7話 死が二人を別つまでⅩⅩⅣ
マナミ・シノノメという少女について多くを知る人間は少ない。
日頃学校で見かけられる彼女は、朗らかでのんびりした眼鏡の少女でしかない。ある程度整った容姿はしているが、隣にいるシラハの様な華はなく、周囲の認識からすればシラハの取り巻きにすぎなかった。
もう少し踏み込んだ付き合いだったとしても、科学技術に興味があったり、交友関係が妙な方向に広かったりと、印象は凡庸の域に留まるだろう。ここまでが、恐らく一般人が知りうるマナミの情報だ。
では、一般人でなければどこまで知れるか。つまりARFの構成員であれば、どれほど踏み込んだ部分まで知れるのか。
――アイ。一つ目を意味するeyeで示される彼女は、冷酷なナイフ使いだ。他の幹部たちのように自分のコードネームを印字したカードをバラまくことこそしないものの、高い実力とARFの中でも暗殺めいた仕事に特化した彼女は、畏怖と共に認知されている。
だが、それだけだ。
日常でののんびりした眼鏡のマナミと、裏社会での包帯で瞳を覆い隠したアイの間には、他の幹部たちとは比べ物にならないほどのギャップがある。同類にあたるのはハウンドくらいのもので、彼女にしても当初は弟の洗脳による人格分離下にあった。
似た例で言えば、ウッドも同類だろう。二重人格に近い形でイッちゃんとウッドは分かたれていた。日常と裏社会のどちらにも生活を抱えるメンバーには、そういった側面があるのかもしれない。
では、マナミはどうなのか。
二重人格ではない、と本人が語っていたのをウルフマンは覚えている。ではどういう感覚で切り替えているのかと聞くと、マナミはこう答えた。
『思い出して、なりきっているんですよ~』
その意味を理解できる者は、恐らくこの世にウルフマンとシラハだけだろう。シラハはマナミにとって渡米以来の幼馴染で、命の恩人だ。
そしてウルフマンは、代替物だった。
今日も今日とてコロコロと、ウルフマンはノア・オリビア本部を転がる。それはつい先ほどまでの話だ。
「よし、全力で行くぞ!」
「来なさい! 格の違いというものを見せて差し上げますわ!」
ベルが砲丸投げのようにしてウルフマンの頭を振りかぶっている。向かう先には突如現れたノア・オリビアの中でも権力者と思しき少女、マザーヒイラギが木製バットを構えていた。
「おれもとうとうヤバいな。仕方ねぇ、ここまでか」
「いや諦め早すぎだろう。嫌がらせのし甲斐が全くないな君は」
舌打ちをして、ベルは投球の構えをやめる。それに、バットを振り振りマザーヒイラギはむくれた声で講義を始めた。
「何ですの! 我が聖女の恋人で野球するっていうからわざわざここまで足を運びましたのに! どう責任を取ってくれるんですの!」
「いやもう続けなくていいよそれ。この間抜けなあくびを見たらどうだ。彼本気で覚悟決めてたよ」
「あら、……本当みたいですのね。イジメずとも面白いというのは逸材ですわ。貰ってもよろしいこと?」
「最終的にマナ本人の下に届けるならいいんじゃないか」
「ではお借りしますわ」
ポンと軽い調子で放られ無事にキャッチされる。絶対落とされると思ったので、ウルフマンとしては肩透かしだ。いや落とされたいわけではないのだが。
「まったく、大嫌いだのなんだのと。こうも反応がないと仕返しのしようがないじゃないか」
ぷりぷり怒りながら、ベルは戯れをやめて広間の端に畳んでおいたらしい白の修道服を手に取った。素早く着込んで、木面を付ける。そうすると、傍からすればウッドと見分けがつかなくなる。
「我が御遣いよ、これからどこに?」
「任務さ。まだARFの残党は居るんだろう? シスターが出来る限り捕獲して来いってね。今の茶番は、仕事前のお遊びってところだ」
「なるほど、なるほど。では頑張ってくださいましね。応援していますわ」
「ふっ、都合のいい駒としか思っていないくせに」
軽く手を上げて、偽ウッドは広間から出ていった。それをマザーは目で追いながら、「さぁ、わたくしたちも行きましょうか」とウルフマンを抱きかかえて歩き始める。
「お淑やかな歩き方だな。こういう風な歩き方の奴に持たれると眠くなるんだ」
「そうですの? あなたとは話したいことがありますから、寝られると困ってしまいますわね。そうだ! 狼さん、あなた、梨はお好き?」
「そういやマナさんが一時期話してたな。苦悩の梨とか言うんだっけ?」
拷問器具の一つとされる一品だ。口なり何なりに突っ込んで、強制的に粘膜を開かせることで破壊する。形が梨に似ていることから、苦悩の梨と呼ばれているとか何とか。
「狼さん、あなた以外に博識ですのね。すっとぼけているからてっきり、おっと失礼いたしましたわ」
「おれは馬鹿だよ。でもさ、馬鹿は馬鹿なりに笑ってる方が幸せだって気づいただけだ」
「その割には笑いませんわね」
「敵対組織に捕まってるのにゲラゲラ笑えたら、そいつはもう馬鹿じゃなくてイカレてる」
「ふふっ、にしても――」
マザーは立ち止まり、ウルフマンの顔を両手で鷲掴みくっつかんばかりの至近距離で瞳を見つめてきた。
「あなた、どこでわたくしが拷問に凝っているという情報を得ましたの? 梨と聞いて苦悩の梨を連想するのはよほどの拷問マニアくらいの物ですわ。そしてあなたは違う以上、あなたはわたくしのことをどこかで知っていたとしか思えない」
「逆に聞くけどよ」
ウルフマンは、嗤う。
「ARFの創始者メンバーの一人としてスラムの守護者やってたおれが、お前ほどのクソ野郎を知らないと思うのか?」
「……ああ、なるほど。単純に“そっち”でしたのね。確かに体を有していた時の狼さんの活躍なら、知っていてもおかしくはない」
けひ、とマザーヒイラギは歪に掠れた笑い声を上げた。歩みはしずしずと続き、その足取りからどこへ向かっているのかを何となく察した。
「マナさん、今何やってんだ?」
「楽しいことを」
それだけ言って、マザーヒイラギは返答とした。ウルフマンはただ、「ふぅん」と返事してからあくびを一つ。
「いつ見ても眠たそうにしてますのね、あなた。睡眠時間が少ないとはとても思えませんけれど」
「寝るのが趣味みたいになっててなぁ。毎日が一瞬で過ぎてくんだよな。ま、体が戻るまではこのままでいいやってよ」
「あら、体を返してもらえると思っているんですの?」
「おれはARFがある限り諦めねぇよ。他の奴らだってそうだ。ARFは、そうやって難題を乗り越えてきた。無駄にデカくて派閥争いがあるような組織じゃねぇんだ」
「それはそれは。随分とお花畑めいた頭の持ち主ですこと。お馬鹿さんなのは知っていましたけれど……でも頑強な精神と恐怖を理解できない知性というものも、侮れないものですわね」
「あ? 何で褒められてんだおれ」
「ふふ、さぁ何故でしょう。きっと――すぐに分かりますわ」
着きましたわね。マザーヒイラギの言葉に、ウルフマンはガラス細工の扉を見やった。向こうを見るに、限りなく光の少ない部屋のようだ。マザーが扉を開けると、温かな空気とむせ返るような花の匂いがのしかかってくる。
「うぇ。何だこの部屋」
「静かになさい。美しいものを見せて差し上げますわ」
後ろ手に扉を閉めながら、マザーは入室する。そこでその部屋が、温室であると理解した。闇の中目を凝らすと、生垣が高く迷路のように細い通路を作っているのが分かる。だがそれは入り口だけで、少しマザーが歩くとすぐに広間らしき空間に出た。
初めは闇の中に蛍が飛び交っているのだと思った。そんな勘違いが正されたのは、鐘の音がしたからだ。蛍の光だと思ったものの正体は、ウィルオウィスプ、ゴーストの幻影。そういったものが、闇の庭園の中心に立つマナミを中心に渦巻くように空中を泳いでいる。
「マナ、さん」
真っ黒で退廃的なドレス、病的な肌の白さ、そして目を覆う包帯。アイとして活動する彼女とは違い、包帯の余りでサイドテールは作っていないようだった。鈍く低い音を、鐘は温室中に響かせる。
その様子は、怖ろしく、儚く、それでいて――
「美しい。わたくしは、この光景をそう評したいですわ。あなたは如何かしら、狼さん?」
「そう、だな。それは同意だ。悔しいけど、確かにおれもそう思った」
「お馬鹿さんでも、感性は悪くないみたいですわね」
マザーはマナミに近寄りながら「我が聖女、精が出ますわね」と声をかける。
「ああ、マザーですか。どうかしました?」
マナミはこちらを見ないまま、また鐘を鳴らした。音が響くたびに、ウィルオウィスプたちの動きが活発になる。
「あなたの狼さんに、あなたの美しい姿を見せたくて、連れてきたのですわ」
「えっ、Jくん連れてきちゃったんですか!?」
ぎょっと振り返って、マナミは左手をこちらに向けてくる。その中心には、瞳が一つ。ウィルオウィスプが通り過ぎるたびに手のひらでまばたきを繰り返している。
「連れてこられちゃったぜ」
「あーもう、仕事しているのを身内に恥ずかしいですね。あんまり見られたくなかったんですけど」
恥ずかしがって見せるマナミに、「何をしてたんだ?」と尋ねる。すると彼女は、朗らかに答えた。
「腐ってしまった肉体に魂を入れていると、魂まで腐ってしまうんですよ。ですから、それを癒していました」
ちょっとした治療というか、メンテナンスのようなものですね。マナミの説明に、ウルフマンは僅かに瞼を下げて「そうか、お疲れさんだな」とねぎらった。悪意のようなものは窺えない。ならば、そういうことなのだろう。
だから、言ってやった。
「なぁ、マナさん。何で腐った肉体のままなんだ? マナさん、昔は肉体の方をいじくるの得意だったじゃんか」
その言葉に、マナミは目に見えて動揺した。「あ、え、それは」と言いながら、ウルフマンへ向けた手のひらの上で目があちらこちらへ泳いでいる。
「……本当に生き返らせるのは、少し面倒な相手を敵に回してしまいますからね。メインディッシュは最後にとっておく。そのために、まだそこまではしませんの」
ウルフマンを抱えるマザーの言葉が、頭上から降ってきた。引き際か、と狼は「なるほどなぁ」と間の抜けた声でもって納得を示す。それに、鋭い一言が、マザーから放たれた。
「気に食いませんわね。狼さん、あなたは自分の種族に自信を持つべきだと思いますわ」
マナミはキョトンとして、ウルフマンは「ん? 何言ってんだ?」と答える。
それが、逆鱗に触れた。
マザーは片手でウルフマンを掴み上げ、まるでバスケットボールをするかのように無遠慮に地面にたたきつけた。世界が揺れる。頭がろくに弾むわけもないのに、激しい鈍痛と共に視界が上下左右にシェイクされる。
「分かりませんか? その不格好な狸気取りをやめなさいと言っているんですの」
「Jくんっ! だっ、大丈夫ですか!? マザー! あなた、何を」
ここまではっきりと攻撃を加えられたのは、首になって初めてだな、と思う。視界は黒く明滅していて、感覚がなくなっているのを考えるに顎の一部が砕けていると分かった。
急いで近寄ってきたマナミが、ウルフマンを大事そうに抱えた。それから、マザーを激しく睨む。だが、マザーはその無言の抗議を気にもしなかった。ウルフマンに近寄り、顔の毛を強くつかんでマナミから奪い取る。
「単刀直入に聞きますわ。隠し事をしているならば、今この場で言いなさい。そうすればその傷は治療して差し上げましょう」
こわ、と思わず言ってしまいそうな顔をしていた。表情だけなら、ただの微笑でしかない。だがそこには、目が据わっているとか、強張りがあるとか、そんな浅いレベルでは計り知れない不気味さがにじみ出ていた。
だが、ウルフマンは屈さない。努めていつも通りに返答した。
「何も、知あねぇよ……。おえは、おえの、えいるおおを」
上手くしゃべれないのは顎が砕けているせいか。言葉を紡ごうとすればするほど呂律が回らない。だが、だからこそ言い切る。
「えいるおおをやいいろうと、いえるあえあ」
「出来ることをやりきろうとしているだけ、ですか」
視線は酷薄。「つまらないことを言いますわね」と極めてストレートに切り捨てられる。けれどそれでよかったらしい。軽い調子でウルフマンはマナミに明け渡される。
「何も知らないお馬鹿さんなりに、いろんなものに揺さぶりをかけて情報を得ようとしているだけ、ということですわね。なるほど、その無様に免じて、ここは許してあげましょう」
「許してって、マザー! Jくんには非はないでしょう!? それをこんなひどい目に」
「ひどい目? 何のことを言っているのか分かりませんわ。わたくしには、狼さんは傷一つないように見えますが」
「何を言っ、……て」
マナミの語気が下がっていく。ウルフマンは確かに、と痛みがいつの間にか消えていることに気付いた。マザーに目をやると、悪戯っぽく口端を歪めて「けひ」と過呼吸めいた笑い声を漏らす。
「では、今日はこんなところにしておきましょう。我が聖女、想い人とのゆっくりした時間を楽しむといいですわ。今日の仕事はここまででいいですから」
「え、あ、……はい」
けひけひと引きつった笑い声を引きずって、マザーは部屋を去っていく。同時温室の電灯がつけられ、ウィルオウィスプたちの輝きが人口の光の中に溶け込んでいった。
明るくなった室内で、マナミは謝ってくる。
「Jくん、ごめんなさい! あの、マザーはその、ノア・オリビアの中でも一番の危険人物で。彼女と遭遇しないためにも、これからはちゃんとわたしの部屋に居てほしいっていうか」
マナミはウルフマンの顔を撫でさすりながら言う。狼はその話題をそらす目的もあって、思ったことを口にした。
「ん、明るくすると普通に豪華な庭園って感じなんだな」
「え? あ、はい。そうなんですよ、わたしも結構手入れをしていて」
「ああ」
頷く。だが、さきほどの闇の中に漂う精霊めいたマナミの姿に比べれば、いくらか見劣りする。そんな本音を見抜かれたか、「何だか気のない返事じゃないですか?」と不満げに見つめられた。
「いや、やっぱさっきのマナさん綺麗だったなってさ」
「あ、う、え……? あ、あの、その」
虚を突いてしまったのか、一拍おいて恥ずかしがるマナミにウルフマンは思う。思ったことを、そのまま口にする。
「知らないことばっかだ」
「え?」
「おれはさ、結構昔からマナさんと一緒に居たつもりだった。けどいつの間にかノア・オリビアに寝返ってるし、さっきみたいなマナさん、想像したこともなかった。それで思ったんだ、改めて、おれってマナさんのこと全然知らねぇじゃんって」
「えっと、Jくん? 何の話ですか?」
「マナさん」
ウルフマンは、ノア・オリビアに拉致されて初めて、本心から笑った。
「ARFのみんなは、誰もマナさんに怒ってないぜ。おれはもちろん、誰一人としてマナさんが悪いなんて考えてない。失望すらしてない。おれたちは、言葉にするまでもなく全員でマナさんを信じてる」
マナミは、Jの言葉に口を閉ざした。左手の瞳を、指で包み込むようにして隠してしまう。体があったなら、それを止めさせることも出来た。だからなくて良かったと思う。強引なことはしたくない。
「わたしは、わたしの意思でノア・オリビアにつきました。もう、ARFには戻れませんし、戻れません」
イッちゃんを失った時点で、ARFを壊滅させるのはマザーたちにとって簡単な詰将棋でしかないんです。そうマナミは言った。だからウルフマンは言い返す。
「おれの記憶じゃ、マナさんはかなりウッドのことキツく言ってたらしいのに、いつの間にイッちゃん呼びに戻ったんだ?」
「え、あっ」
「だから、知らないことばっかなんだよ。知り尽くした気になって、マナさんを疑うこともしなかった。それがいけなかったんだ。だから、おれはマナさんを知り直そうと思う。疑わないのを美徳だと思ってたけど、今思えば思考停止だな。何も考えてなかった」
ARFは一枚岩。その文言の真の価値を見直す。そこに大した意味はないだろう。首だけのウルフマンに出来ることなどたかが知れている。けれど、だからこそやらなければならない。亜人は、人なのだから。人は、一人ではないのだから。