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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
自由なる大国にて
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8話 大きくなったな、総一郎34

 思わず、呆然としていた。


「おい、大丈夫か」


 グレゴリーが声をかけてきたから、総一郎は思わず口に人差し指を当て、“静かに”のジェスチャーを行った。それに、グレゴリーは「ハッ」と笑う。


「真っ先にルールを破ったのはお前だろうが。それに、ペナルティはもう下った。オレなら対処できる。オレを誘ったお前の判断は英断だったぞ、イチ」


 ルールを完全に無視して話し始めるグレゴリーに反応したのか、うぞうぞと肌色に蠢く物体がぼたぼたと天井から落ち始めた。それに、グレゴリーは拳を振りかぶる。


「オレが敵だった不運を恨め」


 どん、と腹の奥に響くような殴打音が響いた。しかし音の大きさに反して、その蠢く何かが派手に吹っ飛んだり、爆ぜたりという事はなかった。


 やはり、脱力したように薄く広がる。グレゴリーはそれを確認するまでもなく、他のルール違反に湧いた軟体生物を同じやり方で殴り始める。


 そうして、周囲のすべては無力化された。ナイは総一郎の腕を固く抱きしめながら「流石、自分の『能力』を理解し尽くした『祝福されし子どもたち』は恐ろしいね」とコメントを一つ。微かな震えが伝わってきて、総一郎としては深く共感するしかない。


「オレには、魔法も銃もないからな。その意味で、人殺しをしないで生きてこられたのは幸運だった」


 もふもふのグローブを撫でながら、グレゴリーはニッと口端をゆがめた。それから、「さて、そうなると、いくらか気は楽になるが」と考え始める。


「イチ、このままオレたちは上がり続ければいいのか?」


「いや、上がってきた階を数えるに、もう一階上がれば昔の俺の部屋があるはずだから、ひとまずそこで休憩しつつ作戦を練ろう」


「分かった」


 グレゴリーの先導に従って、総一郎たちは再び階段を上る。それから『魔法を使うな』と雑に書いてあるルールを無視して進み、「止まって」と総一郎はグレゴリーを呼び止めた。


「お前の昔の部屋が見つかったか」


「違う、逆だよ。どこにもない。ナイ、さっき言ってた異界化っていうのは」


「言葉の通りだよ。異なる世界に、マンション内を飲み込ませたんだ。特にこの闇は、君の目でも見通せないんじゃない? 総一郎君」


 総一郎が無言で頷くと、「やっぱりね。となると、その辺りの解釈ってどうなるのかな。全知全能と盲目白痴……。真反対過ぎて、何をどうしても比べようがないけれど」とナイは思わせぶりに呟いて、また考え始める。


「グレゴリー、どうしようもないしここで休憩を取ろう。そのまま作戦会議だ」


「分かった」


 恐ろしく切り替えの早いグレゴリーは、その場でドッカと腰を下ろした。総一郎もその様子を見習って、そっと座り込む。ナイは意気揚々と、ちょこんと総一郎の膝の上に腰を落ち着けた。


「まず、整理しよう。ここにベルと、ヒイラギがいるのは確定だ。けど、ねーねを破ってペナルティまで打ち払った。ヒイラギは逃げるだろうね」


「その推論なら、ベルちゃんの今後は二択にまで絞られるだろうね。つまり、ボディーガード兼おもちゃとして連れていかれるか、あるいは散々おもちゃにした残骸に総一郎君を襲わせるか」


「ムカつく話だな。そのヒイラギってのを強引に見つけ出して殴りつけたくなってくる」


 グレゴリーのボヤキに、総一郎は「出来るのであれば任せたいけどね。まだこの異界? がどういう場所なのかも分からない内はやめておこう。君がいかに強いとしても、賭けはしたくない」と諫める。


「……一理あるな。事実、日ごろのパトロールで、何度道に迷って助けられなかった経験をしたことか分からない。その意味で、オレよりも情報力が高いのはお前らだ。その辺りは信頼させてもらう」


 ぶっきらぼうな頼り方をしてくるグレゴリーに総一郎は苦笑気味に肩を竦めてから、「ナイ、君の意見を聞きたい」と肩口から彼女の顔を窺う。


「そうだね。まず……君たち、この場がどういう場所か分かってる?」


「ううん。何も見えなくて少し不安だな、くらい」


「何も分からんが、基本的に分かっていることの方が少ない。つまり、いつも通りだ」


 総一郎とグレゴリーのほとんど平静な態度に「良かった。君たちはそれでいいよ」とナイは皮肉気に言う。


「どういうことさ」


「知らないで良いよ。多分それが君たちの身を守ることになる。ボクから言うべきことは、そのくらいかな。君たちは君たちらしく、自信を持っているだけでいい」


「釈然としない言い方だな。はっきり言え、邪神」


 グレゴリーに睨まれ、ナイは両手を上げて「やめてほしいな。こんな幼気な子供を追いつて楽しいのかい?」と強張った顔で首を振る。外見だけの癖に、とは言わないでおく総一郎だ。


「ナイ、俺たちは自分のメンタルくらいならちゃんと制御できるよ。それより、敵の全体像を知った方がきっと解決策になる。君の頭が良いのは分かるけど、こっちだって『能力者』二人なんだ。頼っていい相手なはずだよ」


「……」


 心配そうに眉尻を垂れさせて、ナイは上から覗き込む総一郎を見上げた。それからグレゴリーの泰然とした態度を見て、「分かったよ。確かにこんな説明じゃ、状況の悪化はなくても脱出は出来ないしね」と肩の力を抜く。


「端的に言うなら、この闇は不観測なんだ。愛見ちゃんの天敵だね。この闇を見通すことは、誰にもできない。“見通せないもの”そのものなんだよ」


「確かに視界は暗いし、お前らの顔も随分ぼけちゃあいるが。それがどうかしたか?」


「要するにね、概念の話なのさ。闇は不観測。そして観測はそれだけで干渉だ。量子力学の二重スリット実験もそれを証明している」


「何だそりゃ」


 首を捻るグレゴリーに、総一郎は「簡単に言うなら、見てるか見てないかですら結果の変わる、とっても小さな粒の実験だよ」と伝えた。


「見られることだけで結果が変わるって何だ。そんな訳ないだろうが」


「ある、という話をしてるんだよ、グレゴリー君。君だって見られているときは、救助活動にもやる気が出るだろう? 逆に誰もいない時は少し気を抜いたりするんじゃないかな。全く関係ないように聞こえるかもしれないけれど、つまりそういう事なんだよ」


 ナイの難解な説明に、グレゴリーは首を捻っている。総一郎は「それで、闇は不観測で、観測は干渉。だからどうなるの?」とナイの説明の不十分な点を確認だ。


「うん。まぁだから、観測次第でどうにでもなるのさ、“これ”は。どうにでもなって、どうにもならない。祈った形に、そして畏れた形になるけれど、願った形には決してなってくれない。だから君たちのように『何も思っていない』状態が理想的なんだ。そしてそれを避けるために、ヒイラギはあんなルールを書いたんだろうね」


 説明するナイに、グレゴリーは「やはりよく分からんが、恐れず進め、ということで支障ないか?」と尋ねた。ナイは「そうだね。この説明を聞いてそう思えるのならよかったよ」と答える。


 一方、総一郎は納得できずムムムと口元に手を当てて考える。ナイは「本当に考えなくていいんだけど」と珍しく苦笑といった気まずげな顔を見せた。


「その意味で、グレゴリー君だけじゃなく、ボクを呼んだのも英断だと言わせてもらうよ、総一郎君。まともな人間の精神性だったら、一度入り込んだだけで二度と出ることは出来ないだろうからね。つまり、ボクら『無貌の神』の独壇場だ」


 言いながら、ナイは壁に手を触れた。それから目を瞑り、深呼吸する。すると、壁に波紋が広がり始めた。「ん、何してやがる」とグレゴリーがぶっきらぼうに問う。


「想像したのさ。願うのでなく、これが当然とね。うん、あんまりやってこなかった訓練だから少し時間がかかるけど、この調子なら十分に脱出できそう。ヒイラギを見つけることに専念してもらって良さそうだよ」


 自身は無力そのものだが、この自信たっぷりな感じはまったく励まされるものだ。「君を連れてきて正解だったって、俺も今まさに思ってるよ」とその頭をそっと撫でる。


「それで? そのヒイラギだが、どうやって探す」


 グレゴリーに訊かれ、総一郎は「第一目標はあくまでベルね。ちょっと待って」と電脳魔術とカバラで蓄積した情報を解析する。


「……なるほど」


 そして、一言。難しさに唸ってしまう。


「おい、自分一人で完結するな」


「いや、違うんだよ。ただどう伝えたものかなって考えててね」


 文句をつけるグレゴリーに訳を言いながらも、総一郎は表現を考える。そして、説明を始めた。


「端的に言うけど、今は分からない。実はここに入ってから魔法で情報は蓄積していたんだけど、俺に分かるのは『ここまでの道には居なかった』ってことだけだ」


「扉があっただろ。中には入ってないはずだが」


「それも魔法で確認したよ。で、それならすべての扉を魔法で精査すればいずれ見つかるだろう、っていう人海戦術めいた結論が出つつあるんだけど……」


 言いながら微妙な顔でナイを見ると、「その危惧は当たりだよ」と小さな邪神は肩を竦める。


「先ほども言った通り、この場所は異界と化してる。最上階を目指して一つ一つ、なんて方法は諦めた方がいい」


「ってところ。この闇めいたものがなければ魔法で一気に精査して、どんどん次に行くってことも出来るんだけど」


「つまり、この充満する闇に似た何かを吹き飛ばせばいいんだな?」


「え?」


「じゃあ、退いてろ。オレの前には決して出るな」


 その注意喚起に、ゾクッと総一郎の背筋に嫌な予感が走った。「ナイ」と多少強引に彼女の手を掴んで引き寄せる。そして、グレゴリーが拳を振るった。


「スモールウェーブ」


 闇が、凪がれた。


 総一郎はトラウマに酷く顔を緊張させ、ナイも目の当たりにしたのは初めてだったのか呆けた顔でその様子を見ていた。直後、全身にぶち当たる吹き抜ける風の奔流である。ナイが転ばないように、総一郎は片手で抱きしめ、片手で建物のヘリを固く掴んだ。


「そら、視界がはっきりした。これで精査も出来るんじゃないか」


「グレゴリー、君が今俺の味方で居てくれることを、俺は心から幸運だと思ったよ」


 総一郎の皮肉に「正当な評価だな」とグレゴリーは飄々と受け流した。それから、改めて総一郎は周囲を窺う。


 この周囲に、もはや闇など存在しなかった。ヘリの向こうには電灯で彩られた深夜のアーカムの街並みが広がっている。


「あは。滅茶苦茶だね、流石にヒイラギに同情せざるを得ないよ。というか、しっかりと『能力者』としての教育を受けた『祝福されし子どもたち』相手だと、多分ボクらなんか相手にならないんじゃないの? これ」


 ナイはドン引きしながら街並みを見つめていた。それから下や上を観察して「うん……?」と首を傾げた。


「じゃあ魔法で情報をかき集めるよ」


「待って、総一郎君。何か変」


「え?」


 ナイに言われ、総一郎は魔法の行使を中断する。後は物理魔術部分の詠唱を脳内でするだけ、というタイミングで、ナイは息をのんだ。


「総一郎君!」


 ナイが総一郎に手を伸ばす。グレゴリーも目を剥いてこちらに一歩踏み出してきた。何だ、と総一郎は呆気にとられるしかない。


 その理由は、刹那の後に理解させられた。


 総一郎の背後から、濃密な物質めいた闇の塊が噴き出していた。見れば、ちょうど総一郎の背後にあった扉が開いている。それは総一郎を包み込み、引きずり込もうとしていた。


「ッ」


 総一郎は『闇』魔法を行使して、闇の塊をバラバラにして回避した。しかし抵抗できたのは僅かな間。戻ってきた蔓延していた薄い闇が再び建物全体を覆い始め、手を伸ばすナイも、グレゴリーも、こちらに全力で走ってきているというのに遠ざかっていく。


 だが、総一郎とて修羅場の数々を乗り越えてきている。魔法で一連の飛行術式を展開すれば、遠ざかりゆく二人へと音速を超えて迫ることが出来る。


 重力魔法での体重軽減と物理魔術での体の射出。風魔法で空気抵抗をなくし、物理魔術でのエネルギー総量を増やせばどんな距離だって一瞬だ。


 そして、総一郎はナイとグレゴリーの下にまで戻ってくる。手を伸ばす。届く、とそう思った。


 そこで、人肌に蠢く何かが天井から降ってきた。それは総一郎の中に溶け込んで、このように謡う。


『ルール破っちゃダメなんだよ。おねーちゃんに、言っちゃおー』


 聞き覚えがある声だ、と思った。一拍おいて、総一郎はそれが、ベルの物であると理解した。


 それが、隙になった。総一郎の手と、ナイの指が、グレゴリーの手がすれ違う。僅か一ミリの距離が、一瞬の間に何万倍にまで膨れ上がる。二人がどうしようもなく遠ざかっていく。


 総一郎は、叫んだ。


「グレゴリー! ナイを、ナイを守ってあげて欲しい! ナイ! グレゴリーが迷わないように、道案内をしてあげて! 俺は、ベルを探して決着をつける! それから、また合流して、ここを脱出しよう!」


 小さくなりゆく声が、肯定を返してくれた気がした。そして、総一郎は地面を靴裏で強烈にこすりながら着地した。同時、一拍遅れて闇が阻害しきれなかった情報群が総一郎の中に飛び込んでくる。この闇の中の地図。ベルの居場所。ヒイラギの存在。


「参ったな。この状況は――ナイの説明に従うなら、ヒイラギの想像が反映されて分断されたってところか」


 閉口せざるを得ない。そして、再び闇の情報阻害が十全に戻った。一寸先すら照らさなければ見えない。光魔法で照らしてなお、周囲は暗がりの中だ。


「でも、道順は分かった」


 必要な工程だった。ひとまず大きいのは、ナイを一人にせずに済んだというところだ。グレゴリーが守りについてくれている。後は、総一郎が一人でどうにかなってしまわなければいい。


 この、何も見えない、闇の中で、一人。


「……不安になるのは当然だ」


 総一郎は、こういうとき自分の心に嘘をついてはならないことを知っている。ムキになればなるほど、心と頭で矛盾を起こし、辛さを抱え込むことになる。


 だから、不安なら不安で良いのだ、と自分に許すことで、体が緊張しすぎない状態を保った。歩き出す。それでも背筋に迫るぞわぞわとした感覚に、総一郎は言葉を発する。


「大丈夫。進むべき道は分かる」


 暗闇の中で廊下の端まで進み、階段を下っていく。先ほど魔法で判明させた道をそのままに進むのなら、二階下がるのでいい。そしてその次に、三つ目にある扉を開け、中に入るのだ。


「ここだね」


 総一郎はドアノブを捻り、扉を開いた。その先にあったのは、更なる廊下だ。総一郎は「斬新な設計だ」と一つ皮肉を言って、足を踏み出す。


 廊下をまっすぐに進む。静寂と闇が、ただあった。刺激のなさすぎる空間で、人間は発狂してしまうという。となれば、今この状態は総一郎が狂うには絶好の状況という訳だ。


「狂えたら、どんなにいいか」


 総一郎の苦しみは、正気であるが故だ。狂えれば、忘れられれば、楽になれることを知っている。そして楽になってはならないからこそ、狂えも、忘れも出来ないのだ。


 そんなことを考えている自分に、総一郎は首を振った。ナイの言葉の通り、冷静沈着に進むこと。それさえ守れば、総一郎はこの闇にどうにかされてしまう事は避けられるはずだ。


 だが、その廊下の突き当りに書かれていた新たなルールに、総一郎は嫌がおうにも思い出してしまう。


『Face sin』。和訳するなら「罪に向き合え」。


「……これ以上、どうやって向き合えばいいって言うんだ」


 総一郎は拳を固く握って、そのルールから目を背けて道順の通りに進んだ。再び扉を開く。その中は、以前ウッドとして住んでいた時同様に、部屋として成立していた。


 そして、その中で電磁ヴィジョンがチカチカと点灯していた。そこでは、過去のニュースが狂ったように同じところでリピートされている。


『見てください! あのおぞましい光景を。怪人ウッドの手による、大虐殺の様子です。警官らが必死に『ハッピーニューイヤー』の首を回収しようとしていますが、鳥の形をした火の魔法生物に阻まれ、上手く行っていない様子です。見てください! あのおぞましい光景――』


 総一郎の表情が、歪む。だが、総一郎はその光景から目を背けることも、自らに許すことが出来ない。一通り見て、やっと道を進む足を前に伸ばし始める。


 その部屋の、窓を開ければさらに大きな場所に出ると知っていた。だから窓ガラスを開けると、窓の先にあると思われたベランダはなく、アーカムの中心街の、思い出深い場所に出る。


 そして総一郎は、思い切り顔を歪めるのだ。


「ん? 何だ?」「え? ここ何処よ」「何だこれ? つーかおれ、何してたっけ」「あー、えっと、あ! そうだぼく、ウッドに襲われて」「あいつ通行人の首を奪って壁に貼り付けるとか訳わかんない行動を……」「え? 何? 何であんなところに道路があんのー?」「は? ここ何処だし。っていうか重力が横からかかる気がスンだけど、……ってか、え?」「わたしたち、壁から首が出てるの?」「体、動かないんだけど」「どういうことだよ! 責任者出せよ!」「は? 嘘、嘘だろ? 俺ウッドに首飛ばされたんだよな? 何で死んでねぇんだよ!」「はぁ!? はぁ!? はぁ!?」「ここ壁!? じゃあ何? 私たち首になってウッドに貼り付けられたってこと!?」「いやぁああああああああああああ!」


 『ハッピーニューイヤー』になった生首たちが阿鼻叫喚する。それは、記憶の中のものと寸分変わらない。悲惨で、凄惨で、狂気的で、冒涜的で。


 総一郎は拳を固めながら、短く震える。


「これが君の所業とはね」


 背後で上がった声に、総一郎は振り向いた。だが、そこには誰もいない。ベルの声が聞こえたと思ったのだが。


「……進もう」


 総一郎は歩き始める。その時、頭上から水音がした。咄嗟に避けると、肌色の蕩けた異形がそこに落ちてきた。総一郎はとっさに『灰』を記そうとするが、僅かに遅い。


 その異形は、またも総一郎の中に飛び込み、溶け込んだ。そして、このような声を総一郎の内側で響かせるのだ。


『ソウ、ダメ、ダメじゃないか、お兄さんを、呼ばなくちゃならないじゃないか』


 姉だの、兄だのといった存在が何を指しているのか分からない総一郎だったが、碌なものではないことだけは分かっていた。何か嫌な予感ばかりがする中で、舌を打つ。


「これじゃ、向き合ってないとでもいうのか。こんな光景を目の当たりにして、俺の被害者の叫びを全部、余すことなく聞き直して、それでなお逃げてるっていうのかよ!」


 俯いて、地面に向かって叫ぶ。だが、それ以上のことはないのだ。どうしようもなくて、だからやはり、進むしかない。


「罪に向き合うって、何だ。どうすれば向き合えるんだ。この、俺のバカげた八つ当たりを、一体全体どうやって許されればいい」


 許されるわけなどない。道を進む。その先で、また違う地獄が広がっていた。跳梁跋扈する影は、総一郎が嫌になるほど知ったものだ。


 街中を飛び交う魔法。JVAの魔法使いたちがたった一人に殺されていく。町中に火が上がり、氷柱が道路を破壊し、人は体の中で育つ植物に死んでいく。そして街そのものをボロボロにしながら、奴は嗤っていた。


「ああ! ARFはまだか! 早くしないとJVAを殺しきってしまうぞ!」


「黙れよ、紛い物」


 ウッドは、総一郎の中で眠っている。それを模した存在がこうやって暴れているのを見ると、ひどく不快だった。


 総一郎は木刀を構える。偽ウッドはこちらを見て、ケタケタと嗤った。「お前もJVAか!」と言って、素早く襲い掛かってくる。


 だから、ねじ伏せた。


 来たる魔法攻撃を木刀で切り伏せて、修羅による異形の爪も一息にバラバラに斬り分けた。奴もカバラで回避しようとはしていたが、電脳魔術での高速演算を体得した総一郎に偽ウッドは敵わない。


「は」


 呼吸音だけ漏らして硬直する偽ウッドに総一郎は「強さだけは本物相応か。本当に腹立たしいね」と左手に紫電を纏わせ殴打する。偽ウッドの体は電流を放ちながら無に帰した。


 修羅なんて、こんなものだ。殺して良いなら、総一郎の敵ではない。


「……」


 虚しかった。酷く、酷く。この惨劇には何の意味もない。総一郎の幼稚な鬱憤晴らしに、魔法能力とカバラが加わっただけのもの。力がなければ赤ん坊の泣きじゃくる姿にも劣っただろう。だが、当時の総一郎ですら一般人の手に負えるものではなかった。


「どう責任を取ればいい」


 死ね、と己を呪う心が騒いだ。だが、同時に『死にたがりは逃げたがりだ』と冷静に指摘する声も己の中で響く。


「逃げるなんて卑怯者に、俺はなれない」


 死ねない。そう思う。だが、生きていていいのかとも考えてしまう。辛い中で生きられるのなら、それはきっと償いになるだろう。だが、総一郎は恵まれていた。愛する人が居る。かけがえのない友人が居る。彼らはきっと、総一郎が逃げても何度だって捕まえにくる。


「俺は、幸せを遠ざけることすらできない」


 不幸にもなれないのだとすれば、何が償いになる。幸福を拒絶してなお、拒絶しきれないのだとすれば。浅ましくも、償いよりも愛しい人の幸せを願ってしまうのならば。


 下唇を噛み、深く考え込みながら歩いた。ウッドが抱えた罪は、いくらでもある。殺そうとしてきた相手は必ず殺した。殺したうえで冒涜したこともあった。


 最も大きな罪は、無辜の人々への冒涜だ。彼らは心の救いの為に、こぞってノア・オリビアへと縋りついた。そしてその人生は全て狂った。彼らの大半は総一郎とナイの結婚式で狂い死に、残る僅かはヒイラギによって異形に変えられたりなど、様々に壊れていった。


 あの、何百人という人々の人生を狂わせた責任を、総一郎はどう取ればいいのか分からない。――いや、責任など取りようがないのか、初めから。何をしても彼らは戻ってこないし、代替的な賠償をしようと、その心は満たされることはない。


 総一郎の八つ当たりで壊れたその人生は、もう二度と戻ることはないのだから。


「俺に出来ることは、何だろう」


 歩みを止めないまま、総一郎は思考の海に潜る。総一郎の想起する罪へと変化していた闇は再び観測を阻害するばかりの存在へと戻り、総一郎の視界を遮った。


 総一郎に出来ることは少ない。ARFの一員として亜人差別を取り払う努力は出来るだろう。だが、あの『ハッピーニューイヤー』の被害者は亜人だけではない。日本人もアメリカ人も、人間も亜人も、全て一緒くたに首を刈り取り、そして飾り付けたのだ。


 ならば、何だろうか。金銭による賠償。だが総一郎にはいまさらそんな資金はない。カバラを使って資金を構築し、それで義援金として配布するか。一つの案としてはありだ。やらないよりはいい。なら、総一郎はそうしなければならない。


 だが、それだけだ。それ以上はどうしようもない。謝って回ることも傷つけかねない以上、すべきではないだろう。ウッドであったことを公表して、裁かれるか。しかし総一郎は未成年だ。十分な裁きなど受けられない。数年塀の中にいるよりも、きっと遺族らは総一郎が体を壊してでも構築した資金群にこそ価値を見出すはずだ。


 そう思ったとき、目の前に札束が山のように落ちてきた。まるで総一郎を押し潰さんとするその勢いに、総一郎は咄嗟に飛び退って回避する。


 そこで、気配を感じて総一郎は見上げるのだ。札束の山の上に着地した少女は、涙を流し、脈絡なく言葉を零し、罪悪感にグズグズになっていた。


「ごめん、ごめんよ、ソウ、みんな。私は、私は……!」


 ベルの右手には、腕に装着された奇妙な弓の機構があった。そして修羅と化した左手に、剣。総一郎はその見覚えのあるフォルムに苦い顔だ。ファーガスの遺品。『能力者』の遺物。


 クリスタベル・アデラ・ダスティン。その、きっとオリジナルが、そこに立っている。


「私は、君たちにどう償えばいいんだろう。裏切るつもりなんてなかったんだ。私は、君たちのことを、本当に仲間だって――!」


 ベルは弓の先を総一郎に向ける。全身が修羅の暴走で不定形の異形となった彼女は、しかし顔だけは人間の面影を多分に残していて、そして、言うのだ。


「ヒイラギに、君は死にたがってるって聞いたんだ。だから、せめて、私が」


 総一郎は、息を吐きだす。木刀を八双に構える。最後に、笑った。


「どうせヒイラギは今まさに逃げ出したところなんだろうけどさ、機会があれば伝えてよ。余計なお世話ってさ」


 人と修羅。修羅と修羅。殺してはならない敵を前に、総一郎は深く息を吐きだした。


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