7話 死が二人を別つまでⅩⅩⅩⅢ
起きてから、ずっと考えていた。
今の自分に出来ること。それは、ナイの洗脳下にでもなければブレることはない。マナミの説得。頭しかないウルフマンにとっての、唯一の活路だ。
では、どう説得するか。場所は、状況は、切り出し方は、流れは、感情は、論理は。昨晩のイッちゃんの語らいまで積み重ねてきた、彼の思考の広範性の模倣だ。イッちゃんの指摘には常に根拠と論理があった。だから馬鹿なウルフマンでも、覚えていられる。
だが、この先はウルフマンだけで考える必要があった。イッちゃんから考え方のフレームワークを受け継いで、マナミの心に響く説得をしなければならない。それを組み立てるのに必要なものは、感情の論理だ。難しいが、不可能ではないと知っている。
「ゼロからやってのけたハウンドはすげぇよな」
ウッドをイッちゃんへ引き戻した立役者の中で、一番に感情の論理を活用したのがハウンドだったという。その話は他ならぬイッちゃんから事細かに説明を受けているから、感覚でも掴めていると信じたい。
そうやって、ウルフマンは説得の流れを構築した。満足なものとは言い難い。感情で生きてきたウルフマンには、論理がどういうものか分からない。
「それでも、やるしかねぇ」
口に出して言う。自分に言い聞かせる。その言葉をウルフマン自身への楔として、脳の奥深くへと打ち込む。そうすることで、退けなくなる。
夕暮れだった。終わりの夜が、近づいていた。
イッちゃんがナイと共に自決するという夜中を、ただ待つ。そんな時間帯だった。マナミは今日もいくらか仕事を任されていて、ウルフマンのいる彼女に自室には居ない。
だが、彼女の言葉を信じる限り、もうしばらくもしない内に帰ってくる。そこからが勝負だと、ウルフマンの心は僅かに波打っていた。
「……落ち着けよ、もうナイの茶々はねぇだろ。大丈夫だ。イッちゃんがつきっきりで教えてくれたんだから、うまくいく」
説得に不安を抱くのは、あの聡明な親友を疑う事に等しい。そしてそれは、ウルフマンの役割ではない。ウルフマンは、ただ仲間を信じる。親友を、ボスを、そしてARFを。
「だから、おれはおれの仕事をする」
心の中が凪いでいく。深呼吸をすると、波紋も立たなくなった。目をつむると、時が止まったような気持になる。目を開くと、マナミが居た。
「あ、起きましたねJくん。そろそろ式ですから、準備をしますよ」
手のひらの瞳をこちらに向けて、マナミは穏やかに言った。ウルフマンはその発言が、想定の範囲内であると認識する。
これから親友の弟であり、友人であるイッちゃんが死ぬ。
だが、それを感情の高ぶる要因でないと受け取るための論理が、マナミの中に展開されているのだと。
「マナさん、今日は何をしてきたんだ?」
ウルフマンのための物であるらしい蝶ネクタイを取り出したマナミに、ウルフマンは落ち着きと共に尋ねていた。マナミは狼の首にネクタイを取り付けながら「今日はですね」と答える。
「ARFの残りの人たちを説得しに行っていたんですよ。主にハウンドさんですね。本人は捕まえられませんでしたが、部下の方や銃火器を全て押さえることが出来たので、実質的に無力化できたのかなって思っています」
言葉の上では平和的だ。説得。しかしきっと、とウルフマンは掘り下げる。
「その部下たちの身内のゾンビを使ったのか?」
「はい。身内の方からのお願いを無碍にできる人は少ないですから。ハウンドさん本人は弟さんが死体すら残っていなかったので出来ませんでしたが……。悲しいことです」
悲しい。何が。ハウンドを“説得”出来なかったことではないだろう。ウルフマンは自分に念押す。感情の論理だと。感情を論理の俎上に置いて考えるのだと。
切り出すなら、今だと思った。
「マナさん、ちょっと話良いか?」
「? 何ですか改まって」
肩から下のないウルフマンにネクタイをつけるのが思った以上に難しかったらしく、微妙に苦戦しながらマナミは続く言葉を催促する。
「マナさん、目の事件の時は辛かったな」
最初は、本題を切り出さない。それが今回ウルフマンの決めた“話題の流れ”だ。マナミはきっと、結論から切り出せば聞く耳を持たないから。
「……懐かしい話ですね。でも、わたしはもう気にしてませんから」
「“強い自分”になったから、か?」
「はい、そうですよ。わたしは成長したんです。もうあの頃みたいにくよくよしたりすることはありません」
少し誇らしげに、マナミはネクタイ締めの仕上げにかかる。そんな彼女に、ウルフマンは素直に、しかし僅かな含みを持たせて賛辞を贈った。
「ああ、本当に成長してくれたと思う。おれなら目を抉られてしかも……、とてもじゃないが耐えられるもんじゃねぇよ。すげぇって素直に思うぜ」
「しかも」
「ん?」
「いえ、何でもありませんよ」
何かが引っかかったような態度だった。ウルフマンは、僅かに目を細める。
「その上両親も失って……。おれは今でこそ一緒に居ないが、どっちも生きちゃあいるからな。その意味で、マナさんの辛さを理解しきることはおれには出来ないのかもしれねぇ」
「……そうですね」
マナミの語気が落ちてくる。同時、ネクタイ締めが終わったらしく彼女の手が遠のいた。ウルフマンは手ごたえと共に、スムーズに次の話題に移る。
「でもその分、親の仇討った時は爽快だったんじゃねぇか? やってやったぜ! みたいなさ」
「はい、あの時はすっきりしましたよ。やってやったと思いました。あの時が、わたしにとっての一区切りだったと思います。復讐なんて無意味なんて話はよく聞きますけど、そんなことなかったですよ」
「そっか。それで、邪眼で殺した時の感覚が気になって、生死のそれこれを調べ始めたのか?」
「はい、懐かしいですね。没頭して邪眼を使うのも、死者蘇生という大仕事に取り掛かるのも、楽しかった……」
余韻を楽しむような口調で語るマナミに、ウルフマンは語気柔らかく肉薄する。
「その、さ、こんな事聞くのはどうかと思うんだけどよ、――あの時マナさんが本当に目指してたのは、両親を生き返らせることだったんじゃねぇかって、おれ」
「……やっぱり気づかれてしまいますよね。父と母を生き返らせようとしていたって」
少しバツが悪そうな声色で、マナミは言った。ウルフマンは、今や無い肩をすくめるような気持で答える。
「まぁ、そりゃな。それを思いつかない奴なんていないだろ」
「です、よね。ふふ、隠していたつもりだったんですが、バレちゃってましたか。――そうです。わたしは、どうしても両親を生き返らせてあげたかった。でも、それにはわたしの力だけでは及びません。ですから」
「ノア・オリビアについた、と」
「……そうなります。申し訳ない気持ちは、もちろんあります。たくさん、ARFに謝りたい人が居る。白ちゃんを始めとした皆さんは、まだわたしにとってとても大切な人で――でも、わたしはわたしの願いを叶えるためにノア・オリビアから離れられないんです」
静かな覚悟のこもった言葉で、マナミはウルフマンに語って聞かせた。狼は首肯し、いくらか聞いてみたいことを質問した。
「にしてもマナさん、あの時期は死者蘇生にめっちゃ凝ってたよな。シラユキの一件でピタッとやめたけど、結局魂ってなんだったんだ?」
マナミはシラユキを思い出したのか、懐かしげに相槌を打ってから奇妙そうに言った。
「魂とは何だって、ものすごい哲学的な話をしますね」
「そりゃマナさんが鐘鳴らしてエネルギー与えてるあのウィルオウィスプが魂だってんなら簡単な話だけどよ、腐った体に魂入れてゾンビになるなら、そういう体が腐っちまう病気とか怪我している人はゾンビなのかって話だろ?」
「でも、間違ってはいませんよ。死んだ体に火の玉だけ戻せばゾンビになります。ですから、あの火の玉は魂なんです」
「じゃあ、体が腐っちまう病気の人とゾンビの違いって何だ?」
「脳ですよ。脳が腐ってるかそうじゃないか。脳って体が死んだらすぐダメになりますから。だから脳さえちゃんとしていれば、ゾンビのようにはなりません。少なくとも意識はですけどね。でも脳が完全にダメだとゾンビにすらならなくて、例えば脳幹などは」
「でもさ、マナさん」
ウルフマンは問う。
「マナさんは多分、ゾンビに魂を入れなくても、動かせるよな」
「……そう、ですね」
マナミはそう相槌を打って、静かに上を向いた。それから、ぼそりと「もしかしたら」と言う。
「記憶、なのかもしれません」
「記憶?」
「はい。わたしは確かにゾンビに魂を入れなくても動かせます。けど、魂を入れたゾンビはその人にしかできない行動がとれます。体の動かし方などは脳が不完全ですからぎこちないですが、それでも魂なきゾンビはそもそも二足歩行からしてできません」
言われて、思い出す。ハウンドの弟のゾンビが、カバラを使ったという話をイッちゃんはしていた。記憶。そういう側面もあるのかもしれない。少なくとも、容姿が一変したとき、その人自身であると保証するために大抵記憶から参照される。
「それでなくとも、カエルからして死ぬ前と後じゃ行動が変わるもんな」
「セクハラですよ、まったく。Jくんは首だけになってから神経が図太くなりすぎです」
そこでマナミは時間の経過に気付いたらしく、「あ、急がなきゃ。もう、変な話ばかり振らないでください」とウルフマンを抱きかかえようとする。
狼は、核心に触れた。
「マナさん、邪眼で自分の記憶を消したな?」
「えっ?」
ぴた、とマナミの手が止まった。見上げると、表情が明らかに強張っている。手の震えがウルフマンの眼前に映った。今までに打った布石をすべて回収して、狼は少女の退路を断ちにかかる。
「悪いな、いくらかカマを掛けたんだ。そしたら驚いたぜ。全部引っかかってやがんだもんな」
「え、カマ……? 何がですか? わたし、記憶を消したりなんて」
「まず、マナさん。安心してくれ。マナさんは目ん玉を抉られただけだ。だけってのもおかしいが、それ以外の被害はない。次に、復讐な。あんな殺し方、実感がある訳ねぇだろ。あんときのマナさんの狼狽えっぷり、忘れねぇぞ。それがすっきりってのもおかしいよな」
「え、え……?」
そこまで説明して、マナミの表情に困惑が広がり始めた。手のひらの上で目が左右に泳ぐ。
「わ、わたし、記憶を消し、え……?」
「“強い自分”、だろ。強い自分になるために、弱い自分の要因を切り捨てた。それが今のマナさんだ。だから目ん玉抉られた辛すぎる記憶は消したし、復讐の時も人殺しへの忌避感とか、目の前の相手が復讐相手ってのも自分に忘れさせた」
だから覚えてねぇんだろ。そう問い詰めると、マナミは恐慌めいて顔を青ざめさせながら、震える左手のひらを彼女自身の方へ向けようと――
「やめろッ! これ以上自分を“殺すな”!」
ビクリとマナミは身を震わせる。それから、「こ、殺すって何ですか……?」とか細い声で聞く。
それが、ウルフマンには我慢ならなかった。
「マナさんッ、あんたが自分で言ったんだろ! 記憶は魂だって! じゃあ記憶を消すってことは、今のマナさん自身を殺してるようなもんじゃねぇか! 邪眼で、部分的に自殺してるようなもんだろうがよ!」
「え……あ」
マナミは後ずさって、背中から壁に寄りかかった。過呼吸気味に首を振って、左手を握り締める。
「そ、そんな、わたし、わたしは強い自分になりたくて。じさ、自殺なんて、ちが、違うんです」
「魂は記憶。そこに脳を要とした体が揃って、その人本人になる。マナさんの話じゃ、そういうことだろ。なら記憶を消すのは、それまでのマナさんを殺すってことになる。おれは、そんなこと許さねぇぞ」
「ッ」
許さない。そんな強い語気にあてられて、マナミに怒りの熱がともる。
「そんなのッ、わたしの勝手です! Jくんにいちいち許してもらう必要なんか」
だからここはあえて外すのだ。違う角度から、詰めに入る。
「マナさん、両親のこともうとっくに生き返らせたろ」
「……えっ」
それで、怒りの熱がどこかへ逃げる。その分のエネルギーが、ただマナミの中から失われる。カバリストと天使仕込みの鬼の交渉術だ。我ながらエグイやり口だ、と思わずにいられない。
「だって、そうだろ。前は脳も体も全部治せたけど、魂が確保できなかったから諦めた。でも今じゃ、魂だって何とかなる。そんな絶好のチャンス掴んどいて、マナさんが両親蘇生をしないとは思わないぜ。何せ、すでに材料は揃ってんだ」
「ち、違、わたし、両親を蘇生させてなんていませ」
「それで思い切り否定されて、その記憶も消したんだろ」
その一言を皮切りに、マナミから感情が抜けた。体全体から力が抜けて、手の目が反射のようにまばたきを繰り返す。
「ひて、い? 何を、ですか。生き返って、わたしの、何を否定するんですか」
「生き返らせたことを、だろ。苦しい思いして死んだ人間が、生き返らせられて、ありがとうなんていうと思うのか? ブチギレるに決まってんだろ。何で生き返らせやがったって、もう一度おれを殺すのかって、キレるに決まってる」
マナミは言葉を失った。それから、口を開閉させて必死に反論の材料を探す。ひとまずと言った風情に彼女は「な、なに、何を、根拠に」と口を開き、
「カバラだよ。イッちゃんが教えてくれた。マナさんの過去の話、マナさんに似た境遇の奴らのエピソード、一つ一つ明らかにしていきゃあ、そりゃアナグラムだって割れる。あとはカバラで計算するだけだ」
叩き潰す。それで、マナミは黙るしかなくなる。カバラは、数字をもとにした世界の分析、構築だ。そして数字は、究極の客観だった。カバラを知っている人間に、カバラは否定できない。
「マナさん」
けれど、黙るしかない人間は放っておけば殻にこもる。だからここですべきは、逃げ道を用意してあげること。
「おれの言う事がそれでも正しくないってんなら、邪眼で記憶を取り戻してみろよ。自分で消したもんだ。なら自分で取り戻すことも出来るだろ?」
袋小路になっている、逃げ道を。
「……そ、そう、そうですね。いいでしょう。わた、わたしが、嘘をついていないと、証明して、あげ、ます」
マナミは左手のひらを、自らへと向けた。荒くなる息も、手の震えも、躊躇いと焦燥の証だった。けれどマナミは逃げ道を行くしかない。霧の向こうに行き止まりが見え隠れしていても。
邪眼が、光を呑んだ。マナミの体が、跳ねる。
「あ、あぁ、ぁぁ……っ」
記憶を取り戻して、ARFを捨てでも両親を取り戻そうとしたマナミが、そこに蘇る。左手のひらから、滴が零れた。何だとウルフマンは眉根を寄せる。涙だと気づくのに、少し時間が必要だった。
「Jくん」
左手の瞳が、ウルフマンを捉える。
「あなたの、言う通りでした。二人は、わたしのこと、鬼子とか、悪魔とか、と、とてもひどい言葉で、わっ、わたしっ、二人のためにっ、二人のためにARFを裏切って! わたしっ、これじゃ、これじゃ何も、何も……!」
「……マナさん」
ウルフマンは嘆息する。悲しいことだが、これが真実だったという事だ。だが、これで説得にかかれる。要はマナミ自身が、こうやって引っ込みがつかなくなっていただけのことだ。だからそれを明らかにして、受け入れる姿勢をちゃんと示す。それで終わりだ。
それで終わりのはずだった。
「何で?」
マナミが、疑問に声を上げる。
「何でわたしは、こんなことを言うような人たちのために、ARFを捨ててしまったんですか?」
「は?」
マナミのその質問は、他ならぬマナミ自身に向いているようだった。それから、彼女はまた手のひらを自分に向け、邪眼を発動させる。過去の弱い自分自身を、さらにこの場に蘇らせる。
僅かな、身震い。
「お、おい、マナさん」
「……Jくん、一つ、聞いていいですか?」
顔が、向けられる。顔が、だ。目が包帯に覆われていて、見えないようになっている顔の方を、マナミはウルフマンに向ける。その様が逆転的に気味悪く感じたのが、自分でも不思議だった。
「わたし、今まで、人を殺しましたか?」
「……ああ」
「何人、ですか?」
「分からねぇ。……どうした。マナさん、何を気にしてるんだ」
「だって、わた、し、あんなに、人を殺して、あれっきりの話じゃないです。あの後、ARFの一員として活動して、あんなに、あんなにこの手で、ナイフで、いっぱい……!」
ウルフマンには、分からない。その言葉の意味が。ギャングの幹部の息子に生まれ、親を失ってからはスラムの暴力に慣れ親しんで育ち、ARFとして平然と悪人を殺した少年には、平和な日本で倫理観を育てたマナミの戸惑いを理解できない。
「何だ? どうしたんだ? マナさんは何を」
「わたしッ! あんなに、あんなに人をこの手で! 何で!? 何でですか!?」
またマナミは手のひらを自らに向ける。ウルフマンはマズイと直観した。復讐の記憶を取り戻して、さらに遡った先の記憶をマナミは取り戻そうとしている。そして、その記憶は――
「やめろッ! その記憶は取り戻さなくてい」
邪眼は、“視る”。
「あぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああ!」
マナミは体を折って顔の両目を押さえた。両目を残忍な悪人にえぐり取られた記憶。その記憶を取り戻してもマナミが人殺しに手を染めた理由なんてないのに、彼女は無用に思い出してしまった。
「痛い、痛い、痛い! やめて! やめてください! スプーンを目に近づけないで! やだっ、やだぁっ!」
「落ち着け! マナさん、やめろ! その記憶はもう忘れていい、忘れろ! マナさんには荷が重すぎる!」
「いやだッ、嫌です! わたしを殺さないで! この記憶だって、失えばもうわたしはわたしじゃないんです!」
ウルフマンは息をのむ。先ほどの自分の言葉が、そのまま返ってきた。慣れないことはするもんじゃねぇ、と悔やむも遅い。この事態を、ウルフマン一人で解決しなければならないのだ。
「マナさん、一旦、一旦落ち着こうぜ。ほら、深呼吸して。な?」
「わたし、わたし、あ、ぁぁ……」
ひとしきり地面で悶えてから、マナミは脱力した。ぐったりと全身から完全に力を抜いて、倒れ伏す。
投げ出された左手から、力なく涙が流れ落ちている。
「あの、マナさん」
全身が震えていて、ただ左手の瞳が胡乱に虚空を見つめていた。そこから涙が、小さな川を作るように絶えず流れている。
「ごめん、おれの言い方が悪かった。耐えきれない記憶まで、抱える必要はない。けど、これ以上マナさんがマナさんを壊すのは見たくないってだけなんだよ」
マナミは、応えない。ショック状態で、知覚そのものが出来ていないのかもしれない。なら、反応があるまで語り掛けよう。ウルフマンは、自らの率直な思いを話す。
「マナさん。おれさ、マナさんの間延びした話し方が好きでさ。今のマナさんが嫌いってことじゃないぜ。けど、あののんびりしてる話し言葉聞いてると、何か気持ちが休まるんだよ。マナさんが仕事とそれ以外で分けてるのも相まってさ。今はゆっくり出来るんだなってしみじみしちまうんだ」
反応はない。だから、話し続ける。言いたいことはまだまだある。
「あと、眼鏡。あの丸くてすっとぼけた奴がさ、味があっていいんだよ。包帯巻いてるマナさんも格好良くて好きだけどさ、眼鏡の時はちょっとアホっぽくて、一緒に居て気が楽で……」
今更になって、気づく。――ああ、と。おれは、こんなにマナミのことが好きだったんだと。
「だからさ、おれ、またマナさんとゆっくりぼんやりしてぇなって、ずっと思ってたんだ。おれ、頭だけになってさ。休む時間ばっかりあって、楽っちゃあ楽だったけどよ、そればっかじゃつまんねぇよ。マナさんが横でよく分かんねぇ雑学披露してくんなきゃさ、おれ、馬鹿になってくばっかだって」
ぴく、と僅かにマナミの唇が戦慄く。それをウルフマンは見逃さなかった。彼女の言葉を待つ。しばらくすると、彼女はか細い声で言った。
「……Jくん。わたし、何でまだノア・オリビアに居るのか、思い出しました」
瞳が、ウルフマンを捉える。マナミは、続けた。
「アーカムをゾンビの街にしようって思ったんです。だからわたし、こんなこと考える自分は、ARFに戻れないって、合わせる顔がないって、そう思ったんです」
「……ゾンビの、街?」
「はい……」
意味が、分からない。だから、口を閉ざして続きを待った。上体だけ起こして、ぽつりぽつりとマナミは説明する。
「わたし、二人を……両親を生き返らせました。墓を掘り返して、二人の血肉を復元して、脳を機能させて、魂を入れました。そして二人は、その行いを激しく罵倒しました。正気じゃないって、狂ってるって、Jくんの言う通り、また死を味わわせるのかって」
マナミは、声を震わせ、自嘲げに言った。
「わたし、そんなこと言われるなんて思ってなくて、びっくりして、二人をまた殺しちゃいました。邪眼を向けて、“止めて”って。そしたら、止まりました。また、二人は死んでしまった」
「マナさん……」
「わたし、何が悪かったんだろうって、必死に考えたんです。夜も寝れないくらい悩んで、それで、答えを出したんです」
――二人は、二人だけが蘇ったことが、耐えられなかったんじゃないかって。
マナミの結論に、ウルフマンは理解が追い付かない。そこにあるのは、死が『止まっているだけの状態』であるという、マナミ特有の死生観だ。
「思い返せば、当たり前なんです。この社会は蘇った人を想定していません。ですから、二人は蘇っても戸籍がないですし、生きていくのに当然必要な諸々を得られない。だから、それを是正すれば、きっと、二人も蘇ることを受け入れてくれるって。わたしの、ことも」
ウルフマンは、絶句する。蘇る、ということを当たり前の現象として受け入れ、その上で現実的な問題を直視しようとする、マナミの論理そのものに。生死を混同視したような狂気の上に、常識を置いた思考回路に。
「だから、わたしアーカムをゾンビの街にしようと思ったんです。今はゾンビだけですが、次第にちゃんと人を蘇らせていこうって。死人が蘇ることが当たり前になれば、きっと制度が整って、二人も蘇ることを受け入れてくれるって」
だから、とマナミは語る。次蘇らせたときに純粋に喜べるように、二人に否定された記憶を消して、両親の魂からもその新しい異質な記憶を削除して、今はただアーカムが変えていくことに集中しようとおもったのだと。
「――マナさん、そうじゃない。そうじゃねぇんだよ。人間は、生まれて生きたら、死ななきゃならないんだよ。蘇っちゃあ、ならないんだよ」
ウルフマンは、歯を食いしばって否定する。それに、マナミはキョトンとする。
「何で、ですか? 死んだら、悲しいじゃないですか。なら、蘇ると嬉しいってことでしょう? 人を喜ばせて、何が悪いって言うんですか」
「違うんだよ! マナさん、いいか、よく聞け」
ウルフマンはもはや冷静ではいられず、顔を切なさに歪めて言い放った。
「蘇って嬉しいのは、その人を大切に思ってた人だけなんだよ。他の人からしてみりゃあ気味が悪いだけだ。だけど、これはどうでもいい。一番大切なのは、本人なんだ」
「……本人って?」
ウルフマンは、口をもごつかせる。言いたくない。こんなことは、口が裂けても言いたくない。
「だって、そうだろ……?」
だが、マナミを説得するには、言うしかないのだ。
「生きるのは、こんなに苦しいのに、何で生き返りたいなんて思うんだよ……」
「え……」
ウルフマンがこんなことを言うとは、きっと露ほども考えていなかったのだろう。マナミはただ茫然と首だけ狼を見つめて、ぽかんと口を開けてしまう。
ウルフマンは、自棄になって続ける。自分の気が滅入るのも気にせずに。
「だって、そうだろ! マナさんの人生は辛くなかったなんて言えるか? 目を抉られて、両親を焼き殺されて。そんな奴、このご時世掃いて捨てるほどいる。ヴァンプもそうだ。アーリだって弟を失ってる! おれの親なんかは生きてるだけマシだが、勝手な都合で捕まえてきやがったJVAのトップを笑顔で迎えなきゃならなかった!」
誰にも言わなかったし、言うつもりもなかった。だが、イースターパーティで現れたイキオベに、何も思わないでは居られなかった。確かにモンスターズフィーストはギャングだ。犯罪者だ。だが、父たちは父たちなりに亜人を守る秩序でもあったことを知っている。
それでも、ウルフマンはにこやかに受け入れた。恨み言も何も悟らせず、ただこれからは仲間だと笑いかけた。お前たちが勝手な判断で父を逮捕しなければ、死なずに済んだ亜人が居ただろうに、という言葉は呑み込んで歓迎した。
「……確かに、過去が辛くなかったとは言えません。でも、それは人によるでしょう? それに死がなくなれば」
マナミは、それでも言い返す。それを、ウルフマンは真っ向から切り捨てた。
「本当か? なら、これから死のうとしてるイッちゃんはどうなる。ナイは? あの二人は、死を救いだと思ってる。それをどうやって否定すんだよ」
そもそも、あの二人が死にたい理由分かってるか? ウルフマンの問いに、マナミは強張った全身で首を振る。
「なら、教えてやる。イッちゃんはな、“生きたまま”とことん苦しんだ奴なんだよ。知ってるか? あいつのジュニアハイスクール時代のこと。最後以外碌に身内が死んでねぇ癖に、人間あんなに苦しむことが出来るのかってゾッとしたよ」
イジメで尊厳を奪われ、裏切りにシュラが芽生え、自ら愛を拒絶し、親友を『殺せなかった』。事情を話してもらったときは詳細をぼかされていて、「死にたい」という言葉さえ口にはしなかったものの、ウッドとなり狂ったその心情を、推し量れずにいられるものか。
「でも」
マナミは反駁する。
「でも、なら、シスターナイは何故死のうなんて考えるんですか? イッちゃんについては、納得いきます。辛いことがあったから、死にたいと思ったんでしょう? その気持ちは分かります。でも、ナイは違うじゃないですか。彼女は神です。辛いことなんて、何も」
「“だから”だ」
「え」
マナミの硬直に、ウルフマンは言葉を重ねる。
「だからだよ。あいつにとって人生は楽すぎたんだ。悩むことも、嫌なことも、イッちゃんの他にはひとっつもない。だからそのイッちゃんと一緒に死のうって思うんだよ」
マナミは、不可解さに眉を顰める。ウルフマンは「本当に真逆だな」と言った。口を引き結ぶ彼女に、狼は続ける。
「なぁ、さっき人生は辛いっておれ、言ったよな。それでマナさんは、人による。みんなじゃねぇって言い返した」
マナミは頷く。「じゃあ辛くない人生ってどんなんだ?」と尋ねた。
「辛くない人生って……、そんなの、楽しいことばかりの人生なんじゃないですか? 何でも思う通りに行く、そう言う人生」
「じゃあ、そういう人生を歩んでるはずのナイは、何で死にたいんだ?」
問い詰めると、「わ、分かりませんよ! わたしはシスターナイじゃないんですから!」と言い返してくる。
だから、ウルフマンは言ってやった。目を細めて、口調鋭く。
「ナイは、飽きちまったんだよ。思い通りに行く全てに飽きちまったんだ。どうせうまくいくなら、やる価値もないって。だからナイはイッちゃんに執着するんだ。うまくいくとは限らない、唯一のことだから」
その言葉に、マナミは手のひらの目をまばたきさせた。訝しげに、繰り返す。
「飽き、る?」
「そうだよ。ナイは、飽きたんだ。言っちまえば、答えが完全に理解できてるパズルしか周りにないようなもんだ。つまらない尽くしで、何にも面白くねぇ。辛いばっかりのおれたちからすれば贅沢な話だよな。でもよ、つまらないってどうしようもないんだ」
人間の喜びのプロセスの話だ。イッちゃんが夢の中で語ったように、人間多少は苦労しなければ喜びが分からない。苦しみを乗り越えた先に、喜びがあるのだ。
――なら、それは。
「人生の喜びってさ、辛いこと、苦しいことが前提にあるんだよ。乗り越えなきゃ、人生って面白くねぇんだ。おれ、こんなこと言いたくねぇけどさ、“乗り越えられる苦しみ”だけが幸せな人生なんだよ。でもイッちゃんは乗り越えられなくて、ナイはそもそも苦しみ自体がなかった」
人生の何が素晴らしいか。それは喜びだろう。嬉しさだろう。そういう、プラスの感情だ。だが、プラスの感情はどこに発生するのかと言えば、それは苦しみだ。自分の苦しみを乗り越えた時、他人の苦しみを知った時、人間はその解放から喜びを得るのだ。
「だから、人生ってのは辛いものなんだよ。苦しくない人生なんて、この世にどこにも存在しねぇ。苦しくなけりゃつまらない人生になる。でも乗り越えられなきゃやっぱり人生は辛いままなんだ」
この世で、いったいどれほどの人間がその範疇におさまるだろう。乗り越えられるちょうどいい苦難の身を甘受できる人間など、このアーカムに何人いるのだろう。
白羽を始めとしたARFがなければ、きっと亜人はことごとく殺された。渡米したジャパニーズは亜人という仲間を理不尽に奪われ、ジャパニーズに仕事を奪われ路頭を迷ったアメリカ人だって少なからずいる。
そうすれば、辛いばかりの人生を歩む人たちなど間違いなくアーカム中の半数を超えるのだ。そこから、さらに“つまらない人生”を歩んでいる人間を引く。思い通りに行くばかりの上級連中。そうしたとき、一体全体アーカムの何%が「楽しい人生を歩む者」として残れるか。
「……何ですか、それ。じゃあ、じゃあ、みんな、みんな死んだほうがいいってことじゃないですか」
マナミは、動揺と共に呟く。
「違う。それも、違うんだ。生きるのは辛い。それは確かだ。けど、生きるのが楽しいってのも、本当なんだよ」
ウルフマンの言葉に、マナミは困惑の表情を浮かべて首を振る。
「分かりません。どっちなんですか。生きるって、何なんですか?」
「辛くて、でも楽しい。それが、人生なんだ。だから生まれて、生きることは素晴らしくて、……でも、蘇らせちゃあならねぇんだ。何せ死んだ人は、辛くて楽しい人生っていう大仕事を、やっとこさ終わらせた人たちなんだぜ? そんな人たちに、またこんな大変なこと、押し付けんのかよ」
マナミは、じっと手のひらの瞳でウルフマンを見つめていた。その瞳は不安に濡れていて、彼女の顔は狼狽に歪んでいた。
「分からないです。もうわたし、生きることが何なのか分かんないです! わたし、わたしどうすればいいんですか? 生きることが辛いなんて、ずっと昔から知ってました。でも、それも死を取り除けば解決するって、死があるから生きるのが辛いんだって、ずっと」
「どうしようもねぇよ。生きるのは、生きていくしかおれたちに出来ることなんてない。でも、蘇らせるのは無しだ。死があっての、人生なんだからよ」
「……Jくん」
マナミは、ウルフマンへと両手を伸ばし、抱き寄せる。不安のために縋りつくようなその所作に、首だけ狼は黙ってされるがままになる。
それが、いけなかった。
「わたし、もう、嫌です。辛いこの世の中から、辛いことを取り除けると思って、ノア・オリビアでゾンビの街を作ろうとしたんです。それが、全部真逆だったなんて、わたし、耐えられないです」
「……マナさん?」
「Jくん。Jくんも、もう、大仕事には疲れちゃいましたよね? こんなに小さくて、それなのに頑張り続けて、もう、辛いですよね?」
「マナさん、やめろ、やめてくれ」
「Jくん」
包帯に、両目の場所へ血がにじむ。
「二人で、お休みしましょう?」
マナミの左手が伸ばされる。涙にぬれるその瞳は、ウルフマンとマナミの、両方を捉えていた。