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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
自由なる大国にて
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8話 大きくなったな、総一郎33

 ヴィーの言ったことを、ずっと考えていた。


 責任の本当の取り方。あるいは、責任を取らないという形の合意。総一郎が本当にすべきこと。死にたがることは逃げたがることではないかという問いかけ。最も苦しいのは、死んだ人間でなく死なれた人間であるという話。


 総一郎は、目を開ける。深夜二時。寝付けない、真夏の真夜中だった。


 ヒルディスに連れられ襲撃に付き添った日から、日付ばかりが変わった時間帯。総一郎の心はまだあの襲撃先の屋敷の中にあって、ヒルディス親子との問答の中に囚われたままだった。


「……暑い」


 上体を起こす。カーテンを開けると、月の光が部屋に差し込んだ。今日は満月か、と総一郎は窓から見える黄色の真ん丸を眺める。


「少し、歩こう」


 腹部の辺りに掛けていた毛布を取り払って、総一郎はベッドから立ち上がった。部屋から出ると、白羽の部屋にまだ光がついているのに気が付く。


「うん、うん。じゃあそのまま継続で。あと演説まで時間がないから、愛ちゃんとシェリルちゃんの台本も早めに作っちゃわないと。それで……」


 声がまだ聞こえるのを考えるに、まだ仕事の最中なのだろう。総一郎は夜のお散歩は一旦置いておき、リビングでコーヒーを淹れることにした。


 凝ったことは出来ないので、インスタントコーヒーを淹れて白羽の部屋に戻ってくる。それからノックを三回。「はーいどうぞー」と返事が返ってきたから、入室する。


「お疲れ様、白ねぇ。コーヒー淹れてきたよ。いる?」


「ありがと~、総ちゃ~ん! 大好き。ぎゅってしちゃう」


「コーヒー置いてからね」


 コーヒーを置くまで手をワキワキさせていた白羽は、総一郎が置き終わるなりぶつかるような勢いで抱きしめてきた。そして胸元辺りで顔をぐりぐりやって、「癒されるぅ~……」と大きなため息を吐く。


『おい、ボス。まだ会議中だろうが』


『そうですよ、ソーの独り占めはズルいです。私にもおすそ分けを要求します』


 白羽の指にはめられたEVフォンから聞こえてくるのは、アーリとローレルの声だった。総一郎は「みんなもまだ働きづめなんだ……」とドン引きしてしまう。


「まーやることはいくらでもあるからね。とくに今のARFって大概を自分たちでやんなきゃだし」


 でもタワーがある頃に比べると、実作業が増えてちょっと楽しいかな。そう零す白羽に、総一郎は強張った顔で「そっか……」と相槌を打つしかない。何だこのワーカーホリック。


『つーかよ、ソウも今まで働いてたのか? 一番の戦力なんだから無理させるなよ、ボス』


「させてないよ! させてないけど勝手に仕事始めちゃうのが総ちゃんなの! 今日も元副リーダーについてって何かやってたみたいだし!」


「何でその情報掴まれてるの……?」


 いくらかの面で不都合があると判断して、敢えて報告していなかった事柄である。と思ったが、よくよく考えれば政敵コロナードのパトロンをアレだけ大規模に襲撃して、その情報が届かない訳もない。


 そこから調査すれば、いずれバレていたことか。と総一郎は自らの詰めの甘さに渋い顔。そこに、ローレルが追撃してきた。


『そうですよ、ソー。ちゃんと休まなきゃダメです。体を壊しちゃいますよ』


「君たちブーメラン投げてるのに気づいてる? 俺より遥かに働いてるのにその諭し方おかしいよね? 君たちこそ休むべきだよね?」


『えっ、心配してくれるんですか? 嬉しいです』最近のローレルは何を言ってもピンクな空気感を出してくるな。


「あのー、人の電話越しにイチャつかないでくれますか~?」


「白ねぇこそもっと心広く持とうよ」


 ものすごい目である。とそこで気づくのが、白羽の色濃い隈。総一郎は渋面になって、白羽に持ってきたコーヒーを一気飲みした。


「えぇっ? そ、総ちゃん? 私に持ってきてくれたんじゃないの?」


「君たち、今日はここまでにして寝なさい。白ねえは強制で寝かしつけます」


『いや、ソウ。そう言ってくれるのは嬉しいが、まだまだ対応すべき仕事がいくらでもあってだな』「い、い、か、ら!」


 電話越しに、『何だよ……』と怯むアーリの声が聞こえた。白羽に並んで常に大忙しなイメージのある彼女である。「アーリも明日会うときに隈が残ってたら、どんなに忙しくても寝かしつけるからね」とドスを利かせてEVフォンに語り掛けた。


『わ、分かったよ……。つーことは、久しぶりの三時間睡眠か』


「七時間寝ろ」


『はっ? 寝すぎだろそれ。そんな寝れねぇよ』


「寝、ろ」


『何だよ、もう……当たり強くないか今日……』


 不満げなアーリである。「心配してるだけだって。君たちが俺にしてくれるみたいにね」と言い返すと、『えっ、お、おう。そうか、へへ、そうか。へへへ』と嬉しげに引き下がった。


「もちろんローレルもだよ。今すぐ寝て、ちゃんと七時間睡眠の時間を確保すること。いい?」


『最近不眠気味なので、お姉さまと一緒に寝かしつけてください。今から行きます』


「普通にその場で寝なさい。明日時間取れるはずだから」


『やりました。約束ですからね』


 何だかうまく誘導された感がある返答である。というか、多分誘導されたのだろう。


 とはいえ、お互いに忙しく会えていなかったのも事実。こうやって約束できるだけでも、総一郎も嬉しかった。


「ん~……じゃあみんな総ちゃんに言い負かされちゃったみたいだし、私も寝るかな。でも、一つだけ今日中に決定しておかないと不安なことがあってね。その人事についてだけ最後に決めさせて」


「いいよ。そのタスク、俺がやっとく。昼間は久しぶりに学校で勉強してただけだし、体力は余ってるよ」


「普通、学校に行けば相応に疲れるんだけどね。――じゃあ、お言葉に甘えようかな」


 という訳で、みんな、今日の会議はここまでね。と白羽はEVフォンの通話を切った。それから、総一郎に向き直る。


「じゃあ引継ぎってことで説明だけしちゃうけど、その問題はね、多分、ベルちゃん絡みなの」


 その言葉に、総一郎は身を固くした。白羽はその様子を見て、「やっぱり、私の方でいくらか考えて、違う人員を」と口にしたから「俺がやる。俺が適任だ。でしょ?」と椅子に座る彼女に目線を合わせる。


「……うん、そうだね。むしろ、総ちゃん以外に適任がいない。それが問題なんだよ。属人化してるし、リスクヘッジが出来ない。総ちゃんに何かがあったら、ARF全員が詰みになる。だから、今からでも他のメンバーに調整した武装をさせて、対修羅が可能なようにしたかった、っていうのもあるんだけど」


 白羽の言葉を聞いて、総一郎は自分の考えの浅さを恥じた。確かに、組織全体から見れば、総一郎以外にもベルと戦える人員がいた方がいいに決まっている。


 だが、総一郎は知っていた。ベルと戦いうる存在が、ARF内外にいることを。


「ナイ、連れていっていい?」


「え?」


「ナイは、多分修羅っていう亜人、事象について、俺よりもよほど知識があると思う。今は無力だけど、俺のさじ加減で戦力にもならないことはないし、少なくとも俺の死は避けてくれるはずだよ」


「……」


 白羽は、眉根を寄せて吟味を始めた。心理的にはすぐにでも首を振りたいのだろう。だが、そこで感情的ではなく理性的に、論理的に判断しようとしてくれるのが、白羽の魅力だ。


「もう一人」


 そして白羽は、条件を口にする。


「もう一人、欲しい。総ちゃんとナイの二人っきりは不安。ただでさえ敵はベルちゃんだし、保険が欲しい」


 対する総一郎の答えは、こうだ。


「グレゴリー、どうかな。彼は良くも悪くも公平だし、攻撃力も防御力も常識から一線を画してる」


「でも、彼はベルちゃんを殺せないよ」


「俺に、殺すつもりがないってことだよ」


 沈黙が下りる。白羽は、じっと総一郎の顔を覗き込んでいた。白羽の瞳は人間の目。父の血を継いだ、涼やかだが情を秘めた眼。


「総ちゃんは、危険が好きだね」


「危険は嫌いだ。危険を冒してでも助けたいだけだよ」


 総一郎の答えに、白羽は嘆息した。それから「いいよ、そのメンバーで行ってきて。情報は―――今送った。目的地に着くまでに一通り目を通しておいて」と素早く操作を済ませる。


 それから彼女は椅子から立ち上がり、ベッドに横たわって、ちょいちょいと手招きした。


「? どうしたの?」


「寝かしつけてくれるんでしょ?」


 そのすっとぼけた態度に総一郎は毒気を抜かれて、「はいはい、お姫様」と苦笑しながら近寄った。白羽の額にかかる髪を避けて、そこに一つ口づけをする。


「お休み、白ねぇ。いい夢を」


「……うん。えへ、今日は良い夢見れそ」


 言うなり、白羽は力尽きるようにしてまぶたを落とした。相当無理をしていたのだろう。これほどスムーズな就寝は、そうは出来ない。


「さぁて、行きますか」


 グレゴリーに連絡を飛ばしつつ、総一郎は家を出た。まず、ナイを回収しなければ。











 指定の建物は、奇しくも以前、ウッドとして白羽を監禁していたマンションだった。


「見ない内に、随分荒れたみたいだね」


 どこか含みのある物言いでコメントしたのは、ナイだった。彼女と並び立つ形でマンションの目の前に立つと、何だか、ぞわぞわと腹の奥で、ウッドが身じろぎをするような気持になってくる。


「そう、だね。少し前にシェリルと来たときは、荒れていたのはあくまでウッドの部屋だけだったはずだけど」


 見る限り、問題のマンションは完全に廃墟のように見えた。住む者はなく、売り家としての体裁も整っていない物件だ。少し見ない間に、一体何があったというのか。それにベルが関わっているのだろうか。考えると、身の毛のよだつような寒気を感じた。


「ヒイラギは、無力化したはずだよね」


「彼女自身が戦う、という事はもうないはずだよ。アレだけ君が、たくさんフィアーバレットを撃ちこんだんだ。多分誰々を襲え、なんて言う指示も出せないと思うけど」


 総一郎は、ううむと唸りながら電脳魔術より情報を再確認し始めた。


 そこに記されているのは、アーリがハッキングとビッグデータ解析によって収集している情報群だ。具体的には、ここでベルらしき人物が確認されたという事。それ以外の場所では、現状数件しか確認されていない事。そしてここ以外の観測情報は、常に総一郎に周囲でのことだということ。


 要するに、ここでの確認情報だけが、総一郎たちへのアプローチではないと推測されるのだ。


 ならば本拠地の可能性が高い、というのが白羽たちの見方のようだった。だからこそ、早期に人員を割いて押さえにかかりたい、と。それが議題の一つでしかない、というのが恐ろしい話だったが。


「それで? 今日は総一郎君の天敵、グレゴリー君が来るって聞いてるけど」


「天敵じゃないよ。色々煽っといて結局、みたいな顔の合わせづらさはあるけど、今回の件には彼以上の適任はいない」


 次点でヴィーもどうかと思っていたが、早朝の騒動に続いてこれ、というのは堪えるだろうと考えたのだ。それでなくとも、ナイ関連の情報災害ともいえる精神汚染には、ヒルディスの加護がどれだけ効果を持つかも分からない。


 その点グレゴリーは、ウッドの冒涜をして“人の営み”と断じた強靭な精神の持ち主である。彼ならばおかしくなることはあるまい。そう考えていた時に、頭に軽い重みを感じた。


「……? 何」


 だ、と見上げると、軽快に体重移動をしたグレゴリーが、深くうさ耳のフードを被って現れた。「よう、下種野郎」と不機嫌そうな声色で、総一郎に挨拶してくる。


「とりあえず頭から下りろ」


 手で退かすと軽やかに空中で一回転して、グレゴリーは着地した。その姿は四肢と頭をもふもふのウサギ衣装で包んだ、ラビットのそれだ。


「お前から連絡が来たときは、何事かと思ったぜ。そんなに追い込まれてるのか? となれば、ARFの潰し時だな」


「もうほとんど非合法なことはしてないよ、ARF。正当な方法で政治に関わって、世の中を良くしようとしてるんだ。邪魔はなしだよ」


「今がまともだからって、昔の罪が許されるのか?」


「む」


 奇しくも総一郎がヒルディスに投げかけた問いを、グレゴリーから投げつけられる。となれば、総一郎が口にすべきはこうだろう。


「許される必要ある? ARFを恨んでたり敵視してる連中は合法の中で亜人の権利を踏みにじる悪人だよ。まず、こっちが許してない」


 ヴィーの言葉を、現状に直して成立させる。するとグレゴリーは、こう言った。


「となると、オレだけが許してない訳だな。分かりやすい。ならここで許しを乞えよ。じゃなきゃオレが潰す」


 それに、総一郎は笑ってしまった。それと共に、納得する。


「はは、本当に分かりやすいね。なるほど、だからやっぱり、利害関係の発生する個人間の問題なんだな」


「何を言ってる?」


「別に。なら、なおさら許しを乞う必要はないね。なんたって、俺たちを潰したら、亜人人権問題の解決は一気に遠ざかる。また亜人が不当に虐げられる時代が来る。君のせいでね、ラビット・フード」


 グレゴリーは総一郎のアンサーに唇を歪めた。それから舌打ちをして「しばらくは見逃してやる」と譲歩を勝ち取る。「やったね」と総一郎は上機嫌だ。


「それより、そのチビ、見たことあるぞ。前にお前をどうにかしたガキじゃねぇか。何でここで味方面してる」


「仲間割れさ、グレゴリー君。『祝福されし子どもたち』の中でも、最も強靭な肉体を持つ君。初めまして、と言っておくよ。ボクはナイ。総一郎君付きの、無貌の神だよ」


 不機嫌そうに見下ろすグレゴリーと、にんまり笑って見上げるナイ。対照的な二人だが、相性はどうだろう、と総一郎はハラハラしながら見守る。


「そうか。イチ、こいつは味方と認識していいんだな?」


「うん。間違いないよ。敵ぶっても俺たちのことを考えての行動の可能性が十分にあるから、独断でどうにかしたりっていうのは絶対にやめてね」


「ふん、よくもそこまで信頼を築いたもんだな、無貌の神。それとも、ほだされたのはお前の方か?」


「まさか、総一郎君がボクにべた惚れなのさ」


 軽い調子でナイが躱すので、総一郎はナイの耳元でこう囁いた。


「否定はしないよ」


「……んぐ」


「ああ、理解した。本当に仲間なんだな。なら排除はやめておくか」


「君は一体何を見て判断したのかな? ボクの名誉のために、是非とも聞かせてほしいんだけど」


 ナイの言葉をまるっきり無視して「それで、この建物に依然として敵のままの無貌の神がいる、という訳か」とグレゴリーは総一郎に確認してくる。


「あくまでも、その可能性が高い、ってところかな。君は本当に居た時のために、俺たちの盾になってもらいたくて呼んだんだよ」


「イチ、お前は歯に衣を着せることを覚えた方がいい」


「肉の壁が欲しくて」


「より悪くするな」


 オブラートに包んだのは確かなのに、という冗談はさておき。総一郎は肩を竦めて答える。


「ここには、ベルがいる。つまり、修羅だ。修羅に相対できるのは、修羅か、物理攻撃を完全に無視できるような存在か、恐怖を感じない異常者くらいだからね。君は、物理攻撃なんて歯牙にもかけない。だから呼んだんだよ」


「なるほど、それは盾だな。むしろ、それ以外の表現が見つからない」


 となると、このグローブは付けてきて正解だったらしいな。もふもふなウサギグローブを触りながらのグレゴリーの確認に、「まさしくね」と総一郎は頷いた。『能力者』は『能力』で『能力者』以外を殺せない。総一郎も『闇』魔法はほぼ無機物の相手限定だ。


 今朝の戦闘も、味方や人間の敵がいなければ『闇』魔法で片づけたのだが。強すぎる一方で不可解な縛りが発生するため、あまり誰かに知られたくないのだ。


 と、そんな雑談はさておくとして、総一郎は集まった二人に目配せをして、「さ、行こうか」と顎で示した。「ああ。先陣を切ればいいか?」と思いのほか乗り気のグレゴリーに、「じゃ、ちゃんと守ってよね、総一郎君」と総一郎の腕を抱いて体重を預けてくるナイと対照的だ。


 グレゴリーに「じゃあ、先陣はお願いするよ」と告げると、「仕方ねぇからやってやるよ。それと一ついいか?」と近づかれ、耳元でこう告げられた。


「前にシラハについて散々煽られたが―――油断しんてなよ。本当に掻っ攫うぞ?」


 総一郎息をのんで睨みつけると「意趣返しは効いたようだな」とニヤリとするグレゴリーだ。それから先に進みながら、ひらひらと手を振る様子は、どこまで本気なのか、とやきもきさせられる。


 ともあれ、グレゴリーに続いて廃墟に足を踏み入れると、暗がりが三人を包み込んだ。総一郎は問題ないが、二人の為に光魔法で周囲を取らす。すると、二人が声を上げた。


「ルールを、守れ」


「ヒイラギの悪趣味さには、まったく感服するしかないよ」


 血文字で大きく書かれた「KEEP the RULES」に、それぞれが嫌な顔をした。グレゴリーは片方の眉をひそめ、ナイは呆れたように溜息を漏らし、そして総一郎は渋い顔でじっとその血文字のアナグラムを解析する。


「狂気地区にも似たようなものがあったな」


 面倒だぞ、あれは。と経験者らしい口ぶりでグレゴリーは語る。というか、実際に経験したことがあるのだろう。「どんなだったの?」と聞くと「文字通りだ。ルールを破るとペナルティが下る。ペナルティの内容は聞くな。ルールによる、とだけ言っておく」と。


 そんな会話をしていると、ナイは血文字に近づいていき、その血に触れた。「ナイ、もう少し気を付けてくれないと、俺だって守り切れないよ」と後を追うと「心配性だね、総一郎君」と茶化される。


「大丈夫だよ。ここで言われたのは、ルールを守れってことだけ。そして肝心のルールはまだ言い渡されてない。なら、ここにタブーはないはずだよ」


「それはそうだろうけど」


「で、肝心のこれだけど」


 ナイは手に付着した血を見下ろす。様子を見るに、つい最近にかかれた文字という事か。総一郎は思わずため息をついてしまう。


「ここは俺ら向けのメッセージがないから、本拠地なんじゃないかって推理の元来たんだけどね」


「んー、割といい線いってると思うよ? その推理」


「え? こんな文言があるっていうのに?」


 総一郎が血文字を見ると、ナイは「だってベルちゃんという絶好の案内役がいないじゃないか。ヒイラギだって無貌の神だよ。演出の少ないゲームなんて作らないさ」と嗤う。


「となると、ボクらが迫ってきているのを急遽かぎつけて、大急ぎでそれらしいことをしたってところかな。けど……楽観的に見過ぎるのも問題かもだけど」


 特に、これは山羊の血だしね。ナイは呟きながら、手の血を壁で拭った。総一郎は、山羊という文言に、先日の黒い樹木めいた化け物を想起する。


 根のように太い蹄と、枝葉めいた形状でうねる触手。そして単純に脅威と分かる巨大さ。かなり強い精神魔法での防御を施していたが、それでもなお後日シェリルには文句をつけられたものだ。いわく、頭痛が止まらなかったとのこと。


 願わくば二度と会いたくない敵である。あれほどの精神汚染は、対処できてもひどく不快なのだ。


「んー……、どうかなぁー。判断が難しいかもしれない。解釈によるから、上手いこと自分を騙して……」


 ナイは何を危惧しているのか、ブツブツと呟きながら考え込んだ。総一郎は彼女の思考を可能な限り遮らないようにその手を引きつつ、グレゴリーに近寄っていく。


「他に気になるところある? なければ、階を上がりながらベルを探そうと思うんだけど」


「……分かった。ひとまずここはこれで良い。上がるぞ」


 頷きあって、グレゴリーは総一郎を追い越して歩き始めた。背が高いから歩幅が広いな、と思いながら、総一郎は少し駆け足で追いかける。


 階段を一階分上がると、次の階段は家具らしきもので封鎖されていた。グレゴリーが拳を構えて殴り飛ばそうとした瞬間、ナイが「待って」と制止する。


「何だ」


「見て、それ」


 ナイが指さした先の壁には、大きく「Do not break」と血文字で記されていた。グレゴリーは舌を打って、拳を下ろす。そして一同が見やる先には、闇で覆われたマンションの渡り廊下が。


「どうやら、ヒイラギはボクらにこのゲームを正当に楽しんでほしいらしいね」


「何も楽しくねぇよ、クソが」


「今回ばかりは、グレゴリーに同意するよ」


 総一郎も険しい顔で、ルールを見つめるばかりだ。光魔法で行く先を照らす。闇に包まれた廊下は、光魔法の光では照らしきれないらしい。


 まるで、呑み込むような闇だった。総一郎の視界ですら、一寸先は不明瞭になる。となれば、見た目通りのそれではないのか。霧でさえ、総一郎の目は見通すのだから。


 総一郎は魔法とカバラのソナーを放ちながら、問いかける。


「ナイ、この闇は」


「総一郎君。ルールでの指定がないから多分問題はないけど、この闇には言及しない方がいいかもしれないよ」


 ナイに忠告され、総一郎は不承不承頷いた。闇に視界が遮られる、という経験をあまりしていないものだから、精神魔法とは全く関係なく、にわかに不安になってくる。


 魔法で得られる情報も、ごくごく僅かだ。まるで総一郎が見えている範囲でしか魔法も働いていないかのように感じる。だが道に一定間隔で配置される扉に、手を付けて音魔法で確認すると、その一室ごとの情報程度ならば確保できるようだった。


 ひとまず、この部屋はいないらしい、という確認を、扉の一つ一つに到達するたびに行う。地道な作業だ。無駄ではないが、カバラでの計算に掛けるだけの情報量の蓄積を待つには、自分の足で歩くしかなさそうだった。


「進むぞ」


「うん、先導よろしく」


 だから、前を進むグレゴリーから離されないように続いた。ナイは「流石に歩きにくいね」と手をつなぐにとどめてついてくる。


 そして向かいの階段に辿り着いた。グレゴリーの後に続き、三階へ。そこにも、またルールが書かれている。


『Don't look up』


「上を見るな、か」


 総一郎は、嫌なルールだな、と顔をしかめた。意識すれば守るのは容易いが、それだけに妙な不快感がある。


 三人は、周囲を警戒しながら進んだ。水音めいた音が、背後の、天井部分から聞こえる。


「分かったよ、総一郎君」


 その途中で、ナイが言った。総一郎は振り返って見下ろす。だがナイは『見上げるな』というルールのせいで俯いていて、顔色を窺えなかった。


「ここ、わざわざボクらっていう来客の為に用意したものじゃない。ヒイラギが、身を守るために異界化したものだ。となれば、ビンゴだよ。砦を攻略しなきゃならないのは面倒だけど、それさえクリアすれば手が届」


 そこで、グレゴリーが振り返った。驚いて総一郎とナイは口を閉ざす。彼は二人に目配せをしてから、人差し指を立てて「静かに」のジェスチャーをした。


 それから、彼は奥の壁を指さす。そこに書いてあるのは、『Be quiet』の文字だ。なるほど、と納得して、総一郎は押し黙る。ナイは雰囲気だけでムスっと不満を示した。


 そして、闇の中、無言で進む時間が訪れた。総一郎は次第に、圧迫感を抱くほどの閉塞感に顔をしかめ始める。


 階段を上がる度に増えるルールの一つ一つはささやかだが、積み重なってくるとひどく窮屈だった。『振り返るな』『立ち止まるな』『走るな』。前を歩くグレゴリーのシルエットと、後ろ手につなぐナイの手の感触ばかりが総一郎の孤独を防いでいた。


 廊下の端について、次のルールが追加される。


『触れ合うな』


「……」


 沈黙。最初からルールで声を出すことは禁じられていたが、それとは毛色の違う静寂が広がった。


 緊張。リスク。総一郎は、そう何度もナイを奪われるような失態を犯すつもりはない。


「……――」


 ナイは、そっと力を抜いて、総一郎の手を離そうとした。だが、それを総一郎は許さなかった。びく、とナイの手が震える。だからその手を、固く握った。


 途端、真上から、何かがはい出してくるような音が響いた。


 総一郎は咄嗟にナイを抱きかかえて、後方へと跳ねた。一瞬前まで総一郎が立っていた場所に、汚泥を思わせる何かが落ちてくる。


 闇の中でひどく判別がしにくいが、その色は肌色を思わせた。それはうぞうぞと蠢いて、ゆっくりと総一郎に近寄ってくる。


「……!」


 木刀を翳し、総一郎は牽制した。ナイを背に隠し、鋭く睨みつける。だがそれは総一郎の警戒をものともせずに飛び込んできた。


「ッ!?」


 それを阻止したのはグレゴリーだった。瞬時に肉薄し、総一郎の眼前で拳を振るう。その標的となった肌色の物体は、脱力したように落下し、薄く広がった。


 その一部が、総一郎に触れる。そこで気づくのだ。その物体には実体がない事を。少なくとも、総一郎に触れることは叶わないことを。


 それに、グレゴリーは「なるほど」と首を鳴らす。


「これがペナルティか。正直正体のよく分からん奴だったが、見えるなら殴れる。怖がる必要もない、つまらんルールだったな」


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