7話 死が二人を別つまでⅩⅩ
目覚めると、決戦の日だった。
雨が降っていたから、素振りは自室の中で済ませた。ゆったりとした動きは、今日も変えない。戦うのは総一郎ではないから。総一郎はただ、演じるばかりだ。
シャワーを浴びてリビングに戻ると、カップのコーヒーを啜る白羽が居た。彼女はこちらに気付くと、「おいでよ」と自分の座るソファの空きスペースを叩く。
隣。
総一郎は躊躇う。だが、もう一度繰り返された「おいでよ」に有無を言わせない響きがあると気づいて、ため息をついて隣に座った。白羽は総一郎を呼ぶ。
「総ちゃん」
「何?」
「今日だね」
「うん」
会話が途切れる。別に、今更沈黙の怖い間柄ではないが、昨日が昨日だっただけに、総一郎はそわそわしてしまう。
それを知ってか知らずか、白羽はまたマイペースに話し始める。
「段取り、大丈夫? 確認済んでる?」
「あ、うん。終わってる。一応昨日の内に練習したから大丈夫だよ」
「そっか」
コーヒー要る? と聞かれる。少し考えて、「自分でやるよ」と答えた。
白羽は僅かに不機嫌そうに眉根を寄せて、自分の持つコーヒーを押し付けてくる。
「……何これ」
「飲んでいいよ」
「……」
白羽とは別の場所に口を付けて飲んだ。砂糖が大量に入っているのだろう。かなり甘い。が、不快というほどではなかった。甘いな、と思うだけだ。
「ふふ」
総一郎がカップを返すと、白羽はちょっとだけ上機嫌に受け取った。それから、総一郎の場所に口を付けてコーヒーを飲む。
「……」
総一郎は、黙ってそれを見つめた。白羽はコーヒーを最後まで飲み切って、ゆっくりと一息ついてから言った。
「死なせないよ。このまま死ぬなんて、そんなの絶対に許さない」
総一郎の返答は聞いていないとばかり立ち上がって、白羽はシンクへと向かう。総一郎は頬をかいて、視線を下へ向けて思案する。
事前共有された作戦の流れは、以下の通りだった。
まず偽ウッドを、ノア・オリビア本部から引きずり出し、グレゴリーに対処させる。かなり大規模な攻防戦になるという想定の元、JVAと結託してあらかじめ戦闘の場を用意していた。
とはいえ、宇宙を滅ぼせると触れ込みの『能力者』たちの戦いだ。物質的に出来ることなど限られているため、あくまでラビットとウッドがまた戦って被害が出た、という内容の先んじての情報統制がARFやJVAの関の山だったと言っていい。
そしてその隙にARFやJVAの腕利きたちが結託してノア・オリビア本部に攻撃を仕掛けるという段取りだったが、問題となるのは偽ウッドをどう呼び寄せるのか、という事だ。
その分析や計画立案に従事したのが、白羽やアーリ、そして洗脳が無事解けた元ノア・オリビア構成員の聖職者たちだった。
彼ら曰く、宗教団体とは正義と矜持の共有を主目的にする組織であるとのことだ。それすなわち信仰であり、最も優先すべき内容となるのだと。
つまり宗教は宗教であるために、信仰を汚す相手はどんなに黙殺したくとも出来ない。それが本質であり、ならばそこを突いてやればいいのだ。
『計画は簡単だよ。元ウッドである総ちゃんが、ウッドになり切って情けないことをひたすら演説すればいいの。あいつらはウッドを宗教上の神の遣いとしてるから、ウッドが馬鹿にされれば出てきて力で否定せざるを得ない。そうしたら、あとはラビットに任せればいいんだよ』
白羽の説明はそんなところだった。だから今、総一郎はバケツを引返したような雨の中、昼の人通りの多い時間、最も人通りの多い都市部の交差点で、白い修道服を羽織り、ウッドを模した仮面をかぶって用意された演説台に立っている。
「……」
衆目の集まり方はかなりのものだった。誰も彼もが傘の下から総一郎を見つめて、怪訝そうな顔をしていた。ウッドは有名な怪人で、そこには常に阿鼻叫喚が伴う。その意味では、ただ立っているだけのウッドの仮面をかぶっている人物を見ての感想は、こんなものだろう。
“また勘違いした偽物が妙なことをやっているな”と。
しかしそれでも注目せざるを得ないのが人情というもの。何せウッドは基本的に予測不可能で、みんなが興味を失ったことを契機に暴れ出してもおかしくはない。要は、目を離した結果第一被害者となることを、皆恐れているのだ。
「……」
雨音が、都市部には似つかわしくない静寂を強調する。レインコート越しに感じる雨の冷たさに、春にもかかわらず総一郎の口は白い息を吐いた。
――だから、まず総一郎がすべきは誰かを殺さない方法で、「自分がウッドである」と示すことだった。殺人が一番手っ取り早いが、総一郎には出来ないし、状況も話を聞いてもらうどころではないだろう。
ならば、何を言えばいいか。それはきっと、総一郎にしか分からなかった。
『ウッドは死んだ』
総一郎の言葉が、マイクを通じてその場全体に拡散された。それに注目していた民衆はさらに不機嫌そうに表情を歪め、最初から興味を持っていなかった通行人までもが奇妙そうな顔を総一郎に向ける。
『繰り返す。ウッドは死んだ。もはや、この世にはいない』
だから念押しに、総一郎は同じ内容を繰り返す。それに、ヤジを飛ばす人がいた。
「ならお前は何なんだよ! 仮面被って、ウッドじゃねーのかよ!」
彼の顔には見覚えがあった。白羽に前もって伝えられていた、サクラの一人だろう。総一郎はその疑問に応答する形で発言する。
『俺はかつてウッドだった者だ。ウッドの抜け殻だ。だから、責任を取る形でここに立っている』
「責任だと!? なら今すぐここで死ねよ! お前、今まで何人殺したと思ってんだ!」
他のサクラが過激に総一郎を罵倒した。周囲に怒りの熱がこもり始める。いい調子だ。総一郎はまた応答する。
『それは出来ない。何故なら、俺にはやることがあるからだ』
「やることって何ですか? あれだけのことをして、なぜあなたは平然としていられるんですか?」
問いかけてくる女性は、見覚えがない。サクラかどうかは区別がつかなかった。どちらでもいい。総一郎は続ける。
『それはお前たちには関係のないことだ。ともかく、俺はここに、責任を取りに来た』
「責任を取って何するつもりだよ!」
問いかけに、総一郎は首を振る。
『分からない。だから、それを聞きにここに来た』
周囲全員が、ぽかんとした。呆然と総一郎を見つめ、それから「馬鹿じゃねーのお前」と誰ともなく呟かれる。
「責任取るってんなら死ねよ!」
『だから、それは出来ないと言っている』
「じゃあ何が出来るんだよ!」
『死ぬこと以外なら』
「じゃあ謝れ! まずはそこからだろうが!」
連続する民衆一人一人の罵声に、総一郎はカバラでどう煽ればいいのかを割り出す。
『謝れば許してくれるのか?』
「許すわけないでしょ! 大量殺人犯が謝っただけで許されると思ってんの!?」
『なら、無駄という事だな。ならば謝らない』
シン、と周囲が黙り出す。だがそれは、嵐の前の静けさというものだ。
「ふっざけんなよテメェ!」
怒号、暴言が、その一言を皮切りに湧き出した。凄まじい勢いでもってウッドをこき下ろす言葉が総一郎を中心に渦を巻く。その熱にあてられてか、民衆の一人が演説台に上ってウッドを引きずり降ろそうとしてくる。サクラではなかった。だから総一郎は、おとなしく殴られた。
「お前! 本物のウッドかどうか知らねぇがよ! 責任を取るってんならまず謝って見せろよ! おら! 頭を下げろテメェ!」
無理やり頭を下げられ、謝罪の言葉を催促される。総一郎はここぞとばかり「嫌だ! 謝っても許してくれないんだろう!? 許してくれないなら意味ないじゃないか!」と情けない声で言い張った。
「このごみ屑野郎が! テメェなんざ死んじまえ!」
演説台からけり落され、総一郎は転がって出来るだけ無様に地面に激突した。水たまりに落ちて小さな水しぶきを上げながら、痛い、と思う直後に髪を掴まれ、顔を上げさせられる。その手はサクラのものだ。表情も鬼のように歪んでいて、演技派だな、と思う。
「おい! 責任だのなんだのっつったな。お前、何でそんなことのために出てきた」
「だ、だって、その……」
「だってじゃねぇんだよ! もっと声デカくして言えや! お前ウッドなんだろ!?」
こうしていると、イギリス時代を思い出す。何もかもが悪いように解釈され、委縮して何もできず、それがまたイジメられる原因になる。その光景を、ここに再現すればいいのだ。簡単だろう? と総一郎は自嘲する。
「つ、辛かったんだ。罪悪感で、眠れないんだ。だから、何をすれば許してもらえるのかって思って」
「おい聞いたか! あのウッドが罪悪感で眠れねぇってよ! そんな訳があるか馬鹿野郎! アイツは気狂いのバケモンだ! テメェみたいな貧弱野郎なんかじゃねぇ!」
サクラではない民衆の言葉に、その方向性に持っていくのはダメだ。と総一郎は思案する。それから、殺さなければいいのだ、と一つ考えた。
「うるさい! 俺はウッドだ!」
サクラの一人に向けて空間魔法を飛ばす。ハッピーニューイヤーでも猛威を振るった、悪名高い魔法だ。それが民衆の一人にあたり、足を根元から切断する。ただし血はない。実際には切断されたように見えるだけの、空間的な転移現象にすぎない。
周囲の民衆が一斉にざわついた。この魔法は、現状ウッド以外の人間が使用した例がない。つまり、迂遠ながらもウッドの証明方法の一つだった。
「こ、こいつ、本物の」
恐慌状態の一歩手前。誰もが後ずさり、逃げ出す準備を始めている。このタイミングを逃せば、失敗だ。だが、総一郎は逃さない。
「あっ、ご、ごめんなさっ、大丈夫ですかッ」
サクラに駆け寄って空間魔法を解く。それから謝り倒して、サクラの彼に合図を送った。彼は無言で頷いて、それから大きな怒声と共に総一郎を蹴り倒す。
「大丈夫ですか、じゃねぇんだよッ! おま、お前! ことし、今年初めの“ハッピーニューイヤー”の魔法を俺に……! てっ、テメェエエエエエ!」
恐怖交じりの暴言、暴力に、総一郎扮するウッドはされるがままに「ごめんなさい、ごめんなさい」と地面に倒れ縮こまる。それを見た群衆は、今のウッドは恐るるに足らずという認識を共有した。その中でもサクラが率先して肩を怒らせてやってくるのにつられ、大勢が総一郎の周りに集まってきた。
「ふざけんな! ふざけんなよ! よくもお前ッ! あのクソみたいな魔法を俺に撃ってくれやがったな! この、この野郎! この野郎!」
迫真の演技でサクラは総一郎を蹴り続ける。そこに、新しく他のサクラが加わった。もう一人、もう一人と加われば、あとは自然な流れで雪だるま式に増えていく。あらかじめ服に耐衝撃の物理魔術をかけておいてよかった、と総一郎は延々と蹴られながら思った。
リンチの勢いはとどまることを知らず、一人が蹴り疲れれば後ろから一人が押しのけて蹴り始める。アナグラムを見る限りその人数はこの雨の中百人を優に超え、その外周ではサクラが一生懸命に「おい! この群衆の真ん中でウッドがリンチにされてるってよ! 思いっきり蹴ってやろうぜ!」と喧伝しているようだ。
成功した、と蹴られて衝撃緩和のために揺られながら思う。痛みが全くないわけではないのは、少しでも民衆の怒りを受け止めたいと思ったがため。だが先ほど言った通り、総一郎にはやるべきことがある。だから、彼らに殺されるわけには行かないのだ。
そうしていて何分経っただろう。次第に警察のアナグラムも読み取れ始めた。解析するにこの暴動を止めようとして、JVAの面々に邪魔を受けているようだ。この場を見守っているベル、グレゴリー、そして白羽はどんな思いでこの状況を見つめているのだろうと思う。
その時、アナグラムが大変動を起こした。来た、と総一郎はさらに身を固くして、手練れに対しても通ずる防御機構を魔法で築き上げる。
「おらっ、おらっ! お前のせいで、俺の友達は首が取れるようになって、変な新興宗教に嵌っちまったん」
だ、と言い切る前に、その男性を剣が貫いた。頭蓋からまっすぐに刺さった剣。最初、それに気づかずに蹴り続ける人もいた。
だが、男性の肩の上に立った人物が剣を抜き、血が降り注ぐことで全員が気づかざるを得なくなった。雨の冷たさの中に混じった赤く生暖かい噴水を浴びた面々はまず眉を顰め、理解に顔をこわばらせ、そして上を見て絶叫をあげる。
「ウっ、ウッドだッ! やっぱりこいつは偽物だったんだ! 本物が、本物が殺しに来たぁぁぁああああああああ!」
気づいた大勢が声もなく恐怖に硬直する一方で、サクラは状況を周囲に伝達するために大声を張り上げた。そのお蔭で、サクラ含めた民衆は脱兎のごとく走り去っていく。同時に脳天から剣を突き刺された男が倒れ、偽ウッドは跳躍し演説台の上に立つ。
そして何もかもが走り去っていく。残ったのは仮面をかぶった総一郎と、修道服に身を包んだ偽ウッドだけ。
雨の音がうるさく感じるほどの静けさが、一体を占め始める。
「……」
無言で見下ろしてくる偽ウッドに、うずくまったままの総一郎はどう動けばいいのか分からなかった。アナグラムがほとんど読み取れない。恐らく修道服のせいだろう。何か特別な魔術が掛けられているのか。
奴は剣握る手をだらんと下げ、まんじりともせず総一郎を見下ろしていた。不気味な沈黙。それを破ったのは、ベルだった。
「ファーガス!」
人払いがされた交差点には、人はおろか車すらない。ただ雨音が響くその中に、必死気な表情でベルは立っていた。銀色めいた金髪のポニーテールを揺らして潤んだ瞳でもって見つめている。
「ファーガス、君、君なんだろう? 私、忘れないよ。君の所作も癖も、全部覚えてる。考え込むとき俯いてへの字口になるのも、警戒するとき武器を握る親指に力が入るのも、全部!」
総一郎は顔を上げ、偽ウッドを見た。奴はベルに視線を向け、剣を持つ手の親指を突き立てるようにしていた。ファーガス。やはりだったか、と総一郎は立ち上がり、カバラで関係者以外もうこの場に居ないと判断して仮面を外した。
「……もう二度と、君とは会えないものだと思っていた」
総一郎の言葉に、偽ウッドは視線をずらす。
「ナイたちに弄ばれる運命の君を、この手で殺せなかったことをずっと後悔してたんだ。あの頃は全てカバリスト達の手のひらの上で、君を俺の手で殺させた風を装う事すら、何もかも奴らの手の上だった。今回だって君を殺すのは俺の手では難しい。――けど、俺の意思でそれを成し遂げて見せる」
グレゴリー、と名を呼んだ。あとは、彼に任せるばかり。総一郎は心苦しいながらもこの場を退却し、遠隔で『闇』魔法での援護を行う予定だった。
だが、来ない。
グレゴリーは、何秒待っても姿を現さなかった。
「……グレゴリー?」
振り返る。姿はない。代わりに、動揺した様子の白羽がウルフマンの頭を抱えてそこに立っていた。奥で引っ込んでいる予定の彼女達が何故、と思う。だが様子を見るに尋常でないことが起こっているのだろう。
「ど、どうしたの、白ねえ、J。一体何が」
「わ、分かんない。急にナイが現れたと思ったら、ここに居て」
「おれもさっぱりだ。つーかここマジで交差点なのか?」
キョロキョロと周囲を見回して、濡れ鼠になっていく白羽やウルフマンは、ここがどこなのか懸命に確認しているようだった。すると遠くからエンジン音がとどろき、背中にシェリルを載せたアーリのバイクが現れる。
「オラァ! どこ行きやがったアイ――――! ……って、は? 何でソウ、お前ここに」
「ソウイチ? え、じゃあ私たち交差点まで走ってきちゃったの?」
ノア・オリビア本部攻略組の二人まで現れ、総一郎の背筋に何やら嫌な汗が流れ始める。散らばってそれぞれの仕事に従事するはずの面々が、不自然に一か所に集まる。この状況は異様で、ならば誘導されたのだと考えるほうが自然だった。
雨音の中に紛れて、鐘の音が響く。気づけば偽ウッドの背後で、アイがギラルディウスの鐘を掲げていた。雨雲に薄暗く霧がかる交差点は、少しずつ現れたゾンビたちに囲われ始める。そこに、急速で落下してくる白い影があった。
着地。水たまりの一つが弾け飛び、何なら地面をいくらか破壊してラビットは下りたつ。
「悪い、遅れた。妙な子供がオレに引っ付いて離れなくて――何でお前ら全員集まってるんだ?」
ラビットの疑問に、誰も回答できなかった。敵味方が一ヶ所に集められる現象に、ARF陣営の誰もが戸惑っている。何かが起こる。それが嫌なことになることだけが分かっていて、だがそれ以上のことは何も分からない。だからARFの面々は、誰も声をあげることができないでいた。
「……まぁいい。オレはオレのすべき事をするだけだ」
その感覚を、無貌の神を知らないグレゴリーには理解できない。だから彼は素直に偽ウッドに向かい、そして固まるのだ。
「は?」
何に対する理解不能を示す声だったのだろうか。総一郎は分からないまま、グレゴリーを見る。彼は信じられないものを見るような目でもって偽ウッドを睨みつけ、硬く拳を握り、そして力を抜いた。
しばし、ただ、雨が交差点に降り注ぐ。不吉な静けさに、グレゴリーが声を漏らした。
「……、……。……そういうことか」
彼は総一郎の方を向いて、ゆっくりと歩み寄ってくる。そこに湛えられるのは怒気。それも殺意すらこもったそれに、総一郎は恐れおののく。
「は、え、ぐ、グレゴリー? 君は、一体何に気付いたんだ? 何で俺に近寄ってくるんだ」
「うるせぇ。黙れ」
にべもない返答に、総一郎は後ずさる。流石に、この段階になってグレゴリーが敵に回る想定などしていない。
「初めから、妙だと思ってたんだ」
グレゴリーは、ぐつぐつと煮えたぎるような怒りの込められた声でつぶやく。
「いつのまにか、ARFに混ざっててよ。そいつが、自分は重要ですよとばかり振る舞ってやがる。挙句の果てに、幹部でもねぇ癖にこんな大舞台にまで出張ってよぉ!」
素早く足が残像を描いたと思えば、グレゴリーは総一郎に肉薄していた。殴られる、と構えたが、何もない。それで奇妙に思って振り返ると――グレゴリーは、ベルの襟首をつかんで持ち上げていた。
「う、ぐっ……? なっ、何を。君は、何で私を……」
「何で? 惚けてんじゃねぇぞ! あいつの、あの、ウッドの真似をしたクソ野郎は!」
グレゴリーは偽ウッドを指さし、それから躊躇うように指を微かに震わせ、目を怒りに細め――吐き捨てるように言った。
「お前と同じじゃねぇか! 他の奴らの目は欺けても、オレまで欺けると思うなよ。あの偽物と、テメェは、何もかも一緒だ。最初は雰囲気とかそういったレベルの共通だと思った。だが、違った。双子とか言うレベルですらねぇ。あいつとお前は、まったく同じ存在だ」
グレゴリーの告発。それに、誰も理解が追い付かなかった。ベルと偽ウッドが同じ存在。その言葉の意味するところを、理解できない。
それは、ベル自身も同様らしかった。彼女は狼狽を隠せない目でグレゴリーを見つめ、言葉を返せないでいる。それに、グレゴリーはハッとして掴む襟首を手放した。ベルは解放され、その場に座り込んで咳き込む。
「……そう、か。そういうことか。イチ、お前が何で無貌の神をそんなにも警戒するのかが分かった。――これか。この狂気をお前は警戒していたんだ」
「なに、言ってるんだ。どういう事なんだ。グレゴリー、説明してくれ。君は、一体何に気付いて」
「イチ、お前、カバラとか言うのを使えるんだろ」
グレゴリーは静かに総一郎たちを眺めるばかり偽ウッドを指さし、強く言う。
「なら、分かるはずだ。あの気味の悪い修道服じゃねぇ。仮面にまとわりつく気持ちわりぃ怖気を、かつてのお前との同種を!」
その言葉に、総一郎は勘づいて偽ウッドを見た。その、表情を作り出す変幻自在の仮面。気づいた途端に揃い始めるアナグラムに、総一郎は震えた。それから、ベルを見る。
「な、何なんだ。ソウ、何で君までそんな目で私を見るんだ!」
もはや恐慌状態に陥ったベルの叫びに、総一郎は口を開く。
「仕方が、ないじゃないか。だって、だって」
やはり総一郎も、偽ウッドを指さす。そして、告げた。
「だって、アレは、“君じゃないか”、ベル。あそこにいるのは、君自身じゃないか……!」
「……は?」
ゆっくりとベルの視線が偽ウッドに向かう。途端、奴はケタケタと高笑いを始めた。その声は涼やかな女性の物。決してファーガスのものではない。
奴は腰を折ってひとしきり笑い転げる。それから仮面に手をかけ、素顔をさらした。
「――とうとう、バレてしまったね。しかし滑稽だな。そこまで動揺することかい?」
クリスタベル・アデラ・ダスティン。そこにあったのは、彼女の顔だった。それに、ARF陣営の“修羅”は、ぽつりと漏らす。
「あ……、え、……わた、し?」
「ああ、そうだよ“私”。さぁ」
役割を果たせ。その言葉に、ベルは総一郎を見た。助けを請うような目。人智を超えた絶望に、それでも希望に縋ろうとする手。その手を掴むために、総一郎は駆け寄った。手を取る。だが、間に合うことはなかった。
“分身”の全身が水ぼうそうのように膨れ上がる。とっさに総一郎は、彼女を覆い隠すように抑え込んだ。衝撃。全身に熱が走り爆ぜたのだと理解するまでにしばらくかかった。
だが、それが単なる破裂ではないことを誰よりも総一郎は知っていた。体中に蠢く破片に、総一郎の中の修羅が覚醒し、抵抗を始める。激痛。総一郎は獣のような咆哮をあげながら、地面の上を身もだえする。
何もかもが自分の認識外に追いやられる。残ったのは、ベルという修羅が総一郎を征服し食い荒らそうとするビジョン。激しい痛みに、総一郎は声にならない「助けて」を口にする。応えるものはない。無いかに、思われた。
総一郎の救助要請に、柔らかく小さな手が現れた。睡蓮の匂いに、痛みが治まっていく。声が、聞こえた。泣き出しそうな、それでいて嬉しそうな声が。
「総一郎君が、悪いんだよ」
幼い、それでいて老獪な愛らしい声。小さな手は総一郎の痛みに触れてはまどろみを与え鎮めていく。
「君が、一緒に死にたいだなんて可愛いこと言うから、いけないんだよ。ボクはもっとベルちゃんの分身を使ってじわじわ進めようと思ってたのに。君が、君が僕を選んでくれるなんて言うから、我慢できなくなっちゃったんだよ?」
総一郎の意識が、うやむやにぼかされていく。温かい水の滴が総一郎の頬に落ちた。こんなにも追い詰められていながら、総一郎は自然とそれが涙であると気づいていた。
「だから、責任取ってほしいんだ。ボクね、もう君を誰にも取られたくない。君が白羽ちゃんとイチャイチャしたり、ローレルちゃんと仲良くしたりするって考えるだけで、頭がおかしくなりそうなんだ。だから、もう、終わりにしよう?」
小さな腕が、総一郎を抱きしめた。耳元で、声がささやく。
「愛してるよ、総一郎君。ボクが、この世界で、誰よりも君のことを愛してる」
――一緒に、地獄に堕ちていこう。その言葉はどこまでも暗く温かく、総一郎は心地よいまどろみの中にどこまでも落ちていく。