら、償い切らなくていいって、そう思ったんだ。そうしていたらどうせ、誰かが償わせに来る。そしてその人が満足したのなら復讐を虚しいと感じたなら、それこそが償いなんだ。わざわざ俺たちから行く必要はない。見つけ出されて、追い立てられて、惨めに殺されて死ねばいい。だって、俺たちが俺たちを呪うまでもなく、きっと誰かが俺たちを呪ってる」
「……ソウ」
「俺たちは楽になっていいのかもって。幸せになっていいのかもって、思ったんだ。だって俺たちを苦しめる誰かがきっといるから。きっとその人は、俺たちが幸せであればあるほど復讐を遂げて満足するよ。だから俺たちがすべきは、たった一つだけ」
「復讐されるその日を、待つ……」
ベルの皮膚に浮き上がって喚きたてる口が、少しずつ小さくなって、沈んでいった。けれどそれは、無くなったのではないだろう。間違いなく、ベルの中で常に大合唱を奏でている。でも、それでいいのだ。それもまた、ベルが受け入れるべき復讐なのだから。
「そっか……。ソウ、君はそんな風に答えを出したんだね。なら、……私の出る幕はない。襲い掛かったりして、すまなかった」
「ううん。元はと言えば、俺たちがここに来たのがきっかけだから。でも、君からの理解を得られたからって、それで終わりじゃないんだよ、俺は」
総一郎がベルの手を取るべく自らの手を伸ばすと、彼女は沈鬱に俯いて、力なく首を横に振る。
「それは、出来ない。もしまたARFに戻って、裏切りを許してもらえるならどんなにいいかと思うけど――でも、ダメだ。出来ないよ」
「薔薇十字団なら、現状君という脅威さえ取り除かれれば文句はないはずだよ。それでも会いたくないなら、そう取り計らってもらえるように俺から伝える。だから――」
「違う。違うんだよ。それもあるけど、それはほんの一要素でしかないんだ」
苦しげに間髪入れず否定するベルは、その瞬間「ぎ、」と首を跳ねさせた。限界まで傾けられた首は、ぷつぷつと亀裂が入るほどに引き伸ばされている。
「ほ、ほら……! こうい、こういう、事なんだよ。わた、私、わたししししし、が、君に殺意を向けなくなった、から。しゅら、修羅が、暴れて、とめ、とめら、ダメ、逃げ」
ベルの体が水疱めいて膨れ上がる。どこにそんな体積を有していたのかと問いたくなるほどに、瞬く間に彼女は肉の山になった。そしてそれは少しずつ奇妙な大型の人型を取り始めて、総一郎に覆いかぶさってくる。
『ダスティン一級指名手配犯。貴様を薔薇十字団総出で処刑することが決まった。逃げられるならば逃げたまえ。必ず捕まえ、殺してやる』『ファーガス殉死者の後を追いたいなら早く言えばよかったんだ。そしたらすぐにでも殺してやったのに』『殺してやるよこの異常者』『末代まで呪われよ! 神よ! この悪魔に災いを! 災いあれ! 災いあれ!』『お前、何人殺したのか自覚あるか? もう、三百を超えるんだぞ。その全てを、お前は、あんなおぞましい姿に』『死ねッ! 悪魔! 死ねぇええ!』
巨人の体表にはおぞましいほどの量の口が浮かび上がり、思い思いに呪いの言葉を吐き出していた。その中心で、ただ一人ベルだけが自由を奪われ「ごめんなさい……。償いますから、だから、だから……!」と泣いている。
「ベル」
それに、総一郎は問いかける。
「修羅、使えなくなってもいいなら、ひとまずその場からは助けられるよ」
ベルは、総一郎を見た。それから下唇を噛み、「私に、助かる権利なんてないよ」と泣き笑った。総一郎は、「うん」と頷く。
「そう言うと思ったんだ。だから、助けない形で、君の修羅を無力化するね」
総一郎は異次元袋から、仮面を取り出した。ウッドの面。かつて桃の木で作られたものとは別のもの。修羅であった頃のウッドの面。嗤う木面。すなわち、修羅の塊。
それを手に、総一郎は素早く修羅の巨人の懐に潜り込む。総一郎はベルと目を合わせて、こう言った。
「ウッドによろしく言っておいて」
総一郎は、ベルに木面を被せる。それはすかさずベルに張り付いて、彼女の中に溶け込んでいった。ベルは絶叫を上げ、修羅の巨人ごと暴れ出す。総一郎は、素早く退避だ。
「さて、どうなるかな」
観察しつつも、おおよその予想はついていた。暴れまわる修羅の巨人は、見境なく動き回り壁や床に激突する。その度に破片が飛び散り、動かなくなった。中で相当に暴れてるらしいね、と総一郎は眠る己自身に呆れる思いだ。
修羅はあらゆる全ての敵対者だ。それは修羅同士であっても同様。総一郎に潜り込んだベルの修羅もウッドが対処したように、今ウッドはベルの中の修羅を散々に叩きのめしているはずだ。
そうやって暴れまわるごとに一回り小さくなる巨人を見守っていると、数分としない内にベルは生身の体を地面に投げ出した。力なくうつぶせになるその姿は、酷くやつれている。
そこに総一郎は近寄って、肩を竦めながら声をかけた。
「気分はどう?」
「……最悪の気分だよ。ウッドが、私の中で私のことをボコボコに叩きのめすんだ。やっとのことで押さえつけたけど、もう動けない」
「ハハ。じゃあ目論見通り、無力化できたってところかな」
「あはは……そうだね。もう、指一本動かせないよ」
ぐったりした様子のベルの肩を担ぎ上げて、総一郎は歩きだす。「ヒイラギはこの先?」と尋ねると「彼女はとうに逃げ出したよ。この先は、もぬけの殻じゃないかな……」と。
そこで、「やっと見つけたよ、総一郎君」とナイが声を上げた。続いて「おう、やることやってんじゃねぇか、イチ」とグレゴリーが珍しく褒めてくる。
「よかった、これで脱出の目途もついたね。ひとまず目標は達成したし、このまま出ちゃおうか」
総一郎がベルに言うと、彼女は少し目を瞑った。それから、とても静かな声で、尋ねてくる。
「ねぇ、ソウ……。私も君みたいに答えを出せるかな。私はもう復讐者のほとんどを殺してしまったから、君の答えは当て嵌まらない。でも、それでも、苦しんで考え続ければ、答えは出せるかな……?」
総一郎は、笑った。
「君次第だよ、ベル。だから、今は逃げずに苦しむんだ。俺たちには、それがお似合いだよ」
そう言うと、ベルは口端を持ち上げて「うん」と頷いた。総一郎も、自分自身への一つの回答を得たのだと、軽い足取りでナイたちと合流する。