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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
自由なる大国にて
232/332

7話 死が二人を別つまでⅩⅩⅩⅣ

 目が覚めると、薄暗がりの中ナイがこちらをのぞき込んでいた。


「おはよ、総一郎君」


「……お早う、ナイ」


 挨拶を交わすと、そのまま彼女は唇を求めた。濃密な愛の交差。唇同士がふれあい、舌が重なり合い、そうやってお互いの中に愛を探しあう。


 十数秒の間そうして、ナイはひとまずの満足を得て離れた。それから総一郎の顔を両手で挟み、総一郎の額に自らの額をくっつけてくる。


「やっと、やっとだね。やっと、二人きりになれる。ボクたちたった二人きりの世界に、落ちていける」


「……うん。やっと地獄へ行けるね、ナイ」


 そういうと、ナイは額を離して、僅かに寂しそうに微笑んだ。カバラでこの違和感の正体を探ることは出来るだろう。だが今の総一郎に、その気力はない。


 脱力。この監禁生活の中で、総一郎はじわじわと骨抜きにされた。体の中で争い合う二つの修羅にエネルギーをすべて奪われ、簡単な動作以外は出来ない状態になっていた。


 ウルフマンの情報をカバラで分析するのが、最後の大仕事だったと言っていい。それ以上は、もはや意識を向けるのも疲れ果ててしまうほどだ。


「さぁ、行こう? 総一郎君、立てる?」


「今日は、自分で立つよ。何せ、晴れ舞台だからね」


「……あは、嬉しいな。総一郎君がそんな風に言ってくれるなんて」


 上体を起こそうとして苦戦する総一郎を、ナイはさりげなく引っ張って補助をする。そのまま抱き着いてきて「役得役得~」と総一郎の胸元で顔をぐりぐりと。


「ナイが邪魔で起きれないね」


「まだ夕方だし、時間あるよ。二人でゆっくりしよ?」


「邪魔だから退いてくれるかな」


「こんな時でも素っ気ないの寂しい」


 むん、とへの字口になってむくれる様は、ふざけているようで、素直に甘えているものだ。昔に感じた含みを、今は感じない。その必要もないのだろう。もはや完全に手中に落ちている以上、無駄に惑わせる意思がそもそもないのだ。


 つまりそれは、ナイという“人間”の本質そのままに接しているという事だろう。


「……分かったよ。少しゆっくりしようか。俺もまだ眠いしね」


「やったぁ」


 ふにゃふにゃとした口調で喜んで、総一郎の上にまたがってぴったりとナイはくっついてくる。どこか幼いスキンシップは、キスの時の妖艶さとは真逆だ。外見相応、という感じがする。


 そんな彼女を、柔らかな手つきで抱きしめ返した。頭を撫でたり頬に触れたりすると、くすぐったがるように身じろぎし、それから恥ずかしげに微笑する。


「ここ最近、甘えん坊になったね、ナイ」


「もう勝負は終わったもん。敗者は勝者を甘やかさなきゃならないんだよ」


 ナイはその言葉が大義名分とばかり、総一郎に撫でることをねだった。そんな風にして、しばらく何でもない時間を過ごす。かつてはよぎった多くのことが、もはや総一郎の中から失われている。何に未練があったのか、何を忘れているのか、全てが遠い。


 覚えているのは、今日、総一郎が自分自身の罪を背負って死んでいく。それだけだ。


 だが、一人ではない。地獄に、たった一人で堕ちていくわけではない。この腕の中に、ナイがいる限り。


「ナイ」


「何? 総一郎君」


「愛してるよ」


「……うん、ボクも愛してる」


 僅かに頬を紅潮させながら、ナイは表情をさらに柔らかくする。顔を近づけてきたから、唇を交わした。先ほどとは違い、触れるだけのそれ。こちらの方が、真実という気がした。これ以上は、ナイにとって余計な背伸びであると。


 そうしていると空腹を感じて、ナイに連れられ部屋を出た。首に包帯を巻いた信者に連れられ、景観のいい室内庭園へとたどり着く。


 中心のあずまやへ案内され、洒落た椅子に腰かける。それだけでそれなりに疲れて、総一郎は溜息を吐いた。


「最期の晩餐は用意してございます。ごゆるりと、シスター・ナイ、ソウイチロウ様」


 その言葉を最後に、信者は足早に去っていく。ナイは椅子を総一郎の真横に近寄せて座り、「疲れた?」と尋ねてくる。


「うん、少しね。少しだけ、疲れた」


「食べさせてあげようか。ボクも総一郎君のこと甘やかしてあげる」


「……じゃあ、お願いしようかな」


 頷くと、嬉しそうにナイはナイフとフォークを操って、夕食を総一郎の口に運び始めた。そうしながら、彼女は今日の予定を話し出す。


「結婚式はね、夜にすることになったよ。夜に、式場にみんなを集めて、彼らの前で死後永遠に続く愛を誓うんだ。それから二人で口に毒を含んで、キスをするの。そうやって、ボクらは死んでいく」


「思った以上に乙女な死に方なんだね」


「だって人生最初で最後の結婚式だもん。出来る限り素敵にしたいでしょ?」


「そうだね。……勝者の望むままに」


 口を開く。ナイがオムレツを一口サイズに切って総一郎の口元まで運ぶ。咀嚼。味そのものは感じるが、それが美味しいのかどうかを判別できるほどの元気はない。


「もう、いいかな。満腹だよ」


「ダーメ。今日は衣装選びとか色々とあるんだから、少しでも体力つけなきゃ」


 そんな風に食べ物を口元に押し付けてくるものだから、仕方なく総一郎は用意された分すべてを完食することになる。少し前はこんな程度では腹の足しにもならなかったのに、という思いは、浮かんで僅かもしない内に掻き消えた。


 食後また先ほどの信者が現れて、二人を案内する。どこへ連れていかれるのかと考えていると、ナイとは別の部屋に入るように指示を受けた。二つ並ぶ小部屋の、右に総一郎、左にナイ。


「じゃあ、準備が終わったら会いに来てね」


 その言葉を最後に、ナイは部屋に入っていってしまう。総一郎はぼんやりとしていると、「では準備のお手伝いをさせていただきます」と信者が総一郎を右の部屋に押し込んだ。


 それから、信者の指示通りにのろのろと動いていると、テキパキと彼女は総一郎の寝間着を脱がせ真っ白なスーツを着せ始める。見れば他にもメイク用具らしきものが散見されるあたり、式の前の準備室だったのか、と遅ればせながら理解した。


「いいですか、ソウイチロウ様。基本的に難しいことを要求されることはありません。マザーヒイラギの言う事に、『誓います』と返せばことは全て進みます。いいですね?」


「ええ……分かりました」


 着せられる、というだけでも中々疲れるが、彼女も仕事でやっているのだろう。邪険にすることはない、と少しでも快く仕事をしてもらえるように、総一郎は努めて笑みを向ける。


 その所作に、彼女は微かに逡巡の気配を見せた。何故だろう、と見上げるとすでにその気配は消えていて、「では少し失礼しますよ」と総一郎の両目の瞼を上下に引っ張る。「口を開いてください」と言っては、何か鉄製の器具で舌を下に押さえて、喉の奥を確認する。


「はい、結構です。ではこれで着付けの方は完了です。何か気になることはありますか?」


 部屋の姿見に目を向けると、真っ白なスーツをきた総一郎の姿がある。少し痩せたかな、と思うが、よく分からない。ネクタイはキチンとしているな、と思って、何かを思い出しかける。


「……ネクタイが気になりますか?」


「いえ……、綺麗に結ばれているな、と思っただけですよ」


 大切な誰かに、以前にも結んでもらった記憶がある。誰だったかな、と思うが、やはりピンとは来なかった。


「では、シスターナイ――花嫁のドレスを見に行ってはどうですか? きっと待っていますよ」


「そう、ですね。では、行ってきます」


 椅子を杖替わりに立ち上がる。バランスを崩して転びかけたのを、信者が慌てて支えてくれて助かった。壁に軽く手を当てながら歩く。隣の部屋の扉まで数十秒かけて移動し、ノックを三回繰り返した。


「はい」


 違う信者らしき人が扉を開ける。彼女はノックの主が総一郎だと気づいて、人差し指を口元に当てながら、すんなりと部屋へ招き入れた。


 部屋の中央、そこには、特注らしい小さなウェディングドレスをまとった花嫁が、椅子に座りメイクのために目を瞑っていた。


「……」


 思わず、見惚れてしまう。あの小さなナイが、華美な黒いウェディングドレスで過不足なく飾り立てられている。その様は意外なほどに似合っていて、睡蓮の花そのもののようだとすら感じられた。


「シスターナイ、よくお似合いですよ」


 うっすらとしたメイクを終えたもう一人の信者が、作業を終えてナイに語り掛ける。目を開けた彼女はしかし、ひどく冷淡な声で「ご苦労様」と告げた。


「……何で笑ってるの? 君が笑う原因なんてどこにも――」


 そこでナイはハッとして、扉の方向へと目をやった。総一郎は手を上げて「やぁ」と挨拶。


「あっ、やっ、ちょっと! 総一郎君が来てるなら、言ってくれてもいいでしょ! もう……!」


 ほほを赤く染めて、ナイは恥ずかしがる。それに総一郎は信者に手を取られながら近づき、笑いかけた。


「びっくりしたよ。見惚れちゃったくらいだ。綺麗だよ、ナイ」


「……そう、かな。ほら、ボクもう何年も成長しないままだから、ちょっと不安だったんだけど」


 照れを誤魔化すかのように、ナイはスカートの端を持ち上げていじくり始める。それを元気づけるかのように、総一郎は彼女の手を取った。


 小さい、と思う。何から何まで、ナイは小さい。だというのに、彼女は総一郎の地獄に付き合ってくれるという。


 万感の想いがあった。それを言語化するのはとても難しくて、ただ総一郎は繰り返す。


「不安に思う事なんて何もないよ、ナイ。今の君は、とっても綺麗だ」


「そう、かな。ふふ、でも総一郎君がそう言ってくれるなら、十分かな」


 ナイの小さな手が、総一郎のそれを握り返した。ドレスをいじる手は止まり、上目遣いに見つめてくる。


「式はこれから三十分後に執り行われます。少し時間がありますが、リハーサルをしますか?」


 信者の言葉に、ナイはむっとした様子で総一郎から目を離す。総一郎も信者の彼女を見つめて、「そうだな」と言った。


「『誓います』だけでいいとは言われたけど、いざ本番で緊張してミスはしたくないしね。やっておきたいです」


「えー? 要らないよ総一郎君。それよりボクとイチャイチャしよ?」


「って言っても……」


 総一郎が困った顔になると、「仕方ないなぁ」とナイは立ち上がり、キスをしてきた。彼女の小さな舌が総一郎の口を割り入り、舌同士が触れ合う。


 途端、知識が流れ込んできた。粘膜越しに総一郎の中に式の段取りのやり方が伝わってくる。ナイが口を離したときには、すでに何百と練習したかのような自信が総一郎の中に備わっていた。


「……これ、便利だね」


「でしょ? これで総一郎君との過ごす時間は確保できたね」


 ほらほら、邪魔ものはでてけー。とご機嫌なのを隠さず、茶目っ気たっぷりにナイは信者たちを部屋から追い出した。彼女らが退室したのを確認してから、笑いかけてくる。


「んふふ、総一郎君。二人っきりだね」


「ここ最近は二人っきりじゃなかった時間の方が少なかったと思うけど」


「もー、そういう生意気言わないの。総一郎君はボクとの二人っきりが嬉しくないの?」


 ふくれっ面で顔を寄せてくるから、総一郎は啄むようなキスを一つで不意を突いて、微笑みかけた。


「嬉しいよ、ナイ。君とこうして何の打算もなく話せている今が、堪らなく嬉しい」


「……ここまで、長かったね」


 そうだね、と総一郎は頷く。これまでは、腹の探り合いだった。仲良くなっていくその最中でさえ、疑いを捨てきれない関係だった。一度思い切って疑いを捨ててみたこともあったが、その時はナイの意思に反して無貌の神が嘲笑った。


「君の隣に居られないのは、とっても辛かったよ、総一郎君。こんな形にセッティングするのも、君の心を独占するのも、本当に大変だった。でも、だからこそ今が幸せなんだ。無貌の彼ももう文句を言わないし、他の要素も全て封じた。これで、正真正銘二人っきり」


 総一郎が首を傾げると、ナイは「君が浮気性なのが悪いんだからね」とむくれて見せる。それからすぐに相好を崩して、抱き着いてくる。


「ね、キスして」


「どうしようかな」


「いいから」


「仕方ないな」


 差し出される唇に、総一郎も唇で触れた。何度か互いに啄みあう。柔らかいと思う。柔らかくて、薄くて、儚くて。


「総一郎君」


 ナイは名を呼ぶ。


「ボクね、総一郎君に選んで貰えるなんて、思ってなかったんだ。ボクの幸せは、それまでずっと、君に殺されるその瞬間なんだと思ってた。君がボクを殺す瞬間だけは、きっと君はボクの事だけを想ってくれるって。ボクの破滅の一瞬だけが、ボクの幸せなんだって」


「じゃあ俺は、死ぬ前に君を幸せにできたのかな」


「あは」


 分かってる癖に。とナイは意地悪に笑う。だが、嗤ってはいなかった。もうナイは、あの表情を総一郎に向けることはないのかもしなかった。

















 午前零時を回って声がかかり、総一郎は扉を開いた。


 結婚式場は、暗がりの中にあった。光源は壁と中心の道沿いに設置された蝋燭、そして月明かりが弱弱しく神前を照らしているばかり。


 母から遺伝した天使の目がチャペル全体を鮮明に捉えていたが、そもそも視界全体に霞みがかっていては意味がない。朦朧とする意識をどうにか立て直し、総一郎は歩きだす。


 背後で重く扉の閉じる気配があった。目の前にずらりと列席するのはノア・オリビアの信者、信者、信者。最奥にはマザーヒイラギと呼ばれるノア・オリビアのトップが、神父面でニンマリと総一郎を見つめている。


 教会の中央道をまっすぐに進むと、最前列から数えて三つ目の列の席の辺りからうめき声が聞こえた。ちらと目をやると、猿轡をされベルに動けないよう掴まれた白羽、シェリルが総一郎を見つめていた。総一郎は、静かに息をのむ。何故忘れていたのだろうと思う。


 ――しかし、償うにはもう遅い。


 総一郎は、もう決めてしまった。そして敗北してしまったのだ。白羽たちが見るからに虐待を受けた痕跡があるのなら話は別にしても、ただ拘束されているだけなら、今の総一郎に何かを言うつもりはない。


「謝る資格すらないけれど、それでも、ごめん。白ねぇにも、シェリルにも、何も出来なかった」


 言って、言い捨てて、総一郎は歩ききった。マザーの前に到着し、振り返る。その過程で不意に脱力が来て倒れかけるのを、マザーの掴む手が止めた。


「おおっと、けひ、困りますわ。どれだけ体力が尽きかけていたのだとしても、式くらいはしっかり務めていただきませんと」


「……分かってるさ」


 今の総一郎には、指さえ満足に動かすことも難しい。立ち続けられるのも、ひとえに気力の為だった。


 しかし、たったそれだけの言葉のやり取りで、マザーは奇妙そうに目を見開いた。総一郎も疑問に見つめ返すと、マザーは「なるほど」と微笑した。


「未来が読めないというのは、それだけで不思議な気持ちになるんですのね。人間を愛するだなんて我が同胞も酔狂なことをと思いましたが、これなら狼さんよりもずっとからかうのが面白かったかもしれませんわ」


「おお、かみ……Jのこと?」


「忘れてくださいな、同胞の恋人。彼はもういません。彼らには彼らの愛の物語があった。それだけですわ」


 普段の総一郎ならすぐに理解しただろうその含みも、今は頭が回らずただ首を傾げるしかない。マザーはただ「よくここまで仕上げましたこと」とだけ呟いて、総一郎から視線を外した。そして大声で宣言する。


「では、つぎに新婦入場を執り行いますわ」


 自動で閉ざされていた扉が再び開かれ、現れたのは二人の影だ。片方は背が高く、黒い肌の燕尾服の男。そして彼に手を取られたナイが、顔を黒いヴェールで覆って立っていた。


 ヴァージンロードに立つナイを、改めて美しいと思う。小さな花が精一杯に黒い花弁を広げているようないじらしさで、ナイはしずしずと歩き進む。


 それに合わせて、荘厳な音楽が流れ始めた。聞きなれない音楽に誰もが身を跳ねさせ、震え始めるほどの衝撃を受けたようだったが、不思議に総一郎への影響はなかった。


 ただナイを、音が、ドレスが、あらゆる角度から飾り立てている。


 二人が総一郎の下へたどり着いた。暗がりの中のナイが月明りに照らされ、黒く華々しいその姿が露わになる。黒い肌の男はナイの手を総一郎に託しながら、低い声で嗤った。


「我が化身を、矮小なる人の身でよくもここまで誑かしたものだ。あっぱれと言わざるを得ない。是非向こうで幸せにしてやってくれ」


「はい。――ナイ」


「……うん」


 よろけそうになるのを、ナイは絶妙に総一郎の手を掴んで微調整し防ぐ。背後では信者たちが、泣き叫びながら音楽に合わせた賛美歌を歌っていた。音圧がビリビリとかんじられるほどになって、一つ一つと蝋燭が消えていく。


 最後に残った光源は、月明りのみとなった。総一郎とナイ。日付代わりの闇の中、二人だけが月に祝福を受けて輝いている。五月蠅いほどの音の渦の中、しかし月明りの中だけは不思議な静寂が存在した。


「神は言いました。この世に、意味などないと」


 マザーは、古びた異様な雰囲気を醸す本の一節を読み上げる。


「あるのは混沌であり、闇であり、そして霧のみ。不可解にして不可視にして不干渉なるこの世をして、神は宇宙とし、そして夢とされました。ならばこの世に生まれ落ちるものは、すべてそのいずれかの性質を受け継いでいるはずでしょう」


 そこまで言って、マザーは闇の中からナイに笑いかけた。


「そして、ここに誓われる愛もまた、不可解にして不可視にして不干渉なるこの世の真理の一つです」


 讃美歌が終わる。信者たちが半数近くが、全身から血を流しながら椅子の上に倒れ込んだ。マザーは、ナイに問いかける。


「シスター……いえ、花嫁ナイ。あなたはここにいるソウイチロウを、苦しきときも、辛きときも、狂いしときも、壊れしときも、死後永遠に愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」


「誓います」


「新郎ソウイチロウ。あなたはここにいるナイを、苦しきときも、辛きときも、狂いしときも、壊れしときも、死後永遠に愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」


「誓います」


「では、指輪の交換を」


 向かい合う。指輪などしていたか、と右手を見ると、薬指に真っ黒でシンプルな指輪があった。宝石が位置するはずの場所には、やはり漆黒で、赤い線の入った小さな不格好な多面体がつけられている。


「新郎、花嫁へ指輪を贈ってください」


「はい」


 ナイの差し出した左手の薬指に、外した漆黒の指輪をはめる。細くて、短い指だった。総一郎は、ひどく丁重な手つきでナイへと指輪をはめる。


「ふふ、総一郎君、緊張しすぎ」


「……この晴舞台に、大切な花嫁さんだからね」


「新婦、花婿へ指輪を贈ってください」


「……はい」


 喜びをかみしめるような微笑みで、ナイは頷いた。ナイもまた同じデザインの指輪を、総一郎の左手薬指にはめる。


「では、誓いのキスを」


 言いながら、マザーはナイに小さな瓶を差し出した。ナイは受け取り、軽く口に含む。それからヴェール越しにまっすぐに総一郎を見上げてきた。


 総一郎は、想う。月明りに照らされる、睡蓮めいた小さな花嫁を。ただでさえ病的に美しいこの小さな毒婦が、黒い花びらで着飾って共に地獄への旅路を歩もうとしてくれていることを。


 そっと、顔にかかる黒いヴェールを上げた。すると、見慣れたあどけない顔が覗く。思わず、総一郎は頬が緩むのを感じた。


「本当に綺麗だよ、ナイ。愛する君と地獄へと落ちていけるんだ。俺には、もったいない幸せだよ」


 ナイはその言葉に目を細め、満面の笑みと共に涙を流す。その珠のような涙に、総一郎は愛おしさを耐えきれなくなった。小さな花嫁の顎を取り、唇を近づけ――




「この結婚、ちょっと待った、です」




 その一言は、チャペル中に響いた。総一郎は、息をのんで声の元へ視線を向ける。そこには、全身を黒いスーツで包んだローレルが立っていた。


「……え、ロー、レル?」


「あら、とんだ邪魔者が現れましたわね。あなた、何処の誰ですか?」


 僅かな苛立ちを感じさせる声で、マザーはローレルに問いかける。だが、肝心のローレルは教会内の血なまぐささに辟易したのか、顔をしかめて手扇で臭いを払う仕草だ。


 つまり、まるっきり相手にしていない。


「案の定と言いますか、随分おぞましい結婚式ですね。率直に申し上げてこんな結婚式あり得ません。センスを疑います」


「え、いや、ローレル……。君、何でここに。俺、君の記憶を」


「ソー」


 落ち着いていて、しかし不思議に通る声で、ローレルは総一郎の名を呼んだ。


「質問させてください。あなたは、これで良いのですか?」


「これで、いいって」


「冷静になって見てください。拘束されているお姉さまを、あなたを慕う妹分を。あなたがその邪神と寄り添って死んで、二人が無事に解放されると思うのですか?」


 総一郎は、改めて白羽を見る。シェリルを見る。猿轡をされて拘束された彼女らの人権を保障するものは、ここにはどこにもない。それから、視界が晴れる思いをした。チャペル内に充満する、あまりに鉄臭い血の空気。ほとんどが死に、生き残っている信者さえ苦しげにうめいている者ばかりだ。


「ソー、あなたはこんなひどい場所に、あなたの愛する人を置いていくのですか? あなたがその邪神を愛し、選んだことそのものを否定することはしません。ですが、その上で問います。愛を成就させる形として、あなたは、こんなおぞましい形で納得できるのですか?」


「え、ぁ。――……!」


 思考が、クリアになっていく。マザーが苛立ちを隠さずに、「あなた、何ですの? 『祝福されし子どもたち』じゃない癖に、何故運命が読めないの」と詰問する。


「ソー」


 ローレルは、気にもしない。ただ総一郎をまっすぐに見つめて、問うのだ。これでいいのか。こんな形で良いのか。――敗北の中で惨めな死と愛を選ぶのか。


 その時、しがみつかれる感覚に総一郎は見下ろした。見れば、ナイが顔を青ざめさせて、強張った、縋るような顔で総一郎を見つめている。


「……ローレル」


 総一郎は言う。


「俺は、それでも、負け――」




「負けてませんッ!」




 胸を突くような、強い語気だった。ローレルは、確かな語調でもって続ける。


「負けていません! ソーは、まだ決して負けてなんていません!」


「……ローレル、それは無茶だよ。ARFは半壊したし、グレゴリーだって“蘇った死者”や『能力者』そのものがノア・オリビアに居ない限り本気は出せない。もう、俺は負けたんだ」


 総一郎は首を振る。だが、ローレルは食い下がった。


「いいえ、負けてません。それを、今から私が証明します」


「シスターナイ。流石に、邪魔立てさせてもらいますわ」


 マザーは駆け出し、ローレルに鋭く変化させた爪を伸ばす。迅速な判断による接近。だが、それさえ遅かった。


 チャペル内のアナグラムは、ローレルの僅かな挙動と共に大規模な変動を始める。それはゆったりとした細かな角度調整。手に握られるは変哲のない拳銃。だが、引き金にかかった指が引かれた時、総一郎は言葉を失うしかなかった。


 膨大な桁数のアナグラムのすべてが、等しく0を刻む。


「邪魔者は、引っ込んでいなさい」


 ローレルは天井へ弾丸を打ち込んだ。その時点で、きっと勝負は決していた。


 弾丸は総一郎たちの頭上を穿ち、跳弾し蝋燭をかすめた。途端頭上の石天井に大きくひびが入り、チャペルが崩落を始める。落下してきた大岩がマザーの行動を阻み、慌てて立ち上がり出す信者たちの数人を気絶させた。


「ローラ!」


 焦燥に冷や汗を流しながら、ベルがローレルに向かう。その手にはすでにファーガスの剣と機構めいた特殊な弓が装着されていて、弓には矢がつがえられていた。


「君は、何てことをしてくれたんだ! 何の権利があって二人の結婚を」


「うるさいですね。そんなことを言ってる暇があれば、かかってきたらどうですか? そんな風にグダグダ言うようだから、ファーガスも救えないのです」


「ッ」


 ベルは目を剥いて、指から生える修羅の矢を放つ。それをローレルに防ぐ手立てはない。


「短絡的ですね」


 だが、ローレルは冷徹さを崩さなかった。


「一つ尋ねますが、ベル、あなたが私にカバリストとして勝ったことが、一度でもありましたか?」


 確かに、ローレルには修羅の矢をどうこうする術はなかった。――そう、ローレルには。


 そして、スーツを来た少女の眼前で修羅の矢は止まり、落ちる。


「え、何で」


「……ごめんなさい」


 ベルに肉薄していた影が、まず謝罪の言葉を述べる。そこに居たのは、両目を包帯で覆い、しかし服装がかつてのARFでの仕事着となった愛見だ。


「わたし、もうノア・オリビアにはいられません」


 彼女の手に握られた大ぶりのナイフが、空中に線を描いた。その途中にあったベルの剣を握る腕が落とされ、彼女は悲鳴を上げる。


「えっ、あっ、なん、何で、マナ」


「わたし、もう死を取り除こうなんて、思えないんです。一度きりの人生だからって、教えてもらって。だから、もうあなたとは共に歩めません、ベル」


 ベルの左腕の断面から、血が吹き出す。それでも修羅、敵を敵と認めたなら、彼女の行動に躊躇いはない。「嘘だ、マナ。一緒にやっていこうって、約束したじゃないか!」と叫びながらも、右手はスムーズに愛見を矢で射抜こうとする。


 しかし、それは邪眼よりも圧倒的に遅い。


「止まって」


 愛見の邪眼によって“停止”させられたベルは、硬直の後血を吐いて倒れ込んだ。「あなたは修羅ですからこの場ではトドメをさせませんが、ひとまずこれで動けないでしょう?」と言って、そのまま愛見は白羽、シェリルの拘束を解きにかかる。


「愛ちゃんナイス。じゃ、シェリルちゃん。このまま嫌がらせに掛かってもらえる?」


「いぇっさーぼーす」


 白羽の指示を受けて、シェリルは全身を蝙蝠へと変化させた。果敢にローレルの歩みを止めようとする信者たちの血を吸ってミイラ化させていく。


 チャペルは、そうして崩壊を始めた。崩落はノア・オリビア全体へと広がり始め、地下へとその余波を広げていく。ローレルは計算され尽くした瓦礫の落下の間を、まっすぐ歩きだす。


 ヴァージンロードが、信者たちの血を踏んだローレルの足跡で汚れた。踏みにじられながら、ローレルの歩みを許すしかなかった。


「何で」


 総一郎は、状況の変貌に戸惑っていた。困惑と共に、歩み寄ってくるローレルに問わざるを得なかった。


「どう、やったんだ。俺は、間違いなく君の記憶を破壊したはず。ローレル、君の中に、俺の記憶なんてもうカケラだって残っていないはずなんだ」


 総一郎の問いを受けて、ローレルは総一郎を見た。そして、表情を綻ばせる。柔らかな笑みで、からかうように言う。


「ふふ、馬鹿ですね。ソー、私が、二度もあなたとの大切な思い出を失うことを、許すはずがないじゃないですか。あなたとの記憶をキスで取り戻したら、すぐにクラウドにアップロードしてバックアップを取ったんです。電脳魔術、便利ですね」


 言葉に詰まる。そんな方法が、と思うが、改めて考えれば不可能ではない。


「で、でも、――君はこんなに強くなかったはずだ。俺の知るローレルは、何処まで行っても普通の女の子で、だから、俺の傍にいることは君の幸せにはならないって、だから!」


「だから、強くなったんです。あなたの傍に居られるように。そもそも、ソーは私に優しすぎます。弱い私を、あなたの傍においてくれないと――忘れていても、知っていました。それでこれまでずっと研鑽を続けたんです。誰よりも卓越したカバリストとなって、あなたの隣に居られるように」


「――ッ、それでもッ! ナイたちの未来視に、普通の人間が抗えるはずが――」


「ソー」


 ローレルは慈しむように、語り掛ける。


「あなたは、私のことを侮りすぎです。ソーの為だけに生まれ、ソーの為だけにカバラを極め、ソーの為だけにここにたどり着いた私が、『祝福されし子どもたち』の影響下にないとでも?」


 ハッとする。それから、総一郎はナイを見た。小さな邪神は瞠目しながら指先を震わせて、歩み迫るローレルから目を離せなくなる。口が堅く閉ざされているのは、毒をいまだ口に含んでいるからか。


「何度だって、言います」


 ローレルは、総一郎とナイの眼前に立った。


「記憶を失ってから、少し前にあなたと再会して、私はあなたに一目惚れしました。記憶は消えていましたが、体があなたを覚えていました。あなたと過ごしたあの一日のことを、今日この瞬間に何度反芻したかも分かりません。私には、あなたしかいません」


「……でも、ローレル。俺は、死ななきゃならないんだ。それほどの罪を犯して、もう、君と共に歩む道なんて」


「ソー、私はこれから、とてもひどいことを言います」


 え、と総一郎は後ろめたさに逸らした目を彼女に向けなおす。ローレルは、宣言した。


「“そんなの、知ったことじゃありません”。あなたが死ぬべき運命なら、私がその運命を捻じ曲げます。あなたがあなたを憎むなら、私があなたを愛します。私は、あなたに生きてほしい。私は、あなたと共に歩める未来が欲しい」


 総一郎は、その言葉に胸を打たれたような気持になる。だがその後にどす黒い感情が湧きあがった。


 それは、呪いだ。総一郎が総一郎自身へと向ける、憎悪と侮蔑、そして嫌悪だ。


「――なら、君は俺の敵だ。俺は誰が何と言おうと死ななきゃならない。それを阻むのなら、ローレル。君は、俺の敵になる」


 総一郎の強い意志でもって吐き出された自らへの呪詛を、しかしローレルは微笑みと共に受け止めた。


「分かりました。なら私は、あなたの敵となってでも、あなたの死を退けます」


 ローレルは総一郎の手を取って引き寄せた。衰弱した総一郎に、それを拒む力はない。だが、ナイがそれを許さなかった。ローレルが総一郎を説得する間にひそかに整えていた深淵の〈魔術〉が、一度にローレルへと牙をむく――


 ――かに、見えた。


「ローラさん、止めました」


「素晴らしい働きです、ミス・マナミ」


 愛見の邪眼は、ここでも猛威を振るった。状況そのままに、ローレルはナイの額に銃口を突き付ける。ナイは抵抗しよう体を変化させ始めた、無貌の神たるその異形はナイの内側から膨れ上がり、ドレスが歪に張りつめていく。


 それをローレルは、あまりに冷酷な声で咎めた。


「ウェディングドレスを破るなら、あなたは恋敵としてすら失格です」


 ナイはローレルの言葉に硬直してしまう。その隙を、ローレルが逃すはずがなかった。


 ローレルの放った銃弾が、ナイの頭蓋を打ち抜いた。吹き飛び、口の中の毒と血を吐きながら、小さな邪神は力なく地面に肢体を投げ出す。


 それでも、ナイは生きていた。彼女は、這いつくばりながら総一郎に手を伸ばす。総一郎はローレルに引かれる手を感じ、そして改めてナイを見下ろす。


「総、一郎君……」


 小さな黒い睡蓮は、泣き出しそうな顔で総一郎を見上げていた。小さい彼女。地獄へ連れ添ってくれるといった彼女。総一郎は――


「ごめん、ナイ」


 総一郎は、手を伸ばさない。


「俺はやっぱり、欲張りで負けず嫌いだ。俺は死にたい。けれど――それは今じゃない」


 ナイが、涙に目を剥いた。総一郎は彼女に背を向ける。


「まだ、俺にはやるべきことが残ってる。死んで罪を償うにしても、まだ楽になっちゃいけないんだ」


 衰弱した体の重心を、ローレルに預ける。


「それと、ローレル。俺は君も認めないよ。君が認める、俺の生を認めない。だけど、その力を今は利用させてもらう。俺には、俺の望む死がある」


「……口説き落とせませんでしたね、想定通りです。今はそれでいいので、ひとまず脱出しましょう」


 寂しげに笑うローレルに肩を貸してもらい、必死に歩く。後ろを見ると、必死に総一郎を呼び止め、叫び、泣きじゃくるナイの姿があった。


「――次は、俺の番だ。俺が、君を迎えに行く」


 総一郎が勝利に至るには、力が足りなかった。いざ衝突して分かった実力不足。それを埋めるには、もっと根源的な世界への理解が要る。ただ強い、ただ賢いのでは、そもそも勝負が成立しない。


 ナイが、崩落の中に消えていく。ノア・オリビアが終わる。突如として現れたおぞましき敵対組織が、終焉へと向かっていく。


 破れて意味を喪失したヴァージンロードを、ローレルの助けの元半ばまで進んだ。他のメンバーは、ローレル以外の控えに助けられて地上へと脱出したらしい。「私たちも急ぎませんと」とローレルが頑張る中、後ろから声が上がった。


「け、ひ、ひ、けひひひひひひひひ! やってくれましたわね! ああ、愉快ですわ! こうでなければ始まりません! ここから、あなた方の顔を、絶望で染めて差し上げますわ!」


 マザー・ヒイラギが、血だらけで、半分以上人外の体をさらして瓦礫を吹き飛ばし立ち上がる。立ち上るような触手の束は、舌を思わせるような造形だ。精神魔法での防御をかけていてなおビリビリと走る頭痛に総一郎は苦い顔をするが、ローレルは鼻で笑った。


「ソー、気にすることはありません。あれにも、策は打ってあります」


「策って」


「分かっているでしょう?」


 ローレルはニッと彼女にしては珍しい、格好つけた笑い方をする。


「無貌の神の化身は、本体そのものはさしたる脅威ではないんですよ」


「戯言はァ、これを防いでから言いなさいなァ!」


 触手の束は重なり合って、土石流めいた勢いと物量で迫りくる。軌道は直撃。総一郎には普段の機動力はないし、ローレルにも総一郎を抱えて避けられるようなことは出来まい。


 だが、この危機に相応しい彼は、ずっとこの時を待っていた。


 影が走る。目にも留まらぬ勢いで触手の束を通過し、総一郎たちに当たる前に爆ぜさせた。マザーはただ、目をパチパチと開閉させる。


 その背後に、狼は立っていた。


「よう、マザー。ちゃんと全身で会うのは初めてだな」


「なっ、狼さん、あなた体を取り戻して――ッ」


 首に包帯を巻きつけたウルフマンは、以前にも増して目立つ巨躯を震わせ、爪を伸ばし、力を貯める。


「ガタガタ抜かすのは性じゃねぇんでな。手短に――」


 左足の踏み込み、右腕の振りかぶり。狼男は、駆け抜ける。


「――言ったろ。引き裂いてやるって」


 獣の斬撃が、マザーの体を掻き破った。化け物めいた触手の姿も、その根幹たる年頃の少女の体も、一切合切その一撃が裂き、吹き飛ばし、ぼろきれ同然にする。


「ッシャア! ざまみろ拷問狂い!」


 その様に満足したらしいウルフマンは、握りこぶしを掲げた。マザーはその声を聞いても立ち上がる様子はない。正真正銘、痛恨の一撃となったのだろう。


 そんな狼男を、ローレルが労う。


「お疲れ様です、ミスタジェイコブ」


「その呼び方むず痒いからやめてくれよ。Jでいい」


「考えておきます。ソーが嫉妬しない範囲で」


「……しないとは言わないけどさ」


 微妙な顔つきの総一郎をスルーして、ローレルはまた一発の銃撃を。マザーが吹き飛んだ位置に、大量の巨大な瓦礫が降り注ぐ。「これでひとまずは動けないでしょう」と彼女は独り言ちる。


「ほら、二人ともそんなちんたらしてたら危ないぜ。イッちゃん、おれの肩も使ってくれ」


「助かるよ、J」


「何の何の! 親友だろ、気にすんなって」


 からからと笑って、ウルフマンは狼男状態から懐かしい人間の姿に戻り、ローレルの反対側から総一郎を支えた。それから、ローレルの案内に従い足早に建物の外へと退避する。


「お、出てきたね」


 出迎えたのは、白羽を始めとした多くのARFの面々だった。シェリルは総一郎の腹に向かって「ソウイチ~!」と抱き着いてきて、しばらく名前すら聞かなかったアーリはローレルに「仕込み終わったぜ、あとはボスの仕上げだけだ」と報告した。


「白ねぇ、これは……」


「ARFは負けない。それを、私が直接教えてあげる」


 白羽は手を組み、目を瞑り、「主よ」と始める。


「主よ、あなたがどれほど我らを見捨てようと、我らを唾棄しようと、我らはここにあり、ここに生きている」


 目が、開かれた。


「だから、見ていろ。我らの底力、この足掻きを」


 真っ黒な翼が広がる。黒い濡れ羽根が一枚風の中に巻き上がり、ゆっくりと白羽の眼前に止まる。


「そういえば、総ちゃん知ってる? 神は土から人間は作ったけど、天使は炎から作られたって」


 ふっ、と吹きかけられた息によって、黒い羽根はふわりと建物の方へと飛んでいく。それが接触した時、総一郎は息をのんだ。


 業火が、上がる。ノア・オリビアの終わりが、高らかに上がる炎の赤に彩られる。熱が建物の端々を歪ませ、崩落をさらに推し進め、何かに誘引され爆発音とともに大きく形を崩していく。


 白羽は全体へ向かい、高らかに言った。


「壊して、焼いて、首魁は心も体もボッコボコ。中々手ごわかったノア・オリビアだけど、今回もARFが勝利した! これだけ追い詰められてなお、私たちは負けなかった!」


 拳を握り、力強く掲げる。


「さぁ、全員で勝鬨だ! 全員、思いっきり叫べぇ!」


「「「「「ウォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」」」」」


 肌がびりびりするほどの大声で、誰もが雄叫びを上げる。誰もが、この高揚の中に身を置かざるを得なくなる。


「おぉし! この勢いで差別も打ち破りに行こう! けど今日は皆へとへとだから、とりあえず撤収! 体が即入院レベルの人も結構いるから、急ぐよ!」


 言うが早いか、白羽はノア・オリビア跡地から先陣を切って歩き出す。それに誰もがゾロゾロと続き、ARFの大行列が出来上がった。


 可憐な外見の癖に肩で風を切って、手で「行くよ!」と示す白羽。「あー疲れたぁ」と伸びをして続くアーリ。総一郎に肩を貸しながら、ノア・オリビアへ振り返って空いた手で中指を立てるJ。同じく並んで両耳に親指を入れて広げた手を振りながら、ベッと舌を出すシェリル。「下品ですよ」と二人を窘める愛見。そして思い思いに続く他の多くのメンバーたち。


 総一郎もまた参列しながら、これがARFか、と思う。アットホームで懐の大きな組織であることは知っていた。だが、実態はイメージ以上に強引で、やかましくて、情に厚い。


「……こんな頼もしくて、温かい集まりだったんだ」


「あったりまえだ。ARFは一枚岩。裏切ったって、許して迎え入れる。分かり合えるなら、敵とだって話し合う。だが――性根の腐ったクズには、絶対に負けねぇ」


 肩を貸してくれていたJが、満面の笑みを浮かべた。


「イッちゃん。お前が死にたがってたって、おれたち全員で止めてやる。だから存分に死にたがれ。お前が疲れて飽きるまで、付き合ってやるからよ」


「……そりゃまた、頼もしい限りだね」


 皮肉で返すと、「私のことを忘れてもらっては困ります」とローレルが少し拗ねた声で言う。それから「私のこともね!」とシェリルが後ろから腰のあたりに抱き着いてきて、「私も!」と先頭からこちらに向かおうとした白羽が「ボスまで病人に負担掛けんな!」とアーリに叱られる。


「イッちゃん、見ない間にモテモテですね」


 愛見にからかわれ、総一郎はがっくり項垂れて「もうそれでいいです」と溜息を吐いた。


 彼ら相手に、暗い雰囲気なんて保てない。


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