8話 大きくなったな、総一郎20
Jの家の前に着くと、扉の前にJは立ちふさがって「今の内に言っておくけどよ」と渋面を作る。
「ばあちゃんは、認知症だ。しかも体だけは健康な、性質の悪い奴。おれみたいに変身も出来る。メチャクチャ危険なことは、分かっといてくれよ」
Jの説明に、総一郎は目をパチクリとして「ごめん、具体的にどんな感じなのか想像がつかないんだけど」と追加の説明を求める。
「具体的には、まずおれが誰か認識できない。昔で時間が止まってるんだ。もし無理におれがJだって言い張れば、おれは『Jを攫った誘拐犯』扱いされる」
「……」
総一郎は、絶句するしかない。Jの祖母は具合が悪い、という話は何となく知っていたが(ウッド時代のおぼろげな記憶だろうか)、それだけ重篤な認知症であるとは思っていなかった。
「申し訳ない、ジェイコブくん。こんなこと質問するのは大変失礼に当たるとは思うのだが、いいだろうか」
「……ああ、良いぜ。何でも聞いてくれ」
覚悟を決めた様子のJに、イキオベさんは問いかける。
「君のおばあさんは、その、ちゃんと会話が成立するのだろうか。君を君と判別できない、という時点で、初対面の私が対面しても何も得られないのでは、と勘繰ってしまうよ」
「そう、だよな。おれだってアンタの立場になったらそう思う。実際、確証はないしな」
けど、とJは言った。
「アンタの顔は、当時の『宴』に関わる人間の脳裏に焼き付いてる。それに、当時でもアンタ結構年食ってたろ? 外見はそんな変わってないはずだ。なら、認識してもらえる可能性がある。もちろん、まず恨まれるところから始まるとは思うけどよ」
「そう、か。分かった、可能性が少しでもあるのなら、事に当たってみよう」
深く頷いて見せるイキオベさんに、Jは少し涙ぐんだ。その感情がどういったものかは、総一郎には分からなかったし、無意味に暴こうとも思わなかった。
「では、行ってくるよ、ジェイコブくん。総一郎君、君にはついて来てほしい。君の仙術は、敵に回せない相手から逃げ延びる最も優れた技術だ」
「分かりました。お付き添いします」
「ありがとう、心強いよ」
総一郎はJに一度目配せして、イキオベさんの斜め後ろに並んだ。Jが背後から「頼むぜ……」と消え入りそうな声でこぼす。それに、総一郎は笑みを浮かべて肩を竦めた。
「では、いいかい」
「はい、いつでも」
総一郎に確認を取って、イキオベさんは呼び鈴を鳴らした。「はぁーい?」と気の強そうな声が返ってきて、扉が開かれる。
「何だい? アタシはセールスはお断りだよ。そんな金もないんだから。ささ、帰った、帰っ、た……」
Jの祖母の声は、だんだんと尻すぼみになって行った。Jの話に想像するよりも、随分と小さな体躯。彼女は、険しい顔でイキオベさんを見つめた。
「あんた、あんたのこと知ってるよ、アタシ。その顔見るだけで、はらわたが煮えくり返りそうになる。あんた、あんた、名前は、一体何だったか……」
「ヒューゴ・イキオベと申します、ご婦人。JVAのトップを務めております。少し、お時間をよろしいでしょうか」
「思い出した、あんた、アタシの息子をブタ箱にぶち込んだ奴だね。誰一人殺さずに、宴を壊滅させた……」
「――ええ、その通りです」
「……入んな。息子の命を見逃してもらった借りがある。けど、話を聞くだけだ。それ以上は何もしない。いいね」
アンタは? と総一郎もJの祖母が尋ねてきたので「付き添いです、お気になさらず」と返答した。老女はしばし黙って「まぁいいさ、ガキんちょの一人二人、モノの数じゃない」と入室を許可される。
家の中は、古びていたが清潔だった。管理できる程度にはしっかりしているのか、と思ったが、時折家具にぶつかってはその上に載っていたものを落とし、しかしそれを気にもせず歩みを進めるなどの行動を見て、違うと判断した。
世話されているのだ。恐らく、Jに。だが、JをJと認識できない以上、顔を合わせているのではないだろう。寝ている隙にやっているのかもしれない。
「そこ、座んな」
ぶっきらぼうに机のイスを総一郎たちに進めながら、Jの祖母は椅子を引いた。だが座るのに失敗して、横倒れになる。
「大丈夫ですか!?」
「この程度何にも問題じゃあないよッ! 近づかないでおくれ! ったく……」
助けに入ろうとした総一郎を拒絶して、Jの祖母は立ち上がる。その時、その四肢は狼のそれに代わっていた。じわじわと戻っていくそれを見ながら、総一郎は何だか怖くなる。
「さて、話を聞こうじゃないか。アタシの息子をブタ箱にぶち込んだ、JVAのい、いき……」
「イキオベです」
「そうだ、Mr.イキオベが何の用だね。犯罪者を捕まえたから、その母親に謝ろうだなんてバカな考えじゃなかろうね」
「ええ。その件については、何も申し上げることはありません。我々は、当時の我々日本人にとって最良の選択をしました。そして、その結果としてアーカムに住まう亜人の皆様の生活基盤を破壊した」
「ふん、分かってるじゃあないか。なら、何の用だって言うんだい。アレからまだ何年も経っていないってのに」
「……」
イキオベさんは、その言葉に沈黙した。モンスターズフィーストの解体からもう少なくとも五年は経っている。それを、何年も経っていないとは言わないだろう。
総一郎は、Jの言葉を思い出す。彼の祖母は、時が止まっているのだと。
「ご婦人、お言葉ですが」
「イキオベさん、その指摘は止めておきましょう」
この場のアナグラムを、総一郎は電脳魔術でアーリのスパコンに投げている。結果は破綻だ。今総一郎たちは、Jの祖母が生きている時間の中で交渉せねばならない。
「……総一郎君がそういうのならやめておこう。では、ご婦人。折り入ってご相談をさせて頂きたく、今回はお訪ねさせていただきました」
「相談? 何のだい」
「あなたが有している広場を、一日貸してほしいのです」
「……」
Jの祖母は、しばらく呆けたような顔になった。イキオベさんの言葉が意外で、キョトンした、というのではない。理解が及ばず、脳そのものがショートした、という感じだ。
「……ご婦人? 大丈夫ですか?」
「あ、あ、……」
「如何しました?」
イキオベさんが確認を取ろうとする。そこで、総一郎はアナグラム分析の結果を見て震え上がった。イキオベさんの袖を引っ張る。それから、耳元で素早く「今は刺激しないで下さい! パニックになって暴れ出します」と囁いた。
「ッ……」
「あ、あぁ……」
イキオベさんは、息をひそめるように口を閉じた。Jの祖母は、しばらく震える手を机の端に掛ける。だが、しばらくしているとその手から力が失われ、だらんとまた元の位置に戻った。
それから数秒彼女は呆け、我に返ったようにまばたきしてから総一郎たちを見て、言った。
「……おや、アンタら誰だい?」
「……」
「いやだなぁおばあさん、お話を聞いてくれるって、さっきここまで連れてきてくれたじゃないですか」
「あぁ、あぁ、そうだったねぇ。あんた、Jの新しい友達かい? そちらの人は、ん、んん? どこかで見たことあるねぇ……。何だか、見てて腹の立つ顔だ」
「ヒューゴ・イキオベと申します、ご婦人」
これはタフな交渉になりそうだ。そんな考えが、総一郎とイキオベさんで一致したのが分かった。それからまたイキオベさんは自己紹介を繰り返し、用件を述べる。
幸い、今度はJの祖母が呆けてしまう事はなかった。
「あんたが? アタシに? 頼み事? 一体全体、何の義理があるってんだい! 憎き息子の仇に、一セントの得だってさせてやるもんか!」
まっとうな返答。それがくるだけで、総一郎たちは胸を撫でおろす気持ちだ。「何がおかしいんだい!」とJの祖母は言うが。
イキオベさんは、説明を始める。
「私は、亜人差別をなくしたいのです。そのことを訴える演説には、それにふさわしい場所が要る。そして、その権利者があなたなのです。分かりますか? あなたが、そしてジェイコブくんが差別されるこの現状を、変えたい。その為には、広場を貸していただきたいのです」
「訳の分からないことを抜かすんじゃないよ! あなたの為です、なんてのはね、詐欺師の常套手段なんだよ! 聞く耳持たないね!」
「ご婦人」
イキオベさんがさらに語り掛けようとするのを、総一郎が制止する。「どうしたんだい?」とイキオベさんが質問してくるから、小声でこう伝えた。
「イキオベさん、論理的に訴えるのは下策です。おばあさんは言葉尻だけを認識して拒否してるだけです。イキオベさんの説明の内容を、理解していません」
「……なるほど」
イキオベさん、戦慄である。無論総一郎も同様だ。認知症の相手との交渉なんてものがこの世にあるとは思っていなかったが、これほど難儀なものだとは思っていなかった。
カバラがなければ序盤で終わっていただろう。そもそも、土台無理な話なのだ。普通認知症の人間の有する土地への働きかけなど、代理人を立てて行うような交渉である。しかし唯一の肉親であるJは、祖母からJと認識されていない。
しかし、それでもイキオベさんに諦めるという選択肢はないようだった。考え込んで、どうやってJの祖母を説得しようか考えている。
その間をつなぐ役目を、総一郎は請け負った。この場は、イキオベさんが交渉することに意味がある。総一郎がアナグラムを合わせて、それこそ詐欺師のように土地を一時的に借りるのでは、意味がない。
「それでさ、Jって声掛けたらとっくに姿がなくて、置手紙をみたら『勉強の所為で頭痛くなったから走ってくる!』って」
「ははは、Jは勉強が嫌いだからねぇ。将来はスポーツ選手になるって言って聞かないんだよ。アタシら亜人には、土台無理な話だってのにねぇ」
笑い話のような切ない話のような絶妙な雑談を交わしながら、イキオベさんの思考がまとまるのを待つ。
イキオベさんがぴた、と静止した時、来た、と思った。
「ご婦人」
「あ? 何だい急に、というか、あんたムカつく顔だねぇ。どこかで見たような気がするんだが」
「償わせて、いただけませんか?」
「……償う?」
Jの祖母は眉をひそめる。アナグラムが、変動するのが分かった。先ほどこの老女が混乱してしまったときとは真逆。強い感情に触発され、その脳に血が巡る。
「償うって、何だい。悪いと思ってるのかい? あんた、さっき謝ろうだなんて思ってないって言ったじゃないか。アタシはそれで正しいと思ったんだ。ウチのバカ息子は確かにアタシら亜人の命綱だった。だが方法が間違っていたのはアタシだって認めてる。その所為であんたらJVAが宴を潰したとき、あんたを嫌いになりこそすれ、恨んだり憎んだりするようなことはしなかった」
Jの祖母は瞳を怒らせて立ち上がった。その高ぶる憤怒はその体躯を一息に狼に変貌させる。総一郎は、思わず息をのんだ。見下ろすほど小さかったはずの老女は、狼となった今Jの狼男の姿こと、ウルフマンをも覆うほどに膨れ上がっている。
「でも、あんたが悪いと思うのなら、話は別だよ。何せ、あんたの所為だって言うんだろ? 息子が居なくなったのも、孫が飢えるのも、孫の友達が変態に殺されかけたのも、あんたが悪かった所為だって言うんだろう? なら、アタシはアタシの形でこの恨みを果たすさ。この場であんたを八つ裂きにして、その肉を食い散らかしてやる」
その声色は恐ろしき獣。その瞳は闇でも目立つほどの異形。その天井を覆うほどの体躯に、しかしイキオベさんは怯まなかった。
「ええ、私は申し訳ないと思います。モンスターズフィーストを解体したことではありません。モンスターズフィーストを解体した後、あなたたちアーカムに元々住まう亜人の皆さんに、救いの手を差し伸ばさなかったことを、あなた達が困窮していることを知ることのできなかった自分を、申し訳なく思うのです」
ですから、その償いをさせてください。その言葉に、Jの祖母は沈黙した。だが、アナグラムは動いていた。認知症を患った老女は感情の渦の中で、老化した脳細胞を活性化させて考える。
そして、問うのだ。
「何で、あんたが申し訳なく思うのさ。アタシらがひもじい思いをしたのは、アタシらが間違った商いをしていたからだ。アタシらがキチガイの警官たちに殺されながら何も出来なかったのは、アタシらが弱かったからだ」
「そうです、あなたたちは弱かった。それは事実でしょう。ですが、社会は弱者を守るための機構です。我々は日本人ですが、アーカムに受け入れてもらった恩がある。その恩を、弱者たるあなたたち亜人にこそ返さねばならなかった」
「……」
Jの祖母は、じっとイキオベさんの目を見つめていた。イキオベさんは、ダメ押しのように「償わせていただけませんか?」と頼み込む。すると、唸り声のように置いた女狼は「そうだねぇ」と口を開いた。
「あんたがそこまで責任を負おうとするのなら、少しくらい手伝ってやるのも、悪かないかねぇ……」
狼は、小さな老女に戻っていく。それから小柄な姿に戻って席に納まったJの祖母は、どこか優しい目でイキオベさんを見ていた。
「アタシが持つ土地を使いたいってんなら好きにしな。貸し出しでいくらか面倒な手続きが必要なら、その辺りは任せるよ。あぁ、久しぶりに狼になったせいで体の節々が痛いったらないね。アタシは眠らせてもらうよ。ほら、出ていきな」
「……ありがとうございます」
イキオベさんに倣い、総一郎も腰を折る。するとJの祖母は「そっちの坊やは、いい加減Jに家に帰ってきなって伝えておくれよ。もう、何年も見ていないような気がするんだ」と言う。
「おばあさん、もしかして」
「何だい? ん、嫌にここの床がギシギシ言うと思ったら、随分古びてるじゃないか。変え時だねぇ。マナちゃんが来てくれたら頼もうか……」
言いながら、Jの祖母は寝室へと引っ込んでいく。総一郎はアナグラムで確信を得ながら、イキオベさんと共に家を出た。
近寄ってくるのはJだ。どこか不安そうな顔で「何か同属の匂いがさっきすげぇ強くなったんだけど、もしかしてばあちゃんが狼に変身しなかったか? 大丈夫か?」と尋ねてくる。
「ああ、少し変身なさったが、すぐに落ち着いてくれたよ。そして喜んでくれ。君のおばあさまは、演説用の土地を貸し出してくれることを了承してくれた」
「……マジかよ。イキオベさん、アンタすげぇんだな」
「いいや、交渉が失敗しそうな時、全て未然に防いでくれた総一郎君のお蔭だとも」
イキオベさんが、総一郎に視線を向けてくる。それに従ってJも総一郎を見たから、少年は親友へと助言するのだ。
「J、今日はおばあちゃんに会って来なよ。疲れてるみたいだったから、お夕飯を作ってあげたら?」
「はぁ? おいおいイッちゃん。さっきおれ言ったろ。ばあちゃんは」
「いいから、会ってきなって。後悔させないからさ」
「……分かったよ。でも、すぐ追い出されて出てくると思うぜ」
「そしたら一緒にミヤさんとこでご飯でも食べよう。待ってるからさ」
「お、じゃあそうすっか」
じゃあ少し行ってくる。そう言い残しておずおずと家に入っていくJを見届け、総一郎は「じゃあ帰りましょうか、イキオベさん」と催促だ。
「いいのかい? 今約束していたじゃないか」
「はい。でも、もうJは、今日あの家から出てきませんから」
「……それは」
「イキオベさんのお蔭ですよ。イキオベさんにしか出来ないことでした」
イキオベさんは、僅かに考える様子を見せた後、ふっと力を抜いて口元をほころばせた。
「そうか。ならば、今日ここに足を運んでよかったね」
「はい」
穏やかに微笑を交わして、総一郎たちはその場を後にした。Jの家から聞こえてくるにぎやかな笑い声を、背いっぱいに受けながら。




