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武士は食わねど高楊枝  作者: 一森 一輝
八百万の神々の国にて
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14話 歩みの延長

 父は居間で携帯端末を握り、呆然と見つめていた。しかし総一郎の存在に気付くと目を瞑ってポケットにしまう。総一郎は既に本日の稽古を終わらせてしまっていた為、特に気兼ねすることもなく寝ころんで本を読みだした。


 日本の最近の政治経済に関わる本で、総一郎の本領ではなかったが、前世の商学部の友人を思い出して懐かしい気分になれる。そういえば、図書も商学部だとか言っていた。現役か志望かは忘れたが。


「総一郎。日本を一言で表すならば、どう言えばいいか分かるか?」


 一瞬きょとんとして、手元の本をぱらぱらと捲る。首を傾げながら、絞り出すように答えた。


「魔法大国……でしょうか?」


「そうだな。大抵は、そう答える。幸せな者なら、幸せの島に最も近い国とでも答えるかもしれない。だが、どれも私の意見とは合わないものばかりだ」


 いやに饒舌な父の口調から、機嫌が悪いのだろうか。と推察する。しかし、それも確信は持てた物ではなかった。父が怒る事など、赤子であった総一郎の上にカルテが落ちてきた時以来一度もない。


 しかし父の吐いた溜息からは、不機嫌な感情しか感じられなかった。


「――獅子身中の虫。私にとって、日本を表すならばこの言葉しかない」


 その言葉が放たれた時、父の怒りを確信した。




 小学三年生の冬。ナイから告げられた二年と言う月日は、そろそろ終わりを告げようとしていた。


 学校では簡易的な魔法や魔術、また体術による護身法を習い、模擬戦と言う形でその成果を測っていたが、総一郎はその模擬戦のみ参加を許されずに居た。父は何故か学校に対して影響力を持っていて、その為だという話である。見学も許されないので、その間はひたすら本を読む時間と言う認識だ。


 稽古はいつしか、山登りと真剣での向かい合いだけに変わっていた。木刀での打ち合いは、危険なのでやらないという事だった。危険と言うなら去年骨が折れた時点で止めるべきだったし、それ以前に骨折程度なら一般人が完治させられる時代である。訳が分からないと首を捻った物だ。


 山登りは、今では一人でしていた。喪に服する、と言う空気がある。ケットシーのタマが、この秋に人食い鬼と争って死んだのだ。般若家に去年の暮生まれた、第三子を守っての事だった。総一郎は何故子供から目を離したのかと般若家のご両親を糾弾し、図書と殴り合う羽目になった。琉歌とはまだ親交があったが、図書とは顔を背けあっている。


 この一年で、人生の先は読めないと言う達観が生まれた。ナイの予言も、その内の一つだと思い定めるようになった。存在が分かるだけでも、有難いという気持ちだ。あの兄貴分との仲直りの目処は、いまだ付いていない。


「総一郎」


 呼ばれて、真剣を抜く。この三年間で、気負いと言う物は消えた。


 真剣は、重い。最初は正眼だったが、いつの間にか八双の構えに変わっていた。これだと、体力の消費が少ないのだ。昔は十分二十分程度だったが、今では三時間四時間と平気で向かい合う。


 気が、総一郎を圧してきた。あの父が発する迫力を、総一郎なりに命名したのである。それを、まずは受け流す。まともに押し合っていては、体力なぞ長く持つ物ではなかった。


 立会いは、ある一定の時間を超えて向かい合っていると、何もかもが掻き消え、代わりに違うものが見えるようになる。一・二年前までは、闇の中に浮かぶ一振りの刀だった。今は、父の姿のみが見える。


 総一郎はまだ、父の過去を聞けていない。


 圧してくる気が、膨れ上がった。それに耐え、息を吐く。動いてもいないのに肌が汗ばむのは、いつもの事だ。逆に、父はいつだって涼しい顔で立っている。


 受け流しはしなかった。今度は、押し返す。瞬間、闇にはっきりと浮かぶ父の姿が、確かにぶれた。


「止めだ」


 脱力と共に道場内の景観が戻った。父が刀をしまうと、総一郎へたり込んでしまう。それを不可解に思えば、気付けば外が暗い。昼過ぎに始めたはずだったろうと確認しに行きたかったが、そんな余力は無かった。


 大の字に寝転がり、荒い息を吐く。


 何かを掴んだような、確信の持てないもやもやとした感じがあった。向かい合っている時、父が二つに割れたような気がしたのである。二人の父は、同様にして対照的だった。感情の全てを隠す父と、獰猛に微笑む父だ。


「総一郎」


 呼ばれ、振り向く。


「明日、お前を試す事にした。乗り越えれば、お前に教えるべきことはたった一つを除いてなくなる。しかし、生半可なものではないぞ。覚悟は、決めておけ」


「はい」と総一郎が答えると、父は思い出したように付け加えた。


「それと今日は、私もここで寝る。少し、お前に話しておきたいことがあるのだ」


「……はい……?」


 総一郎は首を傾げる。


 その後しばらくは、本を読んで時間を潰した。化学魔術の応用で、ドラゴンをいかにして効率よく倒すかと言う思考実験である。想定される加護の量が総一郎の物より一ケタ少なく、誤字だろうかと首を捻っていると、就寝時間はすぐに訪れた。今日読めた本は総一郎にとって少し物足りず、憮然としながら布団にもぐる。


 扉の音と共に、父が入ってきたようだった。父と一緒で寝る事に懐かしさを覚え、総一郎の機嫌は直る。父が布団に入る直前で目が合うと、微かにその表情は綻んだ。「話って、何でしょうか」とわくわくした心持ちで尋ねる。


「もう時間も少ないだろうし、あの掛け軸の事を話しておこうかと思ったのだ」


「掛け軸?」


 総一郎は、『武士は食わねど高楊枝』と書いたあの達筆を思い出した。清貧を重んずる江戸時代の武士の言葉。五百年も六百年も前の人間に向けられた格言。


 この世には武士はいない。前世でさえそうだったのだから、当然と言えば当然だ。そんな言葉が、この道場にはある。比較的裕福なはずの武士垣外家に。


「あの言葉は、武士は腹が減っていても、それを周囲に知らせることなく楊枝を咥えるだけの矜持を見せろと、そう言う意味ではないのですか?」


「確かに、それが本来の意味だ。しかし、総一郎。私やお前にとって、あの言葉は自らを人間として保ち続けるためには不可欠な言葉となる」


「人間として……?」


 訳が分からなかった。人間として自らを保つ。そんなことが出来ないのは、極少数の狂人以外には居ないだろうに。


 そんな疑問を想定していたかのように、「今は分からないだろうが」と父は付け加えた。


「いずれ、分かるようになる。あの言葉は究極の無私の訓戒であり、無私の訓戒であるが故、私たちは人間と言う存在に縛り付けられて居られるのだと」


「はあ」


 生返事の総一郎。無私の訓戒と言うのは、確かに頷ける話だ。事実その言葉に沿ったかのように、名もなき下級武士が甚大な働きを見せたというのは時代小説好きにとって常識とも言えることである。しかし、それでも納得がいくものではない。父は恐ろしい物を感じさせる何かを持って居はすれど、間違いなく人間である。総一郎は、言うまでもない。


 存外に参考にはならなかったと軽い失望を覚えながら、読み途中の本に思いを馳せつつ総一郎は眠りに落ちていく。


 朝になって目を覚ますと、父はもう居なくなっていた。


 冬の寒さに身を震わせる、という事はもうなくなった。むしろ、身が引き締まって気持ちが良い。道場から出ると、雪が降っていた。空模様は明るい為、積もるだけ積もったら止むだろうと思った。


 道場が使えるようになってからは、どんな日だって素振りは出来た。終わらせて風呂場で汗を流した後、父を探した。しかし居らず、昨日言った『試し』以外はやるつもりが無いのだろうかと考える。その時、「あ」と思い出した。


 今日は、タマの一周忌である。


 学校帰り、花でも買ってお参りに行こうと考えた。買わずとも、木魔法で作ってもいい。木魔法で花を芽生えさせるというのは中々に骨な作業で、繊細で美しい花ほどその難易度は上がった。山の上の神社には亜人たちの墓場があり、そこにタマは眠っている。木魔法の成果を見せたら、喜んでくれるだろうと生前の姿を思い浮かべた。


 黒い服で登校すると、学校ではまたも模擬戦があり、総一郎は暇だとぼやきながら教室で一人、昨日の本の続きを読み始めた。電子書籍というものは前世よりも格段に普及していたが、紙の本はいまだに潰えていない。総一郎は断然紙派の人間であった。仲間は少なく、図書くらいの物だ。


「いい加減仲直りしてくれないかな、あのへそ曲がり」


 読みながら呟く。すると字を追っていながら全く頭に入って居なかった事を自覚して、また数ページ戻りだす。その繰り返しだった。タマの命日だから、なおさら強く意識してしまう。


 学校が終わり、白羽と一緒にそのまま境内へ向かった。長い階段だが総一郎は慣れた物で、白羽も疲れる前に翼で飛び上がった為、頂上に辿り着いてもケロリとしている。


 タマの墓の場所は、何度も通ったので覚えていた。境内は中々に広く、墓場も合わせると総一郎の学校の敷地ほどもある。亜人はここを死に場所に選ぶ者も多いという話だ。良い村であるのは、総一郎も知っている。


「懐かしいよね。私、一度も碁で勝てなかった」


「タマ、結構強いんだよ。癖があるから、それを見抜ければ楽だったんだけど」


 入り組んだ墓場を歩く。総一郎はランニング仲間としてタマと付き合っていたが、白羽も総一郎に会いに来たタマとじゃれるのが大好きだった。タマは口こそ立石に水だったものの、子供に体を触られたり弄られたりしても碌に抵抗をしない。されるがままであるのに一丁前に文句をつけるものだから、ちぐはぐさが妙に味を出していたものだ。


 花を手の上で作りながら進んだ。歩を進めるほど、会話は消えていった。辿りつく。先客が居る。


「……総一郎……」


 般若兄妹が、そこに立っていた。


「――図書にぃ。学校は、どうしたの」


「休んだ。ウチの両親はとっくに済ませちまってさ。先、帰っててくれって頼んだんだ。二人とも清を守ってくれてありがとうって泣いてたよ。本当、しつこいっていうか」


「……そう、何で一緒に帰らなかったの?」


「少し、お前と話がしたくなったんだ」


 肌寒い風が、二人の頬をなぶった。総一郎は無言で自作の花を供え、黙祷を捧げる。白羽も、それに追従した。彼女は道すがら買った線香を焚く係だ。


「総一郎、まだ、怒ってんのか?」


 図書は問うてくるが、見当違いも甚だしい。


「怒ってなんかないよ、もう。勿論当時は悲しかったし寂しかったし、その原因を作ったおじさんおばさんの事が憎くもなったけど、……今はただ、怖いだけだ」


「怖いって」


「死ぬのが、だよ。自分は当然、周りの人が死ぬのは、もっと怖くなった」


 線香が、煙を上げている。風が墓の方向へ吹き、その所為で斜めに揺らめいていた。総一郎は立ち上がり、図書に無言で手を差し出す。それを、彼もまた何も言わずしっかと握りしめた。


 皆で、神社の方に戻った。天狗はここに在住していて、総一郎たちを見かけるとちょくちょく本殿の中に招いて菓子をくれる。今日も、そこでご相伴にあずかった。白羽と琉歌は、天狗と仲のいいシルフィードと菓子をつつき合っている。


 天狗は、男子二人と話しながら、一人で酒をかっ喰らっていた。顔は赤いが、指摘しても「元々よ」と笑って答える。幸い酒乱ではなかったから、雰囲気がいい具合に弛んだ。


「清ちゃん、今何歳だっけ」


 般若 (せい)。タマに庇われ生き延びた、第三子の事だ。


「一歳一か月って所か。確か、総一郎の二日違いだっただろ。前だったか後だったかは忘れたけどさ」


「そっか、誕生日近いんだっけ。何かプレゼントしてあげればよかったな」


「……タマに、命を救われた子の名か。いい名だのぅ。般若 清、清い悟り。そんな子を救えたなら、タマも本望だろう」


 天狗はしみじみと呟き、くいと酒を煽った。空になった盃に、再び透明の酒を注ぐ。


「タマって、山に居る時はどうだったんですか?」


 総一郎が尋ねると、赤ら顔を頷かせ、ぽつぽつと語りだす。


「外来の猫又もどきなどと、最初は思っていたな。しかし中々気骨のある奴で、すぐに迎え入れられた。すぐに出ていくと言いながら、いろいろと困りごとに協力してくれたよ。総一郎、お前と一緒に走りだした頃だな。出ていくという言葉を口にしなくなったのは」


「困りごとって何だよ、天狗のおっちゃん」


「図書坊、お前は幾つになっても口のきき方ってものを覚えないな。いい加減総一郎を見習ったらどうだ。こいつはお前より小さいのにずっとしっかりしているぞ」


「総一郎は特殊な例だろ、引き合いに出すんじゃねぇよ。それで? 困りごとって」


「そんな物、困りごとは困りごとだ。力仕事は無理に手伝おうとして、すぐに潰れ笑い者になったが他の事の大抵は役に立った。知恵が回ったな、奴は」


「碁も強かったな、タマ。そういえば、後輩の子に聞きましたけど去年のマヨヒガは相当怖かったらしいですね」


「ああ、少しやりすぎたので今年は例年通りに戻した。タマはずっと文句を垂れていたがな。去年は狂ったように泣き喚くのが多く出たから、仕方がないというのに」


「一体何をやらかしたんだ……」


「んー、僕も遊びに行ったらやられたんだけど、アレは肉体じゃなく精神に来るね」


「儂らも少々やっている内に恐ろしくなってな。気骨のある小僧を見分けるのもやり易くなったが、それ以外は目を覆いたくなる」


「だから何をしたんだお前ら!」


 図書の叫びに、天狗は呵々大笑し、総一郎も顔を背けてくすくすと笑いだす。それを見て眉間を押さえる兄に妹が寄ってきて、白羽、シルフィードを交えてさらに会話は広がっていった。


 一段落した時、空は端っこに赤らみを残し、薄暗くなりはじめていた。総一郎は図書と仲直りできたと上機嫌で下山し、途中般若兄妹と別れ白羽と共に空中散歩にいそしんだりしてから家に戻った。


 台所では母が夕食を作っていて、白羽はその手伝いに、総一郎は父が言う試練(この方がしっくりくる)を唐突に思い出して、外で素振りをすることに決めた。幸い雪はやんでいて、靴を履けば何とかなる程度の積もり具合だ。


 時を忘れて木刀を振るい、夕食を済ませても父は帰ってこなかった。


 総一郎は最初こそ本を読んで待っていたが、時計が九時を回った頃から燻るような気持ちになった。いくらなんでも遅すぎる。母も同じことを考えたようで、父の今の、異動後の職場に電話したが、今日は有給休暇を使ったとされていてとんと行方がつかめなかった。


 だが、本当に焦れているのは総一郎一人だった。母は父の心配などしようともしないし、白羽も同様と言うか、あまり興味もないようだった。前々から思っていたが、白羽は父に懐いていないのかもしれない。


 十時を回った頃、父は帰ってきた。

 泥と涙と血で汚れた、人食い鬼の子を携えて。


「……お父、さん……? それは、一体、」


「総一郎、先に道場へ戻っていろ。私はこれを拘束し、小奇麗にしてから向かう」


 いつもと何ら変わらぬ父の口調が、何処までも恐ろしかった。


 逃げる様に、道場へ向かった。自然、目は掛け軸の下に飾られる二振りの真剣へと向かう。総一郎は自分が何をさせられるのか、半ば予想が着いていた。だからこそ思考が麻痺し、父が道場に来るまで何も考えられなかった。


 父は相変わらずの鋭い無表情で、手足を最低限紐で拘束しただけの人食い鬼の子を地面に投げ出した。その顔にはもう泥や涙、血が着いておらず、確かに小奇麗だとも言える。


「総一郎、これを殺せ」


 言われながら、抜身の刀を渡された。


 総一郎は、それを拒否した。


「嫌です。そればかりは、お父さんの言う事でも聞けません」


 じとっ、と嫌な汗が伝った。父は総一郎の言葉を吟味するように、息子を見つめたまま鋭く黙りこくっている。視線が外れた。鬼の子へ父の目は向かい、総一郎も見やる。


 鬼の子は、傍から見れば普通の子供のように見えた。そうと分かるのは、紫色の拘束紋と、汚れきったみすぼらしい服を着ていたからだ。彼は総一郎たちを見て顔をひきつらせ、目に見えるほど大きく震えている。


「何故、拒否する?」


 鬼の子を見たまま、父は尋ねてくる。


「人道に、反しているからです。無抵抗な存在を、殺すことは出来ません」


「無抵抗では無かったぞ。これは、スナーク狩猟区に身を潜めていた人食い鬼どもの集落に居た、子供の内の一人だ。人骨らしきものも多く散乱していた。頭蓋骨も持ってきたが、見るか?」


 ぐ、と言葉に詰まる。父は嘘を吐かない。吐く必要もないのだろう。きっとその集落とやらも、今頃は跡形もない。


 総一郎は、震えながら言い訳を考える。


「でも、それでも、僕は殺したくないのです……」


「何故だ」


「だ、だって、殺すことは、何よりも罪深い事なのではないのですか……?」


 総一郎もまた、今にも殺されそうな鬼の子の様に震えていた。父が持つ白刃を見やり、次に芋虫のように地面を転がされる鬼の子を見た。この子を、殺す。こんな、傍から見れば普通の子を。


 死んでしまった親友のタマが、脳裏に蘇った。死に目には会えなかった。火葬場の骨を、箸で摘まんだ。悲しいほど小さな骨だった。


 殺すかどうかを考えた、雪女を思い出した。彼女はただマヨヒガの一員で、琉歌を殺す気など一欠けらもなかった。だが、総一郎が本気で殺そうと考えたらどうなっていただろう。彼女が本当に死んでしまったら、何が起こったのか。


 総一郎が殺した、琉歌に化けたドッペルゲンガーがよぎった。火魔法は彼女の顔を溶かし、その目玉は飛び出ていた。それを知った時の、人食い鬼の瞳。総一郎の目を逸らすために行われたあの蹴りには、仇を討つという労りが無かったか。


 体中が、熱かった。汗が、何粒もの珠になって流れた。だというのに、手足の先は驚くほどに冷たい。気付いたころには、壊死してしまうのではないかと思うほどだ。


「総一郎」


 父に呼ばれ、身を竦ませた。父は真っ直ぐに総一郎に向かい、諭すように言う。


「お前は、この世が泰平の世であると思っているのだろう。しかし違う。この世は、乱世だ。他者を殺さずして生きている者など、そうは居ない」


「……昨日言った覚悟って、人を殺す覚悟だったんですね……」


 力なく、憎々しげにつぶやいた。総一郎は手を強く握り、すぐに緩ませてしまう。その時、父は言った。


「人を殺すときに、覚悟は決めるな。そうなってしまえば、むしろ今よりも状況は悪化する」


 驚いて、総一郎は父を見やった。父は何も変わったところが無い。だが、その言葉は異質だ。


「じゃあ、覚悟って」


「人として在れず、魔道にも堕ちることの出来ない、境界線を歩み続ける覚悟だ」


 父の言う事の意味が、分からなかった。ただ、酷く辛い事だというのが、その表情から知れただけだ。総一郎は、絶句したまま固まっている。父は言葉を続けた。


「人斬りに執着した者の末路は、浅ましくおぞましい。大抵の者にとって、知る事さえ難しい道だ。しかし総一郎、お前は私の血を濃く継ぎ過ぎた。人斬りを多くこなせば、まず間違いなくそれに憑かれる。その為のあの掛け軸だ」


「だ、だけどそれなら、殺さなければいい話じゃ、」


「しかしお前は、無貌の神に魅入られた」


 ぴしゃりと言われ、言葉が継げない。


「無貌の神は、幸か不幸か人間の破滅、それも自滅と言う形のものを一等好んでいる。人間は、甘言に弱く自滅しやすい。しかし、その甘言は修羅にとって意味を為さぬ物だ」


「……でも」


「そうだ。修羅になればお前の末路は自刃にも劣るものになる。だが、それは人であっても同じだ。人から外れ、修羅にも成らぬ。お前が生きるためには、その均衡にあり続ける以外に術は無いのだ」


 名を呼ばれる。父の握る白刃が、電気の光を受けて鋭い光を反射している。それが再び差し向けられた。息を呑むが、拒否は出来ない。


「食事をするように、道を歩んでいくように、お前は人を殺さねばならない。人斬りに憑かれるな。人斬りに覚悟を抱くな。憑かれれば修羅になり、覚悟を抱けば人になる。そうなれば終わりだ。お前は死ぬしかない」


 震える手が刀に伸びた。受け取り、構える。震えが頂点に達した。真剣は総一郎の手から離れ、床に落ちて音を立てる。


 拾おうとして、しゃがみ、手を伸ばした。触れることは出来なかった。小さく縮こまって、震え続けた。


「……そうか」


 父は地面の刀を拾い、鬼の子に振るった。縄が切れ、拘束が解かれる。鬼の子は信じられないと言いたげな表情で父の顔を仰ぎ見て、訳も分からず困惑していた。


「何処へなりとも行くがいい。お前は今をもって自由となった。何があろうと、私は一切お前に手を出さないことを誓う。さぁ、行け!」


 父の大声に慌てて道場の入り口に向かい、鬼の子は去っていった。一難を免れたという安堵が、重く体にのしかかった。心臓の音がはっきりと聞こえる。しかし、父の失望したような声に、動けなくなった。


「総一郎。お前は、この国に居る限り安全だ。だが、この国はもうすぐ事切れる。そうなればお前は外国へ行かざるを得なくなり、破滅を招くあの邪神の魔の手は伸びるだろう。それまでに、覚悟は決めておけ」


 父は言って、総一郎を置いて道場を出ていった。形あるものは、何も残らない。ただ、残響だけが耳鳴りになっている。




 今も、恐ろしい夢は見る。去年よりもずっと高い頻度で、何が起こっているのかも大分記憶に残るようになった。


 父と、燃え上がる道場の中で相対している。話しているのか、斬り合いなのかは分からなかった。大抵父が鞘を払ったところで、恐ろしくなって起き上がる。瞬間は我を忘れるが、道場が炎上していない事を知って安堵に深い息を吐くのだ。


 そうして目を覚ました総一郎は、変わらず涙を流していた。何が悲しいのかは、昔よりも余計に分からなくなった。何故こんな夢を見るのかも、同じだ。


 今日は父の事が印象深く残っていて、夢の内容の為泣き終えた後には目が冴えていた。横になっても寝付くだけの自信が無く、起き上がりひとまずトイレへ向かう。


 去年の秋の事がふいに浮かび、横目で見るも行燈の光さえない。廊下は冷え切っていて、目を細めて細かく震えながら歩いていく。


 用を足しながら、今日の出来事がぐるぐると回った。人を殺す。何物にも代えがたい、罪深き行為。しかしそれは前世の物でしかなく、価値観が深くよじれていく。


 意図せぬ足音。


 総一郎は、それを深く認識しない。記憶には残らなかった。だがトイレからの光が廊下を照らし、泥まみれの足跡を見つけて眉を顰めた。


 侵入者の軌跡は進むにつれて薄れていき、最後には分からなくなる。


 総一郎は、半ば直感で白羽の部屋に向かった。予想は当たったというべきか、小さく開いている。開けた。見逃したはずの鬼の子が、刃物を持って白羽の寝間着をまくり上げている。


 鬼の子と、目があった。彼は先ほどの怯えの残滓を残しながら、荒々しき獣性を宿して白羽に触れていた。胸元から彼女の白い肌はさらけ出され、そこに包丁らしき刃物が突きつけられている。ぽつ、と血が浮かび上がった。鬼の子は総一郎の背後に父が居ないと知るや、にたりと笑みを浮かべた。


 勝利を確信した、下卑た目だった。


 鬼の子はさらに強く白羽に刃物を押し付けた。視線は総一郎から外れていない。ピクリと動いた総一郎に、奴は「動くな」と言い放った。目に見える様に刃物を押し付ける力を強める。白羽の呻き。脳が捩れるような感覚。


 道を歩いていくように、人を殺す。


 総一郎は、それに失敗した。


 音魔法で消音し、風魔法で肉薄にする。鬼の背後の壁を木魔法で強化し、力いっぱい叩き付けるだけでよかった。


 頭を硬化された壁に押し付けられ、奴の頭は粉々に砕け散った。かつて総一郎と琉歌を拉致した人食い鬼の様に、その頭はザクロが如く凄惨に飛び散っていく。


 返り血の大半が、総一郎に降りかかった。近くに居た白羽も、同様だったはずだった。だが総一郎はそれを許さなかった。風魔法を用い、血の軌道を逸らした。


 水魔法と風魔法を使い、汚れた壁や床を洗浄した。最後は空間魔法を使い、鬼の死骸ごと無に帰す。あとは軽く、火魔法で濡れた部位を乾かすだけでよかった。後始末を終え白羽の服装を直してから、その頭を幾度か撫でて、総一郎は道場へ帰っていく。


 道場は、夜と闇に満ちていた。ふと総一郎は真剣を手に取りたくなり、奥へと進んでいく。二振りの長刀。触れる前に気付く。


『武士は喰わねど高楊枝』の掛け軸が、強く目に焼き付いた。


 究極の無私。だが鬼を殺した時の総一郎の感情は、どす黒き殺意だった。あの時、何を思って鬼を殺せばよかったのか、総一郎は分からない余りに顔を押さえて泣きじゃくった。


 うずくまり、仰ぎ見る。掛け軸は、ただそこに在るのみだ。しかしそのお蔭で、自分は魔道に堕ちずに済んだのかと思わされる。


 人と修羅。その境界。立ち続けるのは、一体何者で在らねばならないのか。




 その数日後。虫に腑臓を食われた獅子は、ついにその身を横たえる。

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