7話 死が二人を別つまでⅩⅩⅩⅡ
その、夜のことだった。
初めてイッちゃんに夢の中でコンタクト取られて以来、夢の中で毎日報告、相談を欠かしていなかった。だから、その日も同様のつもりで眠りについたのだ。
眠りにつくなり広がる意識空間。ズショの家のリビングを模した場所の、机の上で目を開く。
目の前にいたのは、ナイだった。
「やぁ、待ってたよ」
小さな邪神は机の腰かけたイッちゃんの膝の上に、ちょこんと座っていた。イッちゃんは夢の中にありながら目をつむって寝ているようで、その両手をナイは肩掛けのように抱きしめていた。
「「あー、マズイ奴だなこれ?」」
ウルフマンの言葉に完全に合わせる形で、ナイはそう口にした。ウルフマンは驚きに目を点にしてしまう。
「総一郎君が掌握下に入ってしまったら、全部こうなんだ。少し前は君も総一郎君に関わる分だけ分からないのが少し面白かったけど、もうつまらない。だからこそ、明日が楽しみだよ。ボクと総一郎君の二人きりで、このつまらない世界からオサラバできるんだから」
ナイは甘えるように、イッちゃんの腕に頭を傾けた。そこには温かな微笑みがある。だが、無表情を向けられる以上の隔絶を感じた。影響の及ぼせる相手ではないと、はっきり分かってしまう。
「――それで、おれの牽制に来たのか?」
言ったのはウルフマンではなかった。ナイがウルフマンの思考を先読みして、ウルフマンよりも早く言葉を紡いだのだ。
「そうだよ。君も何だかうろちょろしていて目障りだから、釘を刺しに来たんだ。明日のイレギュラーを可能な限り減らすためにね」
「おれに用心する前に、他のARF連中の相手をしたほうがいいんじゃねぇか? あんまりARFを舐め」「てないよ。ボクは適切な対応を取ってるさ。だからアルフタワーは燃やして倒壊させたし、戦闘能力のある残党は、少なくとも明日まで自由に動けなくしてある」
ナイの言葉に、ウルフマンは僅かに詰まる。だが、ARF切り込み隊長は精神の強靭さが売りだ。その程度の言葉では折れたりしない。
「生憎と、おれはそういった類のハッタリは効かねぇ性質でな。だいたい、ノア・オリビアなんて新興の宗教団体がどうしたらそんな芸当が出来るってんだ。首を隠してる奴には注意しろってのは、シラハさんがJVAを通して触れ回ったはずだぜ」
ウルフマンの強がりに、ナイはどこか焦点の合わないおぼろげな瞳のまま、ケタケタと嗤う。
「人間っていうのはね、とても脆いんだよ。体もだけれど、それ以上に、心がね」
――とくにARFは、身内の死という大きな傷跡を持った人間ばかりだから。
ナイはそれだけ言った。ウルフマンには、それだけで分かった。ノア・オリビアがどうやって、ARF構成員の、心の傷を開いたのかを。
「……おれに、何をしようってんだ」
「あは、初めて恐怖がにじんだね。本当に想定通り過ぎて、飽き飽きしてしまうよ。そんな君に長々と干渉しなきゃならないんだから、面倒ったらないね」
ナイは名残惜しそうにイッちゃんの腕の中から出て、ウルフマンの背後に回り込んだ。そして上から頭を押さえつけながら、空いた右手で指を鳴らす。
「ん、んん……ああ。やぁ、J。今日はどうだった?」
目覚めたイッちゃんは、まるでナイが見えないかのようにウルフマンに声をかけてくる。それに助けを乞う声を上げようとした。だが、先んじてナイが囁いた。
『ボクのことを忘れていつも通りに報告して』
ナイの言葉が、奇妙に歪んで耳に届く。その瞬間、ウルフマンはナイの存在を忘れた。存在を忘れたというよりは、この場にいることを意識できなくなっている、という感覚がぼんやりとあった。
「今日はヴァンプと話したぜ。イッちゃんと行った墓参りの話だ。まだ言葉にできるほどじゃねぇけど、何となく分かってきた気がする」
『事実改変。ウルフマン君、君は現状に対してポジティブな言葉は使っちゃダメ。さ、もう一回やり直して』
「今日はヴァンプと話したぜ。イッちゃんと行った墓参りの話だ。結構泣かせる話だったな。あいつもあいつで色々抱えてると思った」
「うん、シェリルはとても頑張ってる。あれだけの悲惨な運命にあって、まだ上を向いて歩いていられるんだ。凄い子だよ、本当に」
イッちゃんの尊敬の念の滲んだ賛辞に、ウルフマンも頷いた。それから『総一郎君に明日の話をして。具体的には、ボクとの結婚式の話』
「……なぁ、イッちゃん。その、明日」
「――うん、そうだね。明日に、とうとう迫ってしまった。もう、残された時間は僅かだ」
ウルフマンは、これまで起こったことをすべて報告している。シラハが捕まったこと。ナイがイッちゃんと心中する準備をとうとう整えたこと。その期限が明日の真夜中に決まったこと。――今しがた知ったことも伝えなければ。
「追加の情報だ。アルフタワーが崩れたらしい。仲間筋の情報じゃないから確定的じゃないが、残党を皆殺しにしたとまでは言ってないのが妙にリアルで嫌なところだ。動けなくした、って話だった」
「そっか、タワーが……。ARFの大きな財源が途絶えたことになる訳だ。それに、助けも来る可能性がさらに下がった」
この状況に至っても諦めないで来た二人。とはいえ、さらに追い込まれたと聞いて渋い顔をせざるを得ない。打開の目など、何処から見出せばいい。考える時間すらもうほとんどないのだ。
『ウルフマン君。これから君は、会話の中で少しずつ気が焦り、滅入ってくる。少しずつだ。説得力を有するように、そして君自身の意見が変わっていくのを総一郎君に見せつけながら、少しずつ彼に失望していく。彼に苛立つ。そして最後に、暴言を吐く』
「どう、するよ。おれは、おれに出来ることはやってきたし、これからも続けるつもりだ。けど、次に何をすりゃあいいのか分からない。それに、このままじゃあイッちゃんは」
「大丈夫、なんて口が裂けても言えないけどね。でも、落ち着こう。状況を整理して、打てる手を考えて、少しでも助けが来たときに彼らの助けになれるように立ち回ろう」
ウルフマンの中に、言葉が浮かび上がった。「助けなんて来るのか?」と、疑問が生じた。今までは、一度だって浮かばなかった疑いだ。それに、ウルフマンは目をつむって深呼吸することで耐える。
「ああ。イッちゃんの言う通りだ。おれは、おれのやれることをする。それで誰かが助かるように」
「Jが聞き込みをしたのは今のところ三人だよね。ベルから復讐の話。俺からローレルの逃避の話。そしてシェリルの……喪失への向き合い方の話」
「残るはナイと、マナさん本人だがよ。正直、もうそんな悠長なことを言ってる場合じゃねぇんじゃねぇか? もっと、何か他の策とか」
「J、焦らないで。俺たちに出来ることは非常に少ない。でも、その中で最大限の動きをする。君が急いても、こんなことは言いたくないけれど、何にもならないんだ」
「……分かってる」
ダメだ、と思う。ここ数ヶ月で築き上げた平常心が、壊れつつある。ウルフマンはそれを自覚しながらも、どうすることも出来ない。
まるで数年前のようだ。数年前、まだウルフマンが精神的に動揺しやすかった頃のことを、どうしても思い出してしまう。
「でも、そうだね。もうナイとの接触を待つような余裕はないと考えた方がいいかもしれない。どうせダメで元々だったし、最後の愛さんについてを考えよう」
「ああ、そうだな」
「愛さんについて知りたい情報は、邪眼について、そして彼女の過去のことについて。それらが結びついて、きっと愛さんが裏切ってしまった理由になるんだって、俺は考えてる。けど確か直接聞いてもダメだったんだよね」
「ボーリングみてぇに廊下を転がる羽目になったな。ただ。最近色々動いてて何となくだが邪眼のことは思い出したぜ」
「うん、それも報告済みだね。となると、今できるのは愛さんの過去に有った出来事になぞらえて、どんな風に感じてきたのかを推測すること、かな」
穏やかに語るイッちゃんを見て、悠長に過ぎる、と思う。そんなことをしている場合なのか。手詰まりなのはウルフマンにも分かっている。だが、それでも、他に出来ることはないのか。
「愛さんの心的外傷のキモは、自身のトラウマもあるけど、それ以上に着目すべき点がある。本人は口にこそ出さなかったようだけど、彼女にとってもっとも衝撃だったのは――」
マナミのことは大事だ。裏切った理由を明らかにして、それをちゃんとARFで担保できるように立ち回って、ちゃんとマナミ自身の納得の下戻ってきて欲しい。
「――ことが出来なかった愛さんは、代替行動をとった。真意はどうあれその為に打ち込んでいる間は安定していた。不安定な自分を壊すような真似をせずとも、愛さんは愛さん自身で居られたんだ。でも行き詰った。そこからだ。そこからを考えなきゃならない」
だが、言ってしまえばそんなのは些事でしかないのだ。ウルフマンが介入できる小さな範囲でしかない。命がかかっているのだ。親友の命が。それを差し置いて、明日には死んでしまうかもしれない本人とこんなことを話しているのはあまりにも考えが足りない。
「愛さんが――のは間違いないと思う。それはJも自然に納得してると思う。問題はその先で、カバラで計算した限り愛さんは――」
「もういい! イッちゃん、もう、いい……!」
ウルフマンが遮るように言うと、メモを差し出すイッちゃんはキョトンとした顔で頭だけの狼を見た。Jは、堪らず叫んでしまう。
「そんなこと、もういいんだよ! 明日! 明日お前死ぬんだぞ!? 何でそんな風に落ち着いていられるんだ! 頭おかしいんじゃねぇのか!? もっと慌てたり焦ったりしろよ! 何でそんな風にいられるんだよ!」
「何で、って」
イッちゃんの顔全体に湛えられていた穏やかさは、その一言で抜けてしまった。残ったのは、温度そのものが存在しないかのような無表情だ。
「……死んでほしい奴が死ぬだけだからかな」
ぽつりと言って、イッちゃんはウルフマンの目を見つめた。狼は瞳を覗き返して、知る。親友が隠し続けてきた感情の荒れ狂う様を。音もなく渦巻き凍え燃え上がる地獄のような自責を。
「ごめん、J。この嘘は墓場まで持っていこうと思ったのに、結局隠し通せなかったね。まだ死ねないなんて、大嘘だ。俺の死を誰よりも喜んでいるのは、他でもない俺自身なんだ。やっと死に場所を見つけた。やっと死ねる。心残りはあるけれど、日に日にこの感情は強くなっていて」
俺の戦いは、あの日とっくに終わっていたよ。彼は語る。
「逆にね、だんだん諦めがついていったんだ。白ねえのことも、他のことも、たくさんのことが遠ざかっていった。最後に残ったのは、ナイだけだったよ。毎日一緒に死ぬのが楽しみだねって言い続けてくれた。その度に、気持ちが楽になったんだ」
洗脳、という言葉が脳裏によぎる。魔法にはイッちゃんの魔法防御が邪魔をする。それ以外の方法も『祝福されし子どもたち』の一人であるイッちゃんには効かない。だからこそ、ナイは地道な方法を取った。魔法がない時代からある原始的洗脳は、知識なしには防げない。
「イッちゃん、お前」
「でも、Jはまだ頑張っているようだったから、その邪魔をしたくない気持ちはあったんだ。君は俺以上に追い込まれているのに、心は誰よりも強靭で、諦めを知らなくて、ただまっすぐ前を見て進んでいた。元気づけられたよ。それに、見習わなくちゃなって思った」
――だから今、安心したんだ。君でも不安で声を荒げるんだって。
イッちゃんの発言に、ウルフマンは理解する。同時、自分がナイによっていいように操られていたことを思い出した。ケタケタと嘲笑が頭上から降ってくる。クソ、と思う。
ウルフマンが、気づかぬ間にイッちゃんにとって最後の楔となっていたのだ。現世に対する、未練の楔。だが、ナイの操り糸が楔を抜いてしまった。
『そうだよ。誰よりも無力な君が、この期に及んで最も厄介になっていたんだ。総一郎君陥落前ならとても興味深い相手だったのだけれどね。もう手のひらで転がせてしまう』
ナイはウルフマンから手を離し、そのままイッちゃんの膝の上に戻っていった。それからイッちゃんの両腕を抱き寄せて、微笑みながら目をつむってウルフマンを完全に眼中から外してしまう。
「もう、俺も無理をするのは止めようと思う。明日、俺はナイと共に地獄に落ちるよ。でも、そのことを悔やんだりしないで欲しい。悲しまないで欲しい。死んで当たり前のクズが一人消えたって、そう思って欲しいんだ」
「……イッちゃん」
何が出来る。正常な精神性を取り戻したウルフマンは考える。だが、イッちゃん本人みたいに聡明な頭脳を持っているならいざ知れず、ウルフマンに名案なんてパッと思いつきはしない。
だから、何も言わなかった。ここで何を言っても無駄だ。現実で行動を起こすしかない。
しかしただ一言、こう告げた。
「見てろよ」
イッちゃんはその言葉に、わずかばかり首を傾げる。一方ナイは薄目を開けて『無駄だよ』と嗤った。だから何だ。これは宣言だ。応答など求めていない。ただ、ウルフマンは微力でも進み続けるだけだ。
そして、イッちゃんの夢は終わる。まだ日も昇らない深夜。誰もが眠る時間帯だ。
だが、狼の目は爛々と輝いている。




